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【第二部 風と鎖】第02話 しまい込んだ名


 城の下の町には、城が焼けた冬からこのかた、口にしない名が一つあった。


 北の家の名だ。城が焼けた冬に、宰相府の触れ書きが辻に貼られた。逆賊の家、と書いてあった。触れ書きはとうに剥がれたが、習いのほうは紙より長持ちする。


 口にすれば、口にした者が宰相府に咎められる。町の者は御館様(おやかたさま)の名を忘れたのではなく、しまい込んだ。坂の上の焼け跡を「城」とだけ呼び、焼けた冬を「北の大火」とだけ呼んで、家の名を言わずに済ませてきた。しまい込んだ名を、誰かがうっかり出しても、隣の者が聞かなかったことにする。そういう町だった。


 雪の残るころ、王宮が名を戻したことは、代官の口から町へ伝わった。伝わったあとも、誰もその名を口にしない。名は戻っても、口は戻らない。


 山にまだ雪の残るころ、三人の旅の者が宿に泊まったときも、亭主は三人の顔を見なかった。


 その習いが、破れた。


 破ったのは、王の末の子だ。破り方は簡単だった。市の真ん中で馬を止め、通る者に、ファーレン家の若君はどこにおられるか、と訊(き)いたのだ。誰も口にしてこなかった名を、若い声が昼日中に三度呼んだ。一度目は、誰も足を止めない。二度目で、市が静かになった。三度目で、粉屋の女房が北の山を指した。


 当の若君は、そのころ上の湯に浸かっていて、町が自分の名で揺れていることなど、知りようもない。


  ◇


 エルドは、夜明けの尾根を見ていた。尾根の草が、朝の光で茶から金に変わっていく。峠から下りてくる風は、まだ雪の匂いがした。


 峠の四騎は、夜のうちに消えていた。火は一度も見えなかった、とレイフは言った。宵は暗くて何も見えず、夜半に月が出てから、尾根の線に影が四つ見えた。夜明けの光が尾根に当たったときには、何も無かった。見張りのヨープも、同じことを言った。峠の道に新しい蹄(ひづめ)の跡は無い。下りては来ていない。


