↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/124

第41話 王都の網


 荷揚げ場は、まだ暗かった。


 川の音と、繋いだ舟が岸を叩く音。荷を降ろす男たちの声が低い。夜明け前に着いた舟から、俵と樽(たる)が岸へ上がっていく。四人は木立の陰でそれを見ていた。城壁が、川に沿って東へ延びている。壁の下に門が一つ。川の門だ。門の扉はまだ閉まっていて、その前に、荷車が三台並んで待っていた。


 三台目の脇に、灰色の法衣が立っていた。


「あれだ」


 マグダが言った。


「二手に分かれるよ。あたしと白いのは西の門から歩いて入る。目の色を見られるが、灰みの緑と青じゃ、止まらない。男二人は、あの荷車だ。でかいのは人足(にんそく)の顔。ちびは、荷の中」


「教会の寄進の荷は、聖堂の印つきの目録があれば、門で開けません」


 セシルが言った。


「教会と宰相府の、古い取り決めです。警固の当番で習いました。……門衛の誓いは、門を守ることです。取り決めのほうは、誓いの外です。破れば罰が下る。それだけです」


「網の穴は、網を張った奴の取り決めの中にある。よくあることだよ」


 マグダはエルドを見た。


「蔵で会おう。ちび。樽の中で、くしゃみをするんじゃないよ」


 エルドは答えなかった。答える代わりに、フードを深く下ろした。


  ◇


 荷車の荷は、樽だった。


 八つ。太い樽が二列に並び、上に幌(ほろ)がかかっている。法衣の男が幌の端を持ち上げた。樽と樽の間に、人一人が伏せられるだけの隙間がある。男は何も言わずにその隙間を指した。


 エルドは荷車に上がって、伏せた。


 幌が下りた。暗くなった。樽の木の匂いと、塩の匂い。それから、魚の匂いがした。塩漬けの川魚だ。樽の中身が、それだと分かった。


 匂いは、鼻の奥まで来て、そこで止まった。


 この匂いに、何かがあったはずだ。川の日に繋がる、何かが。無い。匂いは匂いのままで、その先へ行かない。帳面には、ある。一冊目の、川の日の頁に。それは知っている。知っていることと、覚えていることの間の隙間に、この匂いは落ちていく。


 エルドは目を閉じた。閉じて、匂いを、匂いのまま吸った。


 荷車が動いた。


  ◇


 門の前で、荷車が止まった。


 幌の合わせ目に、細い隙間がある。エルドはそこから外を見た。門の扉が開いていた。開いた扉の両脇に、黒い装備の兵。二人。胸に、銀の印。宰相府の印だ。腰の剣。それから、右の手の甲に、青い紋。門衛の紋だ。この門を守る、と誓った手だ。


 兵の一人が、荷車の前へ来た。


「教会の荷か」


「目録を」


 法衣の男は喋らなかった。喋らずに、懐から折り畳んだ紙を出して渡した。兵はそれを開いて、灯りに寄せた。読んでいる。読んで、紙の下の印を見た。


「聖堂の印だな。……塩漬けの魚、八樽。寄進」


 兵は目録を返した。返して、荷車の幌を見た。見て、手を伸ばさなかった。


「開けるな。通せ」


 もう一人の兵が、扉の脇へ退いた。


 荷車が動いた。車輪が門の敷石を越えて、音が変わった。石畳の音だ。エルドは隙間から、遠ざかる門衛の背中を見ていた。あの兵は荷を開けなかった。開けない、と決まっているからだ。門を守る誓いは、荷を開けろとも開けるなとも言わない。決めているのは、誓いの外の取り決めだ。誓いは破れない。取り決めは、破れる。破らないのは、罰が下るからで、それだけだ。


 網の穴は、網を張った側の取り決めの中にあった。誓いには、穴がない。マグダの言ったとおりだ。


 荷車の脇を、大きな足音が歩いている。足の運びは変わらない。人足の足だ。七年、身についた足。


  ◇


 王都は、石でできていた。


 幌の隙間から見える範囲で、そう思った。道は石畳。家の壁は石。門をくぐると通りは広くなって、朝の光が屋根の間に落ちはじめていた。荷車が通っても、人は道を空けない。空けないで、荷車のほうが人を避ける。人が多い。多いのに、静かだった。


