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終話 頑丈でいい


 ——春。北の町の宿で書く。


 ——主に訊(き)かれた。あなたに、どう字を教えたのですか、と。帳面には、教えた、としか書いていない。


 ——俺の話だと思っていたので、書かなかった。


 ——十年前の冬だ。俺が城に上がった冬。主は十一で、俺は十四だった。


 ——これは、主が読む。


  ◇


 石板(せきばん)が、目の前から取り上げられた。


 取り上げたのは、教え役の年寄りだ。年寄りの割に背が高く、そばに立たれると書物の匂いがする。この城の書庫を預かる人で、エルドに字を教えたのもこの人だと聞いている。その人が、レイフの石板を窓の明かりにかざして、長いこと黙っていた。


 城に上がって、半月になる。


 従士には、剣や馬のほかに、字を習う務めがあった。城仕えの従士には、伝言や帳付(ちょうつ)けを受け持つ日が来る。だから昼の一刻(いっとき)、書庫の隅の小さな机で、石板に向かう。手本は一枚の板だ。この国の字が、上から下へ、左から右へ、端から端まで並んでいる。それを石筆(せきひつ)で写す。写して、布で消して、また写す。


 半月、そうしてきた。


「読み書きは、剣と同じだ。従士の心得のうちだ」


 教え役は石板を下ろした。


「だが、これは。……蚯蚓(みみず)の凍え死んだ跡のほうがまだ読める」


 レイフは、自分の石板を見た。


 蚯蚓が凍え死ぬと、どういう跡になるか。村で見たことがある。霜の朝、畑の土の上で、細いものが曲がったまま固まっている。


 わりと、似ていた。


「はい」


 と答えた。ほかに答えようがなかった。


 教え役は石板を机に戻した。明日も同じところから、と言って、自分の机へ帰っていく。


 書庫には、もう一人いた。


 窓際の大きな机で、エルドが古い言葉を写している。当主の子は十から習う決まりだそうで、もう二年近く、毎日ここに座っているのだという。背中はまっすぐで、羽根ペンの音は途切れない。


 その音が、さっき、一度だけ止まった。


 すぐに、また始まった。レイフは手本のいちばん上の字から、もう一度写しはじめた。


  ◇


 従士部屋は、厩(うまや)の並びの棟にある。


 母屋(おもや)からは、中庭を挟んで反対側だ。板の間に寝床が六つ。真ん中に囲炉裏(いろり)が切ってあって、冬のあいだは夜通し、誰かが薪を足す。


 その夜は、レイフが足していた。


 ほかの五人は寝ている。レイフは囲炉裏の脇に石板を置いて、手本の板を膝に立てていた。朝は稽古場で髭(ひげ)の槍兵に転がされ、書庫へ荷を運び、夕方は厩で藁(わら)を替えた。身体はとうに寝たがっている。手本の字が、火明かりで揺れて見える。揺れているのが火なのか自分の頭なのか、分からなくなってきた。


 剣なら、転がされれば分かる。どこが悪くて転がされたのか、砂の上で分かる。


 字は、分からない。どこが悪くて蚯蚓なのか、石板をいくら見ても分からなかった。


 戸が、開いた。


 冷たい風と一緒に、小さな影が入ってきた。稽古着に、木剣(ぼっけん)を提(さ)げている。


「エルド様」


 レイフは立とうとした。エルドは寝床のほうを顎で示して、手で止めた。


「稽古の帰りに、通りかかっただけだ」


 小さな声で言って、囲炉裏の向かいに立った。それから、石板を見た。


 見られた、と思った。


 昼の書庫で、あの音は止まった。聞こえていたのだ。蚯蚓の凍え死んだ跡。それを、当主の子に見られている。笑われるだろうと思った。笑われても仕方のないものを、書いている。