 来なかったから済んだ、とは思えない。見るだけで帰る者は、見たものを持って帰る。何を持って帰ったのかは、こちらからは分からない。


 ヴァルドは、東の槍の三人を村に残した。ヴァルド自身は、顎に古い傷のある古参を一人連れて、王都まで行く。


「峠から下りてきたら追うな。見て、報せろ」


 年かさのクヌートは、はい、とだけ答えた。それから、エルドの前に来た。ゆうべ火の脇で言いそびれたことを、今朝は言うことにしたらしい。


「町の者が一人、若様をお待ちだと聞きました。……名は訊きませんでした」


「では、私が訊きます」


 クヌートは、それで少し楽になったようだった。槍を持ち直して、峠のほうへ歩いていった。


 村の婆さまのベルタは、いちばん上の家の戸口に立っていた。下りてはこない。下りれば、上がるのが大ごとになる。その戸口の前に、レイフが荷を担いだまま立っていた。


 エルドは、少し下の段で待った。二人のあいだの話に、口を挟む用は無い。


 ベルタは手を伸ばして、レイフの腕を叩いた。届く所を、だ。


「十年前も、ここから下りていったね」


 レイフは、何も言わずに、ベルタを見ている。


「振り返っていきな。見送る者がいるんだから」


 それからベルタは、レイフの荷の上に布の包みを載せた。黒いパンと、山羊(やぎ)の乳を固めたものだという。


「うちの飯を食ってた子が、王都だの何だのへ行くんだからね」


 包みを一つ叩く。


「行くなら、痩せて帰ってくるんじゃないよ」


「はい」


「返事は、それだけかい」


 レイフは少し考えて、頭を下げた。深く、長く。ヴァルドに頭を下げたときより、まだ深かった。ベルタは手を伸ばして、その頭を押し戻した。


「便りは、梁(はり)に留めとく。次のが来るまでね」


「……書きます」


「若様に書かせるんじゃないよ。あんたの字で」


 レイフがもう一度、はい、と言った。その声は、山じゅうには届かない大きさだった。届く所にだけ、届けばいいらしい。


 ベルタの目が、こちらへ来た。杖を上げてエルドを呼び、エルドは段を上がった。


「若様。町の代官ってのに、会うのかい」


「会います」


 会ったことは、まだ無い。


「あたしもだよ」


 ベルタは杖で、村の下の道を指した。細い道が、木立へ消えていく。


「代官は、山へ来ないよ。七年で一度もね。来たのは賊と黒いのとあんたらだけだ。会ったら言ってやんな。山にも人が住んでるってね」


「言います」


 ベルタは、それでいい、というふうに杖を一つ突いた。


 段を下りきった所で、前を行くレイフが止まって、振り返った。大きな背中の向こうに、石を載せた屋根が九つ見える。いちばん上の戸口に、杖が一本立っている。レイフは長くは見ずに、前を向いて、また歩き出した。


 エルドも、一度だけ振り返った。この村には、自分の知らない自分がいない。名を訊けば教えてくれて、訊いた名は全部、自分で覚えた。それがどれほど楽だったかが、下りる道の途中で分かってきた。


 ニナが、段の下から走ってきた。走ると転ぶ、と言われているのに、走ってきた。いつ帰ってくるのか、と訊く。


「分かりません」


 エルドは言った。ニナが黙ったので、足した。


「分かったら、便りを書きます。読める人がいませんが」


「ニナが読む。おぼえるから」


 ニナは、抜けた前歯を見せた。


 ユリアンは、馬を引いて歩いた。山道も自分の足で下りるつもりらしい。供の三人も、馬を引いて歩いた。主が歩くのに、供が騎乗するわけにはいかないのだろう。マグダが、乗らないなら馬は要らないだろうに、と言った。供の一人のホルストが、真面目に答えた。


「王家の使いは、馬で来て馬で帰るものです」


 マグダは、それ以上言わずにおいた。言っても無駄だと分かったらしい。


  ◇


 エルドは、レイフの後ろを歩いた。


 道は、村を出るとすぐに人の肩の幅になる。馬は、この幅を嫌う。七頭を一頭ずつ通すので、三人で上がったときの倍かかった。日が傾いたころに、杣小屋(そまごや)に着いた。木を伐る者が使う小屋で、屋根と炉しかない。三人で泊まったときは広かった。今夜は十人で、狭かった。馬は外に繋いだ。戸の隙間から沢の冷えが入ってきて、炉の側だけが暖かい。


 供の三人は、戸口の外に立った。


「座ってよい。今日はもう、誰も来ない」


 ユリアンが言った。ゆうべ、火の脇で言ったのと同じ言葉だった。三人は中へ入って、炉から遠い壁に並んで腰を下ろした。


 レイフが沢へ下りて、魚を取ってきた。串にして四本。十人には足りない。足りない分は、ベルタが持たせた黒いパンと、山羊の乳を固めたものだった。焼けた一本を、レイフはまずユリアンに渡した。客だからだ。ユリアンは供の三人を見ずに受け取り、骨から身を外して食べた。毒見は、きのう断ったきりだ。食べ方が綺麗だった。育ちは、こういう所に出るものらしい。


「代官殿は、私が着いた日に宿の前で待っておられました」


 ユリアンは、魚を食べ終えてから言った。


「丁寧な人です。叔母から預かった文を二度読んで、承りました、と言われました。それから宿を取って案内にクヌートを引き合わせてくれました。山の話は一度もされませんでした。私が山の上の村へ上がると言っても、道の長さを教えられただけです」


