第48話 一冊目
兵が、出ていった。
隊長が壁際へ歩いていって、いちばん近くの兵の前で止まった。兵は動かなかった。隊長は、その右の手の甲を見た。青い紋を。
「あんたらの持ち場は、館だ。館は、立ってる。……門へ行け。門を固めろ。この広間に、守るものは、もう無い」
兵は、しばらく動かなかった。それから一人が槍を立て直して、戸口へ歩いた。二人目が続いた。半分ほどの兵が、順に出ていった。戸口の脇に座っていた供の二人が、最後に立った。立って、穴を一度見て、出ていった。
白い制服が二人、戸の外に立った。残りは隊長と、黒い髪の同輩だけになった。二人は、壁際に下がった。
「医者は、呼んである」
隊長が、レイフを見て言った。
「詰所のだ。門の外まで来ている。……動くな」
「はい」
レイフは答えた。
広間が、広くなった。
朝の光が、戸口から床を渡って、机まで届いていた。机の上に、灰色の蝋の書状と、粗い紙の帳面が、置いたままになっている。倒れた茶器の脇に。
セシルが、それを取りに行った。
自分の帳面を外套の内側に入れて、書状を、両手で持って戻ってきた。戻ってきて、壁際に座っているエルドの前に、膝をついた。
「あなたの、懐に」
セシルは言った。
「東の領主様の書状です。あなたが、机に置きました」
エルドは、書状を見た。灰色の蝋の、三筋の印を。それから、セシルの顔を見た。見て、書状を受け取った。受け取って、懐に入れた。入れるとき、懐の中の紙に手が触れたらしかった。手が、止まった。
二枚、出てきた。
四つに畳んだ粗い紙。折り畳んだ、薄い紙。エルドは、それを膝の上に置いた。粗い紙を、開いた。鳥が一羽、描いてある。
「……鳥だ」
それだけ言った。
薄い紙を、開いた。読んだ。声には出さなかった。読み終えて、しばらく紙を見ていた。
「この人が」
セシルを見た。
「……私の母ですか」
「はい」
セシルは言った。
それだけ言った。
エルドは、もう一度、紙を見た。読める。字は読める。ローザ、という名を、読める。何も言わなかった。紙を畳んで、鳥の絵と一緒に、懐に戻した。戻して、書状の隣に、揃えた。
◇
レイフは、革袋の紐を解いた。
いちばん底に、手を入れた。三冊目の下。二冊目の下。いちばん底に、一冊目がある。七年、そこにある。出した。表紙は手擦れで柔らかい。角が丸くなっている。
膝の上で、開いた。
朝の光が、頁に落ちた。
「エルド様」
エルドが、こちらを見た。
「……私の名ですか」
「はい」
レイフは言った。
「あなたが誰だったか、いまから話します」
エルドは、答えなかった。答えないで、膝の上の帳面を見た。それから、レイフの顔を見た。見て、少しだけ、頭を下げた。人の話を聞くときの、礼だ。
レイフは、最初の頁の、最初の一行を、指で押さえた。
「——主は、俺より三つ下で、俺より字がうまい」
読んだ。
四角い字だ。炭ではない。インクの字だ。七年前に、宿場の店で買った帳面の、最初の頁に、羽根ペンで書いた。書いたときのことは、覚えている。
「主、というのは」
「あなたです」
「……三つ下」
「はい。あなたは、二十です。俺は、二十三です」
エルドは、自分の手を見た。それから、レイフの手を見た。何を比べたのかは、分からない。
◇
頁を、繰った。
一冊目は、順に書いていない。あとから書いた頁がある。帳面を買う前のことを、思い出した順に書いた頁だ。その一つを、開いた。
「——壁の兵の紋が、黒くなって、錠前みたいに外れた」
「……錠前」
「はい」
「何の話ですか」
「あの夜の、です」
レイフはそれだけ言った。
エルドは、それ以上訊かなかった。訊かないで、次を待った。人の話を、途中で遮らない。そういう人だ。
三冊目を、革袋から出した。開くところは、分かっている。頁の端を、指で探った。
「——同じだった」
読んだ。三冊目の、その頁には、それだけしか書いていない。
「……何と、同じだったのですか」
「あの夜と、です」
エルドは、しばらく黙っていた。それから、うなずいた。分かったのではない。分からないまま、聞いている、といううなずき方だった。
◇
二冊目を出した。
二冊目は、旅の途中だ。五年目の冬の終わり。雪が解けはじめたころの頁。
「——五杯、食った」
レイフは読んだ。
読んで、次の行へ行こうとした。
「……五杯は、多い」
エルドが言った。
レイフは、頁から目を上げた。エルドは真面目な顔をしていた。真面目に、多い、と言った顔だった。
壁の下で、マグダが鼻を鳴らした。
「あんたが食えって言ったんだよ」
「私が」
「あんただ。五杯食え、って」
エルドは、マグダを見た。見て、少し、困った顔をした。
「……覚えていません」
「知ってるよ」
マグダは言った。
「知ってて、言ってる」
◇
三冊目の、後ろのほうを開いた。
南の堂の夜だ。炭の字。炭で書いた字は、手擦れで薄くなる。薄くなる前に、読む。
