【第二部 風と鎖】第04話 立会は、王都まで
マグダは、宿の帳場の手前で、足を止めた。
出立の朝だ。きのう、エルドは名の綴じ紙を石の前で返してきた。荷はもう広間に積んである。積み終えて帳場へ来てみれば、エルドが亭主の前に立って、銅貨を机に並べていた。一枚、二枚。並べる手が、止まらない。
「湯桶が九杯。一杯二枚で、十八枚でございます」
「はい」
十枚目が机に載った所で、マグダは、その手首を掴んだ。
「ちび。待ちな」
「何ですか」
「何ですか、じゃないよ。川の町の宿で桶一杯いくら払った」
「一枚です」
冬のことは、この子は覚えている。覚えているのに、倍の値を言われて、はい、と言った。
「じゃあ、ここは」
「二枚です」
「倍だね。倍の訳を、訊いたかい」
「……訊いていません」
「訊きな」
エルドは、机の上の銅貨を見た。それから、亭主を見た。
「エーリク。川の町の倍の訳を、伺えますか」
「北は、薪が高うございます。冬の長い土地は、湯も高い」
エーリクは、指を折りもせずに答えた。初めに来たとき三人の顔を見なかった男が、値の話では客をまっすぐ見る。答えを聞いて、エルドがうなずいた。うなずいて、十一枚目に手を伸ばした。
「待ちなって言ったろ」
「訳が、ありました」
「訳ってのはね、向こうの言い分だ。こっちにも言い分がある」
言いながら、マグダは思い出していた。十四のときに、この子に同じことを教えた。財布の中身を店先で見せるな。言い値で払うのは礼儀じゃない。教えたことは、ぜんぶ、去年の秋に持っていかれた。……そうだった。この子は素では、言い値で払う子だった。
「言い分というのは」
「あたしら三人、三晩で九杯。まとめて九杯買う客に一杯ずつの値を言うのは、宿が得をしすぎだ」
エルドは、少し考えた。眉が、寄った。分からないものを前にしたときの寄り方だ。
「……九杯まとめてですから、十六枚でどうでしょう」
亭主は、動かない。
「十七枚で」
「十六枚で」
「十七枚で」
二度目で、エルドの口が止まった。次に何を言えばいいのかが、この子の中に無い。マグダは、手首を離した。
「亭主。上の湯へ行く客は、行きも帰りもこの宿に泊まるんだろ」
「……はい」
「あたしらは、これから二十日街道を下る。道々で、北の町の宿は湯が高い、と言って歩くこともできる。言われたくなけりゃ、まとめて九杯買った客にはまとめた値があるはずだ」
エーリクは、指を一本も折らずに、少しのあいだ黙っていた。それから言った。
「十五枚で」
「十四枚」
「十五枚でございます。お客様」
譲る所を、初めから決めていた声だった。三枚。それ以上は、この男は動かない。マグダは、机の十枚に五枚を足した。
「三枚だ。覚えときな、ちび。値切りってのはね、倍の値なら三枚ぶんは口で返ってくるもんだ」
「はい」
返事は、いい。返事だけは、十四のときと同じだ。
払いながら、算段が浮かんだ。あたしなら一枚半にして、桶を一つ増やして、客を倍にする。湯上がりに酒を出せば、酒で取れる。八年、宿の客だった女には、それくらいは見える。
……見えて、どうする。
算段は、そこで捨てた。教え直すほうが先だ。広間へ戻って、荷を担いだ。
◇
広間の机で、レイフが便りを書いていた。
粗い紙に、炭で。四角い字が、一行ずつ立っていく。戸口にラルスが立っている。村へ戻る若いのに持たせるのだろう。
マグダは、後ろから覗き込んだ。
——村のみなへ。
——レイフです。町にいます。今日、エルド様と王都へ発ちます。
——ベルタ。便りは、これが二通目です。
——これは、俺が書きました。
四行だった。十年前の六行より短い。
レイフは炭を置いて、紙を二つに畳んだ。畳み方が前より丁寧なのは、誰の注文かを訊くまでもない。
エルドは、畳んだ便りを戸口のラルスに渡した。
「ベルタに、届けてください」
ラルスは便りを懐に入れて、はい、と答えた。いま発てば、明日の昼には梁に留まる。
◇
宿の前に、七頭と十人がそろった。朝の日はまだ屋根の上で、通りの土は冷えている。人の息が、少し白い。
