第41話 王都の網
荷揚げ場は、まだ暗かった。
川の音と、繋いだ舟が岸を叩く音。荷を降ろす男たちの声が低い。夜明け前に着いた舟から、俵と樽が岸へ上がっていく。四人は木立の陰でそれを見ていた。城壁が、川に沿って東へ延びている。壁の下に門が一つ。川の門だ。門の扉はまだ閉まっていて、その前に、荷車が三台並んで待っていた。
三台目の脇に、灰色の法衣が立っていた。
「あれだ」
マグダが言った。
「二手に分かれるよ。あたしと白いのは西の門から歩いて入る。目の色を見られるが、灰みの緑と青じゃ、止まらない。男二人は、あの荷車だ。でかいのは人足の顔。ちびは、荷の中」
「教会の寄進の荷は、聖堂の印つきの目録があれば、門で開けません」
セシルが言った。
「教会と宰相府の、古い取り決めです。警固の当番で習いました。……門衛の誓いは、門を守ることです。取り決めのほうは、誓いの外です。破れば罰が下る。それだけです」
「網の穴は、網を張った奴の取り決めの中にある。よくあることだよ」
マグダはエルドを見た。
「蔵で会おう。ちび。樽の中で、くしゃみをするんじゃないよ」
エルドは答えなかった。答える代わりに、フードを深く下ろした。
◇
荷車の荷は、樽だった。
八つ。太い樽が二列に並び、上に幌がかかっている。法衣の男が幌の端を持ち上げた。樽と樽の間に、人一人が伏せられるだけの隙間がある。男は何も言わずにその隙間を指した。
エルドは荷車に上がって、伏せた。
幌が下りた。暗くなった。樽の木の匂いと、塩の匂い。それから、魚の匂いがした。塩漬けの川魚だ。樽の中身が、それだと分かった。
匂いは、鼻の奥まで来て、そこで止まった。
この匂いに、何かがあったはずだ。川の日に繋がる、何かが。無い。匂いは匂いのままで、その先へ行かない。帳面には、ある。一冊目の、川の日の頁に。それは知っている。知っていることと、覚えていることの間の隙間に、この匂いは落ちていく。
エルドは目を閉じた。閉じて、匂いを、匂いのまま吸った。
荷車が動いた。
◇
門の前で、荷車が止まった。
幌の合わせ目に、細い隙間がある。エルドはそこから外を見た。門の扉が開いていた。開いた扉の両脇に、黒い装備の兵。二人。胸に、銀の印。宰相府の印だ。腰の剣。それから、右の手の甲に、青い紋。門衛の紋だ。この門を守る、と誓った手だ。
兵の一人が、荷車の前へ来た。
「教会の荷か」
「目録を」
法衣の男は喋らなかった。喋らずに、懐から折り畳んだ紙を出して渡した。兵はそれを開いて、灯りに寄せた。読んでいる。読んで、紙の下の印を見た。
「聖堂の印だな。……塩漬けの魚、八樽。寄進」
兵は目録を返した。返して、荷車の幌を見た。見て、手を伸ばさなかった。
「開けるな。通せ」
もう一人の兵が、扉の脇へ退いた。
荷車が動いた。車輪が門の敷石を越えて、音が変わった。石畳の音だ。エルドは隙間から、遠ざかる門衛の背中を見ていた。あの兵は荷を開けなかった。開けない、と決まっているからだ。門を守る誓いは、荷を開けろとも開けるなとも言わない。決めているのは、誓いの外の取り決めだ。誓いは破れない。取り決めは、破れる。破らないのは、罰が下るからで、それだけだ。
網の穴は、網を張った側の取り決めの中にあった。誓いには、穴がない。マグダの言ったとおりだ。
荷車の脇を、大きな足音が歩いている。足の運びは変わらない。人足の足だ。七年、身についた足。
◇
王都は、石でできていた。
幌の隙間から見える範囲で、そう思った。道は石畳。家の壁は石。門をくぐると通りは広くなって、朝の光が屋根の間に落ちはじめていた。荷車が通っても、人は道を空けない。空けないで、荷車のほうが人を避ける。人が多い。多いのに、静かだった。
歩いている人の顔が、下を向いている。
石畳を見て歩く。荷を見て歩く。前の人の背中を見て歩く。誰も、上を見ない。上には丘があって、白い王宮がある。それを見上げる者が、一人もいなかった。見慣れているからだ、と思うこともできる。そうではないと、エルドは思った。この町の人は、上を見ない歩き方をしている。
