第40話 王都へ
堂を出て半日、後ろから足音が追いついてきた。
マグダが先に気づいた。振り向いて、鼻を鳴らして、また前を向いた。敵の足なら鼻は鳴らさない。レイフも振り向いた。畑の縁の細い道を、灰色の法衣が一人、荷を担いで歩いてくる。袖の短い法衣。堂の戸を開けた男だ。
男は四人の前で止まった。息は切れていない。歩き慣れた足だ。
「……町へ、下りていたのですか」
セシルが訊いた。男はうなずいた。それだけだった。
「喋らないのかい、あんた」
マグダが言った。男は首を横に振った。振ってから、少し考えて、もう一度、首を横に振った。
「口が利けないんじゃないね。喋らないだけだ」
男はうなずいた。
それから道端に膝をついて、拾った小枝で地面に線を引いた。長い線を一本、うねらせて引く。川だ。その南に、四角を一つ。四角の上に、小さな丸を一つ。四角の脇、川に接する所に、もう一つ小さな四角。男はその小さな四角を、枝の先で二度、叩いた。
それから立って、エルドの胸の、灰色の布を指した。堂の戸を開けさせた布だ。布を指し、地面の小さな四角を指し、自分の胸を指した。
「王都の、川端の蔵ですか」
エルドが言った。男はうなずいた。
「あなたが、そこにいる」
うなずいた。
「先に、行くのですか」
うなずいて、男は街道のほうを指した。それから四人を順に見て、最後にレイフを見上げた。何かを言いたい顔ではなかった。見るだけ見て、男は畑の縁を下りて、街道へ出ていった。灰色の法衣が一人、荷を担いで南へ歩いていく。関の白い制服は、あの背中を止めないだろう。法衣の一人旅を止める者はいない。
「荷を受ける人の手だ」
レイフは言った。
「なんで分かる」
「縄の跡が、掌にありました。荷の縄です」
マグダは何も言わなかった。言わないで、地面の線を靴の先で消した。
◇
川に出るまで、七日、歩いた。
畑はもう刈り終わっていた。刈り株の間に鴉が下りて、道の脇の柿の葉が一枚ずつ赤くなりはじめている。朝は冷えた。夕暮れが、一日ごとに早くなった。四人は街道を避け、丘を縫って南へ下った。自分が先で、エルド、セシル、マグダの順。この並びも、いつものことになった。
エルドは、ふつうに歩いた。
朝は靴の紐を自分で締め、夜は革袋を枕にする。それは変わらない。変わったのは一つで、懐を外套の上から押さえる回数が、少し増えた。押さえる紙が、川べりで一枚増えているからだ。
三日目の夕方、マグダが空を見て言った。
「秋になったね」
「はい」
エルドが答えた。
「日は、決めてください」
「王都で、決めるよ」
マグダは言って、それきりだった。レイフは荷を下ろしながら、それを聞いていた。秋、としか教えない人の、秋の日だ。王都で決める。王都を出てから、とは言わなかった。出る前提で言うのか、出たあとで言うのか、この人の言い方はいつも、どちらとも取れる。取れるように言っているのだと、七年で分かっている。
◇
四日目の夜、焚き火の脇に平らな石があった。
レイフはそれを見て、炭を一本、火から抜いた。冷ますあいだ、エルドを見た。エルドは火の向こうで、干し肉を裂いていた。
「エルド様」
「なんだ」
「約束が、ひとつあります」
エルドは手を止めた。
「井戸で。俺が、あなたに、教える約束です」
少し間があった。エルドは干し肉を革袋に戻して、火を回って、石の前に来た。来て、腰を下ろした。
レイフは石の上に、炭で、自分の名を書いた。四角い字だ。書き終えて、炭をエルドに渡した。エルドは受け取って、隣に、同じ名を書いた。
早かった。線が細くて、はらいの先が上がる。城で習った字だ。レイフの字とは、生まれが違う。
レイフは二つの名を、しばらく見た。
「線が、一本多いです」
エルドが、顔を上げた。
「私の字が、か」
「はい。ここです」
指で示した。エルドの書いた三つ目の字の、右の脇。飾りのように払った短い線が一本、レイフの字にはない。
「……それは、飾りだ。読める」
「読めます。でも、多いです」
エルドは自分の字を見て、レイフの字を見て、もう一度自分の字を見た。それから炭を持ち直して、飾りの線を指で擦って消した。消して、書き直さなかった。消したままの字が、石の上に残った。
「師が、悪いのか」
「師は、いいはずです」
レイフは言った。言ってから、これは言わないほうがよかったかと思った。エルドは何も言わなかった。言わずに、口の端を少しだけ上げた。
「読みやすい字なら、と言ったのは、おまえだ」
「はい」
「私の字は、読みにくいか」
