余話三 肩まで、百
湯気は、沢の曲がり目の手前から見えた。
朝の冷たい空気の中に、白いものが、まっすぐ上がっている。それを見たとたんに、エルドの足は速くなった。後ろで、マグダの笑う声がした。
「でかいの。見な。あの子、走ってるよ」
「走っては、いません」
エルドは前を向いたまま言った。走ってはいない。少し、急いでいるだけだ。
沢を半刻上がった岩場だった。
岩のあいだから、湯が湧いている。鉄と石の匂いが、少しした。湧いた湯が沢の水と混じる所に、石を積んで囲った湯溜まりが二つあった。上のは小さく、下のは広い。あいだに家ほどの大岩があって、編んだ枝の囲いが立ててある。脇に、板屋根の小屋が一つ。傷を治す者が泊まる小屋だ、とレイフが言った。
「上が熱くて、下がぬるいです。傷の者が上、あとは下。村の決まりです」
「傷の者は、あたしだ。上をもらうよ」
マグダは、もう荷を下ろしていた。
「レイフも、傷の者ですが」
「でかいのは、あんたの見張りがあるだろ。下だ。……覗いたら、目を縫うよ」
「覗きません」
レイフが真面目に答えた。
「冗談だよ」
「はい」
マグダは鼻を鳴らして、大岩の向こうへ消えた。
◇
レイフは先に、下の湯の流れ口へ回った。
沢へ湯が落ちていく所の石を、積み直している。ひと抱えある石を、三つ。それだけで、湯の面が手のひら一つぶん上がった。宿の土間で言ったことを、この男は覚えていた。
エルドは衣を脱いで、畳んだ。畳んだものを、岩の乾いた所に重ねた。靴を揃えた。
それから、湯に手を入れた。
十まで数えた。数えられた。熱すぎない。ぬるくもない。
足を入れた。膝。腰。底は砂で、座ると、湯は胸の下まで来た。背中を石に預けて、少し滑った。
肩まで、沈んだ。
息が出た。
自分で吐いたのではなかった。腹の底から、出ていった。長い息だった。こんなに入っていたのか、と思うほど長かった。
「……ああ。これは、いい」
岩の向こうで、マグダが笑った。
「出たよ、でかいの。聞いたかい」
「聞きました」
「……何が、ですか」
「その溜め息だよ。七年、宿の湯桶のたびに聞かされた。あんたはね、ちび、宿に着くと、飯より先に湯を訊く子だった。銭の無い晩も、湯の分だけは惜しまなかった」
「湯は、要ります」
「それも聞いたよ。七年」
エルドは、湯の中で自分の手を見た。
この手が、七年、湯桶の縁をつかんでいたらしい。覚えていない。覚えていないが、肩は知っていた。どこまで沈めばいいかを、肩のほうが先に知っていた。
悪い気は、しなかった。
隣で、水音がした。
レイフが入ってきたのだった。入ってきて、縁のいちばん浅い所に腰まで浸かり、湯を手ですくって左の肩へ三度かけた。それから、立ち上がった。
「どこへ行くのですか」
「上がります。効きましたので」
「いま、入ったところです」
「村では、これで」
「座ってください」
レイフは、座った。腰まで、だ。
「傷は、肩の下でしょう」
「はい」
「腰まででは、傷が湯の外です」
レイフは、肩を見た。湯の面を見た。そのあいだの、手のひら三つぶんの空きを見た。
「……はい」
大きな身体が、ゆっくり沈んだ。湯が、縁から音を立てて溢れた。沢のほうへ、ひとしきり流れていった。
「百、数えます」
「百」
「父は、百だったそうです。私も、百にします」
「決めたのですか」
「決めました。数えるのは、あなたのほうが確かです。お願いします」
レイフは、数えはじめた。
低い声で、同じ間で。一つも飛ばさず、一つも急がない。エルドは目を閉じて、それを聞いていた。沢の音と、湯の湧く音と、数。
六十で、声が止まった。
「……熱いです」
「あと四十です」
「村では、誰も、こんなに」
「六十一」
「……六十一」
◇
湯の中で、レイフの左肩の下に、縫った痕が見えた。
背中の側だ。指の長さほどの、盛り上がった線。去年の秋のものだ。王都の詰所の医者が縫った。二十日で塞がりかけた。そこまでは、知っている。
「三冊目には、一行でした。刺された、縫った、と」
「一行で、足ります」
「足りません」
エルドは言った。
「痛みますか」
「冷えると、少し」
「いまは」
レイフは、少し黙った。肩を、湯の中で一度回した。
「……痛みません」
「では、効いています。明日も、あさっても入ります。春のうちは、あの小屋に泊まりましょう」
「村から通えば」
「半刻歩いて、冷えて帰るのですか。理に合いません」
