【第二部 風と鎖】第03話 石の前で
この国に、逆賊の墓は無い。
宰相府が許さないからだ。討たれた家の骨は焼け跡に置かれ、雪の下で春を待ち、土に還る。そういう決まりになっていた。決まりどおりになったかどうかは、別の話だ。
城の下の町は、許されない墓がどこにあるかを知っていた。宰相府の代官は町の真ん中に七年いて、一度も知らずにいた。知らずにいたのは、訊かなかったからでもある。
◇
夜明けの宿で、エーリクが裏口に立っていた。開いた裏口から、竈の煙の匂いが入ってくる。町の朝の匂いだ。
エルドは外套の紐を結びながら、階段を下りた。レイフは、先に下りていた。
台所の戸口に、ユリアンが立っていた。供の三人も、後ろにいる。起きていた。
「私も、行きます」
訊いたのではない。エルドは、はい、と答えた。父と母の墓へ王の子が来るのを止める作法があるのかどうかは知らないが、あったとしても、それはこの人が自分で考えることだ。
マグダは、もう外にいた。壁に背をつけて、通りの両側を見ている。宰相府の目があった町だ。セシルが、その隣に立っていた。ヴァルドと古参は、宿の前で待っていた。
父と母の所へ行く。行けば、胸が痛むかどうかが分かる。きのう焼け跡の脇を通ったときは、痛まなかった。
エーリクは、城の坂を上らずに、手前で東へ折れた。家の裏を抜けて、畑の縁を行く。畑が切れると、林だった。楢の若葉が、夜明けの色をしている。
林に入る所で、ユリアンの供の三人が足を止めた。ユリアンが手で止めたのだ。三人はそこに残った。
◇
石は、草の中にあった。
膝の高さの草が、朝露で重い。その中に、人の腰ほどの石が一つ、傾いで立っている。字は無い。印も無い。道端の石と、どこも違わない。違うのは、石の周りだけ草が刈ってあることだった。刈ったばかりの青い匂いがする。
「誰かいるよ」
マグダが、足を止めた。足を止めたのは、先頭のエーリクより先だった。レイフが、エルドの前に出た。
石の向こうで、男が一人、腰を伸ばした。鎌を持っている。四十がらみの、肩の張った男だ。短い茶の髪。左の耳が、上のほうで欠けている。男は鎌を下ろして、こちらを見た。レイフを見て、それからエルドを見た。レイフが、前から退いた。知っている相手らしい。男は、鎌を草の上に置いた。
「塚です」
エーリクが言った。言ってから、男のほうへ顎を振った。
「……あの晩、北の関に立っていた人です」
北の関。北の境を見張る持ち場だ。
男は、草を分けて石の前へ回ってきた。回ってきて、土の上に膝をついた。
「若様」
太い声だった。若様、とだけ言って、あとは何も言わない。膝をついたまま、顔は上げている。
エルドは、石を見た。それから、膝をついている男を見た。どちらに何を言えばいいのかが分からないので、いつもの順にした。
「お名前を、伺えますか」
男は、少しのあいだ黙っていた。
「生き残りの名です。若様がお覚えになるほどのものでは、ございません」
太い声のまま、言った。エルドは、革袋から四冊目を出して、炭を取った。
「生きている人の名こそ、伺います」
男は、エルドの手の帳面を見た。それから、言いにくそうに、ディルク、と言った。
◇
ディルクが立ち上がって、懐から油紙の包みを出した。
中は、紙を綴じたものだった。薄い。二十枚は無い。表紙は無くて、最初の頁に、細かい字で名が並んでいる。
「城が焼けた次の春、雪が消えてから町の者と焼け跡に入りました」
ディルクは言った。石を見て。
「……分けられませんでした。だから、一つです」
骨の話は、それで終わった。一つです、で足りる。
「名は教え役の爺様が焼けた冬のうちに書きました。書庫の爺様です。誰が城にいたかはあの人がいちばんよく知っていた。書いて、雪が消える前に死にました」
教え役。帳面にある人だ。蚯蚓の凍え死んだ跡、と言った人。若様の字より読みやすい、と言った人。
ディルクは、綴じたものをエルドに差し出した。両手で。
「若様が読んでください。俺は字が読めません。爺様が読んで聞かせたのを、聞いただけです」
エルドは、受け取った。
◇
紙は、軽かった。
六十を超える名が、細かい字で並んでいる。上から下へ、一人一行。字は、揃っていない。震えている行がある。急いだ行がある。同じ手が、冬のあいだに書いたものだ。
エルドは、石の前に立った。
レイフが、後ろに立った。マグダは少し離れた所にいる。道の見える所だ。セシルは、ディルクの脇に。ヴァルドは石の向こう側に立ち、古参がその後ろに立った。ユリアンは十歩ほど手前で足を止めて、それより先へは来ない。
