第47話 夜明けの格子
エルドは、振り向いたまま、しばらくレイフを見ていた。
琥珀の目だ。青い光と、赤い光が、半分ずつ入っている。掌は床の白い線の上に置いたままで、膝も石についたままで、顔だけがこちらを向いていた。
「……幾つ、数えた」
声は、いつもの声だった。夜の焚き火で、今日は何を書く、と訊くときの声。
「五十二です」
「……多いな」
口の端が、少しだけ上がった。
レイフも、少しだけ上げた。
それだけだった。エルドは前へ向き直った。据え石のほうへ。赤い線が、据え石を囲んでいる。青い結び目は、あと幾つも残っていない。レイフは、エルドの後ろに立った。真後ろに。触れない所に。七年より前から、そこに立ってきた場所だ。
◇
結び目が、消えていく。
据え石のすぐ脇の一つが、赤くなって、消えた。あの人が、それを見ていた。座ったまま、膝の上の左の手を動かさずに。マグダはあの人の右の腕を持ったまま、レイフを見て、エルドを見た。
エルドの背中が、動いた。
息を吸った背中だった。吸って、吐かない。吐かないまま、掌が、白い線の上で、少しだけ開いた。指が、伸びた。
背中が、また振り向いた。
琥珀の目が、レイフを見た。
口が、開いた。
名は、出なかった。
開いた口が、しばらく開いたままで、それから閉じた。目は、逸れなかった。逸れないまま、レイフを見ていた。見ているのは分かった。何を見ているのかも、分かった。
初めて会った者を見る目だった。
レイフは、動かなかった。
はい、とは言わなかった。呼ばれていない。呼ばれていないときに、はい、と言ったことは、これまで一度もない。
エルドは、目を戻した。自分の掌を見た。白い線の上に置いた掌を、自分の手ではないもののように、見た。それから据え石のほうを見た。据え石の脇の老人と、女を。順に見た。見て、そのどれにも、目を留めなかった。
最後の結び目が、消えた。
◇
「……賭けたのだな、始祖よ」
あの人の声だった。
誰にも向けていない。据え石に向けていたのかもしれない。低くて、平らで、それだけだった。
床が、光った。
白い線が、光った。焼けて白くなった線が、床いっぱいで、いちどきに明るくなった。青ではない。赤でもない。朝の光の色に近かった。線の光は、床にとどまらなかった。上へ、上がった。天井の石があるのに、石を通って、上がった。湯気が椀から立つように、ゆっくりと、床の全部から。
レイフは、それを見た。
どこへ行くのかは、分からない。上だ。上の広間へ。その上の、王都へ。……分からないものは、見ておく。
光が、上がりきった。
床は、ただの石になった。白い線は、光をやめると、石の上の細い傷だった。何百年、何万人ぶんの傷が、床いっぱいについている。それだけだった。
据え石が、割れた。
音がした。石が石の中で割れる、低い音。据え石の真ん中の擦り減った所に線が入って、線が広がって、石が崩れた。崩れた石の粉が、床に散った。天井から、砂が落ちてきた。砂の次に、小さな石が落ちた。
あの人は、動かなかった。
崩れた据え石の脇に、座っていた。杖のない左の手を、膝の上に置いたまま。
「立ちな」
マグダが言った。腕を持ったまま。
あの人は、答えなかった。答えないで、崩れた石を見ていた。天井から石が落ちて、あの人の肩の脇で砕けた。それでも、動かなかった。
マグダは、あの人の顔を見た。
しばらく見ていた。見て、それから、持っていた腕を、離した。
「……あんたの顔は、覚えとくよ」
あの人は、こちらを見なかった。据え石を見ていた。
マグダは立ち上がった。立って、こちらへ来た。来て、エルドの脇に膝をついた。エルドは、床に掌を置いたまま、天井から落ちる砂を見上げていた。
「でかいの」