 エルドは、笑わなかった。


 かわりに腕を組んだ。組んで、石板を睨んで、しばらく唸(うな)った。十一の子どもの唸り声は、思ったより長かった。


「教え方が悪い」


 エルドは言った。


「俺が教える。そのほうが早い」


「……エルド様に、教わるようなことでは」


「教わるようなことだ」


 エルドは腕を組んだまま言った。


「俺の稽古の相手が、字も書けないのでは、俺が困る。明日、晩の膳のあとだ。書庫の隅に来い」


 それだけ言って、出ていった。戸が閉まって、風が止んだ。


 レイフは、しばらく戸を見ていた。それから薪を一本足して、石板に戻った。


  ◇


 翌日の晩、書庫の隅に、蝋板(ろうばん)が二枚あった。


 木の枠に蝋(ろう)を流して固めた板だ。先の尖った細い鉄の棒で、蝋を掻(か)いて字を書く。鉄筆(てっぴつ)というのだと、エルドが言った。


「書き損じたら、蝋を温めて均(なら)せばいい。何度でもやり直せる。紙と違って、費(つい)えも要らない」


 エルドは一枚をレイフに押しつけて、もう一枚を自分の前に置いた。


「七つのとき、俺もこれで習った」


 温めるのは、教え役の足元の火鉢だった。


 書庫にある火は、教え役の膝を温めるその火鉢と、覆いのついた灯りが二つだけだ。火は書物の敵だと、初めの日に言われている。教え役は自分の机で、何か厚いものを読んでいた。こちらを見てはいない。それでも、エルドが蝋板を持って火鉢に近づくと、咳払いがひとつ聞こえた。


「焦がしません」


 エルドが言った。


「何も申しておりません、若様」


 教え役は頁から目を上げなかった。


「まず、おまえの名前だ」


 席に戻って、小さな師匠は言った。


「自分の名も書けない男に、ほかの字を教えても仕方がない」


 エルドは自分の蝋板に、鉄筆を走らせた。速かった。細い線が続けて出て、終わりの所で、軽く跳ねた。


「これが、レイフだ」


 レイフは、それを見た。


 字が、幾つか並んでいる。手本の板の上で見た形が、混じっていた。あちらではばらばらに並んでいたものが、ここでは、くっついて一つになっている。


 これが、自分なのだという。


 村では、名は呼ばれるものだった。畑の向こうから呼ばれ、賊の夜に呼ばれ、冬の初めには、馬の上から呼ばれた。書かれたことは、一度もない。


「写せ。百回だ」


「百回」


「剣の型は、百では足りないだろう」


 それは、そうだった。


  ◇


 はじめの十回は、エルドの手本を横に置いて写した。


 鉄筆は細い。レイフの手の中では、小枝のようだった。握ると、隠れてしまう。どこを持てばいいのか分からないので、棒を持つように持った。


「握るな。つまめ」


「はい」


 つまんだ。線が震えた。いつのまにか、また握っていた。


 次の十回には、注文がついた。


「線が一本多い」


「はい」


「傾(かし)いでいる。右へ」


「はい」


「そこは、跳ねる。止めるな。……なぜ、止める」


 なぜと言われても、困った。曲がる所へ来ると、手が止まるのだ。止まって、向きを変えて、また進む。棒の打ち込みと同じだった。打って、止めて、構え直して、次を打つ。レイフの線は、引いてあるのではなく、打ち込んである。だから曲がり角という曲がり角に、角が立った。


 エルドは、自分の手をレイフの手に添えてみたり、鉄筆の持ち方を三通り試させたりした。角は、取れなかった。


 三十回を過ぎたあたりで、注文が止まった。


 黙って見ている。見られていると書きにくいが、書きにくいと言える相手でもない。レイフは書いた。均して、また書いた。


 五十回目に、エルドは蝋板を取り上げた。


 灯りのそばへ持っていって、しげしげと眺めた。あの日の教え役と、同じ格好だった。レイフは、蚯蚓の次に何が来るのかを待った。


「……おまえの字は、四角いな。石垣のようだ」


「駄目ですか」


「頑丈でいい」


 エルドは蝋板を返してよこした。


「あと五十だ」


 百回目を書き終えたのは、三日目の晩だった。


 エルドは百個目の名を見て、うなずいた。それから、ひどく満足そうに言った。


「これで、おまえは自分の名が書ける男だ。明日から、ほかの字だ」


  ◇


 次の字は、エルドの名だった。


「従士が、主の名も書けなくてどうする。伝言の頭に書くのは、まずそれだ」


 理屈は通っていた。ところが、書かせてみて、エルドは黙った。


 蝋の上に、エルドの名が、四角く立っていた。角が、全部立っている。


 エルドの口の端が、動いた。こらえたらしい。こらえきれなかった。


「俺の名が、砦(とりで)になった」


 エルドは吹き出して、慌てて口を押さえた。書庫では声を立てないのが決まりだ。火鉢のほうで、大きな咳払いがした。エルドは口を押さえたまま、しばらく机に伏せていた。


「……傾げるなよ。俺の名は、傾げるな。四角いのは、もういい。まっすぐ立てろ」


「はい」


 笑いながら、直した。直しながら、ときどき褒めた。ここはいい。この線はいい。おまえは、まっすぐな線だけは、俺よりまっすぐだ。


 それから冬のあいだ、晩の書庫は続いた。


 馬の名前。武具の名前。城の中の場所の名前。何を書かせるかは、いつもエルドが決めた。決め方には、妙に実があった。従士が日々の務めで書かされる言葉から、順に来るのだ。厩。飼葉(かいば)。槍。弓。裏門。小広間。今日は何本、明日は何頭、と数を添えることも覚えた。