「王妹殿下は、代官殿への文に何と書かれたのですか」


 訊くと、ユリアンは少し考えた。


「文は、二通です。雪の残るころに早馬で届いた文には、王家の使いが着くまで動くな、とだけ。私が持ってきた文には、使いに従え、とだけ」


 王家の使いとは、ユリアンのことだ。動くな、と書かれた代官は、ユリアンが着くまで動かなかったのだろう。着いてからは、使いに従えばよいことになる。


「一緒に山へ上がるかと代官殿に訊きました。町で待つ、と言われました」


 王の子に訊かれて町で待つと答えた人が、何を思って待ったのかは、聞いたかぎりでは分からない。エルドは火を見た。決めるのは、会ってからだ。


 ユリアンが、外套を脱いだ。


 一日、馬を引いて歩いた外套だ。裾は沢の水で濡れ、背は汗で湿っている。ユリアンはそれを、脱いだ形のまま、壁際の土の上へ置いた。置いた、というより、落とした。


「ユリアン殿。外套は火に当てて乾かしてから、畳んでください。濡れたまま丸めておくと朝になっても冷たいままです」


 言うと決めたのは、いまだった。ユリアンは、土の上の外套を見た。それから、エルドを見た。


「……畳む、というのは」


「畳んだことが、無いのですか」


「ありません」


 言い切って、恥じてもいない。王の子の外套を畳む者は、ほかにいるのだろう。戸口の脇で供のゲルトが腰を浮かせかけ、ユリアンが手で止めた。


「教えてください」


 エルドは濡れた外套を拾って、火のそばの石に広げて掛けた。乾くのを待つあいだに、自分の外套で畳み方だけを見せた。襟を合わせ、袖を内へ折り、裾から二つに畳む。


 ユリアンの外套が乾いたのは、火が落ち着いたころだった。ユリアンは、真面目にやった。襟を合わせる。袖を折る。折り方が逆だったので、エルドが直した。裾から畳む。畳んだものは、石の上で少し曲がっていた。エルドが黙って直し、ユリアンがもう一度畳んだ。二度目は、まっすぐに畳めた。


 壁際で、供の三人がそろって土を見ていた。王の子が自分で外套を畳むのを、じかに見るわけにいかないらしい。きのうは空に雲があった。今夜は、土しか無い。


 王の子に畳み方を教える日が来るとは、ゆうべまで思いもしないことだった。教えてみると、覚えが早い。注文をつける相手が、一人増えた。


 レイフは、炉の向こうから、ユリアンと供の三人を見ていた。何も言わない。言わないが、どことなく気の毒そうな目をしている。畳み方のことなら、この男にも上の湯の岩で一度言った。


  ◇


 次の日、日が傾く前に木が切れて、坂の上に石の壁が見えた。


 城の焼け跡だ。屋根は無い。石の壁だけが、北の町に来たころと同じ形で坂の上に残っている。着いてすぐのころに一度、その脇を通って沢へ下りた。そのことは、覚えている。父と母が死んだ場所だ、とも帳面にある。帳面で読んだ場所を、自分の足で通る。通っても、胸のどこも痛まない。痛まないことのほうが、この町に来たときからずっと引っかかっている。


 町は、城の下にある。市の立つ通りが一本と、宿が一軒、粉屋と鍛冶と、詰所へ続く南の道。木立を出たときに風が変わって、山の木の匂いの代わりに、粉屋の粉と鍛冶の炭の匂いがした。この町には、三人でしばらくいた。着いたのは、山にまだ雪のあるころだ。市で塩を買い、帳面を買い、宿の湯桶(ゆおけ)に銅貨を二枚ずつ払った。誰も、三人の顔を見ずに済ませた。


 今日は、違った。


 通りに入ったとたんに、分かった。見られるのは、慣れない。前に誰にも見られずに歩いたときのほうが楽だった、とは思いたくない。それでも、足が少し速くなった。粉屋の女房が量り売りの手を止めて、こちらを見た。鍛冶が槌(つち)を上げたまま見た。荷を担いだ男が、道の端へ寄って見た。誰も何も言わないが、道は空いた。十人と七頭が通れる幅に、市の通りが自分から空くのを、エルドは初めて見た。