「私は、あなた方を覚えていません」
石に向かって、言った。
「名を、読みます」
最初の行を、読んだ。
「アルドレッド」
声は出た。自分の声には聞こえない。父の名を口に出したのは、これが初めてだ。去年の秋からこちら、帳面で読み、人の口で聞いた。自分で呼んだことは、一度も無い。呼ぶ相手が、いなかったからだ。
この人について知っていることは、少ない。湯から出てこない人だったと、村で聞いた。あと百、と言う人だったと。自分も、百まで浸かる。血だね、とマグダは言った。この名と自分をつないでいるものは、いまのところ、それ一つだ。
「ローザ」
母の名は、少しだけ、普通に出た。
懐に、母の文がある。王都の家で渡された文と、セシルが取った写しと。母の字は、読める。母の声は、知らない。名を呼ぶと、声より先に字のほうが浮かんだ。
次の行。
「ハインツ」
誰か、分からない。読んだ。後ろで、レイフが言った。
「家令です。宴の日、中庭で声を張っていた人です」
その次。
「ベルント」
「髭の、槍の人です」
レイフの声が、少し遅れて来た。
「俺に稽古をつけた人です。……札が読めた朝に、頼まれる側になれと言った人です」
その人も、帳面で読んだ。
次の行。次の行。知らない名が、続いた。読んだ。後ろから、ときどきレイフの声が来た。厩番の人です。台所の人です。槍の組の人です。来ない名もあった。レイフも知らない名だ。二年しか城にいなかった男が、全部を知っているわけがない。知らない名は、知らないまま読んだ。
「アンナ」
「奥方様の、侍女頭です」
レイフは言った。言ってから、少し置いて、足した。
「……エルド様の、乳母でした」
エルドは、紙から目を上げなかった。上げると、次の行が読めなくなる気がした。自分に乳母がいた。それを今朝、石の前で知った。
読み終えるまでに、どれだけかかったかは分からない。露が、乾きはじめていた。読み終えても、覚えている名は幾つも無い。六十は、一度では入らない。残りは、紙にある。
最後の行は、名ではなかった。
——東の供、三人。
名が無い。教え役は、東の三人の名を知らなかったのだろう。エルドは、その行を読んで、顔を上げた。石の向こうで、ヴァルドが動いた。
「ヨルク。ヴィム。……エミル」
仏頂面のまま、三つの名を言った。
「エミルは、そこの男の甥だ」
古参は、動かない。顎の傷が、朝の光の中で白かった。エルドは、その顔を見た。名を訊いたことのない人だ。ヴァルドの後ろに立っているのを、この春から何度も見ている。
「あなたの名も、伺います」
古参は、ヴァルドを見た。ヴァルドが、顎で許した。
「……オーラフ」
エルドが炭を取ったところで、ディルクが言った。石を見たまま。
「……爺様も、この下です。冬は土が掘れません。春まで置いて一緒に入れました。名は紙にありません。自分の名は、書かなかった」
エルドは、紙の最後の行を見た。東の供、三人。その下は、白い。
「オットーです」
後ろで、レイフが言った。
「書庫の教え役の人です。……俺の字を、蚯蚓と言った人です」
エルドは、綴じ紙の最後の行の下に、四つの名を書いた。東の三人と、この紙を書いた人の名を。細い字だ。震えた字の下に、細い字が四つ、並んだ。八年前に書かれた紙に、初めて字が足された。オーラフの名は、四冊目に書いた。
◇
ヴァルドは、石の前に立っていた。
立っているだけだった。それから、右の手を上げて、甲を見た。何も無い手だ。見て、下ろした。
「わしは、訊かなかった」
石に向かって、言った。
「塚があるとは噂で聞いた。どこにあるかは訊かなかった。訊けば、町が困る」
ディルクが、ヴァルドを見た。何か言いかけて、やめた。
マグダが、革袋から壺を出した。
村の麦の酒だ。ベルタが持たせた壺の、残りだ。栓を抜いて、石の前の刈った草に少し垂らした。
「安い酒だ。文句は言わないだろ」
誰にともなく、言った。それから栓をして、壺をしまった。
セシルは、ディルクの右の手を見ていた。
鎌を持っていた手だ。甲には、何も無い。日に焼けた皮膚に古い傷が幾つかあるだけで、紋の跡は無い。あったものが薄れたあとの手だ。ディルクは、その手を袖に入れていない。
「……その手は、何日で薄れましたか」
セシルが訊いた。
ディルクは、自分の手を見た。訊かれるとは、思っていなかったらしい。
「……三日です。御館様が死んで三日目の朝には、無かった」
「父も、三日でした」