「……はい」
「あなたが一行しか書かないことは、私が書きます。傷のことも」
「それは」
「書きます」
レイフは、湯の面を見ていた。何か言いかけて、やめた。それから、もう一度肩を回した。さっきより、少し大きく。
注文は、ほかにもあった。
レイフは頭を一度、湯に突っ込んで、上げて、振った。馬が水から上がったときの振り方だった。
「……それで、洗ったことになるのですか」
「なります」
「なりません。耳の後ろからです。指の腹で。爪を立てないで」
「爪は、立てていません」
「さっき、立てていました」
岩の向こうから、声が降ってきた。
「でかいの、観念しな。その子は、湯のことじゃ誰の言うことも聞かないよ。七年前からだ」
「七年前の私も、こうでしたか」
「もっとうるさかったよ。宿の亭主に、桶の洗い方を教えてた」
エルドは、少し考えた。
「……それは、亭主の洗い方が悪かったのでは」
「ほら、これだ」
上がってからも、あった。
レイフの衣は、岩の上に、脱いだ形のまま載っていた。エルドはそれを取って、縫い目を揃えて畳み直した。
「……それは、俺が」
「あなたは、畳み方が雑です」
「畳んでいません。置きました」
「なお悪いです」
レイフは、畳まれた衣を、しばらく見ていた。見て、何も言わずに着た。着るときに、少しだけ、ゆっくり広げた。
◇
昼は、岩の上で食べた。
ベルタが持たせてくれた黒いパンと、山羊の乳を固めたものだ。白くて、塩が効いている。きのう持ってきた塩です、とレイフが言った。もう使ってくれたらしい。
湯上がりの身体に、山の風が当たる。髪はまだ濡れている。パンは固くて、乳の塊はやわらかくて、塩がちょうどよかった。
「ここに、住めます」
エルドは言った。
マグダが、パンをちぎる手を止めた。
「冬は、雪で道が塞がります」
レイフが言った。
「冬も、湧くのでしょう」
「湧きます」
「では、住めます」
「ちび」
マグダは、ちぎったパンでエルドを指した。
「あんた、北の領をどうするかは春いっぱいかけても決められないくせに、湯の隣に住むのは、一息で決めるんだね」
「それとこれとは、別です」
「別かい」
「別です。湯は、入れば分かります。領は、入ってみるわけにいきません」
マグダは、しばらくエルドの顔を見ていた。それから、声を立てて笑った。
「違いない」
食べ終わると、エルドは立ち上がった。
「もう一度、入ってきます」
レイフも、立ち上がった。供だからだ。立ち上がって、湯のほうを見て、空を見た。日は、まだ高い。
二度目の湯は、静かだった。
レイフは縁に腰かけて、足だけ入れている。エルドは肩まで沈んで、空を見ていた。雲が、山の肩を越えていく。下のほうに、村の屋根が小さく見える。その向こうに、北の山なみが幾重にも重なっていた。手前は青く、奥は白い。
何も、思い出さなかった。
思い出さなくていい、と思った。この湯は、去年の秋より前の自分と、あとの自分を、分けない。肩まで沈めば、同じ息が出る。
「旅のあいだ、私は、どうしていましたか。湯の無い晩は」
「鍋で、沸かしていました」
「鍋で」
「飯の鍋です。飯のあとに洗って、沢の水を沸かして、布で拭いていました。毎晩です。雪の晩も」
「マグダは、何と」
「贅沢な坊やだね、と」
「私は、何と答えましたか」
レイフは、少し黙った。思い出しているのではなかった。言い方を選んでいる顔だった。
「清潔は、贅沢ではありません、と。……毎回、同じ言葉で」
岩の向こうで、また笑い声がした。
「いまも、そう思います」
エルドは言った。
「清潔は、贅沢ではありません」
「ほらね」
自分の口から出た言葉が、昔の自分の言葉と同じだと言われるのは、妙な気分だった。妙だが、嫌ではなかった。会ったことのない誰かと、意見が合った。そういう気分だった。
夕方、エルドはもう一度、湯へ下りた。後ろでレイフが、沢に向かって小さく言った。
「……三度目です」
◇
——湯の入り方を、主に習った。肩まで、百。髪は、耳の後ろから。衣は、縫い目を揃えて畳む。
——師は、注文が多い。
——私は、長湯らしい。レイフは六十で「熱いです」と言う。百まで、あと四十ある。
——左肩の傷のこと。去年の秋、王都。背中から入った。レイフは一行しか書いていない。続きは、私が訊いて、ここに書く。今日は、冷えると少し痛む、まで訊いた。湯の中では、痛まないそうだ。




