第39話 頼っていい
未明の番は、マグダだった。
堂の戸口の腰掛けに座って、戸を少し開けておく。外は暗い。星はまだある。畑の向こうで鶏がまだ鳴かない。そういう刻限だ。八年、この刻限を幾度も見てきた。夜明け前は人が動く刻限だ。逃げる者も追う者も、この刻限に動く。網が戸を蹴るのも、この刻限だ。
だから番はあたしだ、と言った。誰も反対しなかった。
堂の中は寝息が四つ。爺さんの寝息は浅い。白いのは規程どおりに寝る。仰向けで、動かない。でかいのは壁に背をつけて、膝に剣を置いたまま寝ている。寝ているのか起きているのか分からない寝方で、七年、寝てきた。
エルドの寝息は、いつもと少し違った。
浅い。浅いのは断ったあとの二晩目だからだ。そう思っていた。
思っていたが、あたしの目は寝息を数えるためのものじゃない。八年、人の顔を読んできた。ゆうべ、飯のとき、あの子は南を見た。戸口で、長いこと。読める顔だった。
朝に、頼むしかない、とあの子は言った。仇に、だ。どうやって、は、誰も言えなかった。あたしも言えなかった。手立ての無い頼み事を、あの子は日暮れまで抱えて、抱えたまま南を見ていた。手立てが無いとき、人は、手立てのあるほうへ行く。頼めなくても、払うことは一人でできる。あの顔は、そこまで行きかけている顔だった。
尾根の沢で、この焚き火は覚えていたい、と言った夜と同じ種類の顔だ。あの夜は読まなかった。読まない、と決めた。
今夜は、読む。
決めたのは戸口に座ったときだ。読まないと決めた顔を、一つ、読み直す。桶屋のときは読んで、手を止められなかった。今度は読んで、止める。
◇
寝息が一つ、消えた。
消えたのではない。息を殺したのだ。マグダは腰掛けの上で動かなかった。動かずに、耳だけを堂の奥へ向けた。
衣擦れ。革袋の紐を、解かない音。……解かずに、袋の脇へ何かを置く音。紙だ。紙と、布。それから剣を取る音。鞘が石の床を擦らないように持ち上げる音。
足音はしなかった。
七年、あたしが仕込んだ足だ。音を立てない歩き方は旅の三年目に教えた。教えたとおりに、あの子は歩いてきた。堂の奥から、腰掛けの列の脇を、戸口へ。
マグダは戸口の腰掛けで目を閉じていた。
閉じたまま、言った。
「……どこへ行くんだい」
足が止まった。
止まってから、少しの間があった。逃げるための間じゃない。息を整えている。
「王都へ」
声は低かった。人前の声でも、でかいのと二人の声でもない。あたしがほとんど聞いたことのない声だった。
「一人でかい」
「……一人で払えば、済みます」
マグダは目を開けた。
暗い戸口に細い影が立っている。剣だけを腰に差して、荷は持っていない。外套も着ていない。革袋の脇に、紙と布を置いてきた。証しの書状と、東の領主の旗の切れ端を。写しはでかいのの帳面の中だ。三人で運べ、ということだ。この子は、そういう置き方をする。
「済む、ね」
マグダは立ち上がった。
「済むなら、なんで、置いていくものを揃えてから出ていくんだい。……それは、済まない者のやることだよ」
エルドは答えなかった。答えないで、戸の隙間を見た。
「通してください」
「通さないよ」
「マグダ」
「あんたを通すために、ここに座ってたんじゃない」
エルドの手が動いた。
柄へではない。戸へだ。戸を押し開けて出る手だ。……あたしの前を、押して通る手。
マグダは、その手首を取った。
◇
取って、引いた。
引く方向は下だ。人は上に引かれると踏ん張るが、下に引かれると膝が抜ける。旅の三年目に教えた。教えたとおりに、あの子の膝が抜けた。抜けた膝の外側に自分の足を入れる。入れて、払う。払うと身体は横に倒れる。倒れる肩を掌で床へ押さえる。押さえて、取った手首を背中へ回す。回した腕の肘を、自分の膝で床に留める。
