第49話 なかった春
——王都。あの朝の、次の朝。ゆうべ、夢を見た。
——ぜんぶ、なかったことだ。書くかどうか、朝まで迷った。書く。書いたものは、書いた奴より長生きする。マグダさんが、そう言った。なかった夜でも、書けば、残る。
◇
北の春は、雪が消えるより先に、風が来る。
沢の土手には、まだ膝の高さで雪が残っていた。残った雪の上を、土と水の匂いのする風が渡っていく。城のほうで、氷柱の落ちる音がした。
レイフは、魚を焼いていた。
焚き火を囲んで、串に刺した川魚が三尾、輪になって立ててある。塩を振った皮が、ぷつぷつと音を立てはじめていた。空は高い。吐く息が白くなるのは、朝のうちだけになった。
土手の上から、雪よけの外套を引っかけた少年が滑り降りてきた。
「やはりここか。厩の裏を通ったら、匂いがした」
「エルド様の鼻は、猟犬なみですね」
「褒めていないだろう、それは」
声が、途中で裏返った。
エルドは咳をした。咳をして、何もなかった顔で、焚き火の向かいに膝を抱えて座った。近ごろ、ときどきそうなる。本人は気にしている。気にしているのを、人に見せない。見せないのに、レイフには分かる。分かっているのを、顔に出さないことにしている。
十四になった。春の初めに。
琥珀の目に、火が映っていた。串の魚ひとつで光る目だ。門をくぐると当主の子の顔になって、ここでは、魚を待つ子どもの顔になる。
「父上は」
「領主様と、川へ。夜明け前に出られました」
「東の当主と」
「はい」
エルドは、ふん、と鼻を鳴らした。鳴らしてから、口の端が上がった。
「取り合うほどの川には見えない、と、俺は十の春に言った。いまは、二人で釣っている」
「はい」
「釣れないと思う」
「はい」
魚が焼けた。
レイフは一番よく焼けた串を抜いて、布を添えて渡した。エルドは行儀よく受け取って、熱い、と小さく言いながら、骨から身を外していく。二尾目の串を抜いて差し出すと、受け取らなかった。串を、こちらへ押し返してくる。
「食え」
「それは、エルド様の分です」
串は、押し返されたままだった。レイフは受け取って、かぶりついた。うまい。今日の魚も、よく焼けた。
「三尾目は俺のだ」
「はい」
◇
蹄の音が、沢の上の道から下りてきた。
三騎だった。先頭は御館様だ。亜麻色の髪に、灰色が細くまじっている。その後ろに、岩のような背中の人が、鉄色の髪を後ろへ撫でつけて馬に揺られていた。魚籠を鞍に提げている。愛想笑いというものを、生まれてから一度もしたことのなさそうな顔だ。東の領主だ。その後ろに、髭の槍兵。
馬が、沢の縁で止まった。
「釣れたか」
御館様が言った。焚き火を見て。
「三尾です」
レイフが答えた。
「焼いたのは、こいつです」
エルドが言った。串を持ったまま。御館様の目が、少しだけ細くなった。
「わしは、釣れん」
東の領主が言った。誰にも訊かれていないのに。仏頂面のままで。
「あの川は、釣れん。あいつが五尾で、わしが二尾だ。二十年前と、変わらん」
「変わらんのは、そちらの二尾だ」
「そちらの五尾のうち二尾は、わしの中洲で釣ったやつだ」
「中洲は、どちらのものでもない。盟約に、そう書いた」
「書かせたのは、そちらだ」
東の領主の眉が寄った。寄っただけで、それきりだった。
「川の名は」
エルドが訊いた。二人の言い合いの間に、行儀よく。
境の川には、名がない。取り合ってきた川に、どちらの家も名を付けなかった。盟約が成った冬に、名を付けよう、という話になった。なったきり、春になっている。
「秋までに決める」
御館様が言った。
「どちらも譲らん。……二つ付けることになるかもしれん」
「馬の名は」
髭の槍兵が、横から言った。髭の奥が笑っている。エルドの栗毛の馬は、十の春に貰ってから、まだ名がない。秋までに決める、と言って、四度目の春だ。
「……冬までに」
エルドが言った。裏返らずに言えた。
御館様が、口の端で笑った。笑って、馬を城へ向けた。東の領主が、馬の首を回した。回してから、沢のほうへ、顎を振った。
「……また来る」
誰にでもなく言って、東の領主は、御館様の後について坂を上がっていった。
◇
裏門をくぐる手前で、エルドの背筋が伸びた。
顔から、子どもが抜けていく。門をくぐるころには、いつもの隙のない当主の子が出来上がっている。焚き火の匂いと魚の匂いをさせたまま、当主の子は中庭を横切っていった。
厩の前で、栗毛が鼻を鳴らした。
エルドは足を止めて、鼻面に手を伸ばした。名のない馬は、手袋の羊毛の匂いを嗅いだ。嗅いで、ふん、と息を吹きかけた。
「冬までに、決める」
エルドは、馬に言った。馬は、聞いていなかった。
侍女頭が、廊下の口に立っていた。北の生まれの、骨の太い人だ。エルドの靴を見て、レイフの靴を見て、何も言わなかった。言わないで、布を二枚、差し出した。二人は靴を拭いた。
◇