「——今日、主は俺の字を褒めた。誰に習ったと訊かれた。あなたに、と答えた。主は、いい師だったな、と言った」
エルドは、帳面を見た。
レイフの字を。炭の、四角い字を。読める。読んで、しばらく、頁から目を上げなかった。
穴の縁で、セシルが、外套の内側を押さえた。帳面のある所を。
少し先の頁は、王都への道だ。焚き火の脇の、平らな石の夜。
「——今日、俺が主に、字を教えた。主の字は、俺より読みにくい」
「……教えたのですか」
エルドが言った。
「あなたが、私に」
「はい」
「私の字は」
「俺より、読みにくいです」
エルドは、自分の右の手を見た。字を書く手を。それから、もう一度、レイフの帳面の字を見た。読みやすい字だ。それは、誰が見ても分かる。エルドは、しばらく、その字を見ていた。
最後の頁の、手前を開いた。
昨日の頁だ。血の指で書いた字は、赤い。赤い字を、読んだ。
「——主は、下りた。俺は、あとから行く」
エルドは、穴のほうを見た。
塞がった穴だ。セシルが、その縁に座っている。
「……行ったのですか」
「行きました。あとから」
「……そうですか」
エルドは言った。
それから、少しだけ、頭を下げた。さっきと同じ、礼だ。何に対しての礼かは、レイフには分からなかった。分からないまま、受けた。
◇
「読んでみな、でかいの」
マグダが言った。壁の下から。
「一冊目の、あの頁を。……あたしの出てくる頁だ」
レイフは、一冊目を、もう一度開いた。あとから書いた頁だ。雨の夜。宿の裏の、荷小屋の軒下。
「——夜、宿の女の人が来た。出ていけと言いに来た。俺は、すぐ出ます、と言った。主が目を開けて、雨宿りを、痛み入る、と言った」
読んだ。
マグダは、壁に背をつけたまま、エルドを見ていた。
「あたしだよ」
マグダは言った。
「宿の女ってのは。……七年前だ。あんたは熱があって、目の焦点も合ってなかった。追い立てに来た女に、雨宿りを痛み入る、って言ったんだ。十三で。……あの晩、あんたが何て言ったか。祭りの町の雨の夜に、あんたに話すつもりで、話しそびれた。あんたの中から、あの晩が抜けてたんでね。……いま、話した」
エルドは、マグダを見ていた。
見て、それから、膝の上の自分の手を見た。
「……それは、言いそうです」
言った。
マグダの顔が、動いた。
動いて、止まった。しばらく、止まっていた。それから、鼻から短く息が抜けた。笑ったのだと思う。
「読めた」
マグダは言った。
「……読める顔だ、あんた。ゆうべは、読めなかった。今朝は、読める」
◇
「白いの」
マグダは、それから、穴の縁のセシルを見た。
「あの口上は、どうする」
セシルは、外套の内側から帳面を出した。粗い紙。炭の字。頁を繰って、止めた。止めた頁を、しばらく見ていた。
「並べます」
セシルは言った。
「まだ、違う、と書いてあります。違うままです。……並べます。時間は、かかります」
「かかるだろうね」
「はい」
セシルは帳面を閉じた。閉じて、外套の内側に入れた。紋の無い右の手で。
同輩が、壁際で、それを見ていた。
◇
レイフは三冊目の、最後の頁を開いた。
昨日の頁の、次だ。炭を出した。血は、もう乾いている。乾いた血の指で、炭を持った。持った手が、一度、止まった。肩の下が、熱い。熱いだけだ。持ち直した。
エルドが、それを見ていた。
「……書いているのですか」
「はい」
「今日のことも」
「書きます」
少しの間があった。
「……私のことも」
「書きます」
レイフは言った。言ってから、少しだけ足した。
「あなたが、いた、と」
エルドは、何も言わなかった。
言わないで、レイフの手元を見ていた。炭が、紙の上で動くのを。何を書いているかは、この人には読める。読めるが、覗きこまなかった。覗かない、ということを、この人はもう知らない。知らないで、覗かなかった。
書いた。
——五十二段。上がるときは、数えなかった。主を背負っていたので。
それだけ書いた。
炭を置いた。帳面を閉じた。革袋の紐を確かめた。いちばん底に、一冊目を戻した。二冊目を、その上に。三冊目を、その上に。
◇
戸は、開いたままだった。
廊下の窓から、白い光が来ている。廊下の先に、門がある。門は開いていた。黒い装備の兵が、その両脇に立っている。門の外は、通りだ。
通りに、人がいた。
朝の市へ行く人たちだ。籠を担いだ女。荷車を引く男。子どもが二人。……足を止めていた。止めて、上を見ていた。
何を見ているのかは、分からない。
空だ。王宮の丘の白い建物でも、宰相府の黒い屋根でもない。その上の空を、見ている。籠を担いだまま。荷車の柄を持ったまま。首を上げて。この町の人は、上を見ない歩き方をしていた。三日前に門を入ったときも、昨日の午も、そうだった。
いまは、見ている。
見上げるものが、あるらしい。
籠を担いだ女が、先に目を戻した。戻して、また、上を見た。
書くのは、今夜でいい。
王都の、朝だった。