セシルは、そう言った。自分の右の手は、袖に入れていない。ディルクは、その手を見た。紋の無い手を。見て、黙っていた。
ユリアンは、十歩の所に立ったままだった。膝はつかずに、頭を下げた。王家の者がこの石の前でどうするのが作法なのかは、たぶん誰も知らない。
◇
帰り道は、来た道と同じだった。エーリクが先を歩いた。日が上がって、露の乾いた草が足に軽い。
ディルクは、鎌を持って、少し後ろを歩いた。林を出る所で、エルドは振り返った。
「明日も、ここに来ますか」
「毎日、来ています」
「では、明日も」
ディルクは、うなずいて鎌を持ち直した。字の無い石の周りを、この人は刈り続けてきた。
名の綴じ紙は、預かった。写しを取って、明日の朝、石の前で返す。
◇
宿に戻って、エルドは六十余りの名を四冊目に写した。
預かった綴じ紙を机に広げ、一行ずつ。レイフが隣に座って、見ていた。写しながら、声に出した。今朝の二度目だ。二度目は、一度目より普通に出た。ハインツ。ベルント。アンナ。写し終えるころには、幾つかの名が紙を見ずに言えた。全部は、まだ言えない。言えるようになるかどうかは分からないが、四冊目には全部ある。
レイフは、エルドの手が止まる名の所で、その人が何をしていた人かを言った。言えない名の所では、黙っていた。
午後、コンラートが来た。
きのうと同じ机に、きのうと同じ礼で座った。持ってきたのは、領の実務の話だ。税の期日、市の日取り、詰所との取り決め、道直しの手配。話は、短かった。
塚のことは、言わずにおいた。コンラートも、訊かなかった。今朝、宿の者が夜明けに一行を連れて出たことを、この人が知らないはずはない。知っていて、訊かない。きのうと同じだ。
「ファーレン殿は、領を継がれますか」
コンラートは、話の終わりに、初めてそれを訊いた。低い声で、丁寧に。一息置いてから、訊いた。
「分かりません」
エルドは言った。
「王宮は、夏の終わりまでに来いと言いました。伝えることがある、と。それを聞かないうちに決めるのは順が違います。領は、入ってみるわけにいきません」
そう言ったのは自分だ。上の湯の岩で、パンを食べながら。……それから、今朝の石だ。六十を超える名を読んだ。あの人たちの領を、決めないまま置いておく年を、もう一つ重ねたくはない。
いまから半年が過ぎて初雪が降れば、あの夜から九年目に入る。九年目を、決めないまま始めたくない。
「初雪までに、決めます」
エルドは言った。
「継ぐか継がないか。初雪までに私が決めて、王宮と代官殿に申し上げます。それまでは王宮の預かりのままでお願いします」
コンラートは、頭を下げた。深くて、遅い礼だ。
「……承りました」
きのうと同じ言葉だった。きのうはベルタの伝言を受け、今日は期限を受けた。
ユリアンが、机の端で言った。
「叔母は勅に期限を書きませんでした。書かなかった理由は、私も聞いていません」
◇
日が傾いてから、走る足音が北から来た。
一人だった。
「ラルスです」
レイフが戸口で言った。東の槍の、いちばん若いラルス。徒歩で一日半の道を、杣小屋で一夜明かして来たらしい。宿の前で足を止めて、息を整えもせずにエルドの前に来た。
「峠の四騎が、村へ下りてきました」
ラルスは言った。
「若様がたが発った次の日の昼です。……七尺の男はどこにいるか、と」
七尺の男。
レイフは、戸口に立ったまま、何も言わない。訂正もしない。訂正する相手が、ここにはいない。
「四人とも、髪が黒くて、日に焼けていました。鞍が、見たことのない形で。前が高くて、鐙の紐が短い。外套の襟も、こっちの仕立てと違いました。……口数が少なくて、訛りまでは分かりません」
ヴァルドが、うなずいた。よく見た、と短く言った。
「婆さまが答えました。知らない、と」
ラルスは、そこで一度息をした。
「そいつらはそれ以上訊かずに山を下りていきました。どちらへ行ったかは追っていません。追うな、と言われておりましたので」
エルドは、レイフを見た。レイフは、戸口の外の暗くなりはじめた道を見ていた。四騎は、村へ来た。エルドの名でも北の家の名でもなく、七尺の男を訊いて、名を出さずに去った。七尺の噂の男は、いま、戸口に立っている。それを訊いて回る者が、どこかの道にいる。
◇
——石の前で、名を読んだ。六十を超えていた。生きている人の名を二つ書いた。ディルク。オーラフ。
——初雪までに、決める。代官とユリアン殿の前で。
——峠の四騎は村へ下りて、七尺の男を訊いた。レイフの名は、出ていない。




