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第50話 二度目の春


 門は、両方とも開いていた。


 人の背丈ほどの石の壁と、木の門。柱に、樫(かし)の葉が彫ってある。エルドはその前に立っていた。この門が半分だけ開いた夕方のことは、帳面にある。レイフが読んだ。自分は、聞いただけだ。聞いたことは、覚えている。覚えているのは、そこからだ。


 家令(かれい)の老人が、門の内に立っていた。痩せて、背筋が伸びている。髪は薄くて白い。


「今日は、全部、開けます」


 老人は言った。


「旦那様と、奥様が、お会いになります。北の従士も、どうぞ」


 レイフは、少し離れた所に立っていた。人前の距離だ。人前の距離と二人の距離を、この男は分けて立つ。分けているのを覚えるのに、三日かかった。


「私は、この家を覚えていません」


 エルドは言った。門を開けてくれた人には、先に言っておくべきだと思った。


「存じております」


 老人は言った。


「奥様も、七年、思い出さぬようにしておられました。お互いに、初めてのようなものですな。どうぞ」


 門の内へ、一歩、入った。


  ◇


 蔵に、二十日いた。


 医者が、動くな、と言った。詰所の医者だ。レイフの肩の下の傷は、縫って、二十日で塞がりかけた。それより早くは塞がらない。騎士の傷なら日暮れに閉じる、とマグダは言った。この男の傷は、人の速さで閉じる。閉じるまで、王都にいた。


 塩漬けの魚の匂いのする蔵だ。夜は俵の陰で寝る。朝は、レイフが帳面を読む。一冊目から、順に。二十日で、三冊目の半分まで来た。


 門が開いたのは、その二十日目の昼だった。


「会ったのかい」


 夕方、蔵に戻ると、マグダが訊(き)いた。俵に背をつけて座っている。左の腕に巻いた布は、もう細い。


「はい」


「どうだった」


 エルドは少し考えた。考えて、あったことだけを言った。


「母の名を、三度、呼ばれました。……私の名は、一度も」


 マグダは、鼻を鳴らした。それだけだった。


 その夜、マグダが壺を抱えて戻ってきた。


 気づいたのは、レイフだった。革袋の紐を確かめていた手が、止まった。止まって、壺を見た。


「マグダ」


「なんだい」


「自分の銭で、買いましたか」


「買ったよ。言い値で」


 レイフは壺を見て、それからマグダの顔を見た。エルドは、二人を順に見た。何の話かは、分かった。帳面にある。秋の頁だ。五日前に、レイフが読んだ。


「今日にしたのですか」


 エルドは言った。


 マグダがこちらを見た。


「帳面かい」


「はい。六年ぶん、あるそうです」


「去年の分は、あんたが日を決めた。決めない年は、あんたが決めるんだったね」


「そう書いてありました」


「今年は、あたしが決めた」


 マグダは壺を床に置いた。


「あんたが、決められないんでね。……決めたのは、あんたが目を開けた朝だ。祝いは、今日。あの日は、それどころじゃなかった」


 エルドは、籠に手を伸ばした。


 昼のうちに買っておいたものがある。卵が、三つ。買うとき、レイフの目が、少し長く籠に留まった。それだけだった。


「帳面に、書いてありました」


 エルドは言った。


「卵は、三つ、と」


 マグダの顔が、動いた。動いて、止まった。


「……入らないよ、三つは」


「入る、と書いてありました」


 マグダは、答えなかった。答えないで壺の脇に座り直して、革袋の底から、木の杯を出した。樫の杯だ。縁が厚くて、握りの所が少し細い。レイフが削った、と帳面にある。マグダはそれを、膝の前に置いた。


「あなたの杯ですね。帳面にありました」


「ちび」


「はい」


「その、あなた、ってのをやめな。背中が痒い」


「では、何と」


「七年、呼び捨てだったんだよ、あんたは」


「マグダ」


「そう」


「……マグダ。卵は、三つで足りますか」


 マグダは、エルドの顔を見た。長く見た。それから、壺の栓を抜いた。


「足りるよ。……敬語は、直らないね。そっちは、元からだ」


 蔵の隅で、レイフが鼻から息を抜いた。笑ったのだと思う。


  ◇


 王都を出たのは、次の日の朝だった。


 蔵の戸口で、法衣の男が一度だけうなずいた。喋らない人だ、と帳面にある。


 川の門から出た。門の兵は四人の顔を見て、通した。辻の触れ書きは、消えていた。詰所の者が剥がした、とセシルは言った。黒い髪を短く切った同輩が、最初の一枚を剥がしたのだと。


