余話五 湯の中だけ
白いのは、馬を下りるなり、名乗った。
「誓約騎士団の、セシルです。グレンツ家の求めにより、立会の騎士として、十日、北へ参りました」
村の入口で、だ。集まってきた村の者の前で、規程どおりの姿勢で。
マグダは石積みに腰かけて、それを見ていた。
外套は洗ってある。徽章は拭いてある。紋の無い右の手を、袖に入れていない。そこは、初雪の前に丘の門の下で別れたときと変わらない。変わったのは、顔だ。頬が削げた。目の下が黒い。ひと回り、細くなった。
「何だい、この白いのは」
ベルタが、杖にもたれて言った。初めて会って、もうその呼び方だ。口の悪い者の目は、だいたい同じ所を見る。
「うちの連れだよ。……白いの」
「マグダ」
白いのは、こちらを見て、息を一つ吐いた。それから、すぐに背筋を戻した。
「エルドどのと、レイフは」
「上の湯だよ。ちびは今朝も浸かってる」
「……湯」
「湯だよ。話せば長い。それより、あんた、いつから寝てない」
「寝ています。規程どおりに」
「規程は、何刻寝ろと言ってるんだい」
「……三刻です」
「目の下は、そうは言ってないよ」
後ろの馬から、顎に古い傷のある男が下りてきた。東の領主の古参だ。
「ヴァルド様の書状は、丘で受け取られた。立会の用向きは、現地にて申し付ける、とある。ヴァルド様は、あとから来られる」
「用向きも知らずに、六日、馬に乗ってきたのかい」
「グレンツ家の印のある書状です。団として、お受けしました」
白いのは、まっすぐな目で言った。
その目が、寄り合いの小屋の前で止まった。縄を打たれた男が七人、槍に見張られて座っている。
目の下の黒い顔に、急に、血の色が戻った。
「賊ですか」
「ゆうべのね」
「引き渡しは」
「まだだよ。どこへ引き渡すのか、村じゃ誰も知らない」
「北の領は、王宮の預かりです。いちばん近い詰所は、城の下の町から、南へ半日です。七人なら、護送に三人。……名は、控えてありますか」
「ちびが、もう書いたよ。七人ぶん」
「写させてください」
外套の内側から、粗い紙の帳面と炭が出てきた。馬を下りてから、百も数えていない。
「白いの。休みに来て、着くなり働くんじゃないよ」
「休みに来たのではありません。借り受けられたのです。用向きはまだ伺っていませんが、これは、用のうちに入るかと」
「入らないよ」
白いのは聞いていなかった。もう、先頭の賊の前に立って、規程により、と始めている。
顎傷の古参が、マグダの隣で、小さく息を吐いた。
「……丘でも、ああだった」
◇
二人は、昼に下りてきた。
エルドの髪は、まだ湿っていた。村の入口で足を止めて、白い外套を見た。少しのあいだ、見ていた。
「セシル」
それから、この子は言った。
「半年ぶりです。丘の門の下で、別れました。初雪の前でした。——覚えています」
白いのは、炭を落とした。
覚えています。
去年の秋から、この子が口にするのは、覚えていません、ばかりだった。王都でも、渡しでも、丘でも、会う人ごとに、先にそう言った。それが今日は、逆を言った。去年の秋からあとのことなら、この子は覚えている。当たり前のことだ。当たり前のことを、あたしは今日まで、聞いたことがなかった。
「……はい」
白いのは言った。声が、少し掠れていた。
「私も、覚えています。エルドどの」
でかいのが、後ろで頭を下げた。
「騎士様」
「レイフ。……字は」
「読みやすく、書いています。半分は、主が書きますが」
「半分」
「主の字は、まだ、形で見当をつけています」
「聞こえていますよ」
エルドが言った。白いのは、口の端を少し上げた。半年ぶりに見る顔だった。
◇
東の領主ヴァルドは、日が傾く前に着いた。
供は一人。旗は無い。鞍の脇に、竿が一本、括りつけてある。仏頂面は、春の沢で見たときと、少しも変わらない。