 歩いている人の顔が、下を向いている。


 石畳を見て歩く。荷を見て歩く。前の人の背中を見て歩く。誰も、上を見ない。上には丘があって、白い王宮がある。それを見上げる者が、一人もいなかった。見慣れているからだ、と思うこともできる。そうではないと、エルドは思った。この町の人は、上を見ない歩き方をしている。


 辻に、板が立っていた。


 触れ書きだ。荷車がその前を通るとき、字が読めた。——偽の立会状をもって誓いを騙(かた)りし一味の残党、三名。若き男、亜麻色の髪、琥珀(こはく)の目、剣を帯ぶ。大男の従士。女、一人。誓約騎士団の巡察セシル、規程に違背(いはい)してこれに与す。見かけし者は教会の詰所へ届け出よ。——誓約騎士団。祭りの町の門楼(もんろう)にあったものと、一字も違わない。ここにも、貼ってある。


 黒い装備が、通りの向かいを二人で歩いていた。宰相府の兵だ。門衛と同じ印。同じ手の甲。歩き方は、門衛より速い。


 荷車が曲がった。川の匂いが戻ってきた。


  ◇


 蔵は、川端にあった。


 聖堂の荷蔵だ。石の壁に木の戸。中は暗くて、俵と樽と木箱が壁に沿って積まれている。寄進の品だ。塩漬けの魚も、ここへ入る。法衣の男は荷車を蔵の脇に着けて、幌を上げた。エルドは樽の間から身体を起こした。腰が固まっていた。


 男は蔵の奥を指した。俵の陰に、人が四人座れるだけの床がある。水の桶と、丸パンが三つ、置いてあった。用意してあったのだ。男はそれを指して、それから戸を指した。戸を、内から閉めろ、ということらしい。


 それから男は出ていった。荷車を引いて、聖堂のほうへ。


「喋らない人ですね」


 エルドは言った。


「喋りませんでした。門でも」


 レイフが答えた。


 昼前に、戸が二度叩かれた。


 マグダとセシルだった。西の門から歩いて入って、聖堂の場所を訊(き)いて、聖堂の裏から川へ下りてきた。マグダは外套の前を開けて、床に腰を下ろした。


「目は、見られたよ」


「止められましたか」


「灰みの緑と青だ。触れ書きの色じゃない。女二人が、触れ書きの女一人と大男の従士に見えるかい。見えないさ。門の兵は、触れ書きのとおりに見る。書いてないものは、見ない」


 マグダはパンを一つ取って、二つに割った。


「王都の網は、三つだ。覚えな。一つ。宿は、宰相府に届ける誓いを立てた宿だけが、看板に教会の印を出してる。印のある宿に、あたしらは泊まれない。泊まった晩に、届く。二つ。辻の触れ書き。丘のと同じものが、王都じゅうに貼ってある。三つ。黒い装備は宰相府の兵で、門衛と同じ誓いを持ってる。あの手は、金じゃ動かない。誓ってるからね」


 セシルは戸の脇に座って、帳面を開いていた。


「聖堂の脇に、詰所がありました。丘の詰所と同じ、白い壁の建物です。門に、触れ書きが」


「あんたの名前も」


「はい。明日、行きます。今日は、エルドどのの家が先だと決めました」


 セシルは帳面に何かを書いた。短く。それから閉じた。


  ◇


 日が傾いてから、蔵を出た。


 レイフと二人だ。マグダは、でかいのを連れて行きな、と言った。目立つほうが、隠れるより安い。隠れようとする大男ほど目につく、と、この人はいつも言う。連れて歩けば、大男を連れた若い男が二人、王都の夕方の通りを歩いているだけだ。触れ書きの三人にはならない。


 貴族の屋敷は、丘の東側に並んでいた。


 白い王宮の丘を回り込むように、高い壁の屋敷が続く。壁が高いほど、丘に近い。エルドは壁を見ながら歩いた。壁の高さが、順に低くなる。丘から遠ざかるほど、低い。並びのいちばん端に、低い壁があった。人の背丈ほどの石の壁と、木の門。