 川沿いを、上手(かみて)へ一日歩いた。渡しがある。


 渡しの岸に、籠を担いだ女がいた。行商だ。針と糸と、小さな鏡。女は四人を見て、レイフを見て、籠を置いた。


「あんた。誓い断ちの、七尺の」


「六尺と、半分です」


 レイフが言った。


 女は、首を横に振った。


「頼もうと思ってたんだけどね。亭主の年季を。やめとくよ」


「断てません」


 レイフが言った。


「知ってるよ。断てなくていい。亭主が、四年待つって言い出した。四年たったら、店を出すんだと。所帯を持ってから、初めて聞いた。……あの朝から、上を見るようになってね。首が痛いってさ」


 女は籠を担ぎ直して、舟へ歩いていった。


 何の話かは、半分しか分からなかった。分からない半分を、訊かなかった。訊かないことは、いくらでもある。自分の右の手を見た。紋は無い。この手で誓いを断てる、と帳面にある。読んだだけで、試していない。試す気も、いまは無い。


 舟の上で、マグダが言った。


「市で、殴り合いが増えたそうだよ。畑を捨てて町へ出る者もいる。上を見りゃ、隣の頭が邪魔になる」


「はい」


「はい、じゃないよ。それでも、見ないよりましだ。あたしは、そう思ってる」


  ◇


 丘に着いたのは、初雪の前だった。


 門前の町は、変わっていない、とマグダは言った。変わっていないかどうかは、自分には分からない。窯の煙が、朝から上がっている。


 パンを買いに行った。


 買い出しは、王都で自分の受け持ちになった。受け持ちだった、と帳面にあったので、そうした。丸パンが四つ。御用の窯の値は決まっている、と帳面にある。決まった値で、買う。


 店に、娘が立っていた。


 十七か、十八か。粉で白くなった手の、指の先だけが炭で黒い。娘の手が、止まった。エルドの顔を見たまま。


「あなた」


 エルドは、娘の顔を見た。知らない顔だった。知らない顔が、自分を知っている。王都でも、渡しでも、そういう顔に会った。会うたびに、同じことを先に言う。


「私は、あなたを覚えていません」


 娘は、少しの間、黙っていた。それから、包みの紙を裏返さずに、パンを押し出した。


 紙に、炭で、顔が描いてあった。


 若い男の顔だ。亜麻色の髪。目の色は炭では出ない。出ないが、目の形が、自分の目だった。朝、川の水に映る顔だ。


「私ですか」


「はい」


 娘は言った。


「あなたが払ったのは、これだったんですね」


 問いではなかった。娘は自分の目で答えを見て、そう言った。


「夏に、何を払ったのかと訊きました。あなたは、さあ、と言いました。……いま、分かりました」


 エルドは紙を見た。それから、娘を見た。


「私は、あなたに、何かをしたのですか」


「はい」


「何を」


「足を」


 娘はそれだけ言った。言って、粉の手を前掛けで拭いた。


「私は、覚えてます。絵で、覚えてます。……あなたは、覚えてなくていいです」


「あなたは、これから」


「雪が消えたら、王都へ行きます。絵師の所へ。母は、泣きました。二度目です。それでも、行きます。焼く日は、母が焼きます」


「それでいい」


 エルドは言った。言ってから、自分の言い方に気づいた。直さなかった。娘の耳が、赤かった。


 紙は、貰った。四つに畳んで、懐に入れた。懐には、鳥の絵がある。同じ手の鳥だ。二枚、並んだ。


  ◇


 セシルとは、外郭(がいかく)の門の下で別れた。


 白い制服は、洗ってあった。徽章(きしょう)は、自分で拭いたのだと思う。右の手には、紋が無い。無いまま、袖に入れていない。


「丘は、割れたままです」


 セシルは言った。


「前庭に残った側と、奥に籠った側と。大所長(たいしょちょう)は、戸を開けました。帳を、前庭に持って出た。損得で、そうした人です。損得でも、開いた戸は、開いた戸です」


 それから、少しだけ声を落とした。


「前の掌典(しょうてん)さまは、前庭の脇の小部屋におられます。毎朝、十行を唱えておられます。声の続くうちは、と。年嵩(としかさ)の同僚が、その戸の脇に立っています」