白いのが、進み出た。
「グレンツのご当主。立会の用向きを、伺います」
「無い」
ヴァルドは、馬の上から言った。
白いのは、瞬きを二つした。
「……無い、とは」
「用は、無い。証しの後始末で、丘へ行った。前庭で、おぬしが人を並べておった。目の下が黒かった。年嵩の騎士に訊いたら、休めと言っても休まん、用が無いと動かん、と言う」
ヴァルドは馬を下りた。下りて、手綱を供に渡した。
「だから、用を書いた」
「しかし、書状には、立会と」
「立ち会ってもらう。湯にな」
「……湯」
「わしの客が、この上で湯に入っておる。十日、それに立ち会え。書状には、わしの印を押した。おぬしが手ぶらで帰れば、グレンツは騎士を借りて使わなかった、ということになる。わしの面子が潰れる」
白いのは、口を開けて、閉じた。
「……規程に、湯の立会は、ありません」
「無いなら、断る規程も無かろう」
長い間があった。
マグダは、石積みの上で腹を押さえていた。声を出すと、この見ものが終わってしまう。
「……承りました」
白いのは言った。負けた者の声だった。
「東の領主様」
マグダは、やっと言った。
「あんた、手回しがいいじゃないか」
「手回しだけは、昔からいい。ほかに取り柄は無い」
にこりともしなかった。
エルドが、前へ出た。
「槍の方々のことで、お礼を申し上げます」
ヴァルドの目が、槍の三人のほうへ動いた。年かさのクヌートが、首をすくめた。
「……名を言うな、と言ったはずだが」
「私が、訊きました。叱らないでください」
「叱らん」
「村の者の返事が、二十六行あります。そのうち三行が、槍への礼でした」
「礼は要らん」
ヴァルドは言った。山のほうを見て。
「あいつの村だ。あいつが槍を置いておった村だ。置く者が、おらぬ。それだけのことだ」
それから、少し間を置いて、低く足した。
「わしは、おぬしらに借りがある。返し方を、ほかに知らん」
誰も、何も言わなかった。でかいのが、深く頭を下げた。この男が、エルド以外にああいう下げ方をするのを、マグダは初めて見た。
「それと、竿を持ってきた」
ヴァルドは、仏頂面のまま言った。
「上の沢は、釣れると聞いた」
「釣れます」
でかいのが答えた。
「……そうか」
◇
その夜の上の湯は、二人だった。
月は、ゆうべより少し太い。
白いのは、湯の中でも背筋を伸ばしていた。膝を揃えて、手を膝に置いて、胸から上を湯の外に出して、まっすぐ前を見ている。規程どおりに湯に入る者を、マグダは初めて見た。
「肩まで浸かりな。下の坊やに叱られるよ」
「叱られるのですか」
「叱られるよ。でかいのは、毎日叱られてる」
白いのは、少し考えてから、沈んだ。肩まで。
「……あ」
小さな声が出た。出してから、白いのは口を押さえた。
「出るんだよ、それは。誰でも出る。ちびのは、もっと長い」
しばらく、湯の音だけがしていた。
「丘は、どうだい」
「冬から、四十一人、並べました」
「口上は」
「また、違う、と書きました。四十一回」
「そうかい」
「はい」
訊くのは、そこまでにした。並ぶまで、と、この子は自分で言った。並ぶ日は、この子が決める。
「……休み方が、分かりません」
白いのが、湯の面を見たまま言った。
「年嵩の同僚に、休めと言われました。休もうとしました。部屋で、座っていました。一刻、座っていました。何をすればいいのか、分かりませんでした。教本に、載っていないので」
マグダは、縁の岩から杯を取った。樫の杯に、村の麦の酒を半分。
「半分だ」
「……はい」
「持ったら、月を見な」
「見て、どうするのですか」
「どうもしないよ。見るだけだ」
「見るだけ」
「何かの役に立てようとしたら、それはもう休みじゃない。見るだけだ。あたしはゆうべ、それをやってて、賊に邪魔された」
白いのは、杯を両手で持って、月を見た。
