第42話 割れる教会
若い男は、馬の上で四日を過ごした脚のまま、蔵の床に座った。
座って、水を一杯飲んで、それから喋った。喋り方は速くて、順番がよかった。丘で、誰かが順番を教えて送り出したのだ。セシルは帳面を開いて、その順番のまま書いた。
前の掌典が丘に着いたのは五日前の夕方。年嵩の騎士が馬車を借りて運んだ。翌朝、勤行の終わりに、掌典は聖堂の前庭に立った。恩赦の儀の祭壇の跡のそばだ。そこで口を開いた。
「唱えられました。十行。石の字を、頭から尻まで。声が、途中で嗄れました。それでも、最後の行まで」
聞いた者が、書き取った。書役が二人、学僧が幾人か、それから、前庭にいた白い制服のうちの何人か。その写しが、いま、丘のあちこちにある。
「触れ書きは」
セシルは訊いた。
「剥がされました。詰所の門のを。騎士様が、ご自分の手で。剥がして、それを掌典さまの足元に置きました。数が合わぬ、と」
数が合わぬ。
セシルはその五文字を書いた。書いて、指が少し止まった。あの同僚の言い方だ。畑の縁で、パンを見たまま言った言い方。
「団長は」
「外郭の門を、閉めました。門を閉めて、内側におられます。前庭に残った者と、門を閉めた側と。丘は、そう、二つに」
「いまの掌典さまは」
「出てこられませんでした。堂の奥から、一度も」
出てこない。それが答えだ。
「大所長は」
エルドが訊いた。若い男は少し考えた。
「大所の戸を、内から閉めたそうです。懐に、帳を抱えて。どちら側かは、誰にも分かりません」
どちら側でもない、とセシルは思った。あの人は、鍵の持ち主の側だ。鍵の持ち主が誰になるかが決まるまで、戸を閉めて待つ。そういう人だ。書かない。
◇
若い男が寝入ってから、マグダが言った。
「行くのかい」
セシルに向けてだった。
「行きます」
「あんたの触れ書きだね」
「私の触れ書きです。私の名で貼ってあるものです。私が、正します」
「今度も、網の口だよ」
「はい。……開いた口に、こちらから入るのは、初めてではありません。離宮で、一度」
セシルは帳面を閉じた。閉じて、外套の内側に入れた。
マグダは鼻を鳴らした。鳴らして、それきり止めなかった。
「行ってください」
エルドが言った。
「あなたの的です。あなたが行かなければ、あの触れ書きは、あの男の言い分のまま、王都じゅうに残る」
「はい」
「レイフは」
「一人で行きます」
セシルは言った。
「白い制服は、一人で歩くものです。大男の従士を連れて詰所へ行けば、触れ書きのとおりの三人になります。私が行くのは、一人でです」
レイフは何も言わなかった。言わないで、うなずいた。
セシルは荷番の外套を脱いだ。白い制服が出た。堂の埃と、八日の道と、蔵の塩の匂いが染みている。制服の胸の徽章を、袖の裏で拭いた。拭いて、朝の光に向けた。丘の門で閣下を迎えた日、隣の年嵩の同僚は言った。徽章が、朝より光っている、と。あの日は、閣下の前に立つために磨いた。
今朝は、自分のために拭いた。
◇
詰所は、聖堂の脇にあった。
白い壁。丘の詰所と同じ造りだ。教会の建物は、どこでも同じ形をしている。同じ形であれば、どこの詰所でも同じように動く。それが、この形の理由だ。
門の脇の壁に、板が掛かっていた。
触れ書きだ。——偽の立会状をもって誓いを騙りし一味の残党、三名。若き男、亜麻色の髪、琥珀の目、剣を帯ぶ。大男の従士。女、一人。誓約騎士団の巡察セシル、規程に違背してこれに与す。見かけし者は教会の詰所へ届け出よ。——誓約騎士団。
門番の若い騎士が、こちらを見た。
白い制服を見た。徽章を見た。それから顔を見て、触れ書きを見て、もう一度顔を見た。手が、剣の柄に行った。行って、止まった。
セシルは板の前に立った。自分の名の所に、指を当てた。
「誓約騎士団、巡察のセシルです」
声は、出た。
「触れ書きの、セシルです。隊長に、お目通りを。巡察の報告があります」
若い騎士は、しばらく動かなかった。それから、柄から手を離した。離して、門の内へ走った。
◇
隊長は五十がらみの、顎の四角い人だった。
板間の奥の腰掛けに座って、セシルを見た。見て、立ち上がった。丘の警固の隊長とは違う人だ。違う人が、同じ言い方をした。
「規程により、拘束する」
「はい」
セシルは言った。
「規程どおりに。……拘束の前に、報告を。巡察は、見たものを詰所に報告する。規程の、第二条です」
隊長の顎が、少し動いた。