 門の柱に、印が彫ってあった。


 樫(かし)の葉。


 エルドは足を止めた。木の箱の封の蝋(ろう)に、この印があった。年に二度、春と秋に届く箱。母の部屋にその箱があるのを、見たことがある。


 レイフが、少し離れて立った。二人のときの距離ではない。人前の距離だ。この男は、それを分けて立つ。


 エルドは門を叩いた。


 しばらく、何も起きなかった。もう一度叩こうとして、やめた。門の内側で、足音がした。ゆっくりだ。年寄りの足だ。門の脇の小さな覗き戸が開いて、目が一つ、こちらを見た。


「どなたかな」


 老人の声だった。


「夜分に、失礼します」


 エルドは言った。フードを上げた。上げて、顔を見せた。


「オーベル家の、ローザの子です」


 覗き戸の目が、動かなくなった。


 長いこと、動かなかった。それから覗き戸が閉まって、門の内で閂(かんぬき)の音がした。門が、半分だけ開いた。


 老人が立っていた。


 痩せて、背筋が伸びている。髪は薄くて白い。屋敷の家令(かれい)だ。着ているものが、家令のそれだった。老人はエルドの顔を見た。髪を見て、目を見た。それから、少し離れて立っているレイフを見た。


「旦那様も、奥様も、お会いになりません」


 老人は言った。


 訊かれる前に言った。七年前から、そう決まっている言い方だった。北から誰が来ても、会わない。そう決めた家の、決めたとおりの言葉だ。


「はい」


 エルドは言った。


「そう聞いて、来ました。門が開くとは、思っていませんでした」


「開けたのは、私です」


 老人は言った。


「旦那様のお許しは、頂いておりません。お許しを頂ける筋の話ではないので、伺いませんでした」


 老人は懐に手を入れた。


 出てきたのは、折り畳んだ紙だった。古い。折り目が白くなっている。老人はそれを両手で持って、しばらく持ったまま、エルドの顔を見ていた。


「奥様が、七年、引き出しに入れておられたものです」


 声が、少し低くなった。


「北から、あの子の子が来たら、と、一度だけ仰せになりました。渡せ、とは、仰せになっておりません」


 老人は紙を差し出した。


「私が、お渡しします」


 エルドは受け取った。


 開いた。


 母の字だった。細くて、まっすぐで、少し右へ傾(かし)ぐ。北の城の、母の部屋の机で見た字だ。ある。


 ——母上へ。北は、朝に霜の降りるころになりました。今年の茶も、たしかに受け取りました。いつも、ありがとうございます。この冬は、城に大勢の客がございます。長い争いが、終わります。春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことがございます。どうか、お身体をお大事に。


  ローザ


 それだけだった。


 短い。母の文は、いつも短かった。短いのは、書くことがないからではない。エルドはもう一度読んだ。今年の茶も、たしかに受け取りました。あの匂いだ。ほのかに甘い、あの湯気だ。この冬は、城に大勢の客が。長い争いが、終わります。……終わった。あの夜に、全部、終わった。


 春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことが。


 春に。


 何を。


 エルドはその一行を三度読んだ。読んでも、出てこなかった。盟約が成ったあとの春の、川のことか。自分が十四になる春の、何かか。分からない。母は、知らせたいことを知らせずに、冬に死んだ。何を知らせたかったのかを知っている者は、この文の中にいない。


 分からないことが、母の字で、ここにある。


 エルドは文を畳んだ。畳んで、懐に入れた。懐には、もう二枚ある。東の当主の書状と、パン屋の娘の鳥の絵。人の紙を、三枚。この手は、人の紙を運ぶ手になった。


「ありがとうございます」


 声は、出た。


 老人はうなずいた。それから、門の外の通りへ、目を一度だけ向けた。向けて、すぐに戻した。


「この七年、向かいの角に、いつも一人います」


 低い声だった。


「黒い装備ではありません。ただの町の者の姿をしています。七年、この門を見ています。今日も、います」


「見ています」


 レイフが言った。人前の距離から、動かずに。


「来たときから。角の、井戸の陰です」


 老人はレイフを見た。少し、目を細めた。


「北の従士ですな」


「はい」


「お嬢様が、文で、そう書いておられました。あの子には、大きな従士がついている、と。お嬢様の子が来た。従士も、来た」


 老人はそこで言葉を切った。切って、しばらく黙って、それから言った。


「奥様が、この家に口をつぐませました。旦那様ではなく、奥様が。七年前の、初雪のあとに。端の家は、口をつぐめば残る。つぐまなければ、残らない。そう仰せになって、それきり、北のことを口にされません」


