第46話 すべて
石段は、狭かった。
肩が壁に触れる。壁は冷たくて、湿っていない。乾いた、古い石だ。丘の石段より古い。あの石段を下りたときは燭台があった。いまは、無い。前を下りていく二人の足音だけが、下から返ってくる。老人の足と、もう一つ。
数えなかった。数えるのは、あとから来る男の癖だ。
甘い匂いがした。
段の上を、細い水が伝っている。倒れた茶器から流れた茶だ。石の段を一つずつ落ちて、先へ先へと下りていく。靴の底が、濡れた所を踏んだ。北の城の冬の匂いが、王都の地の底へ、自分より先に下りていく。
足元が、少し明るくなった。
燭台の火の色ではなかった。青い。淡くて、揺れない。壁の石が、その色を薄く返している。段を下りるごとに、明るくなった。
段が、終わった。
◇
広かった。
上の広間と同じほどの広さがある。天井は低い。壁は四方とも石で、字は無い。丘の石の間にはあった字が、ここには無い。字は、丘に置いたのだ。ここには、字で書かれなかったものがある。
床が、光っていた。
線だ。床一面に、線が走っている。縦に、横に。線と線の交わる所に、小さな光の結び目がある。一つずつ、淡い青に光っている。幾つあるのかは、分からない。万の民、と壁は言った。これが、その数だ。
光が、明滅していた。
ゆっくりだ。強くなって、弱くなって、また強くなる。寝息のようだった。床の下で、幾百年、何かが眠って、息をしている。
格子。あの人は、そう呼んだ。
線は、みな、真ん中へ集まっていた。真ん中に、平らな石が一つある。ほかの床より少し高くて、真ん中が擦り減っている。線という線が、その石に繋がっている。始祖が、最初の口上を唱えた石だ。壁に、そう書いてあった。石の脇に、老人が立っていた。総白髪が、青い光を受けている。杖は無い。右の腕を、マグダが持っている。
マグダが、こちらを見た。
何も言わなかった。持っている腕を、離さなかった。
エルドは、石段の下に立っていた。床の線は、足元から始まっている。いちばん外の線が、靴の先のすぐ前で、淡く光っていた。
「ここだ」
老人の声が、低い天井の下を渡ってきた。
「万の民が預けたものだ。幾百年、誰も見ていない。私と、私の前の者だけが見た。……見るがいい。お前の家が、幾百年、知らずにいたものだ」
エルドは、見た。
見て、床に、膝をついた。
石が冷たい。線の光が、膝の脇にある。近くで見ると、線は細かった。糸ほどの細さで、それが床いっぱいに張ってある。結び目の一つが、膝のすぐ前で、息をしていた。
「なぜ、払える」
老人が言った。
平らな声だった。平らなまま、少しだけ低い。
「空になってまで、なぜ」
エルドは、結び目を見ていた。
「私が忘れても、覚えている者がいる」
言った。
言ってから、顔を上げた。据え石の脇の老人を見た。老人は動かなかった。薄い灰の目が、青い光の中でこちらを見ていた。
「……三度目か」
それだけ言った。
数え損ねは、二度目になります。上の広間で、自分がそう言った。三つ目を、この人は、いま数えた。
この人には、それで足りたらしかった。目が、動かなかった。
エルドは、右の手を上げた。
紋のない手。四つの紋を焼き切った手。掌を、いちばん外の線の上に、下ろした。
◇
冷たかった。
線は、熱を持っていなかった。光っているのに、冷たい。石の冷たさと同じ冷たさで、掌の下にある。掌の真ん中に、糸ほどの線が一本、通っている。
押した。
押すと、線の青が、掌の縁で、赤に変わった。
ゆっくりだった。娘の綱のときより、掌典の縫い目のときより、ずっと遅い。油に落とした火が広がるときの遅さだった。掌の縁から赤が出て、線を伝って、離れていく。指の幅ほど進んで、止まる。止まって、また進む。線に沿って、赤が這っていった。
最初の結び目に、赤が届いた。
結び目が、赤くなった。赤くなって、はじけなかった。灯りを吹き消すように、消えた。あとに、小さな白い点が残った。
匂いがした。
石が焼ける匂いだった。蝋の匂いではない。麦の綱の匂いでもない。もっと古くて、乾いた匂いだ。
引かれた。
掌の下で、何かが引かれた。引かれる先は、床ではない。自分だ。自分の中の、どこかだ。糸の端を持って、誰かがゆっくり引いている。
父。
そう思った。思ったのではなく、引かれた所に、それがあった。父の顔。琥珀の目。あの晩の居間の、暖炉の前の。
……無い。
父、という言葉はある。御館様、という呼び方もある。顔が、無い。目の色が、無い。ある。炭焼きの小屋で、そう言った。堂の井戸端で、そう数えた。さっき、上の広間で、まだある、と思った。いまは、無い。
赤が、次の線へ移った。
甘い匂いが、床の上を這っている。石段を落ちてきた茶だ。線の間を、細く流れている。知っている匂いだ。北の城の冬の味。母が、あの人が、十三年……。
知っている匂いだった。
何の匂いか、分からない。
甘い。それだけだ。甘い匂いが、床を這っている。何かの匂いだったはずだ。その何かが、無い。
二つ。
数えるつもりはなかった。数えたのではない。無い、と分かるたびに、数が増えた。
結び目が、また一つ消えた。白い点が、二つになった。赤は、線を二本伝って、奥へ向かっている。
