余話二 便りの返事
婆さまは、レイフの背中を三度叩いた。
届く所を、だ。腰の曲がった小さな人で、背伸びをしても、叩けるのはレイフの腰の少し上までだった。そこを、杖を持っていないほうの手で、三度。いい音が、少し離れて立っているエルドの所まで聞こえた。
「でかくなりすぎだよ。戸口を直さなきゃ、入らないじゃないか」
「屈めば、入ります」
「屈んで入る家があるかい。……痩せてはいないね。よし」
婆さまはレイフの腕をつかんで、馬でも見るように上から下まで見た。それで検めは済んだらしい。
村の者が、二十人ほど、レイフを囲んでいる。誰もが何か言っている。背が伸びた。声が太くなった。おまえの寝ていた隅は物置きになった。レイフは一つずつに、短く答えていた。
婆さまの目が、こちらへ来た。
「で。そっちの二人は」
レイフは、背筋を伸ばした。
「俺の、主です。エルド様です。こちらは、マグダ。七年、世話になった人です」
周りの声が、止んだ。
年寄りが一人、輪の前へ出てきた。白い眉の下から、エルドの顔を覗き込んだ。長いこと見ていた。
「……御館様の目だ」
誰かが、膝を折りかけた。
エルドは、先に言った。会う人ごとに、先に言うことにしている。
「私は、何も覚えていません。去年の秋より前のことは、全部です。父のことも、城のことも。ですから、若様と呼ばれても、返せるものがありません。レイフの連れとして、泊めていただけますか」
婆さまが、下からエルドを見上げた。
「覚えてないのかい。何も」
「はい」
「うちの村のことも」
「はい」
婆さまは、杖で地面を一つ突いた。
「そりゃ、そうだろうよ。あんた、うちの村に来たことは一度も無いんだから。覚えてるほうがおかしい。……初めて来た客が、初めての顔をしてる。合ってるよ」
合っている、と言われたのは、初めてだった。
王都でも、丘でも、渡しでも、自分は誰かの覚えている顔だった。覚えていないのは、いつも自分のほうだった。ここは違う。この村で、自分は、何も失くしていない。
肩から、何かが下りた。荷ではない。荷はレイフが持っている。
「お世話になります」
「なるがいいよ。塩を持ってきた客を、追い返す村は無いからね」
◇
婆さまの家は、いちばん上にあった。
戸口は、たしかに低かった。レイフは屈んで入った。屈んでも、頭の上で鈍い音がした。
「ほら、言ったろ」
「……入りました」
中は一間で、真ん中に炉が切ってある。鍋と、椀と、干した草の束。梁は煙で黒い。
その黒い梁に、紙が一枚、木の釘で留めてあった。
茶色くなっている。端が少し反っている。エルドは炉の縁を回って、その下に立った。
四角い字だった。
村のみなへ。
レイフです。城にいます。
飯は、日に三度出ます。三杯食っても、誰も何も言いません。
槍と、字を習っています。
字は、エルド様に習いました。
これは、俺が書きました。
六行。三晩かけてレイフが書いた頁で読んだのと、同じ六行だった。一字も違わない。五行目に、自分の名がある。さらっていない行だ、と頁にあった。その行も、傾いでいなかった。
「帳面と、合っています」
エルドは言った。
書いた者がここにいなくても、十年たっても、読めば同じになる。頁で読んだ話が、頁の外の梁に、釘で留まっている。
「……まだ、あったのですか」
レイフが、低い所から言った。梁の下では、この男は背を伸ばせない。
「あるよ。誰も読めやしないがね」
婆さまは炉に薪を足した。
「読めなくたって、何が書いてあるかは、村じゅうが知ってるよ」
戸口で、小さな足音がした。子どもが四、五人、中を覗いている。いちばん前の、前歯の抜けた女の子が、息を吸った。
「むらのみなへ、レイフです、しろにいます——」
後ろの子らが、続いた。
「めしは、ひにさんど、さんばいくっても——」
「だれも、なにも、いいません!」
