第44話 手を出す
戸が閉まった音は、まだ天井に残っていた。
低い天井だ。音の逃げ場がない。二十の穂先が、四人の胸の高さで止まっている。止まっているだけで、まだ来ない。来ないのは、命じられていないからだ。命じる人は机の向こうに座っている。杖を膝に置いて、机の上の三つを見ている。書状。写し。帳面。
マグダは、それを全部見た。
八年、人の顔を読んできた目だ。今日は顔だけを読まない。穂先の高さ。兵の足の開き。戸口の脇に立った供の一人と、机の脇に残った供の一人。閂の音が落ちた戸までの歩数。全部、読む。読んで、あたしの出す先を決める。杖は、数えなかった。
手は出す、と決めてきた。
出す先は、槍じゃない。
◇
あの男が、立った。
立って、杖を持ち替えた。持ち替えて、机の後ろの床を、杖の先で二度、叩いた。石の音が二度、低い天井の下で鳴った。
「下りる口は、ここだ」
平らな声だった。
机の後ろ。床の石がいちばん擦り減っている所だ。その真ん中に、ほかの石より少し色の違う、四角い石が一枚あった。鉄の環が一つ、埋め込まれている。何百年、人がその上を歩いた。歩いて、擦り減らせた。あの男は、その上に机を置いて座っていた。
番人が、扉の上に座っていたわけだ。
あの男は蓋を示して、そのまま机の脇に立った。座らなかった。動かなかった。……来い、と言っている。自分の手の届く所へ。餌だ。餌だと分かるように置いてある餌だ。
エルドは動かなかった。
動かないで、蓋を見ていた。見て、それから、あの男を見た。見た顔は、読めた。行く顔だ。行くと決めて、行く前に、あたしらの顔を順に見た顔だ。
でかいのが、一歩、前へ出た。
「エルド様は、俺の後ろに」
それだけ言った。
◇
槍が、寄った。
二十が、一度にだ。左の十は机の前へ回って、あの男への道を塞いだ。右の十が、四人へ来た。穂先が下がって、前と後ろの二列になる。前の五本が、間合いに入った。
でかいのが、動いた。
速くはない。この男は速く見えない。一本目の穂先の外側へ身体を少しだけずらして、柄を左の腕で押さえて、右手で穂の根元を掴んだ。掴んで、引いた。兵の手から、槍だけが抜けた。抜けた槍が、床に落ちた。二本目が来る。来た柄の上に一本目の兵の身体を重ねて、二人ぶん、足をもつれさせた。三本目は、来る前に、穂先を柄ごと踏んで折った。
殺していない。
あたしはそれを見ながら、自分の前の一本を見ていた。若い兵だ。穂先が揺れている。揺れる穂先は、突く前に、一度引く。引いた瞬間に、柄の内側へ入った。入って、兵の膝の裏を、自分の膝で押した。膝が抜ける。抜けた身体の腕を取って、槍を貰った。貰った槍を、次の兵の穂先に、横から当てた。
白いのは、右で剣を抜いていた。
刃の平で打つ間合いだ。捕縛の型。丘の見習いが幾百回と繰り返す型で、白いのはそれを、恩恵の乗った腕で振る。穂先が二本、まとめて叩き落とされた。落とした剣が、そのまま三本目の柄を打って、柄が割れた。細腕に、三年ぶんの誓いが乗っている。乗っているうちは、白いのは、この部屋で二番目に強い。
エルドは、机へ向かっていた。
剣は抜いている。抜いて、受けにだけ使っている。左の十の穂先を鍔で外して、外した柄を左の手で押しやって、一歩、進む。斬らない。七年、あたしが教えた剣だ。斬れる剣だ。斬らないで進む。進む先は、机の後ろの、鉄の環だ。
あたしは槍を一本、貰って、二本目を貰った。
◇
あの男の右手が、上がった。
見えた。
あたしは、その手が上がるのを、これまでに三度見ている。十年前の恩赦の儀。この夏の恩赦の儀の前庭で、百の紋が黒く裏返ったとき。離宮の広間で、二十の紋が外れたとき。四度目が、いま上がった。
向いている先は、白いのだ。
「巡察のセシル」
平らな声が、槍の音の上を通った。
「……その誓い、天が預かる。今日を限りに、誓いは、この者を離れる」
教典の言葉だ。恩赦の儀の口上を、一人に向けて言い直した。
白いのの右の手の甲で、薄青い小さな紋が、黒く裏返った。
裏返って、剥がれた。焼けていない。灰も出ない。ただ、外れて、消えた。十九の冬に壇上で立てた誓いが、この部屋で、あの男の手一つで、外れた。天が預かったのだと、教典は言う。……預けた先は、天じゃない。あの男が、万の民の底から払って、外した。教典はそれを、天が預かる、と書く。書くしかないのさ。八年前の頁を書かせた手が、いま、白いのの誓いを外した。
白いのの剣が、止まった。
止まったのではない。重くなったのだ。振り上げた剣の速さが、途中で半分になった。恩恵が抜けた腕は、剣の重さを、初めて剣の重さのまま受けている。穂先が一本、その隙に入った。白いのの左の腕を、袖ごと浅く切った。
切れた所が、閉じない。