留めた。
息は上がっていなかった。八年経っても変わらない。二十の男を一つ息で組み伏せられるのは、あたしの取り分の一つだ。
石の床に、エルドの頬がついていた。
琥珀の目が横向きに、あたしを見上げている。抵抗はなかった。手首を取られたときに、抜けたはずだ。抜いて逆に取ることも、あの子はできる。教えたのはあたしだ。……しなかった。
「……抜かないね」
「抜けません」
「抜けない、じゃない。抜かない、だ。……言い直しな」
少しの間があった。
「抜きません」
「よし」
マグダは膝を離さなかった。離さないで、暗い堂の奥を見た。寝息が二つ、止まっている。でかいのはもう起きている。起きて、動いていない。白いのも起きた。規程どおりの寝方から、規程どおりに起きた気配だ。二人とも来なかった。
この子の顔を読んだ。
石の床に頬をつけたまま、目だけをこちらへ向けている顔。読める。読んで、今度は言う。
「一人で払えば済む、って言ったね」
「はい」
「誰に、済むんだい」
エルドは答えなかった。
「あんたには済むだろうよ。地の底で全部払って、何も残らない頭で、あたしらのことも忘れて。……それで、あんたは済む。でかいのは済まない。白いのも済まない。あたしも済まない。あんたが済ませたあとの三人は、あんたが払った分を背負って、南の堂に置き去りだ。……それを、済む、って言うのかい」
石の床の上で、琥珀の目が動いた。
「払わせるために育てたんじゃない、と言ったろう」
声を低くした。
「あれは、あんたが払うのを黙って見てない、って意味だよ。あんたが払う場所にあたしがいない、って意味じゃない。……あんたの家族は、もう、あたしらだろうが」
言った。
言ってから、自分の声が少しだけ揺れたのが分かった。七年で初めて、この子の前で揺れた。……いい。揺れたことも、読まれていい。今夜は、読む側と読まれる側を両方やる。
エルドは、しばらく何も言わなかった。
それから、石の床に頬をつけたまま言った。
「……三人を、地の底へ、連れて行く理由が、ありません」
「あるよ」
「私が払うのを、三人の目の前で。……マグダ、あなたに、二度目を見せたくない」
二度目。
あたしの言葉だ。炭焼きの小屋であたしが言った。二度目は、ないよ、と。この子はそれを、あたしに二度目を見せないための言葉にした。そういう子だ。理屈が、いつも、人のために回る。
「見せな」
マグダは言った。
「二度目は、ないよ、って言ったのは、見てるだけの二度目はない、って意味だ。見ない、って意味じゃない。……あたしは見る。見て、手を出す。八年前に出せなかった手を、出す。そのために、あんたを育てた。あんたを一人で行かせるために七年、飯を食わせたんじゃないよ」
◇
「理屈で言おうか」
マグダは膝の重さを、少しだけ抜いた。
「一人で断てば、書き換えはできない。あんたが自分で言ったろう。一人でできるのは、断つことだけだ、って。書き換えるには繋ぐ血が要る。繋ぐ血はあの男だ。あの男に頼むには、あの男が頼まれる理由が要る。……理由は、何だい」
「写しと、証人と」
「そうだ。写しはでかいのの帳面だ。証人は爺さんと、東の領主様の書状と、白いのの帳面だ。丘が割れるのは爺さんの声だ。……全部、あんたの後ろにある。あんた一人の懐には剣しかない。剣で、あの男は動かない。あの男は二十の槍の後ろで、そう言ったろう」
エルドの目が閉じた。
「一人で行くのは、いちばん高くつく払いだよ。……相場を、まだ覚えてないね。七年教えて、まだだ」
閉じた目が開いた。
開いて、あたしを見た。読める顔だった。今夜、初めて抜けた顔だった。理屈で組んだところが外れた顔。七年前、雨の軒下で拾った晩の、あの子の顔に少しだけ似ていた。
「……マグダ」