節がついていた。縄を跳ぶときの節だ、とあとで聞いた。槍の組の頭が三度読んで聞かせたのを、その頃の子どもが覚えて、縄跳びの歌にした。いま歌っている子らは、便りが来たときには、まだ生まれてもいない。
「やりと、じを、ならっています——」
レイフは、炉の灰を見ていた。首の後ろまで赤かった。
歌い終わった女の子が、エルドを見上げた。
「あんたが、エルドさま? ごぎょうめの?」
「そうらしいです」
「ごぎょうめ、うたおうか」
「お願いします」
女の子は、もう一度息を吸って、五行目だけを、山じゅうに聞こえる声で歌った。
「……いい声だ」
女の子は、抜けた前歯を見せて笑った。ニナ、という名だった。訊いたら、すぐ教えてくれた。
◇
城が焼けた冬の話は、婆さまが、薪を足しながらした。
「黒いのが、二人来たよ。馬でね。従士の里はここか、と訊くんだ。あたしは便りを梁の割れ目に押し込んで、言ってやった。あの子は城で焼けたと聞いたよ、うちに何の用だい、ってね」
「兵は、信じましたか」
「信じたさ。あたしは、信じてなかったがね」
「なぜですか」
「日に三度、飯が出る、と書いてきた子だよ。三度の飯を置いて、死ぬもんかね」
戸口の大人たちが、どっと笑った。
理屈は、通っていない。通っていないが、当たっていた。エルドは少し考えて、当たっているほうを取ることにした。
「返事を、聞きに来ました」
エルドは、革袋から四冊目を出した。
「十年前の便りの返事です。レイフは、まだ受け取っていません。口で言ってください。私が書きます。誰の言葉か分かるように、名も書きます。——まず、あなたから。お名前は」
「婆さまだよ」
「それは、呼び名です。名を」
婆さまは口を開けて、閉じた。閉じて、炉の火を見た。
「……ベルタ、だったね。たしか。呼ぶ者が、みんな先に逝っちまったから。四十年は、聞いてないよ」
「ベルタ。書きました。返事を、どうぞ」
「飯は足りてるよ、と書いとくれ。あんたがいなくなって、三人ぶん浮いたからね」
また、笑いが起きた。レイフだけが、真面目な顔でうなずいていた。
それから、名が次々に来た。
眉の白い年寄りは、ハルド。畑で最初に叫んだ女は、イーダ。その亭主のステン。隣の家のオーセ。エルドは一人ずつ名を訊いて、言葉を一行ずつ書いた。屋根は二度、葺き替えた。山羊は七頭に増えた。リーサは谷の村へ嫁に行って、子が二人いる。おまえの棒は寄り合いの小屋にまだある。重くて、誰も使えない。
二十六行になった。
返事のあとは、頼んでもいない話が来た。
「こいつは十一の冬に、見張りに立ったまま寝たぞ」
ハルド爺が言った。
「立ったままだ。棒に寄りかかってな。朝まで倒れなかった。起こしたら、寝ていません、と言った」
「九つのときは、冬の干し肉を、ひとりで半分食べちまってね」
これは、ベルタだ。
「叱ったら、泣きもしないで、次の日から三日、自分の椀を半分にして返してきた。律儀な子だよ。返されたって、干し肉は戻らないんだがね」
エルドの炭は、止まらなかった。
「……それは、書かなくていいです」
レイフが言った。
「書きます」
「村の返事では、ありません」
「あなたも、私のことを十年書きました」
「恥は、書いていません」
「蚯蚓の凍え死んだ跡、とありましたが」
「それは、俺の恥です」
「立ったまま寝たのも、あなたの恥です。書きます」
マグダが、戸口の柱にもたれて、声を殺して笑っていた。肩が揺れている。
「でかいの。諦めな。あんたは十年、書く側だった。書かれる側に回ったら、こうなるんだよ」
◇
夕方、寄り合いの小屋に、村じゅうが集まった。
真ん中の鍋は、山羊の煮込みだった。祝いの鍋だ、とベルタが言った。山で掘った辛い根を、すりおろして入れる。北の祝いは、辛くなくてはいけない。
椀が回ってきた。エルドは匙を取って、一口食べた。