ユリアンと供の三人。ヴァルドとオーラフ。それに、あたしらの四人。通りの両側に、町の者が立っている。初めに来たときは誰も顔を見なかった通りだ。今朝は、誰も彼もが見ている。見て、何も言わない。しまい込んだ名は、一日二日では出てこない。
その通りを、男が一人、歩いてきた。
鎌は持っていない。ディルクだ。宿の前まで来て、エルドの前で土に膝をついた。おととい、林の石の前でしたのと同じ膝のつき方だった。
「若様」
太い声が、通りに響いた。町の者が、息を止めたのが分かった。
「若様に、誓わせてください」
嘘のない顔だった。生き残った者は、縛られたがる。縛られていれば、生きている訳を自分で持たずに済む。審問の席で、そういう願いを幾つも聞いた。嘘のない願いというのは、嘘のある願いより、首を振るのがよほど骨だ。
エルドは、膝をついた男の前に、自分もしゃがんだ。
「誓わせません」
エルドは言った。
「あなたが誓えば、私は誓われた者になります。継ぐかどうかを決めていない者が人に誓われるわけにはいきません」
言ってから、少し置いた。
「ここにいてください。石と、この町に。……石を、頼みます」
ディルクは、しばらく動かなかった。それから、はい、と言った。太い声が、少しだけ細かった。
縛られる代わりに、頼まれて帰る。あの男には、それで足りたらしい。
立ち上がりぎわに、ディルクがレイフを見た。
「若様を、頼む」
レイフは、はい、とだけ言った。
ユリアンが、一部始終を見ていた。王家の使いの前で、エルドが家中の誓いを受けなかった。
「……誓わせぬ、と叔母は勅に書きました。エルド殿も同じことを言うのですね」
「同じかどうかは、分かりません。私はまだ、決めていないだけです」
ユリアンは、それを真面目に聞いた。聞いて、覚えたらしい。
その後ろに、黒い官服が立っていた。コンラートだ。油紙で包んだ厚い束を、供の一人に渡した。
「七年ぶんの、写しでございます」
それから、エルドに頭を下げた。深くて、遅い礼だ。この町で何度も見た礼のうちで、今朝のがいちばん長かった。
◇
蹄の音が、南から来た。
白い外套だ。若い騎士が一騎、通りを駆け上がってきて、宿の前で馬を止めた。徽章を胸につけている。降りるなり、セシルの前で背筋を伸ばして立った。
「前庭のホルガー殿より、書状です」
セシルは、受け取ってその場で開いた。二度読んだ。読み終えて、書状を持ったまま立っていた。
セシルの横顔には、行きたい、と、行けない、が並んでいた。書状の中身は知らない。知らなくても、それは分かる。
「前庭の、年嵩の騎士からです」
セシルは、書状から目を上げずに言った。
「王家の使いが北へ向かうのを丘の近くで見た者がいたそうです。北の若君を王都へ呼ぶ使いだと読んで、私に宛てて書いた、と」
セシルは、書状を持ち直した。
「北の若君が王都へ行かれるなら、前庭側の用として同行せよ。誓約主の血が絶えて、いまの王都には誓いを繋ぐ者がいない。その王都で、証文と立会がどう成るかを、その目で見て書き留めて戻れ。……そう、あります」
ヴァルドが、セシルに手を出した。
「わしの書状を、出せ」
セシルが外套の内側から出したのは、灰色の三筋の封を押した、立会の書状だ。丘で受け取って、ここまで持ってきた一枚。オーラフが炭を渡し、ヴァルドはその場で、書状の端に一行書き足した。
「王都まで、だ」
仏頂面のまま、セシルに返した。セシルは、二つの書状を並べて持った。丘からの一枚と、東の家の一枚。
「立会は、王都まで」
セシルは、二つの書状を見たまま言った。
「……前庭側の用として参ります。前庭のことは、戻ってから」
戻ってから、の所で、声が少し下がった。四十一人を並べた前庭を、幾月か空けることになる。
「白いの」
マグダは言った。
「並べる相手は、逃げやしないよ。丘は動かない」
「……はい。逃げないのは、私のほうも同じです」
セシルは、二つの書状を外套の内側にしまった。若い騎士は、返事を口で預かって丘へ戻っていった。セシルは、それを見送ってから、いつもより少し低い声で訊いた。