 子どもが一人、母親の前掛けの陰から、大きな声で言った。


「わかさま」


 母親の手が、その口を塞いだ。それから、ゆるんだ。母親は手を子どもの口に当てたまま、エルドを見ていた。


 エルドは、足を止めずに歩いた。止めれば、何か言わねばならない。この町の者は、八年前の自分を知っている。知っている人に会うたびに先に言うことが、自分にはある。その相手が、通りの両側に並んでいた。全員に言って歩くわけにはいかない。


 宿の戸口に、亭主が立っていた。


 前に来たときは、帳場の奥にいた人だ。銭を数えるときだけ手が見えて、顔は見えずじまいだった。今日は戸口に出て、こちらを見ている。エルドの顔を見て、レイフを見て、ヴァルドの鞍(くら)の竿を見て、ユリアンの外套を見た。それから、頭を下げた。


「お待ちしておりました」


 誰を、とは言わない。


「代官様が毎日おいでです。使いの方が山へ上がられてから、毎日。……今日も奥に」


 代官は、山へ来ない。ベルタの言ったとおりだった。来ないで、山から下りてくる道のいちばん近い所で、待っていた。


  ◇


 宿の広間、いちばん奥の机に、その人は座っていた。


 痩せて、背が高い。座っていても高い。白髪のまじった髪を後ろへ撫でつけ、官服の襟を喉まで立てている。黒い官服だ。エルドが後ろを見ずに小さく訊くと、宰相府の色です、とレイフが答えた。膝の脇に、革の表紙の帳簿が積んであった。厚いのが、七つ。


 立って、頭を下げた。深くて、遅い礼だった。


「北の領の代官を、務めております」


 低い声だった。丁寧で、揺れがない。


「王宮の仰せに従い、お待ち申し上げておりました。ファーレン殿」


 ファーレン殿。家の名に、殿だ。若様でも、北の若君でもない。宰相府の者が七年、口にしなかったはずの名を、この人は最初の一息で言った。用意してきた言い方だ、とエルドは思った。


 宰相府の人だ。父と母と家中の者を殺した側の役所から来て、七年、父の領を回していた人だ。エルドは、自分の腹の底を確かめた。何も無い。覚えていないものは、恨めない。恨めないまま向かい合うのが、この人にとって都合がよいのか悪いのかは、分からない。


 エルドは、頭を下げ返した。


「エルド=ファーレンです。代官殿の名を、伺えますか」


 代官は、一度、目を上げた。訊かれると思っていなかったのだろう。一息おいて、コンラート、と名乗った。


「コンラート殿。……お待たせしました」


 待つように言ったのは王宮で、待たせたのは自分だ。


 コンラートの目は、後ろに立つレイフの背丈を測りに行かない。町の者はみな、一度は測る。この人が見たのは、エルドの右の手だった。


 机には、四人が座った。エルドと、ユリアンと、ヴァルドと、コンラート。レイフはエルドの後ろに立ち、ヴァルドの後ろには顎に傷のある古参が立ち、戸口の外には供の三人が立った。マグダは、戸口と道の見える壁際の腰掛けに座って、杯を持たずにコンラートを見ていた。セシルはその隣で、帳面を膝に開いた。


 コンラートは、膝の脇の帳簿を、一つずつ机に載せた。七つ。載せるたびに革の表紙を手で撫でて、向きを揃える。


「北の領の七年ぶんでございます。宰相府より任じられまして、七年になります」


 城が焼けた冬にこの町へ来た、と続けた。


 いちばん上の一冊を、コンラートが開いて、こちらへ向けた。受け取るとき、指が触れた。冷たい手だった。


 細かい字だった。一行が上から下まで同じ太さで揃っている。税。市の日。道直し。詰所へ送った賊の数。冬の薪の値。ひと月ごとに一頁。七年で、帳簿が七つ。いい帳簿だ、とエルドは思った。冬に川の町で帳付(ちょうつ)けをして日銭を稼いだので、帳簿の良し悪しくらいは分かる。この人は、きっと書かずにいられない人だ。