規程どおりに、見ていた。顎の角度まで正しい。それでも、しばらくすると、湯の中の肩が、少しずつ下がってきた。
マグダは、その横顔を見た。
編んでいた髪を、今夜はほどいている。淡い金の髪が、濡れて、肩に貼りついている。制服は、岩の上だ。規程どおりに畳んで、徽章を上にして置いてある。
「白くないね、今夜は」
「……制服は、あそこに」
「分かってるよ。白くないものを、白いの、とは呼びにくいって話だ」
「では、何と」
マグダは、少し黙った。
人の名を呼ぶ声を、あたしは長いこと使っていない。名を呼ぶのは、審問の声だった。名を呼んで、前に立たせて、裁いた。西の町でも、そうした。あれから、ちびはちび、でかいのはでかいの、で通してきた。名で呼ばなければ、誰も、あたしの前に立たせずに済む気がした。
気がしただけだ。それに、あの声は、もう要らない。
「……セシル」
湯の音だけがした。
セシルは、杯を持ったまま、固まっていた。
「何だい、その顔は」
「初めて、呼ばれました」
「そうだったかい」
「はい。会ってから、一度も」
「……数えてたのかい」
「帳面に」
「何て」
「——マグダは、私を名で呼ばない。理由は、不明。と」
「書くんじゃないよ、そんなこと」
「今夜の分も、書きます」
「書くな」
「書きます。見たものを、見なかったことには——」
「それは、もっと大事なときに使いな」
セシルは、口を閉じた。閉じて、それから、笑った。高くて、少し掠れた声で。尾根の沢の夜に、一度だけ聞いた笑い方だった。
杯の半分を呑んで、この子は、あっというまに赤くなった。酒に弱い者は、湯にも弱い。マグダは湯から引き上げて、外套でくるんで、小屋の炉のそばに転がした。
「……もう一度、呼んでください」
半分寝た声が言った。
「寝な」
「用向きとして」
「用は無いって、東の領主様が言ったろ」
返事は、寝息だった。仰向けで、動かない。規程どおりの寝息だ。
それを確かめてから、マグダはもう一度だけ、小さく呼んでみた。
呼びやすい、いい名だった。
◇
朝、制服を着て出てきたのを見て、マグダは言った。
「白いの。朝飯だよ」
白いのは、戸口で止まった。
「……戻るのですか」
「着たら、白いのだよ。あたしは、見たままを呼ぶんだ」
「では、湯の中だけですか」
「湯の中だけだ」
白いのは、真顔で考えた。規程を引くときの顔だった。
「……今夜も、入ります」
「好きにしな」
上の沢には、先客がいた。
ヴァルドが、岩に座って竿を出している。動かない。顎傷の古参が、後ろに立っている。少し下手では、でかいのが膝まで水に入って、岩の陰に手を入れていた。岸の草の上に、魚がもう五尾、並んでいる。
エルドは、そばの石に座って、四冊目に何か書いていた。
ヴァルドの竿には、何も来ない。でかいのが六尾目を上げた。ヴァルドは、そちらを見なかった。見ないで、竿の先だけを見ていた。
その竿の先が、動いた。
しなった。
ヴァルドの腕が、上がった。糸の先で、小さな魚が、朝の光の中で跳ねた。岩魚だ。手のひらほどの。
ヴァルドは、それを魚籠に入れた。入れて、草の上の六尾を見た。魚籠の中の一尾を見た。
「……二十五年前は、二尾と五尾だった」
誰にともなく、言った。
「今日は、一尾と六尾だ。北の家は、昔から、釣りすぎる」
「ヴァルド様」
顎傷の古参が、後ろで言った。
「向こうは、素手です」
「黙っておれ」
仏頂面は、変わらなかった。
エルドが、石の上から顔を上げた。
「五尾というのは、父ですか」
「あいつだ。悔しいから、覚えておる」
「書いておきます」
「……それは、書かんでよい」
「書きます」
ヴァルドは、マグダを見た。助けを求める目ではなかった。ただ、この若いのはいつもこうか、と訊いている目だった。
「諦めな、東の領主様。あたしらは全員、もう書かれてる」
