【第二部 風と鎖】第05話 上を見る道
上を見る、というのは、この国では新しい言い方だ。
去年の秋までは、上を見ようと思う心のほうが、幾百年、どこかに預けられていた。預けた覚えは、誰にも無い。無いから、返せと言う者もいない。それが去年の秋、消えた。首を上げた者から、南を向く。南には王都がある。
街道は、去年の秋から、南へ下る人で混んでいる。
その街道を、十人と七頭が下っていた。
◇
エルドは、街道の白い土を踏んでいた。
詰所を出て、二日目の昼だ。北の道は黒かった。ここの土は乾いて白く、朝は靴の下で固い。昼になると、荷車の輪が土埃を上げる。埃が背中に溜まって、北では知らなかった暑さが、外套の下に来た。春の終わりが、道の上では、夏の初めになりかけている。
道の両側は麦だ。村の麦より背が高く、穂が出かけている。その畑の縁を、荷車が一台、こちらと同じ向きに進んでいた。牛が引いている。荷台に鍋と、寝具と、子どもが二人。鋤が一本、荷の上に縛ってある。男が牛の鼻を取り、女が後ろから押している。
旅の荷ではない。家ごと動く荷だ。
エルドは、歩く速さを荷車に合わせた。訊いていいものかどうかが分からないので、訊いた。
「どちらまで、行かれるのですか」
「王都だよ」
男は、牛の鼻を取ったまま言った。若くはない。日に焼けた首の後ろに、深い皺がある。エルドの装いを、横目で一度見た。
「あんた、北の人だろ。北じゃまだ畑を捨てる者はいないかい」
「聞いていません」
「そのうち出るよ。俺のは、弟にやった」
男は笑った。声だけの笑いだった。
「去年の秋からこうなんだ。畑を見てりゃ畑しか見えない。顔を上げたら、王都が頭から離れなくなった。そうなったら行くしかないだろう。……女房は反対した。反対したが、荷台にいる」
荷台の女は、こちらを見ずに、子どもの頭に手を置いていた。
エルドは、男の顔を見た。嘘は無い。無いが、腹の底に何かが据わっている。マグダなら、その名を言い当てるだろう。自分には、据わっているものの名前までは分からない。
男は、口を閉じた。荷車は遅い。十人と七頭は、じきに追い越した。追い越すとき、エルドは一度だけ振り返った。牛の鼻を取った男が、道の先を見ている。自分も、同じ道の先を見て歩いている。
◇
午後、レイフの後ろを歩きながら、エルドは考えていた。
去年の秋、王都で、自分の手が何かを断った。帳面で読んで、知っている。大きな誓いだった、と。万の民の上を望む心を預かって、幾百年、戦を封じていた誓いだ。それが消えて、人は上を見た。戦の道も、理屈の上では開いた。開いたかどうかは、まだ誰にも分からない。上を見た人が、畑を捨てた。
断った手は、自分の右手だ。
右手を見た。紋は無い。何も無い手が、あの荷車を南へ向かせた。そう言うのは言い過ぎだろう。関わりが無いとも、言えない。
前で、レイフが振り向かずに言った。
「エルド様。荷車の男に、何を訊いたのですか」
「どちらまで行くのかと」
「王都だ、と言っていました」
「聞こえていましたか」
「聞こえました。畑は弟に、とも。……村でも、同じことが起きます。いつかは」
レイフは、そう言ったきり黙った。村を思っているのかもしれない。訊かずにおいた。
◇
宿場に着いたのは、日が傾いてからだった。
土埃の色が、夕日で赤い。街道の宿場は、北の町より騒がしい。馬の匂いと、煙の匂いと、人の声。南へ下る者と、荷を担いで北へ上る者が、同じ広間で食べる。宿の前の市に、パンを売る女がいた。
買い出しは、自分の受け持ちだ。
エルドは籠を持って、女の前に立った。マグダが、二歩後ろに立った。立っているだけで、背中を見られているのは分かった。
「パンを、十。おいくらですか」
「一つ三枚。十で三十だよ」
三枚。川の町では、丸パンは二枚だった。冬のことは、覚えている。
訳を、訊く。おとといの朝、宿の帳場で、マグダに手首を掴まれて、そう教わった。
「三枚の訳を、伺えますか」
「麦が上がったんだよ。畑を捨てる者が出てね。作る者が減りゃ麦は上がる。麦が上がりゃパンも上がる」
女は、よどみなく答えた。答え慣れている。この春、同じことを何度も訊かれたのだろう。