「マグダ。王都までの二十日、私は何を見ればいいのでしょう」
「あんた、休み方を覚えかけてたろ。二十日は見るだけにしな。街道と、人と、王の子と。書き留めるのは、見たあとでいい」
セシルは、しばらく黙っていた。それから、はい、と言った。いつもより、少し遅い返事だった。
◇
町を出た。
ラルスは、宿の前で北へ向いた。懐に、便りを入れて。あたしらは、南だ。四人で王都へ行くのは、二度目だ。一度目は去年、ちびが行くと決めて。今度は、呼ばれて。前にユリアンがいて、後ろに東の家がいて、七頭の馬がいる。人が増えても、道の見える所は決まっている。いちばん後ろだ。マグダは、いちばん後ろを歩いた。
一度、振り返った。エーリクは、戸口で頭を下げたままだった。
通りの両側の者は、まだ何も言わない。宿の前で家中の誓いを受けなかった若様を、見ているだけだ。粉屋の前を過ぎたとき、後ろで、女の声がした。
「……ファーレンの、若様」
小さな声だった。小さな声のあとに、別の声が同じことを言った。三つ目は子どもの声で、わかさま、と一つだけ言った。マグダはもう一度振り返った。声の主は、口に手を当てずに、こちらを見ていた。
エルドは振り返らずに、歩く速さだけを少し落とした。名を呼ばれずに歩いてきた子が、今朝は名を呼ばれて歩いている。
背中に、北がある。村の子らの歌が、まだ耳に残っていた。七行目まである歌だ。
◇
日が上がると、街道の土が乾いて、靴の下で柔らかくなった。風が南から来る。山の風より、少しぬるい。南へ下るというのは、こういうことだ。
町を出て半刻ほどで、ユリアンが後ろへ下がってきた。
馬を引いたまま、マグダの隣に並ぶ。供の三人が、慌てて間を詰めた。
「マグダ殿は、いつも後ろを歩かれるのですか」
「殿はよしとくれ。鳥肌が立つ」
ユリアンは少し考えた。
「……マグダ。後ろを歩くのは、なぜですか」
「後ろから見りゃ、全部見えるからだよ」
「王宮では、後ろに立つのは供の者です」
「あたしは誰の供でもない。八年、あの二人と歩いてきただけだ」
ユリアンは、前を歩く二人の背中を見た。大きいのと、そうでないのと。それから、自分の供の三人を見た。何かを分かった、というふうにうなずいて、前へ戻っていった。何が分かったのかは、訊かずにおいた。
馬の足音が、隣に来た。ヴァルドだ。オーラフが手綱を引いている。
「おぬし、宿で三枚まけさせたそうだな」
「誰が言ったんだい」
「オーラフが見ておった」
仏頂面の後ろで、オーラフは前を向いたままだった。マグダは、ヴァルドを見上げた。
「三枚は亭主の値だ。あたしの値じゃない。……東の領主様は、宿に値の話をしたことがあるのかい」
「無い。払う者が、後ろにおる」
それきり、ヴァルドは前へ行った。値の話をしたことの無い男が、枚数だけは覚えていた。
前のほうで、レイフがエルドの半歩後ろを歩いている。あの二人の間は、変わらない。
◇
日が傾くころ、詰所に着いた。
城の下の町から南へ半日。街道の脇の、石の低い建物だ。夕方の日を受けて、壁が片側だけ赤い。門に、誓約騎士団の徽章が彫ってある。セシルが先に立って、門の騎士に書状を見せた。二枚とも。騎士は二枚を見比べて、ユリアンを見て、レイフを見て、それから中へ入っていった。
出てきたのは、髪の白い騎士だった。
「巡察どの。……それから、北の若君」
セシルは、巡察どの、をそのままにした。前庭側の用で来ている者は、詰所から見れば巡察なのだろう。騎士は、エルドに頭を下げた。下げてから、言った。
「きのう、旗の無い四騎がこの前を南へ下りました。詰所には寄らずに。……お耳に入れておきます」
南の街道の先に、二十日先の王都がある。その道を、旗の無い四騎が、先に下っていった。
「先に、行ったね」
誰にともなく言った。レイフが、南を見ていた。エルドは、何も言わなかった。この黙り方を、あたしは知っている。何かを一人で引き受けると決める前の、この子の黙り方だ。何度も見た。……この子のほうは、自分がそういう顔をすることを知らない。