 エルドが一字書く。レイフがその隣に一字書く。違う所を、エルドが鉄筆の尻で指す。注文は多かった。多いうえに、細かかった。


 晩の書庫には、いつもエルドのほうが先に来ていた。灯りの油が減ってくると、侍女が黙って足しに来た。奥方様のお言いつけだ、と一度だけ言った。


 教えているあいだ、エルドの背中は、古い言葉を写しているときよりまっすぐだった。


  ◇


 ある朝、稽古のあとで、槍を武具庫(ぶぐこ)へ戻しに行った。


 いつも通る戸口だ。戸の脇に、木の札が下がっている。札があることは知っていた。模様だと思っていた。


 その朝は、読めた。


 槍、十二。


 レイフは中へ入って、壁の槍を数えた。十一本あった。持ってきた一本を掛けると、十二本になった。


 札と、壁が、合っている。


 しばらく、そこに立っていた。字というのは、数と同じだと思った。合っていれば、誰が読んでも同じになる。書いた者がそこにいなくても、同じになる。


「何を突っ立っている」


 後ろから、髭の槍兵が言った。


「札が、読めました」


「ほう」


 槍兵は髭の奥で笑った。


「自分の名と、槍。書けるのは、その二つだ。それで二十年、困ったことはない。……ないが、帳付けの日は、いつも人に頼む。おまえは、頼まれる側になれ」


 夜は、従士部屋の囲炉裏の脇でさらった。


 晩に習った字を、石板に十回ずつ。教え役の手本の板も、続けて写した。板の上にばらばらに並んでいた形が、少しずつ、見覚えのある形になっていった。これは槍の頭の字だ。これは厩の終わりの字だ、と。


 エルドは、あれから二度、夜の従士部屋に来た。二度とも、稽古の帰りに通りかかっただけだ、と言った。石板を覗いて、傾いでいる、と言って、帰っていった。


  ◇


 雪が緩みはじめた頃、エルドが言った。


「最後は、便りだ」


「便り」


「村へ書け。おまえが城で何をしているか、村の者は知らんだろう」


 レイフは少し考えた。


「村に、字の読める者はいません」


 エルドの鉄筆が止まった。


「……一人もか」


「はい」


 エルドは、しばらく黙っていた。蝋板ではなく、書庫の棚のほうを見ていた。壁を埋めた書物の背が、灯りの届くところまで並んでいる。


「では、誰が読む」


「雪解けに、槍の組が村へ上がります。組の頭は、読めます」


「その者が、皆の前で読むのだな」


「たぶん」


「では、大きく書け。短く書け。読む者が、一度もつかえずに読めるように」


 紙は、教え役が出した。


 一枚だけだ、と言った。書き損じるな、とは言わなかった。言わなかったが、一枚だけだった。


 レイフは、蝋板で二十回さらった。言葉は二人で決めて、字はエルドが直した。二十回目には、直す所がなくなった。それから羽根ペンを持った。鉄筆と違って、強く置くと先が開いて滲(にじ)む。エルドの書き損じの裏で、三行ぶん、加減を確かめた。