「町までは、治めました。税は宰相府の定めどおりに。市は七年一度も止めておりません。道は三度直し、賊は詰所へ十一度送りました。……七年ぶんの報告でございます」


 コンラートは言った。帳簿の上に、冷たい指を置いて。


「山の村へは」


 エルドは言った。


「兵は、出しておりません」


 答えは、早かった。


「七年、一度もですか」


「一度も」


 後ろで、レイフは動かない。動かないのが、背中で分かった。


「出せなかったのですか。……出さなかったのですか」


 コンラートの指が、帳簿の上で少しだけ動いた。


「出せる権は、ございました。賊を討つのは代官の権のうちでございます」


「では、なぜ」


 口が、止まった。


 開いた口が、そのまま閉じない。声が出るはずの所で、何も出ない。一息。二息。灰色の目は、エルドを見たままだった。逸らさない。逸らせないのか、逸らさないのかは、分からない。襟は喉まで立っていて、その下に何があるのかは見えない。


 三息目で、口が閉じた。


「……お答え、いたしかねます」


 声は、初めと同じ低さに戻っていた。


 エルドは、動かずにいた。


 この止まり方を、知っている気がした。川の町での夜番の喉。五十年、口を縫われていた老人。どちらも三冊のどこかにあって、二つとも自分の手で開けた、と書いてある。読んで知っているだけだ。目の前で見るのは、去年の秋からこちら、初めてだった。帳面で読んだときより、ずっと静かだった。


 訊かなかった。何に止められたのか、とは。


「もう一つ伺います。父と母は、どこに葬られましたか」


 訊く声は、思ったより普通に出た。城で死んだ家中(かちゅう)の者も、と足した。コンラートは、今度は止まらずに、目を伏せて答えた。


「宰相府は逆賊の家の者を葬ることを許しませんでした。……私が着いたとき、城は雪の下でした。次の春に町の者が焼け跡に入ったとは聞いております」


「何をしに」


「……聞かずに、おりました」


 エルドは、その言い方を頭の中に置いた。北の家の名を口にしない町で、宰相府の代官が聞かずにおいたことは、ほかにも幾つかあるのだろう。帳簿には、それは書いていない。聞かずにおいた七年のあいだに、父と母は、誰かの手でどこかに葬られている。誰かが、聞かずにおかなかったのだ。


 ヴァルドが、初めて口を開いた。


「わしはこの男と七年、川を挟んで文のやり取りをした。岸の検分に、渡し賃の取り決めに。顔を見るのは三度目だ」


「グレンツのご当主には、お世話になりました」


「世話はしておらん。文を書いただけだ」


 仏頂面(ぶっちょうづら)のまま、ヴァルドは帳簿を一つ、指で引き寄せた。開きはしない。


「代官殿。叔母は七年の帳簿を王宮へ届けよ、と申しました。宰相府ではなく王宮へです」


 ユリアンが言った。


「写しは、作ってございます。殿下がお発ちの日にお渡しいたします」


 写しは、取っておくものだ。この冬の分も作ってあるのだろう。それ以上は、訊かずにおいた。訊けば、また口が止まる所に当たるかもしれない。止まるのを、もう一度見たいとは思わない。


