第45話 誓紋なき剣
熱かった。
左の肩の下だ。背中から入って、胸の骨の手前で止まった。止まったのが、分かった。骨に当たった細い音が、身体の内側で鳴った。外には聞こえない音だ。
重い。
荷より軽い、と南の堂で思った。エルドの身体を腕で受けたときだ。いまは、自分の身体が、荷より重い。重いのに、レイフは倒れなかった。倒れる理由がなかった。覆いかぶさった胸の下に、エルドがいる。膝をついて、鉄の環に手をかけたまま、振り向いている。琥珀の目が、自分を見上げている。
振り向いた主の背中に、刃は届いていない。
それで、いい。
◇
刃が、後ろへ引かれた。
抜けなかった。骨に止まっている。もう一度、引かれた。それでも抜けない。抜ければ、刃は次に、エルドへ下りる。
身体を起こして、回った。
刃が、身体の中で動いた。動いた分だけ、熱が広がった。背中で、柄を握った手が引きずられて、外れた。
回りきったとき、誓約主の顔が、目の前にあった。
その左の手が、柄を握った形のまま、宙で止まっていた。刃は、柄ごと、レイフの背中に残っている。誓約主は、その手を見なかった。右の手が、上がった。
上がった手が、レイフに向いた。
恩赦の儀で百の紋を外した手だ。離宮で二十を外した手。今日、この部屋で、セシルの紋を外した手。その手が、レイフの顔の高さで、止まった。
何も、起きなかった。
身体のどこも、裏返らなかった。剥がれるものが、無い。熱いのは肩の下の刃だけで、あとはいつものままの身体だった。
誓約主は、上がった自分の手を見た。
紋が無いことは、この人は知っている。離宮で、自分でそう言った。解くべき紋が、お前には無い、と。忘れる人ではない。上げたのは、癖だ。ずっと、その手で全部を済ませてきた人の手が、済まないものの前で、勝手に上がった。上がって、何も起きないのを、この人は自分の目で見た。
誓約主の目が、動いた。
平らな目が、初めて、平らでなくなった。
「お前は……何にも、縛られていないのか」
声も、平らでなかった。訊いているのは、紋のことではなかった。
レイフは、答えた。
「縛られてます」
言ってから、少し足した。
「……自分で選んだので」
毎朝、決めてきた。今朝も決めた。それだけのことだ。それだけのことで七年、と、この人の目は言っていた。
◇
左の手を、上げた。
上がった。肩の下に刃が入ったままでも、腕は動いた。動く腕で、誓約主の右手首を取った。取って、下へ引いた。マグダがそうしたのを、見ていた。
右の手を、左の肩越しに、背中へ回した。
指が、柄に届いた。握って、引いた。刃が、骨から外れて、抜けた。抜けた所が、いちどきに熱くなって、それから、濡れた。
レイフは、抜いたものを見た。
杖の柄から、細い刃が一本、生えている。血で濡れている。自分の血だ。
刃を、床の石に、叩いた。
細い刃は、細い音を立てて、根元で折れた。折れた先が石の上で一度跳ねて、蓋の脇に止まった。柄だけが、手に残った。それを床へ置いた。
誓約主は、杖を失って、立っていた。
背筋は伸びたままだった。右手首はレイフが取っている。左手には、何もない。誓約主は、何も無くなった左手を、一度見た。
「……この手は、空を掴んだことがなかった。ただの一度も」
誰にも向けていない声だった。
◇
マグダが来た。
左の前腕から血を垂らして、それでも足は乱れていなかった。来て、レイフの手から誓約主の手首を受け取った。受け取って、後ろへ回して、押さえた。堂の戸口でエルドをそうしたのと、同じ取り方だ。
「でかいの。……肩」
「はい」
「はい、じゃないよ」
マグダはそれだけ言って、誓約主の腕を押さえたまま、部屋を見た。
レイフも見た。
二十の槍のうち、まだ立っているのは半分ほどだった。折れた槍と、落ちた槍と、床に膝をついた兵と、腕を押さえた兵。立っている兵は、穂先を下げたまま、動かなかった。動くには、命じる声が要る。命じる人は、腕を取られて、蓋の脇に立っている。
「命じる声は、いま、あたしが押さえてる」
マグダが言った。兵たちに。
「声が無いのに槍を出したら、それは職じゃない。ただの人殺しだ。……あんたらの誓いは、館を守ることだろう。そこまでは、書いてないはずだよ」
兵は、動かなかった。
誓いは、言葉のとおりにしか働かない。門を守る誓いは、教会の荷を開けろとは言わない。館を守る誓いは、客を殺せとは言わない。誓いの外は、人の勝手だ。勝手で人を殺す者は、ここには、いなかった。
セシルが、剣を下げて、こちらへ来た。
紋の無い右手で剣を持って。左の腕から、血が手の甲まで下りている。閉じていない。
