余話四 湯上がりの一杯
マグダは、ひとりで湯に入っていた。
夜だ。月が出ている。満ちる少し手前の、明るい月だ。上の湯は狭くて熱い。ひとりで入るには、ちょうどいい。
左の腕を沈めて、湯の中で傷あとを見た。去年の秋に、細い刃が浅く切っていった所だ。朝になると疼いた。北の町の宿では、毎朝さすっていた。ここへ上がって二日、さすっていない。
効くもんだね、と思った。
百は数えない。あたしは村の流儀のほうが、性に合う。効いたら出る。出て、着て、縁の岩に腰かけて、足だけ湯に残した。
それから、荷の底から杯を出した。
樫の杯だ。縁が厚くて、握りの所が少し細い。脇に、小さな壺。村の麦の酒だ。山を下りるときに、ベルタが押しつけてきた。呑むんだろ、あんたは、顔に書いてあるよ、と言って。
あの婆さまには、どうも勝てない。
注いだ。白く濁った酒が、杯の中で月を割った。
呑んだ。
酸っぱくて、薄くて、少し甘い。宿の安酒より、よほど安い味がする。文句は幾らでも出る。出るが、湯上がりの一杯だ。これに勝てるものは、世の中にそう多くない。
大岩の向こうから、声がしていた。
「……三十一、三十二、三十三」
エルドだ。今日、四度目になる。
でかいのは三度目で音を上げた。俺は三度で足ります、と言って、今夜は服のまま、下の湯の縁に座っている。供だからだ。数えるほうは、あの子が自分でやっている。よく通る、まっすぐな声で、一つも飛ばさない。
去年の秋、王都で目を開けた朝、あの子は、あたしの顔もでかいのの顔も知らなかった。それがいまは、湯に浸かって、百まで数えている。村じゅうの名を二日で覚えて、でかいのの衣の畳み方に文句をつけている。
酒が、うまかった。安い味のままで、うまかった。
マグダは二杯目を注いで、月を見上げて——それから、気づいた。
道に、背中を向けている。
峠から下りてくる道は、この湯のすぐ上を通る。あたしはいま、その道に背中を向けて、湯に足を入れて、月を見て呑んでいる。
二人を拾ってから八年、こんな座り方をしたことがなかった。宿でも、野でも、戸口と道の見える所にしか座らなかった。座れなかった。酒場のいちばん奥の、壁を背にした席。焚き火なら、来た道の見える側。
いつから、背中を向けていたんだろう。
湯から上がったときか。杯を出したときか。分からない。分からないくらい、何も考えずに座った。
「……焼きが回ったね、あたしも」
声に出して言った。悪い気はしなかった。
背中の上のほうで、砂利が鳴った。
一人ぶんではなかった。
「言ったそばから、これだ」
◇
数えた。足音は、七人ぶんだった。
山刀が鞘に当たる音。荷の無い、軽い足。下りてくる足だ。村の者は、夜に峠から下りてこない。
マグダは振り向かなかった。杯を口へ運んだ。
「姐さん。一人かい。こんな山の中で」
男の声だった。笑いを含んでいる。
「一人だよ。見りゃ分かるだろ」
「下の村のもんか」
「客だよ。湯に傷を治しに来てる」
「そいつはいい。俺たちも、下の村に用があってね」
「悪いことは言わないよ」
マグダは、月を見たまま言った。
「今夜は、帰りな。月が明るい。峠の足元も見える。いまなら、誰も怪我をしない」
「帰れ、だと」
「下に、うるさいのがいるんだよ」
大岩の向こうから、声が上がってきた。
「五十八、五十九、六十」
足音が止まった。
「……何を数えてるんだ、あれは」
「湯だよ。百まで出ないんだ、あの子は」
少し間があって、男たちが笑った。七人ぶんの、気の抜けた笑いだった。
「小僧が一人、湯に浸かってるだけか」
「もう一人いるよ」
「そいつも湯か」
「そっちは、浸かってない」
マグダは、杯を岩の平らな所に置いた。そっと、置いた。
「こぼすと、削った奴が黙って削り直すんでね。あれは、堪えるんだ」
それから、普通の声で言った。
「でかいの」
大岩の陰から、人が出てきた。
月の下で見ると、あらためて、でかい。手に棒を持っている。背丈より長く、手首ほども太い、樫の棒だ。寄り合いの小屋の隅に十年立てかけてあったのを、ベルタが持たせた。山道に棒も持たずに行く気かい、と言って。村では誰も使えなかった棒を、この男は、杖のように軽く提げている。
男たちの後ろのほうで、誰かが息を呑んだ。
「……おい。でかいぞ」
「でかいだけだ」
「いや、あのでかさは。去年の秋の、王都の。七尺の、誓い断ちの——」