 コンラートは、帳簿を七つ机に残して立った。来たときと同じ深さの礼をした。


「明日も参ります。ファーレン殿が、この町においでのあいだは」


「コンラート殿。山の村のベルタという人から、伝言を預かっています。山にも人が住んでいる、と」


 コンラートは頭を下げたまま言った。


「……承りました」


 戸口で、供の三人が道を空けた。黒い官服が通りを下っていくのを、マグダが壁際の腰掛けから最後まで見ていた。


  ◇


 レイフは、戸口に立って坂の上を見ていた。


 城の石の壁が、夕日で赤い。町の者が焼け跡に入った、と代官は言った。何をしにかは、聞かずにおいたと。


「……何をしに入ったのかは、この町の誰かが知っています」


 レイフが、坂を見たまま言った。エルドも、そう思っていた。代官が聞かずにおいたことを、知っている者が、この町にいる。


「見たかい、ちび」


 マグダは、コンラートの背中が見えなくなってから言った。


「口が、止まりました」


「止まったね。出そうとして出なかった口だ。……あたしはあの止まり方を知ってる。審問官のころにも見たし、去年も二度見た。あんたが開けた口だ」


 エルドは、はい、と答えた。


「言っとくけどね。ああいう口は、こじ開けるもんじゃないよ。去年の春にも言った。あんたは覚えてないが」


 そのようです、と答えるほかない。マグダは鼻を鳴らした。それから、机の上の帳簿を顎で指した。


「あの男は七年、あの帳簿しか見てなかった。帳簿の外で何が起きてたかは山の婆さまのほうが知ってる」


 言ってから、足した。


「ただし、あの男は嘘は言ってない。嘘を言う口はあそこで止まらない。止まるのは本当が出かかった口だ」


 ヴァルドは、コンラートの座っていた机に、そのまま座った。


 古参が革袋から紙と蝋(ろう)を出した。灰色の蝋だ。ヴァルドは炭を取って書きはじめた。角ばった字が、一画ずつ遅い。懐の書状と、同じ字だ。


「東へ、ですか」


 ヴァルドは顔を上げずに答えた。


「留守を頼む文だ。四晩は、かからん」


 少し書いて、続けた。


「倅(せがれ)は三十を過ぎた。留守くらいは任せられる。……母親のほうが、うるさい。王都まで行くと書けば何を着ていくのかと返事が来る」


 仏頂面のまま、ヴァルドは書き続けた。妻がいて、跡取りがいる。当たり前のことを、エルドは今日まで知らずにいた。この人は東の家で誰と暮らしているかを自分から言わないし、自分も訊いていない。竿のことは、訊かなくても言うのに。


 文は、短かった。ヴァルドは灰色の蝋を垂らして、三筋の印を押した。


「市に、東へ帰る塩の荷がある。それに持たせる」


 セシルは、壁際の腰掛けにいたままだった。帳面は膝の上で閉じている。


「マグダ。代官殿の襟は、喉まで立っていました。宰相府の官服がああいう仕立てなのかどうかは教本にありません」


 セシルが言った。


「見えなかったね、襟の下は」


「はい。何も見えませんでした」


 マグダは、セシルを見た。それから、少しだけ笑った。


「白いの。あんたも、そこを見てたのかい」


「見ていました。見ようとして、見えませんでした」


 顔を読む人と、襟を見ていた人が、同じ壁際に並んで座っていた。二人の見たものを合わせると、代官の喉の上に、見えない何かが一つ置かれる。エルドは、それを頭の中の代官の隣に置いた。


  ◇


 夜に、亭主が湯桶を運んできた。


 前は、下働きの子が運んだ。今夜は、亭主が自分で担いできた。二階の部屋の戸口に桶を置いて、それから、去らなかった。


 エルドは待った。何か言いに来た人は、待てば言う。


「初めにおいでのとき、お顔を見ませんでした。見れば名が口に出ます。出た名を誰が聞いているか分からない町で八年、暮らしました。……お許しください」


 亭主は、桶の湯気の向こうで言った。


「許すことは何もありません。初めに来たときのことは、覚えています。あなたが顔を見なかったことも」


 亭主は、少しのあいだ黙っていた。それから、声を落とした。


「塚の場所なら、知っております」


 塚。


 父と母が、どこかにいる。帳面の中でなく、この町のどこかに。エルドは、亭主の顔を見た。


「城から東の林の中です。……代官様には申しておりません。町の者は誰も、代官様には言いません」


「明日、案内していただけますか」


「夜が明けたら。夜に行く所ではございませんので」


 亭主は、深く頭を下げた。そのまま、言った。


「エーリクと、申します。初めのときは名乗りませんでした」


 エルドは、名を呼んだ。帳面は、開かなかった。


「エーリク。夜が明けたら、お願いします」


  ◇


 ——代官に会った。コンラート。七年ぶんの帳簿を、机に置いていった。山へ兵を出さなかった訳を訊いたら、口が止まった。三息のあいだ。何に止められたのかは、訊かなかった。


 ——塚がある。城から東の林の中。宿のエーリクが知っている。明日、行く。


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