◇
歩みは七歩、壇の右手から。
言葉が来た。口上の言葉だ。杯は捧げ持ち、唱え終えるまで口をつけない。ぜんぶ言える。一語も欠けていない。
どこで、言ったか。
居間だ。宴の前の晩の。暖炉が大きかった、と帳面にある。……帳面にある。それは知っている。居間が、無い。暖炉の火が、無い。誰の前で言ったのかが、無い。
言葉が、残る。言葉だけが。
エルドは掌を上げなかった。上げれば止まる。止めない。赤は、もう掌から離れて、自分で進んでいる。掌は、置いてあるだけだ。それでも、上げなかった。
寒い。
寒かったはずだ。雪の道。背中の革の匂い。どこへ行く、と訊いた。南へ、と答えた声。
革の匂いが、無い。
上から、匂いが来る。石段の上から。革の匂いだ。荷の革。あの男の袋の匂い。……その匂いと、雪の道の匂いが、繋がらない。同じ匂いのはずだ。繋ぐ所が、無い。
エルドは、息を吐いた。
吐いた息が白くならないのを、見た。冷たい部屋だ。白くなってもいい寒さだ。ならなかった。
三つ。四つ。
結び目が、消えていく。一つずつではなくなっていた。赤が線を伝って広がって、行く先々で、結び目が消える。白い点が増えていく。床の外側が、青から、白へ変わっていく。白い線は、光らない。
卵が二つ。二十歳の朝の。
井戸のがいちばん冷えます、夏ですし。
声は、ある。
言った声が、ある。低くて、真面目な声だ。何の話だったのかが、無い。井戸端が無い。夏の、どこだったのかが無い。声だけが、宙にある。
五つ。六つ。
◇
老人が、座った。
据え石の脇に。座らされたのではない。マグダは腕を持ったままだった。持ったまま、老人が膝を折るのに合わせて、自分も膝を折った。老人は石の床に座った。杖のない左の手を、膝の上に置いた。
光が、細っている。
据え石の周りの結び目は、まだ青い。青いが、明滅が浅くなった。寝息が、浅い。老人はそれを見ていた。見て、何も言わなかった。赤は、床の半分を越えていた。
この火は、覚えていたい。
言った。尾根の沢で。覚えていたい、と、願う形で言った。四人が、同じ火の周りで、同じことで笑った夜。
火が、無い。
言った覚えだけが、火の無い所に、残っている。何を覚えていたかったのかが、無い。四人で笑った。笑ったことは知っている。何がおかしかったのかが、無い。
七つ。
もう、数えなかった。
膝が、石を押している。押している感じだけが、はっきりしていた。掌は冷たい。掌の下の線は、もう白い。白い線の上に、掌を置いている。赤は遠くにいる。据え石のほうへ、据え石のほうへ、進んでいる。
◇
顔を上げた。
据え石の脇に、女がいた。
赤銅色の髪を、肩の上で切りそろえている。灰みの緑の目。老人の右の腕を持って、膝をついている。こちらを見ていた。
知らない女だ。
そう思った。
思った所に、穴の形だけがあった。この女の名を、自分は知っている。マグダ。……名が、残っている。名だけだ。名の中身が、無い。雨の軒下が無い。三歩が無い。堂の床に頬をつけて、頼む、と言った未明が無い。言った、ということだけが、どこかにある。誰に言ったのかが、無い。
女の顔が、動いた。
動いて、止まった。何も言わなかった。持っている腕を、離さなかった。
エルドは、目を戻した。
上にも、誰かがいる。白い制服の誰かだ。まだ、違う、と帳面に書いた誰か。……その声を、聞いた。宰相府の広間で。読み終えて、まだ違うと書いています、と言った声を。
誰かが、無い。
声だけがある。白い制服だけがある。上にいる、ということだけがある。
赤が、据え石の周りに届いていた。
最後の青い結び目が、幾つか、据え石を囲んで息をしている。老人がそれを見ている。女がそれを見ている。自分は、掌を置いている。
石段を、足音が下りてくる。
一段ずつ。止まらない。ゆっくりで、揺れていない。数えている足だ。数えるのは、あの男の癖だ。
……レイフだ。
ある。
あの男は、まだ、ある。名がある。顔がある。石段を数えて下りてくる足がある。低くて真面目な、はい、の声がある。まだ残っているものの、ぜんぶが、あの男だ。
エルドは、掌を白い線の上に置いたまま、石段の口のほうを、振り向いた。
◇
レイフは、五十二段目で、床に足をつけた。
五十二。数えた。上がるときに書く数だ。
部屋は、思ったより広かった。上の広間ほどある。天井が低い。床が、光っていた。線が床いっぱいに張ってあって、線の交わる所に小さな光がある。外側の線は、白い。光っていない。奥へ行くほど赤くて、いちばん奥の、真ん中の石の周りだけが、まだ青かった。青い光の中で、小さな光が一つ、消えた。灯りを吹き消したように。
石が焼ける匂いがした。
真ん中の石の脇に、あの人が座っていた。杖が無い。マグダが、その腕を持って、膝をついている。マグダがこちらを見た。見て、何も言わなかった。
エルドは、石段の下にいた。
膝をついて、右の掌を、床の白い線の上に置いている。背中が、こちらを向いていた。
背中が、動いた。
振り向いた。琥珀の目が、レイフを見た。
「……レイフ」
「はい」
名を、呼ばれた。
まだ、呼ばれる。