「はい」
「背負いな」
◇
背負った。
エルドは抵抗しなかった。マグダがその両腕をレイフの肩に回して、胸にレイフの背中をつけさせた。軽かった。南の堂で腕に受けたときと、同じ軽さだった。同じであることが、いちばん、こたえた。
左の肩の下に、重さが乗った。
刺された所だ。縄で縛ってある。縛ってある所に、エルドの腕がかかった。熱かった。熱いだけだ。歩ける。
石段の口へ、歩いた。
後ろで、天井が落ちはじめていた。大きな石が、崩れた据え石の上に落ちた。砂が、部屋いっぱいに立った。その中で、あの人が座っているのが、最後に見えた。座っていた。動いていなかった。それきり、砂で見えなくなった。
後ろは、見なかった。見る首の余裕が、なかった。
石段だ。
暗い。床の光は無い。壁に右の手をついた。左の手は、エルドの脚を抱えている。一段。
数えなかった。
数える息が、なかった。息は、上がるために全部要った。壁を伝って、一段ずつ、上がった。後ろから、マグダの手が、エルドの背中を押している。押して、支えている。石段の上のほうから、石が落ちる音が、下へ遠ざかっていった。下で、部屋が崩れている。
上に、灯りが見えた。
角灯の火だった。黄色くて、小さくて、揺れている。石段の口から、下へ向けて差し出されている。
「レイフ」
セシルの声だった。名を呼んでいる。二度、呼んだ。
「……上がります」
声は出た。出て、また一段、上がった。
◇
穴の縁で、セシルがエルドの腕を取った。
紋の無い手で。恩恵の無い腕で。重かったはずだ。重いまま、引き上げた。レイフは穴の縁に膝をついて、背中のエルドが引き上げられるのに合わせて、身体を持ち上げた。持ち上がった。マグダが後ろから上がってきた。左の腕の血が、袖を黒くしていた。
四人が、広間の床にいた。
床の下から上がった光を、この広間で見た者はいなかった。誰も、その話をしなかった。
穴の下で、音が続いていた。石が落ちて、石に当たって、砕ける音。それが、だんだん近くなった。近くなって、穴の口のすぐ下で、大きな音が一つして、それきり止まった。
冷たい息が、来なくなった。
レイフは穴を覗いた。角灯の火を、セシルが差し出した。石段は、五段目まで見えた。その先は、石で塞がっていた。砂が、まだ細く落ちている。
塞がった。
あの人は、下だ。
レイフは、穴から目を上げた。
広間は、来たときのままだった。低い天井。黒い石。燭台の火。壁際に、兵が立っている。半分ほど。立ったまま、動いていない。何人かが、自分の右の手の甲を見ていた。
紋は、そのままだった。
黒く裏返ってもいない。剥がれてもいない。門衛と同じ、職務の紋が、青いまま手の甲にある。消えたのは、床の下のものだけだ。この人たちの誓いは、この人たちの手に残った。
供の一人が、穴のそばへ来た。
来て、覗いた。角灯の火を、セシルは差し出さなかった。供は暗い穴を覗いて、しばらく、そのままでいた。それから、戸口の脇へ戻って、床に座った。もう一人の供が、その隣に座った。二人とも、何も言わなかった。
戸は、閉まったままだった。閂の音は、まだ落ちたままだ。
◇
エルドを、壁際の床に寝かせた。
目は開いていた。開いていて、天井を見ていた。何も言わない。息はある。息の音を、レイフは聞いた。聞いて、それから、自分の肩の下に手をやった。縄の下が濡れている。
「座ってください」
セシルが言った。
座らされた。エルドの隣に。セシルは自分の外套の袖を裂いて、レイフの縄の上から、もう一度縛った。裂いた袖の下から、セシルの左の腕が見えた。切れた所は、まだ閉じていない。閉じないまま、乾きはじめている。
「痩せ我慢は」
「していません」
「……そうですか」