辛かった。舌より先に、鼻の奥へ来る辛さだった。
「……よい味です」
「そうだろう」
ベルタは胸を張った。
二口目を食べた。三口目は、口の前で少し待たせた。待たせているあいだに、椀を、机の上で、隣へ少しずつ滑らせた。
レイフは前を向いたまま、その椀を取った。自分の空の椀を、かわりにエルドの前へ置いた。何も言わなかった。入れ替える手つきが、妙に慣れていた。
「……前にも、ありましたか。こういうことが」
「帳面に、あります」
「どの頁ですか」
「あとから書いた頁です。十二の春の」
鹿の煮込みの頁だ。読んだ。読んだときは、昔の子どもの話だと思っていた。
「あれは、私の舌のことでしたか」
「はい」
「頁と舌が、今日、合いました」
「……はい」
レイフは、二杯目の煮込みを、うまそうに食べていた。
マグダは、ベルタの隣に座らされていた。
「あんた、七年、うちの子に何を食わせてた」
ベルタが、匙でマグダを指した。
「食わせたよ、ちゃんと」
「大味だったろう」
「……誰に聞いたんだい、婆さま」
「誰にも聞かないよ。あんたの手を見りゃ分かる。塩を指でつまむ手じゃない。握って入れる手だ」
マグダは、両手を広げて見た。
それきり、黙った。この人が言い負けるのを、エルドは初めて見た。少なくとも、去年の秋からは。
小屋の隅に、村の者ではない男が三人いた。
革の胴着に、槍。旗も、印も、付けていない。村の者と同じ椀で食べているが、言葉の尻が少し違う。
「この冬の頭から、来るようになった」
ハルド爺が言った。
「名も、どこの槍かも言わん。言わんが、喋れば分かる。川向こうの言葉だ。……七年、槍は来なかった。わしらだけで追い返した。蓄えを持っていかれた年も、二度ある。この冬は、何も持っていかれなかった」
エルドは椀を置いて、隅へ行った。
「お名前を、伺えますか」
三人は顔を見合わせた。
「……名は、言うなと言われております」
「どなたに、とは訊きません。あなた方の名を訊いています。村の返事に、槍への礼が三行ありました。誰に宛てた礼か、書いておきたいので」
いちばん年上の男が、少し黙ってから言った。
「クヌートです。こっちがヨープ、若いのがラルス」
「クヌート。ヨープ。ラルス。書きました」
「若様。……当主様には、書いたことを言わんでください」
「書くだけにします」
クヌートは、ほっとした顔をした。それから、声を落とした。
「峠の雪が、消えました。来るなら、そろそろです。今年は、まだ来ていません」
「賊が、ですか」
「へえ。上の湯へ行かれるなら、日のあるうちに」
上の湯の話は、ハルド爺が引き取った。
「明日、上がるのかね。あそこは、いい湯だ。御館様もな、見回りの帰りには、必ず上がりなさった」
エルドは顔を上げた。
「長湯でな。槍の衆が三度呼びに行っても、出てこられん。あと百だ、とおっしゃる。百たって呼びに行くと、また、あと百だ」
マグダが、椀の向こうから、エルドを見た。
「血だね」
「……父は、長湯だったのですか」
「へえ。ご存じ——ああ、そうか」
「知りませんでした。いま、知りました」
エルドは、四冊目を開いた。
父のことを、帳面でもなく、東の当主でもない人の口から聞いたのは、これが初めてだった。特別な話ではない。湯から出てこない人だった、というだけだ。それを、この年寄りは、笑いながら覚えている。
炭を取って、書いた。細い字が、少し跳ねた。
◇
四冊目の、その晩の頁。細い字のあいだに、四角い字が一行だけ挟まっている。
——便りの返事を、受け取った。十年、かかった。二十六行ある。明日、レイフに読んで聞かせる。私の字は、まだ半分しか読めないそうなので。
——父は、長湯だったそうだ。あと百、と言う人だったそうだ。
——主には、辛すぎた。婆さまには、言っていない。
——ベルタ、です。名があります。