「母も、そういう人でした」


 エルドは言った。


「知っていて、言わない」


 老人の顔が、動いた。笑ったのか、それに近い何かか、分からない。分からない顔で、老人はエルドの目を見た。


「婚礼の日に、一度だけ、拝見しました。お父君(ちちぎみ)の目を。……同じ目ですな」


 それから、門を少し引いた。閉める前の動きだ。


「今夜、お二人にお伝えします。北から、お嬢様の子が来た、と。つぐむのをやめるかどうかは、お二人でお決めになります。私が決められるのは、この門を開けるところまでです」


「十分です」


 エルドは言った。


「門は、開きました」


 老人は頭を下げた。深くはない。家令が、客に下げる分だけだ。門が閉まって、閂の音がした。


  ◇


 角の井戸の陰に、男が一人いた。


 町の者の姿だ。桶(おけ)を脇に置いて、井戸の縁に腰を下ろしている。エルドとレイフが門を離れて通りへ出ると、男は桶を持って立ち上がった。持って、二人と同じ方向へ、少し離れて歩きはじめた。


 隠れなかった。


 隠れないで、歩いた。レイフが人前の距離で後ろについてくる。その後ろに、桶の男。三人で、夕方の王都の石畳を、川のほうへ下りていった。振り向かなかった。振り向けば、隠れている者になる。隠れている者は、目につく。


 蔵の近くで、桶の男は路地へ入って、消えた。


 見られて、帰った。マグダの言ったとおりだ。見られていいものだけを見せて帰った。若い男が二人、貴族の並びのいちばん端の門を叩いて、開けてもらえずに帰った。開けてもらえずに、と、あの男は書くだろう。門は半分しか開かなかった。半分は、見えなかったはずだ。


  ◇


 蔵の中で、エルドは懐の三枚を出した。


 床に並べた。灰色の蝋に三筋の印の書状。四つに畳んだ、鳥の絵。母の文。三枚とも、自分が書いたものではない。三枚とも、自分に宛てて書かれたものでもない。鳥の絵だけは、自分に渡された。あとの二枚は、誰かが誰かに宛てて、宛て先の無くなったものだ。


「書きますか」


 レイフが言った。帳面を開いていた。


「書け」


 エルドは言った。


「母の文のことも。字も。家令のことも。角の男も。……全部だ」


「はい」


 レイフは炭を持った。それから一度、手を止めて、床の文を見た。読めるか読めないかは、分からない。母の字は細くて、癖がある。レイフは読もうとしなかった。見て、それから自分の帳面に向いた。


「写しを、取ってもいいですか」


 セシルだった。


「文の写しです。紙は一枚しかありません。一枚のものは、写しを取る。大所(たいしょ)で、そう教わりました。悪いことだけ教える所ではなかったので」


 エルドは少し考えた。それから、文をセシルの前へ押した。


「頼みます」


 セシルは膝をついて、自分の帳面に、母の字を写しはじめた。一字ずつ。写す手は、遅かった。


 マグダは文を読まなかった。床の三枚を一度見て、それから壁の俵に背をつけて目を閉じた。


「あたしが読むものじゃないよ」


 それだけ言った。


 エルドは書状と鳥の絵を懐に戻した。文は、セシルの前にある。写し終わるまで、待つ。待ちながら、母の字を遠くから見ていた。春になりましたら。知らせたいこと。知らせるはずだった相手は、王都にいる。知らせるはずだった中身を知っている者は、いない。


 いない、と思った。思ってから、その先を考えなかった。


  ◇


 夜半(やはん)に、戸が叩かれた。


 三度。間を置いて、二度。マグダが目を開けた。レイフが立った。エルドは剣に手をかけなかった。かけない、と決めていた。この蔵で剣を抜くなら、それは終わりの合図だ。


 戸が開いた。


 灰色の法衣の男だった。後ろに、もう一人。若い男だ。埃をかぶった旅の服で、脚が、まだ馬の上にいるように開いている。


 法衣の男は、蔵の中の四人を、順に見た。


 それから、口を開いた。


「丘が、割れました」


 初めて聞く声だった。低くて、掠(かす)れていて、長いこと使っていなかった声だ。男はそれだけ言って、口を閉じた。閉じて、後ろの若い男を、前へ押した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。