魚は、でかいのが焼いた。
七尾だ。塩を振って、火の周りに立てる。ヴァルドの一尾は、いちばん火のいい所に立った。
尾根の沢の夜は、四人だった。今日は、火の周りに六人いる。数が、増えた。
焼けた一尾を、ヴァルドは、串ごとエルドの前へ置いた。
「あいつの倅が食うのが、筋だ」
エルドは串を取って、身を半分に割った。半分を、串ごと返した。
「半分は、釣った人が」
ヴァルドは、黙って受け取った。黙って食べた。骨まで、きれいに食べた。
◇
夕方、村の者が上がってきた。
鍋と、パンと、山羊の乳の固めたのと、麦の酒の壺を持って。ベルタは、イーダの亭主に背負われていた。上の湯くらいまだ上がれるよ、と言い張って、途中で息が切れたらしい。
エルドは、小屋の前で迎えた。
「ハルド。イーダ。ステン、ありがとうございます。ベルタ、足は。オーセ、その籠は私が持ちます。ニナ、走ると転びます」
帳面は、開いていなかった。手にも、持っていない。
ハルド爺が、鍋を下ろしながら、口の中で言った。
「……御館様と、同じことをなさる」
エルドには、聞こえなかったらしい。マグダには、聞こえた。聞こえたが、あの子には言わないことにした。言わなくても、あの子の口が、勝手に同じことをしている。それで足りる。
子どもらが、火の周りで縄を回しはじめた。
「むらのみなへ、レイフです、しろにいます——」
でかいのが、魚の串を持ったまま、首まで赤くなった。
歌は、六行で終わらなかった。前歯の抜けたニナが、いちばん大きな声で、新しい結びを足した。
「へんじは、じゅうねんごに、きた!」
ヴァルドの古参が、噴いた。セシルが、つられた。エルドは、真顔で聞いていた。
「七行目が、できましたね」
「……書かなくていいです」
「もう、書きました」
日が落ちて、火が落ち着いた。
エルドが、四冊目と炭を持って、マグダの前に来た。
「マグダも、一行」
「あたしは書かないよ。読むほうだ」
「では、言ってください。私が書きます」
マグダは、杯を持ったまま、少し考えた。
火の向こうで、セシルがヴァルドに、湯の立会を記録する書式について説明している。ヴァルドは、仏頂面で聞いている。でかいのは、ベルタに三杯目を盛られている。月が、山の肩から出た。
「……書きな」
◇
——マグダの言葉。「湯は、いい。酒は、安い。連れは、うるさい。——悪くない」
——主は今日、四度入った。明日は、三度までにしてもらう。
——四度です。明日も。
第一部の余話まで読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
三十四万字かけて一族皆殺しから世界の仕組みまで行った話の、おまけに、温泉、です。
一番最初にエルドのプロフィールを決めた時、「好きな物:川魚の塩焼き(レイフが焼いたもの)、湯浴み」としたのに、本編では入れられず。
どうしても温泉回をやりたかったのです。すみません。
次話から、第二部の開始となります。
大誓約の消えた世界で、エルドとレイフ、マグダやセシル達の日々は続きます。
エルド本人は覚えていなくても、ファーレンの家と領、不戦の縛りが無くなった後の大陸など、目を逸らしていけないものが多々あるわけで。誓約主が消えたいま、誓いをどうにかできるのは大陸中でエルドひとり。王宮も黙ってはいません。
とはいえ、山の村に報せが届くまで、まだ時間があります。
それまでは、温泉で春休みを満喫していても、誰も文句は言えません。
……春休みって短いですよね。
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最後に、お願いです。
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