訳があると聞けば、払う気になる。それが自分の癖だと、おとといの朝に分かった。分かったので、もう一つ、見ることにした。
籠の中のパンを一つ取って、裏を見た。
固い。指で押しても、戻らない。焼いたのは、今朝ではない。
「これは、きのうのパンですね」
女の口が、一度、止まった。
「……朝のは、売り切れたんだよ」
「では、古いパンの値で。二枚でお願いします」
女は、エルドの顔を見た。それから、後ろのマグダを見た。マグダは何も言わない。女は、籠のパンを一つ、こちらへ寄せた。
「二枚半だ。半分はうちの薪代だ」
「二枚半で、十。二十五枚ですね」
払った。振り向くと、マグダが、腕を組んでいた。
「……値切ったね。教えてないやり方で」
「パンが、固かったので」
「固いパンは世の中にいくらでもある。固いから安くしろってのは、あんたが自分で見つけた言い分だ」
マグダは、腕を組んだまま、少し黙った。
「教えてないやり方だ。教えてないが、初めて見るやり方でもない。……昔、綴じの寄った紙束を、寄った所を指して安くさせた子がいてね。あんたは知らないだろうが」
マグダは、それだけ言って宿へ入っていった。褒められたのかどうかは、分からない。分からないが、腕を組んだまま、口の端が上がっていた。
◇
広間の隅で、若い男が板に字を書いていた。
荷運びだ。肩に縄の跡がある。焚き付けの炭で、板の切れ端に、同じ形を何度も書いている。書いては、袖で消す。
レイフが、その前で足を止めた。
しばらく見て、しゃがんだ。大きな身体がしゃがむと、若い男が顔を上げた。
「……何だよ」
「握っています」
レイフは言った。
「炭を。握ると、線が震えます。つまんでください」
若い男は、レイフの手を見た。レイフは、床から小枝を一本拾ってつまみ、板の脇の土に、四角い字を一つ書いた。
「あんた、字が書けるのか」
「書けます。俺の手も、荷運びの手ですが」
レイフは、そう言って、少し離れた所に立つエルドのほうを一度見た。若い男も、つられて見た。見て、レイフの字と自分の字を見比べた。
「何から書けばいい。代書屋は金を取る。荷札が読めれば、荷運びの頭になれるんだ。頭になれば荷車が持てる」
「自分の名です」
レイフは言った。
「その次は、自分の荷の名です。麦。塩。薪。……荷札にあるものから」
若い男は、少し考えて、炭をつまんだ。指が白くなるほど力が入っている。線は震えた。震えても、字になった。
「マティス、って書いてくれ。俺の名だ」
レイフは、土に書いた。四角い字で。マティスは、それを写した。写した字は、レイフの字より、もっと四角かった。
エルドは、離れた所から見ていた。
あの教え方は、知っている。帳面で読んだ。十年前の冬に、十一の子どもが従士に教えた順だ。名前から。次に、毎日書く言葉から。十一の子どもの教え方が、十年たって、宿場の広間で荷運びに渡っている。
教えた本人が覚えていないのに、順だけが残っている。
◇
夜、亭主が椀を運んできた。
豆と麦の煮込みだ。辛くはない。エルドは椀を取って、匙を持った。持ってから、椀を置く亭主に訊いた。
「三日ほど前に、北から来た馬の四人連れが、泊まりませんでしたか」
「泊まりましたよ。よく覚えてる。うちの厩番が鞍を見て首をひねっておりましたから。前の高い、見たことの無い鞍だと」
「髪は」
「黒い。四人とも。日に焼けて、こっちの者より黒かった」
「何か、訊いていきましたか」
「いいえ。何も。飯を食って寝て、朝いちばんに南へ。この春は、南へ下る客はみんな王都まで何日だの宿はどこだのと訊いていきます。あの四人は一つも訊かなかった」
エルドは、匙を置いた。レイフが、隣で、椀を持ったまま動かなかった。
◇
三日目の朝、ゲルトの馬が蹄鉄を落とした。
宿場の外れの鍛冶に寄った。若い鍛冶は、火の脇でこちらを見ずに値を言い、去年の秋までは半分だった、俺の腕は去年の秋から倍の値打ちになった、と槌を持ったまま笑った。ゲルトは払った。王家の供は、値の話をしない。
朝は、まだ土が冷たい。日が上がると、街道は白くなる。
昼前、ユリアンが後ろへ下がってきた。
今度は、エルドの隣だ。馬を引いて、歩く速さを合わせる。供の三人が、慌てて間を詰めるのは、町を出た日と同じだった。昼前の日が、麦の穂の先を白く光らせている。