「あなたは」


「前庭に立ちます。一人ずつ、並べます」


 セシルは、外套の内側から帳面を出した。粗い紙。炭の字。


「万の民に一度に、ではなく。承知の上で、いつでも引き取れると定めて、誓いたい者が、誓う。誓わない者は、誓わない。並べるのは、繋ぐ血ではありません。時間です。時間は、かかります」


「紋は」


「無いままにします。並べ終わるまで」


「並べ終わる、というのは」


 エルドは訊いた。帳面にあったことだけでは、そこが分からなかった。


「口上が、並ぶことです。いまの口上は、言葉はそろっていても、並びが違う。並んでいない口上は、本心で唱えても、紋は浮きません。……前庭に立ってくれる人に、唱えてもらいます。紋が浮かなければ、口上の下に、違う、と書く。並べ方を変えて、次の人に、また立ってもらう」


 セシルは帳面の頁を、こちらへ向けた。短い口上の下に、小さな字で、違う、と書いてある。


「並んだら」


「唱えた人の手に、新しい紋が浮きます。承知の上で預けた、いつでも引き取れる、戦を起こさない、という誓いの紋です。一人、また一人。誓いたい人だけが。……何年かかるかは、分かりません」


「並んだら、あなたは」


「私も、その日に誓います。この手に紋が浮くのは、その日です」


 セシルは帳面を繰った。繰って、一枚、破った。細い字が写してある。母の字だと、分かった。読める。母の字は、読める。


「一枚のものは、写しを取る。写しは、あなたが持つほうがいい。私の帳面より、あなたの懐のほうが、母君に近い」


 エルドは受け取った。懐に、母の文がある。その隣に、写しを入れた。二枚になった。


「エルドどの」


「はい」


「……また、違う、と書きます。並ぶまで」


 それから、セシルはレイフを見た。


「レイフ」


「はい」


「読みやすい字で、書いてください。いつか、私が読みます」


 レイフは、うなずいた。


 セシルは参道を上がっていった。振り向かなかった。レイフがその背中を、長く見ていた。


  ◇


 冬は、丘の下の川の町で越した。


 初雪の日に、あの夜から八年目に入った。数えたのは、レイフだ。自分には、数える元が無い。


 マグダが顔役に仕事を請け、レイフは力仕事、自分は帳付(ちょうつ)けと買い出し。そうしてきた、と帳面にある。帳面のとおりにした。したことは、覚えている。雪が消えかけたころ、北へ発った。


 北の春は、雪が消えるより先に、風が来る。


 帳面にある。十の春の頁だ。レイフが自分から聞いて、書いた。読んで、聞いた。風は、本当に先に来た。土と水の匂いのする風が、まだ膝の高さで残った雪の上を渡っていく。


 山裾(やますそ)に、炭焼きの小屋があった。


 谷の窪(くぼ)みに、崩れかけた窯と、傾(かし)いだ屋根。屋根は八年前より傾いでいる、とレイフは言った。八年前の冬の初めに、ここで一夜を明かした。帳面にある。窯の中に火を隠して、夜のあいだ番をしたのは、この男だ。


 レイフは小屋の裏手へ回って、雪の残った土を、木の枝で掘りはじめた。


 黙って掘った。エルドは見ていた。マグダは小屋の壁に背をつけて、見ていなかった。見ていない顔で、聞いていた。


 枝が、何かに当たった。


 レイフは手で掘った。土の中から、布に巻いたものが出てきた。布は腐っていた。剥がすと、細い剣が出た。鞘(さや)は、半分朽ちている。刃は、錆(さび)で赤い。柄に、紋が彫ってあった。


「あなたの剣です」


 レイフは言った。


「十三のときの」


 エルドは受け取った。軽かった。柄を握ると、指が余った。子どもの剣だ。


「短い」


「十三のときの、です」


「私が、埋めたのですか」


「俺が、埋めました。売れなかったので。家の紋があって、持てば、足がつく」


「いまは」


「売れます」


 レイフは言った。言ってから、少し足した。


「……売りませんが」


 エルドは剣を見た。錆びた刃と、朽ちた鞘と、紋のある柄。この紋が、自分の家の紋だ。知っている。帳面で読んで、知っている。知っているものを、手に持っている。持って、それだけだった。


 布を新しく巻いて、革袋の脇に差した。


  ◇


 城は、焼け跡だった。


 石の壁だけが、坂の上に残っている。屋根は無い。北の大火だ、と町の者は言う。八年前の冬の話として。町は城の下にあって、市が立っていた。宿を取った。宿の亭主は、三人の顔を見なかった。