夕方、小広間に膳が並んだ。
北の春の膳だ。冬の蔵の底からできている。塩漬けの猪の肉を豆と煮たもの。根菜の焼きもの。黒いパン。それから、辛い鹿の煮込み。北の祝いの膳には、必ず出る。エルドはそれを一口だけ食べて、行儀よく脇へ寄せた。誰も、何も言わなかった。壁際で、髭の槍兵が髭の奥で笑った。
レイフは壁際に立っていた。いつもの場所だ。
奥方様が、盆を運んできた。
茶器と、椀が四つ。
王都の茶ではなかった。蜂蜜の湯だ。北では、春にしか蜂蜜を使わない。冬のあいだ、蜂蜜は薬だからだ。湯気が四つ、立った。御館様に一杯。エルドに一杯。それから、当たり前のように、壁際のレイフの前に。
「あなたも。冷えたでしょう」
「……頂戴します」
両手で椀を包んだ。甘い匂いがした。王都の茶とは違う。春の甘さだ。
四つ目の椀を、奥方様は、自分の前に置いた。
置いて、座った。座ってから、脇の揺り籠に手を伸ばして、中を見た。小さいのが、一人いる。春に産まれた。妹だ、とエルドは言った。言うとき、少し、胸を張った。
揺り籠が、小さな声を出した。
奥方様が抱き上げた。抱き上げて、名を呼んだ。
名は、レイフには聞こえなかった。
聞こえなかったが、呼んだのは分かった。呼ばれた小さいのが、泣きやんだのも分かった。
「エルド。抱いてみなさい」
「私が、ですか」
「あなたのほかに、誰がいますか」
エルドは立った。立って、両手を出した。出した両手が、正しい形をしていなかった。剣を受け取る形だった。奥方様が笑って、その両手を直して、小さいのを乗せた。
エルドは、固まった。
当主の子の顔でも、魚を待つ子どもの顔でもなかった。レイフは、この顔を見たことがない。
「……小さい」
それだけ言った。声が、裏返った。
御館様が、声を出して笑った。
大きな声だった。レイフはこの人が声を出して笑うのを、初めて聞いた。壁際の槍兵が笑い、侍女頭が口を袖で隠し、教え役の年寄りが咳払いをした。エルドの耳が赤くなった。小さいのは、泣かなかった。
「よく通る、いい声ですよ」
奥方様が言った。
「……いまは、二つありますね」
料理長が、自分で運んできた最後の一皿を、エルドの前に置いた。干した果実を蜂蜜で煮て、麦の粉の皮で包んで焼いたものだ。北の春の、たったひとつの甘さだ。
「よく食べますね」
奥方様が言った。エルドの食べるところばかり見ている。
「昼に、沢で、魚を二尾食べました」
料理長の手が、止まった。止まって、それから何もなかった顔で下がっていった。膳を作る人には、決して聞かせられない話だったはずだ。エルドは、菓子を行儀よく食べた。
エルドが小さいのを返すとき、御館様が、右の手の甲を袖で拭った。濡れてもいない手の甲を。奥方様がそれを見て、何も言わずに笑った。
◇
「父上」
膳が下がって、家中の者が下がって、小広間に火の音だけが残ったころ、エルドが言った。
「十の春に、いずれ話す、と仰いました。ファーレンの子は、誓う前に、一度多く考える。その理由を」
御館様は火を見ていた。しばらく、見ていた。
「来ぬほうがよい日だ、と言ったな」
「はい」
「……来なかった」
御館様は言った。
「来なかった日の話は、せんでよい。いずれ、な。急ぐ話では、なくなった」
エルドは、少しの間、父の横顔を見ていた。それから、はい、と言った。分かった顔ではなかった。分からないまま、はい、と言える顔だった。
奥方様が、火の向こうで、夫の横顔を見ていた。それから、揺り籠を見た。左の手首に、右の手を添えて。
◇
部屋を辞して、二人で長い廊下を歩いた。
窓の外は暗かった。風の音の代わりに、沢の音がしていた。雪解けで、沢が太っている。太った沢の音が、廊下の窓まで上がってくる。
廊下の端で、エルドが止まった。
「レイフ」
「はい」
「今日のことを、覚えておけ」
「はい」
「……俺も、覚えておく」
エルドはそれだけ言って、また歩き出した。背筋が伸びている。当主の子になる前の顔を、さっき、レイフは見た。小さいのを抱いて固まった顔だ。あれも、覚えておく。
書くものは、持っていなかった。
要らなかった。この人が、覚えている。
◇
——目が覚めたら、蔵だった。塩漬けの魚の匂いがした。主は隣で寝ていた。息の音を、聞いた。
——夢の中の主は、ぜんぶ覚えていた。名も、顔も、川も。十の春のことも。
——四つ目の椀を、俺は知らない。あの冬、俺は三つしか見ていない。四つ目は、どこにもなかった。
——御館様が手の甲を袖で拭うのを、俺は見たことがない。東の領主から、川べりで聞いただけだ。揺り籠の小さいのも、王都の広間で聞いただけだ。春に産まれるはずだった、と。聞いただけのものが、夢に出た。
——覚えておけ、と言われた。はい、と言った。起きてからも、覚えている。だから、書いた。
——これは、主には読まない。読まない頁を、一つだけ、作る。