「エルド殿。王宮のことを、少しお話ししておきます。着いてから驚かれるより、道で聞いておかれるほうがよいでしょう」
「伺います」
「父は何十年も、宰相の影に座っていました。決めるのは宰相で、父は決まったことを聞いていた」
ユリアンは、前を見たまま続けた。
「去年の秋に宰相がいなくなって、王宮は初めて自分で決める側に立ちました。……立ったのは父ではなく、叔母です」
「王妹殿下」
「はい。叔母は朝いちばんに文を読み、昼までに決め、夕方には返事を書かせます。声を荒げるのを、私は一度も見たことがありません。冷たいと言う者もいます。冷たいのではなく、先に決めているだけです」
ユリアンは、叔母の話をするとき、少し早口になった。好きなのだろう。口には出さずにおいた。
「王の前へ出るときの作法を、一つだけ」
ユリアンは言った。
「王の前では、扉から七歩で止まります。七歩目で胸から上だけを傾ける。膝はつきません。北の家は、王家の縁戚ですから。……七歩です」
七歩。
その数は、知っている。十三の子どもが、壇の右手から七歩、歩いた。宴の話だと思っていた。王の前でも、七歩なのか。
「七歩で止まり、胸から上を傾ける。膝はつかない。……分かりました」
「……もう一度、お話ししましょうか」
「いいえ。一度で」
ユリアンが、エルドの顔を見た。それから、少し笑った。
「叔母もそうです。一度言ったことを、二度は聞きません。二度言うと怒られます」
◇
夜は、宿場でいちばん大きい宿の二階だった。
供の一人が昼のうちに先へ走って、二階をまるごと押さえてある。それでも十人が一つの部屋に集まると、狭い。ヴァルドは戸口に近い所に座って、仏頂面のまま、燭台の火を見ていた。セシルは、その向かいの壁際にいる。膝に手を置いて、火を見ている。炭も紙も、出していない。
「今日は、書かないのですか」
エルドは訊いた。セシルは、こちらを見ずに答えた。
「今日は見るだけの日にしました。二十日は見るだけにしろ、とマグダに言われましたので。何日かに一日は、書かない日を作ります」
「書かずに、いられますか」
「いられません。荷車を今日は十一台、追い越しました。数えるのは癖です。書かないだけです」
マグダが、火の向こうで笑った。
「白いの。それは休みじゃないよ。書かない仕事だ」
セシルは、答えずに火を見ていた。答えないのが答えらしい。
ヴァルドが、火の脇で言った。
「東でも、畑を捨てる者が出た」
誰に言うでもない声だった。
「春に二軒だ。止める理由が、わしには無い。上を見るなと言う権は領主にも無い」
「捨てた畑は、どうなりますか」
「隣が耕す。隣が捨てれば荒れる。荒れれば税が減る。それだけだ」
ヴァルドは、また火を見た。エルドも、火を見た。北の領の畑を、治める側の目で見たことは、まだ無い。初雪までに決める、と言った。決めるものの中に、畑がある。あの荷車の男が弟に譲ったような畑が、幾つあるのかも知らないまま。
◇
開けた窓の下で、声がした。
声は、二つだ。旅の者が、外で飲んでいる。声は、そのまま入ってきた。
「……だから、七尺の誓い断ちに頼めばいいんだよ。臣従の紋だって切れる。年季を切ったって話だろう」
「切れるのかね、臣従が」
「切れるさ。あの秋、王都でもっとでかいのを切ったんだ。臣従なんざ指一本だ」
「頼めば、切ってくれるのか」
「頼めば、だろう。……うちの旦那は去年の秋から人が変わった。上を見るってのはああいうことか。隣の畑を買って、払いはうちの者の給金だ。俺は旦那の使いで来てる。明日には戻る。戻りたくなくても、足が戻る。紋のせいだ。……七尺の男が北から下ってくるって話だ。会えたら頼む」
部屋の中が、静かになった。
レイフは、火を見ていた。手も顔も、そのままだ。マグダが、杯を持ったまま、こちらを見た。セシルの手が、膝の上で、紙を出しかけて、止まった。
エルドは、自分の右手を見た。
切れる、と壁の向こうは言った。頼めば、と。頼まれる手は、この部屋の中に二つある。噂の手と、まるで実感のない自分の手と。
噂の手は、火の向こうで動かずにいる。エルドは膝の上で右手を閉じた。