「六尺と、半分です」
でかいのが言った。
先頭の男は、聞いていなかった。山刀を抜いて、顎をしゃくった。三人が、前へ出た。
急がない男だ、とマグダは思った。急がないのに、間に合う。
一人目の山刀が上がりきる前に、棒の先がその手首を叩いた。刃が落ちて、岩で鳴った。二人目は、足首を払われて尻から落ちた。三人目は、自分から棒の尻に腹をぶつけにいったように見えた。二つに折れて、座りこんだ。
棒は一度も、頭を打たなかった。当てる場所を選んでいる。
「七十一、七十二」
下では、まだ数えている。
二人が、こちらへ来た。女なら楽だ、と踏んだのだろう。
マグダは立った。一人目の手首を取って、下へ引いた。膝が抜けた所へ、足を払った。肘を膝で留めた。身体が覚えていることは、酒が二杯入っていても出る。
二人目は、それを見て止まった。止まって、山刀を捨てた。
縄は、向こうが持ってきていた。村の蓄えを縛って帰るための縄だ。手間が省けた。
残りは、先頭の男と、後ろで息を呑んだ男だけだった。先頭の男は、棒の先が自分の喉の前で静かに止まっているのを見て、山刀から手を離した。
「だから言ったろう」
後ろの男が、両手を上げながら言った。
「七尺のだって」
でかいのは、もう訂正しなかった。
◇
「九十九、百」
大岩の向こうで、湯の音がした。
「レイフ。終わりました。……上で、何の音ですか」
「賊です」
でかいのが、少しだけ声を張った。
「賊」
「七人。縛りました」
しばらく、返事がなかった。
「……私が百を数えるあいだに、ですか」
「九十四でした」
「なぜ、呼ばなかったのですか」
「百までは出ない、と伺っていたので」
「賊が来たら、出ます」
「出るまでも、ないかと」
「次からは、呼んでください。数は、あとで足せます」
「……はい」
マグダは、縛った男の背中に座ったまま、笑った。
笑いが喉に入って、むせた。むせて、涙が出た。七人の賊と、湯の中で百まで数える子と、九十四でした、と真顔で答える大男。去年の秋には、こんな夜が来るとは思っていなかった。
エルドが、大岩を回って上がってきた。
髪が濡れている。衣は着ている。襟が、こんなときでも正しい。片手に、四冊目と炭を持っていた。
縛られた七人を、順に見た。それから、先頭の男の前にしゃがんだ。
「お名前を、伺えますか」
男は、口を開けた。
「……名を訊いて、どうする」
「書いておきます。いつ、誰が、何人で来たか。書いておけば、次に来たとき、分かります」
七人が、顔を見合わせた。棒を向けられたときより、よほど青い顔をしていた。
「言っときな」
マグダは言った。
「この子に名を覚えられたら、終わりだよ。死ぬまで覚えてるからね」
言ってから、自分の言葉がおかしくて、また少し笑った。何もかも忘れた子だ。その子がいま、誰よりも覚える。
七つの名が、細い字で、四冊目に並んだ。
◇
夜明けに、東の槍が三人、上がってきた。
峠の見回りだ、と年かさのクヌートが言った。言って、縛られた七人を見て、でかいのを見て、あたしを見た。
「……七人を、お二人で」
「三人だよ。一人は湯に入ってたがね」
槍の三人が、賊を村へ引いて下りていった。
マグダは、縁の岩へ戻った。
杯は、置いた所にそのままあった。二杯目が、手つかずで残っている。夜露を吸って、冷えきっていた。
呑んだ。
「……冷たいね」
湯上がりの一杯は、夜明けの一杯になった。それでも、味はした。
道に背中を向けて呑んだのは、間違いだったか、と考えた。
間違いじゃない、と思った。背中のほうには、でかいのがいた。あたしが八年見てきた道を、ゆうべは、でかいのが見ていた。見る者が、一人じゃなくなった。それだけの話だ。
それだけの話が、八年かかった。
日が、山の肩から出た。
下の村が、朝の光の中に見える。石を載せた屋根が九つ。畑の段。細い道。
その道を、馬が二頭、上がってくる。
前の馬の男は、旗を持っていない。後ろの馬には、白い外套が乗っていた。背筋が、鞍の上で、物差しを当てたようにまっすぐだった。
あんな乗り方をする者を、マグダは一人しか知らない。
「……白いのじゃないか」
◇
——賊、七人。名は次の頁に。レイフが五人、マグダが二人。私は湯の中で、九十四まで数えていた。次からは呼ぶように言った。
——主は今日、四度入った。