「俺の字より、読みにくいです」
エルドは息を吐いた。笑ったのだと思う。マグダが向こうで、寝たふりのまま肩を揺らした。セシルは帳面を開いたまま、こちらを見ていなかった。見ていない顔で、聞いていた。
石の上に、名が二つ並んでいた。
レイフはその夜、帳面に書いた。
——今日、俺が主に、字を教えた。主の字は、俺より読みにくい。
書いてから、炭を置いた。北の城の冬に、蝋板の前で同じ名を百回書いた。あのとき隣で注文をつけていた声は、いまも覚えている。覚えているのは、自分だけだ。それでいい。今夜、主は新しく一度、隣で書いた。新しい一度は、帳面にある。
◇
七日目の昼、大きな川に出た。
王都は、この川の南岸の、川下にある。街道はここで川を渡る。渡しがあった。太い綱を両岸に張って、綱を手繰って進む平たい舟だ。荷車が一台と人が十人ばかり乗れる。岸には順番を待つ荷と人が溜まっていた。麦の俵。塩の袋。籠を担いだ女。羊の群れを連れた親子。四人はその中に混じった。
渡し守は、荷の数を数えるだけで、人の顔を見なかった。川は王都の外だ。網は、まだここまで来ていない。
順番待ちの間に、話が聞こえた。
籠を担いだ女だった。行商だ。籠の中は針と糸と小さな鏡で、女はそれを荷運びの男に売りながら、売る手を止めずに喋っていた。
「——だからさ、御用の窯の娘だよ。門前の町の。六代、窯を離れられなかった家の娘が、いま、町の外を歩いてる。石垣の外をね。誰がやったと思う」
「知らねえよ」
「誓い断ちの大男だよ。聞いたことないの」
レイフは荷の紐を締めていた手を、止めなかった。止めない代わりに、耳だけがそちらへ向いた。
「背丈が七尺あるんだって。手を当てりゃ、誓いの紋が焼き切れる。窯の娘の胸に手を当てて、六代の誓いを焼き切ったんだ。娘は石垣の外へ、十歩、歩いた。それから絵を描いてるって」
「与太だろ」
「与太じゃないよ。二つの村の堰の話も知らないの。五十年、誰も直せなかった堰を、その男が誓いを断って直させたんだ。それから、川霧の宿場の騙り二人組。あいつらを一睨みで縛らせたのも、その大男」
レイフは、エルドを見なかった。見なくても、エルドが動かないのは分かる。マグダが袖で口を隠した。隠して、肩が一度、小さく揺れた。セシルは背筋を伸ばしたまま、川を見ている。規程どおりの顔だ。だがその顔の耳が、少し赤い。
「供が二人いるんだって。小柄な若いのと、女が一人。若いのが値切って、女が睨んで、大男が手を当てる。三人で、北から下ってきてるって話」
「北の逆賊の残党じゃねえのか、それ」
「知らないよ。触れ書きは、騙りの残党だって書いてるじゃないか。騙りが人の誓いを焼き切るかい。……あたしはね、会えたら、頼みたいことがあるんだよ。うちの亭主の、年季の誓いさ。あと四年ある。四年は、長いよ」
女は針を一本、男に売った。銭を受け取りながら、思い出したように言った。
「北の市には、その大男に惚れた青物屋の娘がいて、三年、忘れないって言い張ってるそうだよ。惚れる相手は、選んだほうがいいね」
舟が着いた。
女は籠を担ぎ直して、舟へ歩いていった。四人も乗った。綱が軋んで、舟が岸を離れた。川の真ん中で、水が濁って速くなった。誰も喋らなかった。
南岸に上がってから、エルドが言った。
「……七尺」
「六尺と、半分です」
レイフは答えた。答えてから、これは訊かれたのではなかったかもしれないと思った。マグダが吹き出した。堂を出て初めて、この人が声を立てた。
「あんたが断つのかい、でかいの」
「断てません」
「知ってるよ。……七尺だってさ。あたしが睨んで、あんたが手を当てて」
「値切ったのは、私です」
エルドが言った。
「窯の娘のときは、値切りませんでした。娘のほうが、言い値でした」
「言い値で払ったのは、あんたのほうだろう」
エルドは答えなかった。答えないで、先に立って歩きはじめた。堰の話は、誰も口にしなかった。あの堰は、誰も断っていない。エルドが別の場所に架けさせた。口伝はそれを、断ちにしてしまった。エルドは訂正しなかった。訂正する相手がいない。
レイフは思った。口伝は、帳面より雑だ。雑でも、増える。窯の娘。堰の村。宿場の騙り。それを見た者、聞いた者、聞いて誰かに言った者。帳面は一冊で、書くのは自分一人だ。口伝は、書かずに増えていく。エルドが忘れても、覚えている者は帳面の外にもいる。数えられないほど。数えられないから、雑だ。
雑でいい、と思った。
◇
その夜は南岸の木立で火を焚いた。