規程を守る人だ、とセシルは思った。守る人でなければ、拘束する、と先に言わない。守る人だから、第二条を断れない。丘の団長に規程を返した夜、教本の規程は破れば咎めを受けるが誓いは破れない、と自分は考えた。今日は、規程を規程で返す。誓いは、使わない。
「短くしろ」
隊長は言った。言って、腰掛けに戻らなかった。
板間に、白い制服が集まってきた。門番の若い騎士が呼んだのだ。数えると、十二人いた。丘の前庭の警固の列と同じ数だ。壁際に並んで、こちらを見ている。板間の隅の帳場に、女の騎士が一人、椀を持ったまま座っていた。黒い髪を短く切った、セシルと同じ年に叙任された騎士だ。見習いの寝台の列で、二つ隣だった。名は、いま呼ばない。同輩は椀を持ったまま、セシルを見ていた。
セシルは帳面を出した。
開いて、床に置いた。膝をついた。
「巡察のセシル。見たものを報告します」
◇
順に、置いた。
触れ書き。残党三名、と書いてある。頬傷は宿場で縛った。頭目は町の門で縛った。三人での巡察だ。残りは、一人。三名、と書いた手を、私は知りません。数の合わない触れ書きを、丘の詰所は読まされました。見た側の騎士が、そう言いました。
大所の頁。八年前、西の町の登録院に、一枚の頁がありました。前後の頁と漉きが違い、立会人の署名は、その日付の一年前に死んだ式官のものでした。大所の返事は一行。検めの上、登録に誤りなし。審問官は己の目を疑うべし。……七年前の冬の巻に、写しは無い。原本ごと、閣下のもとへ。大所長は、私の前で言いました。一度も、嘘を書いたことがない。書けと言われたものを、書いた、と。
東の家の書状。灰色の蝋に、三筋の印。全文は、私の帳面にあります。二つの文だけ、読みます。——討ち手は、誓いを破ってはおらぬ。何者かが、外したのである。
板間が、静かだった。
セシルは帳面の頁をめくった。石の字の、写しの頁。レイフの字を、自分の字で写し直したものだ。正面の壁の行。この行を自分の声で読むのは、二度目だ。堂で、一度。マグダが、あんたの声で、と言った朝に。
「——戦は、上を望む心から起こる。わたしは万の民から、生まれた場所より上を望む心を預かった。誰にも告げずに。それを、二度と戦を起こさぬ誓いに注いだ。……これを、大誓約と呼ぶ」
読んだ。
教典の古語だ。この板間の全員が、見習いの一年目に習った言葉で書いてある。半分は、読めるはずだ。読める半分の中に、預かった、という一語がある。
「教典の一頁目は、この壁の最初の行と最後の行だけを取って、間を捨てたものです。前の掌典さまが、そう言われました。四日前、丘の聖堂の前庭で、掌典さまはこの十行を、ご自分の声で唱えられました。聞いた者が、書き取りました。丘は、割れました。前庭に残った側と、門を閉めた側と」
セシルは顔を上げた。
「私は、誓約騎士です。叙任の誓いは、いまも、この手にあります」
右手を、開いた。薄青い、小さな紋。青いまま。
「誓いの正しきを守り、偽りの誓いを正し。偽りの登録を正すのも、偽りの触れ書きを正すのも、この誓いの内だと、私は思っています。規程は、閣下の触れ書きを読め、と言います。誓いは、正せ、と言います。私は、誓いのほうを取りました。以上です」
◇
誰も、動かなかった。
隊長の顎が、動かなかった。壁際の十二の白い制服も。上を見ない町の、上を見ない顔が、いま、床の帳面を見下ろしている。見下ろしたまま、動かない。
最初に動いたのは、帳場の同輩だった。
椀を、帳場に置いた。置いて、立って、壁へ歩いた。板間の壁にも、触れ書きが掛かっていた。門の脇のと同じものだ。同輩はその前で止まって、しばらく字を読んだ。
「丘の記録の写しは、この帳場で、私が受けています。受けた数を帳場に書くのも、私です」
同輩は言った。壁の板を見たまま。
「数が、合いません」
言って、板を壁から外した。釘が抜ける音がした。同輩は板を両手で持って、隊長のほうを向いた。
「戻せ」
隊長が言った。
「戻せません」
同輩は言った。
「剥がしたものは、戻せません。隊長。三名、と書いてあります。二人は縛ったと、丘の記録にあります。二人縛って残りが三名の勘定を、私は帳場で書けません」
隊長は何も言わなかった。
二人目が動いた。若い門番の騎士だった。同輩の隣に立った。三人目。壁際の端から、年の行った騎士が一人。それから、二人。
列が、割れた。