 朝、レイフが宿を出ていった。


 沢へ行く、と言った。魚を焼く係だ、とも言った。春に、と言いつかった係だと、帳面にある。


 昼前に、エルドは丘を上がった。


 焼け跡の脇を通った。石の壁の間に、屋根の落ちた四角い場所がある。厩(うまや)のあった所だ、と、きのうレイフに教わった。そこを通ったとき、匂いがした。


 焚き火と、魚の匂いだ。


 沢は、城の裏手にあった。土手を滑り降りると、レイフが焚き火の前にしゃがんでいた。串に刺した川魚が三尾(さんび)、輪になって立ててある。塩を振った皮が、音を立てはじめていた。


「厩のあった所を通ったら、匂いがした」


 エルドは言った。


 レイフは、こちらを見た。見て、何も言わなかった。言わないで、串を一本、回した。


 エルドは焚き火の向かいに座った。膝を抱えて。火が温かい。雪解けの沢の音が、太い。


「よく来る所だったのですか」


「はい。ここが、いちばん、よく来た所です」


「ここで、何をしていたのですか」


「魚を、待っていました」


「それだけですか」


「口上を、唱えていました。……沢に向かって」


 口上。言葉が、来た。ぜんぶ言える。一語も欠けていない。どこで覚えたのかは、知らない。言葉だけを、持っている。


 エルドは、沢に向かって言った。声に出して。


「——古き盟約は、川とともに流れ去った。今宵(こよい)ここに、二つの家は新しき誓いを結ぶ。アルデンの北に、永き安寧(あんねい)のあらんことを。両家の末永き誼(よしみ)に——杯(さかずき)を献ず」


 沢の音が、それを聞いていた。


 レイフは、串を回す手を止めていた。


「……どこも、抜けていませんでした」


「当然だ」


 言ってから、エルドは口を閉じた。当然だ、と言った。何が当然なのか、自分にも分からなかった。


 魚が焼けた。


 レイフは一番よく焼けた串を抜いて、布を添えて渡した。エルドは受け取った。熱い。骨から身を外して、口に入れた。


 塩と、皮の焦げと、身の甘さ。


「……うまいな」


 言った。言ってから、少し黙った。


「初めて食う気が、しない」


 レイフの手が、止まった。


 串を持った手だ。止まって、動かなかった。それから革袋の紐に手が行って、そこで、また止まった。何も言わなかった。


 エルドは、その手を見ていた。見て、自分の口を、少しだけ疑った。うまい、と言った。初めて食う気がしない、と言った。敬語が、落ちていた。落ちた所から出た声は、自分の声だった。ほかに、誰の声でもない。


 二尾目の串を、レイフが抜いた。抜いて、こちらへ差し出した。


 エルドは、受け取らなかった。串を、押し返した。


「食べてください」


「それは、エルド様の分です」


「あなたが隣で唾を呑んでいると、落ち着いて食べられない」


「呑んでいません」


「呑んでいました」


 レイフは、串を受け取った。受け取って、かぶりつかなかった。持ったまま、エルドの顔を見た。


 それから、かぶりついた。


 エルドは、三尾目の串を見た。


「三尾目は、私のです」


「はい」


 レイフの声は、いつもと同じだった。同じにしようとして、同じにできていなかった。


  ◇


 午後、蹄(ひづめ)の音が沢の上の道から下りてきた。


 二騎。先頭は、鉄色(てついろ)の髪に白のまさった、岩のような背中の人だった。仏頂面(ぶっちょうづら)だ。その後ろに、顎に古い傷のある護衛。二人とも、沢の縁で馬を下りた。


 レイフが立った。立って、エルドの後ろについた。近かった。人前の距離より、ずっと。


「覚えておらんのだな」


 岩のような人は、エルドの顔を見て、そう言った。


「はい」


 エルドは言った。知らない人だ。知らない人が、自分を知っている。何度目かの、同じ顔だ。ただ、この人は、それを最初に自分で言った。


「わしが、覚えておる」


 岩のような人は言った。


「東の隣家の当主だ。グレンツの、ヴァルドという。おぬしの父と、境の川で、並んで釣った」


 東の領主。帳面にある。証しの書状を書いた人だ。懐にある、灰色の蝋(ろう)の。


「その書状は、あなたが」


「わしが書いた。四晩かかった」


 ヴァルドは、沢の縁の石に腰を下ろした。護衛は、少し離れて立った。


「岸は、返した」


 ヴァルドは言った。沢を見て。


「勅で貰った岸だ。返す相手がおらぬので、川に返した。どちらの岸からでも釣れる川に、戻った。それだけだ」


「はい」


「北の家の名は、戻った。宰相の書いた筋書きを、王宮が破った。わしの書状と、丘の証しでな。逆賊ではなくなった。北の領は、王宮が預かっておる。継ぐか継がぬかは、おぬしが決めろ、と勅が来た。誓わせぬ、と、わざわざ書いてあった。王宮も、少しは変わった」