辻に、板が立っていた。
触れ書きだ。荷車がその前を通るとき、字が読めた。——偽の立会状をもって誓いを騙りし一味の残党、三名。若き男、亜麻色の髪、琥珀の目、剣を帯ぶ。大男の従士。女、一人。誓約騎士団の巡察セシル、規程に違背してこれに与す。見かけし者は教会の詰所へ届け出よ。——誓約騎士団。祭りの町の門楼にあったものと、一字も違わない。ここにも、貼ってある。
黒い装備が、通りの向かいを二人で歩いていた。宰相府の兵だ。門衛と同じ印。同じ手の甲。歩き方は、門衛より速い。
荷車が曲がった。川の匂いが戻ってきた。
◇
蔵は、川端にあった。
聖堂の荷蔵だ。石の壁に木の戸。中は暗くて、俵と樽と木箱が壁に沿って積まれている。寄進の品だ。塩漬けの魚も、ここへ入る。法衣の男は荷車を蔵の脇に着けて、幌を上げた。エルドは樽の間から身体を起こした。腰が固まっていた。
男は蔵の奥を指した。俵の陰に、人が四人座れるだけの床がある。水の桶と、丸パンが三つ、置いてあった。用意してあったのだ。男はそれを指して、それから戸を指した。戸を、内から閉めろ、ということらしい。
それから男は出ていった。荷車を引いて、聖堂のほうへ。
「喋らない人ですね」
エルドは言った。
「喋りませんでした。門でも」
レイフが答えた。
昼前に、戸が二度叩かれた。
マグダとセシルだった。西の門から歩いて入って、聖堂の場所を訊いて、聖堂の裏から川へ下りてきた。マグダは外套の前を開けて、床に腰を下ろした。
「目は、見られたよ」
「止められましたか」
「灰みの緑と青だ。触れ書きの色じゃない。女二人が、触れ書きの女一人と大男の従士に見えるかい。見えないさ。門の兵は、触れ書きのとおりに見る。書いてないものは、見ない」
マグダはパンを一つ取って、二つに割った。
「王都の網は、三つだ。覚えな。一つ。宿は、宰相府に届ける誓いを立てた宿だけが、看板に教会の印を出してる。印のある宿に、あたしらは泊まれない。泊まった晩に、届く。二つ。辻の触れ書き。丘のと同じものが、王都じゅうに貼ってある。三つ。黒い装備は宰相府の兵で、門衛と同じ誓いを持ってる。あの手は、金じゃ動かない。誓ってるからね」
セシルは戸の脇に座って、帳面を開いていた。
「聖堂の脇に、詰所がありました。丘の詰所と同じ、白い壁の建物です。門に、触れ書きが」
「あんたの名前も」
「はい。明日、行きます。今日は、エルドどのの家が先だと決めました」
セシルは帳面に何かを書いた。短く。それから閉じた。
◇
日が傾いてから、蔵を出た。
レイフと二人だ。マグダは、でかいのを連れて行きな、と言った。目立つほうが、隠れるより安い。隠れようとする大男ほど目につく、と、この人はいつも言う。連れて歩けば、大男を連れた若い男が二人、王都の夕方の通りを歩いているだけだ。触れ書きの三人にはならない。
貴族の屋敷は、丘の東側に並んでいた。
白い王宮の丘を回り込むように、高い壁の屋敷が続く。壁が高いほど、丘に近い。エルドは壁を見ながら歩いた。壁の高さが、順に低くなる。丘から遠ざかるほど、低い。並びのいちばん端に、低い壁があった。人の背丈ほどの石の壁と、木の門。
門の柱に、印が彫ってあった。
樫の葉。
エルドは足を止めた。木の箱の封の蝋に、この印があった。年に二度、春と秋に届く箱。母の部屋にその箱があるのを、見たことがある。
レイフが、少し離れて立った。二人のときの距離ではない。人前の距離だ。この男は、それを分けて立つ。
エルドは門を叩いた。
しばらく、何も起きなかった。もう一度叩こうとして、やめた。門の内側で、足音がした。ゆっくりだ。年寄りの足だ。門の脇の小さな覗き戸が開いて、目が一つ、こちらを見た。
「どなたかな」
老人の声だった。
「夜分に、失礼します」
エルドは言った。フードを上げた。上げて、顔を見せた。
