余話一 訊かれなかったので
「誓いを断つ者」は、前回の「終話 頑丈でいい」で第一部完結です。
ここからは、第一部の終話から第二部までの間を描いた、余話になります。
エルドは二階の窓から、宿の裏口を見下ろしていた。
レイフが、今朝も山を見ている。薪の山の脇に立って、北を向いている。城の下の町に宿を取ってから、この男は毎朝そこに立つ。水を汲む前の、ほんの少しのあいだだ。
見ている山は、分かっている。手前の、低いほうの山だ。着いたころは、雪が斑に残っていた。三日前に、その斑が消えた。消えてから、立っている時間が少し長くなった。
帳面で読んだ。雪の斑になっている山の、裾。
エルドは階段を下りて、裏口から出た。
「おはようございます」
「おはようございます」
レイフは振り向いて、桶を取った。山を見ていたことには触れない。触れないまま、井戸へ行こうとする。
「村への便りのことですが」
足が止まった。
「六行の便りです。十年前の雪解けに、槍の組と一緒に山へ上がった、と書いてありました」
「はい」
「返事は、来たのですか」
レイフは桶を提げたまま、少し考えた。
「来ていません。村に、字の書ける者はいません」
「読める者もいない、とありました」
「はい。組の頭が、読んで聞かせたはずです」
「はず、ですか」
「確かめていません。確かめる前に、城が」
そこで言葉を切って、桶を持ち直した。
エルドは山を見た。雪の消えた山は、朝の光の中で、ただ青かった。
「では、聞きに行きましょう」
「……何を、ですか」
「返事です。書けないなら、口で言うでしょう。十年、待たせています」
「待たせているのは、俺です。エルド様では」
「五行目に、私の名があります」
レイフは黙った。黙って、山と、エルドの顔を、順に見た。
「村までは、どのくらいですか」
「歩いて、一日半です」
「では、春のうちに戻れます。東の当主に言ったことは、違えません」
「用が、ありません」
「用は、私にあります」
エルドは言った。
「帳面は三冊、読みました。あなたの字で、私のことが書いてある。あなたのことは、ほとんど書いていない」
「俺の帳面ではないので」
「誰のですか」
「あなたのです」
「では、持ち主として言います。足りません」
「何が、ですか」
「あなたが」
レイフは口を開けて、閉じた。桶の縁を握った手が、少し白くなった。
「決めました。明日、発ちます」
「……はい」
それから、この男は井戸へ行った。いつもより少しだけ、歩くのが速かった。
◇
マグダは、土間の机で左の腕をさすっていた。
「朝は、まだ疼くね。北の春ってのは、春のうちに入らないよ」
去年の秋の傷だ。布はとうに取れたが、冷える朝は、こうしてさすっている。
「湯桶一杯に銅貨二枚だよ、この宿は。足元を見てる。……誰かさんが毎晩使うからだ」
「湯は、要ります」
エルドは言った。
「要るのは分かってるよ。七年、分かってる」
レイフが、水を汲んで戻ってきた。桶を竈の脇に置いて、机の二人を見た。それから言った。
「村の上に、湯が湧いています」
マグダの手が、腕の上で止まった。
「……何だって」
「湯です。岩のあいだから。沢を半刻上がった所に」
「湧いてるのかい。地面から。勝手に」
「はい。冬も」
マグダは机に両手をついて、ゆっくり立ち上がった。
「でかいの。あたしはあんたと、七年、旅をしたね」
「はい」
「冬の川で身体を拭いた。宿の湯桶に銭を払った。払えない晩は、雪を溶かした。七年だ。そのあいだ、あんたは一度も、自分の村に湯が湧いてるって話をしなかったね」
「はい」
「なぜだい」
「訊かれなかったので」
マグダは天井を見た。長いこと見ていた。
「……訊くかい、普通。あんたの村には湯が湧いてるかい、なんて」
「訊かれれば、答えました」
「そうだろうよ」
エルドは、机の上に身を乗り出していた。乗り出していることに、あとから気づいた。
「熱さは、どのくらいですか」
「手を入れて、十まで数えられるくらいです」
「深さは」
「座って、腰までです」
「肩まで浸かれますか」
レイフは少し考えた。
「……寝れば」
「寝ないで、です」
「石を積み直せば、深くなります」
「積み直しましょう」
「村では、腰までです。傷に効けばいいので」
「肩まで浸からない湯に、何の意味があるのですか」
言ってから、エルドは口を閉じた。
誰に教わった理屈なのか、分からない。三冊のどこにも、そんなことは書いていなかった。分からないが、間違っているとも思えなかった。