 紙に向かった。


 手は、迷わなかった。二十回書いたものを、二十一回目に書くだけだった。


 村のみなへ。


 レイフです。城にいます。


 飯は、日に三度出ます。三杯食っても、誰も何も言いません。


 槍と、字を習っています。


 字は、エルド様に習いました。


 これは、俺が書きました。


「短いな」


 エルドが言った。


「書くことが、それだけなので」


「飯のことが、二つある」


「村の者が、いちばん気にするので」


 エルドは、便りをもう一度、頭から読んだ。五行目の所で、目が止まった。


 その行は、さらった二十回には無かった。二十一回目に、レイフが足した。


「……これは、さらっていない」


「はい。足しました」


「一枚しかない紙だぞ。書き損じたら、どうする気だった」


「その名は、自分の名の次に、多く書いたので」


 エルドは、その行を長いこと見ていた。


「……傾いでいないな」


 それだけ言った。


  ◇


 城から出る書き物は、みな教え役の机を通る。


 教え役は便りを灯りにかざして、長いこと黙っていた。石板を取り上げたあの日と、同じ格好だった。


 咳払いが、ひとつ。


「蚯蚓が、ようやく凍えずに済んだ」


 褒められたのかどうか、レイフには分からなかった。隣でエルドが胸を張ったので、たぶん褒められたのだと思った。


「この字は、俺が教えた字だ」


「存じております、若様。ひと冬、そこで拝見しておりました」


 教え役は便りを畳んで、封の蝋を温めはじめた。火鉢の上で。自分の蝋だと、咳払いは出ないらしい。


「……若様の字より、読みやすうございますな」


 エルドの胸が、少し、しぼんだ。


「俺の字は、城の字だ」


「左様で。わしがお教えした字でございます」


 教え役は真面目な顔のまま、封を押した。


 便りは、雪解けの槍の組と一緒に、北の山の裾へ上がっていった。


 エルドの教え方は、教え役の年寄りより、よほどうまかった。そうは、言ってやらなかった。得意げに、胸を張るからだ。


  ◇


 エルドが、帳面から顔を上げた。


 宿の囲炉裏の脇だ。北の春の夜は、まだ火が要る。マグダは先に二階へ上がった。エルドは火のそばで帳面を膝に立てて、三晩ぶんの頁を、初めから終わりまで読んだ。途中で一度も、こちらを見なかった。


「この子どもは」


 エルドは言った。


「ずいぶん、偉そうですね」


「はい」


「……はい、ですか」


「はい」


 エルドは、少し黙った。それから頁を戻して、一行を指で押さえた。


「ここに、道が無い、とあります」


 書いていて、気づいたことだ。気づいたので、書いた。


 ——主は三度、稽古の帰りに通りかかっただけだ、と言った。稽古場から母屋へ戻る道に、従士部屋は無い。十年、気づかなかった。


「通りかかっただけ、だと思います」


 エルドが言った。


「道が、ありません」


「遠回りをする日も、あるでしょう」


「木剣を提げて、中庭を渡って、ですか」


「……風に、当たりたい日も」


「真冬でした」


 エルドは、口を閉じた。閉じて、頁を先へ繰った。繰る手が、少し速かった。


 繰った先で、また指が止まった。三晩ぶんの、いちばん終わりの三行だった。


 ——主の教え方は、教え役の年寄りより、よほどうまかった。


 ——そうは、言ってやらなかった。


 ——得意げに、胸を張るからだ。


「……書いてくれるのですね。いまは」


「書いただけです」


「書けば、読みます」


「はい」


 エルドは、帳面に目を戻した。


 背が、少し伸びていた。胸を張った、とまでは言わない。言わないが、囲炉裏の向こうの影が、さっきより少し高い。


 レイフは、それを言ってやらなかった。


 エルドは、頁を初めへ戻した。四角い字が、六つの頁を端から端まで埋めている。


「頑丈でいい、とあります。……私も、そう思います。十年たっても、角が一つも取れていない」


「取れなかったので」


 エルドは帳面を閉じて、膝の上に置いた。少しのあいだ、火を見ていた。


「レイフ」


「はい」


「私の書いた頁を、あなたは読めましたか」


 沢の夜から、エルドは自分で頁を書いている。細い字だ。


「……形で、見当をつけました」


 エルドは、長く息を吐いた。


「教えてください。読みやすい字を」


「では、まず、名前です」


「私の名ですか。それは、書けます」


「読めません」


 エルドが、こちらを見た。


「自分の名も書けない男に、ほかの字を教えても仕方がない、と教わったので」


「……誰に」


「あなたに」


 囲炉裏の縁の灰を、レイフは火箸(ひばし)の背で均した。平らになった所へ、薪の束から細い枝を一本抜いて、渡した。


 エルドは枝を取って、灰の上に自分の名を書いた。


 速かった。細い線が続けて出て、終わりの所で、軽く跳ねた。


「傾いでいます」


「……どちらへ」


「右へ」


 エルドは灰を均して、もう一度書いた。レイフは見た。もう一度、と言った。


 その晩は、十回書いた。あと九十回です、とレイフは言った。


 十回目の名を均してから、エルドは帳面を引き寄せた。炭を取って、レイフが書いた頁の次に、何か書いた。短かった。書き終えて、帳面をこちらへ向けた。


 レイフは、その頁を見た。それから炭を借りて、その下に一行足した。


 ——レイフに、字を習いはじめた。まず名前から、百回だという。今夜は十回書いた。師は、注文が多い。


 ——主の字は、半分読めた。残りは、明日読む。「注文が多い」の所は、今夜読めた。


『誓いを断つ者』本編は、この「終話 頑丈でいい」にて、第一部が完結です。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


この後は、完結後の余話(おまけ)が少しだけ続きます。

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