「オーベル家の、ローザの子です」
覗き戸の目が、動かなくなった。
長いこと、動かなかった。それから覗き戸が閉まって、門の内で閂の音がした。門が、半分だけ開いた。
老人が立っていた。
痩せて、背筋が伸びている。髪は薄くて白い。屋敷の家令だ。着ているものが、家令のそれだった。老人はエルドの顔を見た。髪を見て、目を見た。それから、少し離れて立っているレイフを見た。
「旦那様も、奥様も、お会いになりません」
老人は言った。
訊かれる前に言った。七年前から、そう決まっている言い方だった。北から誰が来ても、会わない。そう決めた家の、決めたとおりの言葉だ。
「はい」
エルドは言った。
「そう聞いて、来ました。門が開くとは、思っていませんでした」
「開けたのは、私です」
老人は言った。
「旦那様のお許しは、頂いておりません。お許しを頂ける筋の話ではないので、伺いませんでした」
老人は懐に手を入れた。
出てきたのは、折り畳んだ紙だった。古い。折り目が白くなっている。老人はそれを両手で持って、しばらく持ったまま、エルドの顔を見ていた。
「奥様が、七年、引き出しに入れておられたものです」
声が、少し低くなった。
「北から、あの子の子が来たら、と、一度だけ仰せになりました。渡せ、とは、仰せになっておりません」
老人は紙を差し出した。
「私が、お渡しします」
エルドは受け取った。
開いた。
母の字だった。細くて、まっすぐで、少し右へ傾ぐ。北の城の、母の部屋の机で見た字だ。ある。
——母上へ。北は、朝に霜の降りるころになりました。今年の茶も、たしかに受け取りました。いつも、ありがとうございます。この冬は、城に大勢の客がございます。長い争いが、終わります。春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことがございます。どうか、お身体をお大事に。
ローザ
それだけだった。
短い。母の文は、いつも短かった。短いのは、書くことがないからではない。エルドはもう一度読んだ。今年の茶も、たしかに受け取りました。あの匂いだ。ほのかに甘い、あの湯気だ。この冬は、城に大勢の客が。長い争いが、終わります。……終わった。あの夜に、全部、終わった。
春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことが。
春に。
何を。
エルドはその一行を三度読んだ。読んでも、出てこなかった。盟約が成ったあとの春の、川のことか。自分が十四になる春の、何かか。分からない。母は、知らせたいことを知らせずに、冬に死んだ。何を知らせたかったのかを知っている者は、この文の中にいない。
分からないことが、母の字で、ここにある。
エルドは文を畳んだ。畳んで、懐に入れた。懐には、もう二枚ある。東の当主の書状と、パン屋の娘の鳥の絵。人の紙を、三枚。この手は、人の紙を運ぶ手になった。
「ありがとうございます」
声は、出た。
老人はうなずいた。それから、門の外の通りへ、目を一度だけ向けた。向けて、すぐに戻した。
「この七年、向かいの角に、いつも一人います」
低い声だった。
「黒い装備ではありません。ただの町の者の姿をしています。七年、この門を見ています。今日も、います」
「見ています」
レイフが言った。人前の距離から、動かずに。
「来たときから。角の、井戸の陰です」
老人はレイフを見た。少し、目を細めた。
「北の従士ですな」
「はい」
「お嬢様が、文で、そう書いておられました。あの子には、大きな従士がついている、と。お嬢様の子が来た。従士も、来た」
老人はそこで言葉を切った。切って、しばらく黙って、それから言った。
「奥様が、この家に口をつぐませました。旦那様ではなく、奥様が。七年前の、初雪のあとに。端の家は、口をつぐめば残る。つぐまなければ、残らない。そう仰せになって、それきり、北のことを口にされません」