◇
エルドは、蓋を上げた。
鉄の環を両手で引いて、石の蓋が、床から持ち上がった。持ち上がって、横へ倒れた。石が石を打つ音が、低い天井の下で一度鳴った。
穴があった。
狭い。人一人が下りられるだけの四角い穴だ。石段が見える。下へ。冷たい息が上がってくる。石の匂いだ。丘の石段の下で嗅いだのと同じで、もっと古い。床に流れていた茶が、穴の縁から、糸のように下へ落ちていった。甘い匂いが、石の匂いに混ざった。
誓約主が、穴を見た。
「下りる口は、一つだ」
平らな声が、戻っていた。
「……番人が、先に下りる」
マグダの手が、誓約主の腕の上で、少しだけ強くなった。
「あんたを刺した手だよ、でかいの」
マグダは、レイフを見て言った。
「この手を、放すのかい」
レイフは肩の下を右の手で押さえていた。押さえた掌が、濡れている。
「はい。刺されました」
言った。
「でも、話が、終わっていません。あの人と、エルド様の」
エルドが、穴の縁に膝をついたまま、顔を上げた。
「床の下に、あの人と私の話が残っています」
エルドは、マグダに言った。
「……行かせてください」
マグダは、しばらくエルドの顔を見ていた。それから、誓約主の顔を見た。二つの顔を、この人は順に読んだ。読んで、自分で決めた顔になった。
「行かせるさ。……あたしも、行く」
マグダは、手を離さなかった。
「この手は、あたしが持って下りる。上がったら、また止める。あんたが払う場所に、あたしがいないってことは、ないよ。そう言ったろう」
それから、セシルを見た。
「白いの。でかいのを、頼む。……上を、塞いどいて」
「はい」
セシルが言った。紋の無い手で、剣を持ち直して。
誓約主は、答えなかった。
答えないで、穴の縁に立った。杖はない。何も持たない左手を、穴の縁の石についた。右の腕は、マグダが持っている。ついて、一段、下りた。老人の足だった。老人の足で、振り向かずに、二段、三段。総白髪が穴の暗さの中に沈んで、その後ろに、マグダの赤銅色の髪が沈んだ。
◇
エルドが、立った。
立って、床に置いていた剣を拾って、腰に差した。差してから、レイフを見た。
レイフは、見られた。
長かった。エルドがレイフの顔を見る時間としては、いちばん長かった。何を見ているのかは分からない。分からないので、レイフは数えた。一つ。二つ。三つ。エルドの口は、開かなかった。開かないまま、四つ。五つ。
エルドは、目を逸らさなかった。逸らさずに、言った。
「行く」
「はい」
それだけだった。
エルドは穴の縁に手をついて、一段、下りた。二段。琥珀の目が、穴の縁から自分を見上げて、それから、下を向いた。三段。亜麻色の髪が、暗さの中に沈んだ。
石段の音が、下へ遠ざかっていった。
◇
「座ってください」
セシルが言った。
座らされた。壁に背をつけて。セシルは自分の腰から捕縄を一本外した。捕り物に使う縄だ。それをレイフの肩の下に回して、締めた。血が、少し止まった。
「規程には、ありません」
セシルは言った。縄を結びながら。
「縄は、縄です」
セシルが、その上から自分の掌で傷を押さえた。切られた腕の手だ。血が混ざった。セシルの血は、今日から、閉じるのを待つほかにない血になった。自分の血は、いつもそうだった。同じ血だ。
「重いですか」
「はい」
「重いだけです」
セシルは言った。言って、押さえる手を離さなかった。
セシルが、机の上から三冊目を取ってきて、膝に置いた。炭は、革袋から自分で出した。血で濡れた指で炭を持つと、紙に赤いものがついた。それでも書けた。
——主は、下りた。俺は、あとから行く。
それだけ書いた。書いて、帳面を閉じた。閉じて、革袋の紐を確かめた。
◇
立った。
セシルの肩を借りて、それから、借りずに。壁が、来たときより遠くにあった。手を伸ばせば、届いた。届けば立てる。立てば、歩ける。歩けば、下りられる。
「レイフ」
セシルが、名で呼んだ。
「あとから行く、と書きました。書いたことは、します」
セシルは、それ以上止めなかった。止めないで、穴の縁に膝をついて、自分の左腕の血を袖で押さえた。
「……下りたら、書いてください。何段あったか」
「はい」
レイフは穴の縁に立った。
冷たい息が、下から上がってくる。石の匂いと、甘い匂い。エルドの足音は、もう聞こえない。誓約主の足音も。マグダの足音も。三人とも、この下にいる。
壁に、左の手をついた。
一段。
数えた。数えるのは、癖だ。
二段。三段。
何段あるかは、上がってから書く。