壁際に残った白い制服と、同輩の側に来た白い制服。数えると、七と五だった。隊長は、どちらでもない所に立っていた。立って、床の帳面を見ていた。
四日前に丘の前庭で起きたことと、同じ形だ。セシルはそう思った。前庭に残った側と、門を閉めた側。同じ形が、今朝、王都の板間でもう一度起きた。割れ目に立つ側がある、と年嵩の同僚は言った。割れたあとに、おまえの立つ側がある、と。
自分は、割った側に立っていた。
◇
「閣下に、伺いを出す」
隊長が言った。
規程だ。閣下の名で出た触れ書きの者を詰所が受けたなら、詰所は宰相府へ伺いを出す。隊長は紙を書いて、若い騎士に持たせた。若い騎士は同輩の側に立っていた者だったが、隊長の紙を受け取って走った。
待った。
セシルは床の帳面を閉じて、膝を立てて、腰掛けに座った。誰も縛らなかった。誰も、話しかけなかった。同輩は剥がした板を帳場の脇に立てて、椀の茶を飲み直した。冷めていたと思う。飲む顔が、そう言っていた。
半刻ほどで、若い騎士が戻った。
一人ではなかった。黒い装備が一騎、後ろについていた。宰相府の兵だ。兵は板間の戸口で馬を降りて、中へ入って、隊長の前で止まった。止まって、隊長を見なかった。セシルを見た。
「閣下より」
兵は言った。
「巡察のセシルと、連れて歩いた者たちへ」
連れて歩いた。
離宮の広間で、あの人は言った。お前が、連れて歩いてくれる、と。あの言葉が、いま、この兵の口から、宛名になって出てきた。
兵は懐から書状を出した。黒い蝋に、銀の印。セシルは受け取って、開いた。
整った字だった。
——明日、午の刻、宰相府にて。四人で、来い。紙も、写しも、帳面も、持って来い。——誓約主
それだけだった。
供は、お好きに、とは書いていなかった。今度は、全部持って来い、と書いてある。
「閣下のお招きの客を、詰所は縛れん」
隊長が言った。
規程の外の言葉だった。規程のどこにも、招きの客のことは書いてない。書いてないから、縛らない。この人は、書いてあることと書いてないことの間に、いま、立つ場所を見つけたのだ。それは逃げ道だ。逃げ道でも、道だ。
「行け」
隊長は言った。
セシルは立った。書状を、帳面と一緒に外套の内側へ入れた。壁際の七人は動かなかった。同輩の側の五人も動かなかった。同輩だけが帳場から出てきて、戸口まで、セシルの一歩後ろについてきた。
戸口で、同輩は言った。
「見習いのころから、まっすぐだったな」
「はい」
「まっすぐな奴は、割るのが早い」
同輩は板間へ戻っていった。剥がした板は、帳場の脇に立ったままだった。
◇
蔵へ戻ると、三人が待っていた。若い使いは俵の陰で眠り、法衣の男は聖堂へ戻っていた。
セシルは書状を、床に置いた。エルドの前に。
エルドは読んだ。読んで、マグダへ回した。マグダは読んで、鼻を鳴らした。
「網の口に、全部持って来い、と」
「持って行きます」
エルドは言った。
「見せるために、集めました。紙も、写しも、帳面も。見せる相手は、あの人です。あの人の前で、全部を開きます」
「開いた紙を、あの男が畳んで、懐に入れたら」
「入れさせません」
「どうやって」
「四人で、持ちます」
レイフが言った。荷の脇から。
「持ち物は、俺が持ちます。帳面は、俺の袋に。書状は、エルド様の懐に。写しは、帳面の中に。騎士様の帳面は、騎士様が。四人で持てば、四人の手を空けさせないと、取れません」
マグダはレイフを見て、それからエルドを見た。
「……分かった。行こう。四人で。あたしは、手を出すよ。出す、と決めてきた。どこで出すかは、あの男の顔を見てから決める」
誰も反対しなかった。
◇
夕方、セシルは蔵の戸口に座って、帳面を開いた。
今日のことを書く。使いの若い男の言葉。詰所の板間。十二の白い制服。剥がした板。七と五。黒い蝋の書状。順に書いた。書きながら、右手の甲の紋を見た。青いまま。
父の手は、袖の中にある。前提が消えて、静かに薄れた手だ。父は、何も選ばなかった。自分の手は、青いまま、今朝、板間に立った。立って、規程を規程で返した。誓いは、使わなかった。使わずに、持っていた。持っているだけで、足りた。
書き終えて、最後に一行、足した。
——割れた。私は、割った側にいた。
炭を置いた。
川の向こうで、日が落ちる。セシルは帳面を閉じて、外套の内側へ入れた。明日の午まで、半日と、一晩。……この帳面は、誓約主の机の上で開く。開くのは、自分の手だ。