「母も、そういう人でした」
エルドは言った。
「知っていて、言わない」
老人の顔が、動いた。笑ったのか、それに近い何かか、分からない。分からない顔で、老人はエルドの目を見た。
「婚礼の日に、一度だけ、拝見しました。お父君の目を。……同じ目ですな」
それから、門を少し引いた。閉める前の動きだ。
「今夜、お二人にお伝えします。北から、お嬢様の子が来た、と。つぐむのをやめるかどうかは、お二人でお決めになります。私が決められるのは、この門を開けるところまでです」
「十分です」
エルドは言った。
「門は、開きました」
老人は頭を下げた。深くはない。家令が、客に下げる分だけだ。門が閉まって、閂の音がした。
◇
角の井戸の陰に、男が一人いた。
町の者の姿だ。桶を脇に置いて、井戸の縁に腰を下ろしている。エルドとレイフが門を離れて通りへ出ると、男は桶を持って立ち上がった。持って、二人と同じ方向へ、少し離れて歩きはじめた。
隠れなかった。
隠れないで、歩いた。レイフが人前の距離で後ろについてくる。その後ろに、桶の男。三人で、夕方の王都の石畳を、川のほうへ下りていった。振り向かなかった。振り向けば、隠れている者になる。隠れている者は、目につく。
蔵の近くで、桶の男は路地へ入って、消えた。
見られて、帰った。マグダの言ったとおりだ。見られていいものだけを見せて帰った。若い男が二人、貴族の並びのいちばん端の門を叩いて、開けてもらえずに帰った。開けてもらえずに、と、あの男は書くだろう。門は半分しか開かなかった。半分は、見えなかったはずだ。
◇
蔵の中で、エルドは懐の三枚を出した。
床に並べた。灰色の蝋に三筋の印の書状。四つに畳んだ、鳥の絵。母の文。三枚とも、自分が書いたものではない。三枚とも、自分に宛てて書かれたものでもない。鳥の絵だけは、自分に渡された。あとの二枚は、誰かが誰かに宛てて、宛て先の無くなったものだ。
「書きますか」
レイフが言った。帳面を開いていた。
「書け」
エルドは言った。
「母の文のことも。字も。家令のことも。角の男も。……全部だ」
「はい」
レイフは炭を持った。それから一度、手を止めて、床の文を見た。読めるか読めないかは、分からない。母の字は細くて、癖がある。レイフは読もうとしなかった。見て、それから自分の帳面に向いた。
「写しを、取ってもいいですか」
セシルだった。
「文の写しです。紙は一枚しかありません。一枚のものは、写しを取る。大所で、そう教わりました。悪いことだけ教える所ではなかったので」
エルドは少し考えた。それから、文をセシルの前へ押した。
「頼みます」
セシルは膝をついて、自分の帳面に、母の字を写しはじめた。一字ずつ。写す手は、遅かった。
マグダは文を読まなかった。床の三枚を一度見て、それから壁の俵に背をつけて目を閉じた。
「あたしが読むものじゃないよ」
それだけ言った。
エルドは書状と鳥の絵を懐に戻した。文は、セシルの前にある。写し終わるまで、待つ。待ちながら、母の字を遠くから見ていた。春になりましたら。知らせたいこと。知らせるはずだった相手は、王都にいる。知らせるはずだった中身を知っている者は、いない。
いない、と思った。思ってから、その先を考えなかった。
◇
夜半に、戸が叩かれた。
三度。間を置いて、二度。マグダが目を開けた。レイフが立った。エルドは剣に手をかけなかった。かけない、と決めていた。この蔵で剣を抜くなら、それは終わりの合図だ。
戸が開いた。
灰色の法衣の男だった。後ろに、もう一人。若い男だ。埃をかぶった旅の服で、脚が、まだ馬の上にいるように開いている。
法衣の男は、蔵の中の四人を、順に見た。
それから、口を開いた。
「丘が、割れました」
初めて聞く声だった。低くて、掠れていて、長いこと使っていなかった声だ。男はそれだけ言って、口を閉じた。閉じて、後ろの若い男を、前へ押した。