王都は、あと一日。マグダはそう見立てた。川下の空が、夜になっても少し明るい。町の火の明かりが、雲の底に映っている。北の城の下の町では、こんな明るさを見たことがなかった。
「王都で、あんたを匿ってくれる家はあるのかい」
マグダが訊いた。火を見たまま、酒壺には手を伸ばさずに。
エルドはすぐには答えなかった。
「一つ。……頼れるかは、分かりません」
「誰の家だい」
「母の、家です」
レイフは火の脇で、革袋の紐を確かめる手を止めた。
奥方様の家。王都の家だ。年に二度、春と秋に、木の箱が届いた。蝋の封の上に、樫の葉の印。箱の中は茶で、その茶が北の城の冬の味だった。三つ目の椀が壁際の自分の前に置かれた晩を、自分は覚えている。エルドも覚えている。ある、と炭焼きの小屋で言った。ある、はまだ、ある。
「オーベル、という家です。王都の貴族の、いちばん端の」
エルドは言った。
「宴のあと、その家は、口をつぐんだと聞いています。聞いたのは噂です。……行けば、門は開かないかもしれません」
「開かなくても、行くのかい」
「行きます。王都で私を知っている家は、そこだけです。知られている所へ、先に行く」
「隠れないんだね」
「隠れようとする大男ほど、目につく。……そう教わりました」
マグダは鼻を鳴らした。
「あたしの教えを、あたしに返すんじゃないよ」
セシルが帳面から顔を上げた。
「王都の詰所には、私の触れ書きがあります」
静かな声だった。
「丘の詰所と同じものが、貼ってあるはずです。私の名で。……行きます。私の的です」
「網の口だよ、白いの」
「はい」
セシルはそれだけ言った。マグダはしばらくセシルの顔を見て、それから火に枝を一本足した。
「順は、決めとこう。ちびの家が先だ。次に、白いの。……あの男は、最後だ。最後に会う相手は、いつも、こっちが揃ってから会う」
誰も反対しなかった。
レイフは帳面を開いた。今日の分は、渡しの話が長い。七尺、と書いた。書いて、横に、六尺半、と足した。
◇
次の日の夕方、最後の丘を越えた。
越えると、下に、町があった。
大きかった。川が町の北の縁を流れて、川に沿って城壁が続き、壁には門がいくつもある。壁の内は屋根の海だった。屋根の海の真ん中に低い丘があって、丘の上に白い建物が並んでいる。夕日を受けて、白い。その丘の裾に、一つだけ、黒いものがあった。黒い石の、低い館だ。屋根が低くて、横に長い。白い丘の裾で、そこだけが、夕日を受けても黒いままだった。
「王宮です。丘の上の白いのが」
セシルが言った。
「裾の黒いのが、宰相府。……王宮より古い、と習いました。王都で、いちばん古い建物だと」
エルドは、黒い館を見ていた。
堂の戸口で南を見ていたのと、同じ方角だ。方角は同じで、今度は、下にある。見上げるのではなく、見下ろしている。エルドの顔は、戸口のときとは違った。どう違うかは、レイフには言えない。言えないので、見た。見て、覚えた。
レイフは門を数えた。
見える範囲で、四つ。どの門にも、黒い装備が立っている。街道から門へ入る人の列が、夕方の光の中でゆっくり動いていた。門の兵は、通る者の顔を一人ずつ見ている。ここからでは、目の色までは分からない。分からないが、兵の顔の向きは分かる。荷を見ていない。顔を見ている。
マグダが隣に来て、同じものを見た。
「目を、見てるね」
「はい」
「網だ。……王都の門は、通る者の目の色を見る。触れ書きに、琥珀の目、と書いてあるからね。あの門を、ちびは歩いて通れない」
「はい」
「あの男が、そう書かせた。書いたときには、あんたらが来るとは、思ってなかったろうよ」
エルドは何も言わなかった。言わずに、懐に手を当てた。紙が二枚、その下にある。書状と、娘の鳥の絵。……レイフは、エルドがその手を離すまで、待った。
日が落ちた。
丘の下で、門が閉まる音がした。一つ。少し遅れて、もう一つ。重い木の音が、夕暮れの空を渡ってきた。列の尻尾が、門の外で止まった。止まった人たちが、壁の下に荷を下ろして座りはじめる。夜は、外で待つ人たちだ。
王都アルディア。
あの夜を勅命と呼んだ声は、あの黒い館から出た。父の名を逆賊と書いた手は、あの館の中にある。……七年、南へ歩いてきた。南は、ここで終わる。この先は、南ではない。あの門の中だ。
「朝まで、待つ」
エルドが言った。
「はい」
レイフは答えた。四人は丘の上で荷を下ろした。火は焚かなかった。門の兵に、丘の火を見せる理由がない。夜が来て、下の町の灯りが一つずつ増えて、黒い館だけが、灯りをつけなかった。