セシルはそれ以上言わなかった。言わないで、マグダの腕を縛りに行った。
マグダは壁に背をつけて座っていた。座って、縛られるままにしていた。縛られながら、床のエルドを見ていた。エルドは天井を見ている。マグダはその顔を読んでいた。読んで、何も言わなかった。
「読めない顔だよ」
しばらくして、マグダが言った。
「八年で、初めてだ」
◇
夜が、来た。
広間には窓が小さくて、外の暗さがすぐに分かった。燭台の火が一つずつ短くなって、消えていった。消えた燭台に、誰も火を足さなかった。兵は壁際にいた。夜半に、一人が槍を壁に立てかけて、床に座った。二人目が座った。立っている兵と座っている兵が、朝まで、壁際にいた。供は戸口の脇に座ったままだった。
レイフは、壁に背をつけて、エルドの隣に座っていた。
エルドは、目を閉じていた。閉じたのは、夜が来てからだ。寝息はすぐではなかった。長いこと、目を閉じたまま、息だけをしていた。それから、寝息になった。
血は、夜半に止まった。セシルが、もう一度、縛り直した。
レイフは、寝なかった。
革袋は、脇にある。三冊目は、その中だ。炭を出さなかった。書くことは多い。多いが、書く手が、今夜は、この人の背中を支えていた。書くのは、朝でいい。
セシルが、角灯の火を小さくして、穴の縁に座っていた。塞がった穴の縁に。番をする場所は、もう無い。それでも、そこに座っていた。マグダは壁の下で、目を閉じていた。閉じているが、寝ていない。八年、そういう閉じ方をしてきた人だ。
燭台の火が、最後の一つになった。
◇
戸の向こうで、声がした。
幾つかの足音と、低い声。閂の音が、一度、鳴った。鳴って、止まった。戸の向こうで、誰かが誰かに、何かを言っている。
「……閣下のお招きの客だ。詰所は、縛れん」
セシルが、顔を上げた。
同じ声が、続けた。
「縛れんなら、迎えに行くしかない」
閂が、落ちた。
戸が、外から開いた。
朝の光が、入ってきた。戸の向こうの廊下の窓から、白い光が、低い天井の下へ差し込んだ。白い制服が、戸口に立っていた。一人、二人。黒い髪を短く切った女の騎士が、先に入ってきた。入って、壁際の兵を見て、穴を見て、床のエルドを見て、それからセシルを見た。セシルの右の手を、見た。
何も言わなかった。
その後ろから、顎の四角い年の行った騎士が入ってきた。五十がらみ。詰所の隊長だ、とセシルは言っていた。隊長は広間を見渡した。
「閣下は」
「下です」
セシルが言った。立ち上がって、規程どおりの姿勢で。紋の無い手を、袖に入れずに。
「石段が、塞がりました」
隊長は、穴を見た。しばらく見ていた。それから、壁際の兵を見た。兵は動かなかった。動かない兵を、隊長はそれ以上見なかった。
「閣下が下なら、詰所の縛る相手は、ここにはおらん。……外は、朝だ」
隊長は言った。それだけ言った。
◇
光が、床を渡ってきた。
戸口から、擦り減った黒い石の上を、白い光が伸びてきて、壁際の床まで届いた。レイフの膝に届いた。その隣の、エルドの顔に届いた。
目が、開いた。
琥珀の目だ。朝の光の中で、その色をしていた。
開いて、天井を見て、それから、顔を横に向けた。レイフを見た。
しばらく、見ていた。
夜と、変わっていなかった。呼ぶ名を持たない目のままだった。変わっていないまま、目が、少しだけ細くなった。何かを見ようとしている目ではなかった。見えているものを、見ている目だった。
口が、開いた。
「……あなたを、知っている気がします」
声は、掠れていた。掠れて、静かだった。
「いや」
少し、間があった。
「……ありがとう、と言うべき気がする」
レイフは、その目を見た。
見て、答えた。
「……はい」