あたしはそれを見た。騎士の切り傷は、日が暮れるまでには塞がる。塞がりはじめる気配すら、ない。赤い線が袖の裂け目から出て、手の甲まで、ゆっくり下りていく。白いのは、自分の腕を見た。見て、剣を持ち替えた。両手で。
「……重い」
白いのの声が、聞こえた。
「重いだけです」
両手で持った剣を、白いのは振った。恩恵の無い腕で。速さは半分だ。半分の速さで、それでも穂先の一本を柄の根元から叩いた。叩いて、立っていた。規程どおりの立ち方ではなかった。誓いの残っている立ち方でもなかった。どちらでもない立ち方で、紋の無い手で剣を持って、白いのは立っていた。
あの男は、その手を、もう一度上げようとしていた。
◇
あたしは、槍を捨てた。
二本とも、床へ。槍を持った女は、槍の間合いでしか動けない。動きたいのは、槍の間合いの内側だ。
低く入った。穂先の下を。兵の脇を。あたしが自分より大きい男を組み伏せられる取り分は、上からじゃない。下からだ。下へ入って、下から抜ける。机まで六歩。四歩目で、机の脇の供が気づいた。気づいて、手を伸ばした。伸ばした手の肘を、通りすがりに膝で押した。押された腕が、行き先を失って机の角を打った。机の上の茶器が倒れて、甘い匂いが床に流れた。五歩目。六歩目。
あの男の右手は、肩の高さまで上がっていた。
あたしはその手首を、両手で取った。
取って、下へ引いた。上げようとする手は、下へ引かれると、肩が抜ける。八年前に、あたしが自分の手に出せなかった力を、全部、その手首に乗せた。
手が、止まった。
肩の高さで、止まった。上がらない。
桶屋の男の顔が、いつものように来た。日に一度、来る顔だ。道具を娘に渡してくれ、と言った顔。八年、あの顔の後ろには何も無かった。頁が一枚あるだけで、頁を書かせた手は、どの頁にも書いてなかった。……今日、顔の後ろに、手がついた。この手だ。
「……この手が上がるのを、あたしは四度見た」
声は、思ったより低く出た。
「十年前の恩赦の儀。この夏の恩赦の儀。離宮。いま。……五度目は、ない」
あの男の目が、あたしを見た。
薄い灰の目だ。近くで見るのは、初めてだった。八年、この目を想った。想って、顔を持たせなかった。顔を持たせれば、憎める。憎めば、量らなきゃならなくなる。だから、持たせなかった。……いま、目の前にある。ただの、年寄りの目だ。
「用心棒か」
あの男は言った。
平らな声のままだった。手首を取られていても、声は変わらない。
「元審問官だよ」
あたしは言った。
言ってから、続けた。続けるつもりで、来た。
「マグダ=ヴェイン。西の町で、あんたの頁を信じた審問官だ」
あの男の目が、一度、止まった。
止まって、動かなかった。一度会った者の名と顔を忘れない、と、この男は離宮で言った。書かせた名は忘れない、と、さっき言った。審問官の名は聞くまでもなかった、とも。……今日から、両方だ。名も、顔も、忘れさせない。
「道具は、娘に渡したよ」
あたしは言った。
「桶屋の男が、あたしに頼んだとおりに。あたしがこの手で首を落とした、翌日に。娘は三つだった。何も分からずに、鑿の箱を抱えた。……あんたの名は、言えなかった。知らなかったからね。今日から、言える」
「言って、何が変わる」
手首を取られたまま、あの男は言った。
「変わらないよ。あたしが、言えるようになるだけだ。それだけのために、八年、生きてた」
◇
左の手が、動いた。
あの男の左手だ。杖を持っている手。あたしは右手首を両手で取っている。左は空いている。空いた手が、杖を、床から持ち上げた。細い杖だ。この男はどこへ行くにもこの杖を持っている。膝に置いて、机で動かして、床を叩いた杖。
杖の柄が、回った。
柄と杖の間に、細い線が見えた。線が、開いた。
細い杖の中から、細い刃が出た。
あたしは見た。見て、分かった。分かったのと、刃が来たのは、同じだった。左の前腕を、浅く、横に切られた。熱かった。熱いだけだ。深くはない。深くはないが、手が、開いた。開いた手から、あの男の手首が抜けた。切られた腕を引いた分、身体が机から離れた。
抜けた手を、あの男は上げなかった。
上げないで、身体ごと、机の後ろへ回った。
蓋の所へ。
エルドが、そこにいた。
膝をついて、鉄の環に手をかけて、蓋を持ち上げようとしていた。背中が、こちらへ向いている。剣は床に置いてある。両手で環を引いている。上げかけた蓋の隙間から、冷たい息が出て、床の上を這っていた。
細い刃が、その背中の上に、上がった。
「ちび!」
叫んだ。
叫びながら、走った。届かない。机が、間にある。回り込むには、三歩要る。刃は、もう届く所にある。あの男の左手が、下りた。
でかいのの背中が、刃と、ちびの間に入った。
音は、聞こえなかった。