 エルドは、沢を見た。


 継ぐ。継がない。どちらの言葉も、手に持てなかった。帳面の中の家だ。焼け跡の家だ。決めることは、いま、何も無い。


「春のうちは、ここにいます」


 エルドは言った。


「決めるのは、そのあとで」


「それでよい」


 ヴァルドは言った。仏頂面のままだった。仏頂面のまま、少しだけ、声が低くなった。


「わしは、卑怯者(ひきょうもの)だった。卑怯者のまま死にたくはない、と、おぬしに言った。覚えておらんだろうが」


「はい」


「死なずに済む。それで、わしは足りる」


 それきり、ヴァルドは黙った。黙って、沢を見ていた。


 レイフが、後ろで動かなかった。


「あいつも、そこに座っておった」


 しばらくして、ヴァルドが言った。エルドの座っている石を、顎で示して。


「父ですか」


「そうだ。二十五年ほど前だ。この沢ではない。境の川の中洲(なかす)だ。石は、似ておる」


「……釣れますか」


「釣れん」


 ヴァルドは言った。即座に。


「あの川は、釣れん」


 日が傾く前に、ヴァルドは馬に戻った。護衛が手綱を渡した。鞍(くら)の上から、ヴァルドは、焚き火と、レイフと、エルドを順に見た。


「……また来る」


 それだけ言って、坂を上がっていった。


  ◇


 マグダが沢へ下りてきたのは、日が落ちてからだった。


 宿の安酒の壺を提(さ)げている。南の葡萄(ぶどう)は、秋の日だけだ。マグダは焚き火の脇に座って、革袋から樫の杯を出した。注いで、呑んだ。


「東の領主様が来たね」


「はい」


「あんたを見て、どんな顔をしてた」


「仏頂面でした」


「そりゃそうだ」


 マグダは、杯を持ったまま、少し黙った。


「冬に、西の町へ行ってきた」


「西の町」


「桶屋(おけや)の町だ。……娘が、桶を作ってた。鑿(のみ)の箱を、まだ持ってた。あたしの顔は、覚えてなかった。三つだったからね。それでいい」


 マグダは、杯を干した。干して、また注いだ。注いだのを、呑まずに、火を見ていた。


 しばらく、火の音だけがしていた。


「……守り切ったよ、あたしは」


 マグダが言った。


 低い声だった。火に向けて言った声だ。エルドにでも、レイフにでもなかった。


「何を、ですか」


 エルドは訊いた。


「あんたをだよ」


「私を。……何から」


「あんたからさ」


 エルドは、マグダの顔を見た。分からなかった。分からない顔のまま、見ていた。マグダが、鼻を鳴らした。


「分からなくていい。……分かる奴が、隣にいる」


 レイフは、何も言わなかった。言わないで、火に枝を一本、足した。


  ◇


 レイフは、火の脇で帳面を開いた。


 三冊目の、後ろのほうだ。炭を出した。今日の分を書く。


 ——春。二度目の春だ。一度目は、夢の中だった。沢で、魚を三尾焼いた。主は、二尾食った。うまい、と言った。三尾目は、主のだった。


 書いて、炭を止めた。止めて、火の向こうを見た。


 エルドが、こちらを見ていた。帳面ではなく、書いている手を見ている。覗かない。


「読んでいない頁が、一つある、と言いましたね」


「はい」


 王都の蔵で、そう言った。一冊目から三冊目まで順に読んで、一頁だけ、飛ばした。飛ばした、と言った。言わずに飛ばすのは、違うと思ったので。


「それは」


「俺の頁です。……夢を、書きました」


「あなたの頁ですね」


「はい」


「では、それは、読まなくていい」


 エルドは言った。言って、火の向こうから、手を伸ばした。


 炭へ。


「次の頁は、私が書こう」



【改稿履歴】

2026/10/04 一部の表現を変更

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