マグダが、鼻を鳴らした。
「出たよ」
「何が、ですか」
「何でもないよ。……あたしも行く。湯があるなら、話は別だ」
◇
その日のうちに、市で買い物をした。
買い出しは自分の受け持ちだ。塩を、袋で二つ。レイフが、塩がいちばん喜ばれます、と言ったからだ。山の村には、塩が上がってこない。それから針と、糸と、麻の布。
最後に、紙を綴じたものを一冊買った。革の表紙の、厚いのを。
「帳面なら、三冊目がまだ余っています」
レイフが言った。
「あと何枚ですか」
「……十二枚」
「足りません。村で、書くことが増えます」
「増えますか」
「増やします。それに、これからは半分、私が書きます。半分は、私が払うのが筋です」
店の主が、釣りの銅貨を数えながら、妙な顔で二人を見ていた。帳面の代を半分ずつ出す客は、珍しいのだろう。
◇
翌朝、発った。
城の焼け跡を左に見て、北へ上がる。道は、はじめは荷車の通れる幅があった。昼を過ぎると、人の肩の幅になった。沢を二つ渡った。二つ目の沢で、レイフが立ち止まって、上手の岩を少し見ていた。
「覚えのある岩ですか」
「……ここで、槍の組を待ちました。雪解けと、冬の頭に。荷を持って上がるのは、子どもの役でした」
「あなたも、持ったのですか」
「二人ぶん、持ちました」
それが、帳面に書いていないことの一つ目だった。エルドは歩きながら、頭の中に置いた。今夜、書く。
日暮れに、杣小屋に着いた。木を伐る者が使う小屋で、屋根と炉しかない。マグダが火を起こし、レイフが沢で魚を三尾、素手で取ってきた。
焼けるのを待つあいだに、エルドは訊いた。
「村に、家は何軒ありますか」
「十一です。いまは、分かりません」
「あなたを育てたのは」
「村の者です。寝るのは、空いている家の隅で。飯は、婆さまの家で食いました」
「婆さまの名は」
レイフは、串を回す手を少し遅くした。
「……婆さま、としか」
「名が無いわけがないでしょう」
「村の者はみな、婆さま、と呼びます。俺が生まれたときから、婆さまでした」
「では、訊きます」
マグダが、火の向こうで喉の奥を鳴らした。笑ったらしい。
「ちび。あんた、向こうに着いたら、村じゅうの名を訊いて回る気だね」
「いけませんか」
「いけなかないよ。好きにしな」
魚は、よく焼けていた。
◇
次の日の昼前に、木が切れた。
尾根をひとつ回ると、急に空が広くなった。山の斜面に、段になった畑が下から上へ重なっている。麦の青が、風で波を打っていた。その上のほうに、石を載せた屋根が幾つか、固まって見える。
数えた。九つだった。
いちばん下の段で、女が一人、鍬を使っていた。腰を伸ばして、こちらを見た。手を額にかざした。
そのまま、しばらく動かなかった。
それから、鍬を放り出した。
「——レイフ!」
山に当たって、声が返ってきた。
一つ上の段で、男が顔を上げた。その上の段で、子どもが立ち上がった。屋根のあたりで、戸が開く音がした。
「レイフだ!」
「レイフが来た!」
「でかい! 前よりでかい!」
名が、畑の段を下から上へ駆け上がっていく。呼ばれるたびに、前を歩いていた大きな背中が、少しずつ遅くなった。遅くなって、畑の縁で、止まった。
この男の名は、こういうふうに呼ばれるものだったのか、とエルドは思った。山じゅうに聞こえる声で、遠慮なく。
いちばん上の屋根の前に、小さな人影が出てきた。腰が曲がっている。杖をついている。その人影が、信じられないほど大きな声を出した。
「レイフ! 飯は! 食ってるのかい!」
レイフが、息を吸った。
胸が膨らむのが、後ろから見えた。
「食っています! 日に、三度!」
山が、その声を返した。三度、と、もう一度聞こえた。
エルドはマグダを見た。マグダもエルドを見ていた。二人とも、口が少し開いていた。
「……あんた、聞いたことあるかい。でかいのの、あんな声」
「ありません。少なくとも、去年の秋からは」
「あたしも無いよ。一度も」
段々畑の上から、人が駆け下りてくる。レイフは塩の袋を担ぎ直して、畑の縁を上がりはじめた。耳の後ろが、赤かった。
◇
四冊目の最初の頁は、その晩、二人で書いた。四角い字が二行。細い字が二行。
——村へ来た。主が決めた。用は主にある、と言った。
——婆さまは、まだ婆さまだった。
——レイフが大きな声を出せることを、今日、初めて知った。三冊のどの頁にも、書いていなかった。
——書いていないことが、まだあるらしい。明日から、私が訊く。