「なんだい」
「……頼む」
小さな声だった。
人前の、私、の声ではなかった。でかいのと二人の、俺、の声でもなかった。どちらでもない、素の声だ。雨の軒下から連れてきた子の、いちばん最初の晩の声に、いちばん近かった。
マグダは膝を離した。
手首を離した。離して、立ち上がって、床のエルドを見下ろした。
「よし」
言った。
「守らせな」
◇
寝息の止まっていた二人が来た。
でかいのが先だった。剣を腰に差して、革袋を担いで。担いだ革袋の脇に紙と布が置いてあったのを、この男は見たはずだ。見て、担いで、来た。……担いできた。置いてあったものを、袋の中に入れて。
白いのがその後ろにいた。外套の前を合わせて、角灯を提げて。火は入っていない。
「起きていたのかい」
「はい」
でかいのが言った。
「いつから」
「紙を置く音から」
「来なかったね」
「マグダが、いました」
それだけ言った。それだけで足りた。この男は、あたしが戸口に座っていることを知っていた。知っていたから動かなかった。あたしにやらせた。七年で初めて、この男が、主の前に出るのをあたしに譲った。
白いのは何も言わなかった。
言わないで、床のエルドの脇に膝をついて、手を差し出した。規程にない手の出し方だった。エルドはその手を取って、起き上がった。
四人が、暗い堂の戸口に立っていた。
段の上で爺さんが起きていた。腰掛けの上で目を開けて、掌典だった人は、何も言わないでこちらを見ていた。
◇
夜が明けた。
堂の戸を開け放って、井戸端で四人で顔を洗った。でかいのが桶を上げて、白いのが角灯に油を足して、エルドが自分の靴の紐を締めた。締め終えてから、でかいのに手を出した。革袋の脇に置いた紙と布を、返せという手だった。でかいのは袋の中から出して、渡した。エルドは懐に入れた。
それだけだった。誰も何も言わなかった。
爺さんが段を下りてきた。法衣の裾を引いて、井戸端まで。年嵩の騎士が、その後ろについていた。
「わたしは、丘へ上がる」
爺さんは言った。
「今日、発つ。北へ。あなた方は、南へ」
「ああ」
マグダは言った。
「爺さん。声が出るうちに、しゃべりな。……出なくなったら、また呼ぶといい。断てる者は南にいる」
「呼ばぬ」
爺さんは言った。
「二度は頼まぬ。……一度で、足りた」
それから、エルドの前に立った。痩せた手を、エルドの右手の甲の上にそっと置いた。紋のない手の甲の上に。
「断つ者よ。……払うものを知っていて、わたしは頼んだ。頼んだことを、忘れぬ。あなたが忘れても、わたしは忘れぬ」
エルドは頭を下げなかった。下げないで、うなずいた。
……あんたが忘れても、覚えてる者が、また一人増えた。
◇
「王都は、遠いよ」
畑の縁で、マグダは言った。四人分の荷が地面に並んでいる。
「街道は使えない。関がある。目の色で止められる。丘を縫って、幾日か。着いたって門がある。門の中にあの男がいる。あの男の後ろに、地の底がある」
「はい」
「靴と飯は、抜くな」
「はい」
「相場を覚えな。顔を読め。読んで、決めな。……あたしが教えたことを、全部使え。そのために教えた」
「はい」
エルドは三度、はい、と言った。三度とも、違う顔で。
マグダは鼻を鳴らした。……七年で初めて、この子に、頼む、と言われた朝だ。鼻くらい、鳴らしていい。
でかいのが革袋を担いだ。
白いのが角灯を腰に提げた。火は入れていない。夜の参道は暗いので、と言ってあの男が置いた角灯だ。あれから、この子は油を切らしたことがない。
エルドが剣を差し直した。差して、南を見た。戸口で見ていたのと同じ方角。同じではない顔で。
「南へ」
エルドが言った。
「王都へ」
「はい」
でかいのが言った。言ってから、少しだけ足した。
「証人が二人。書状が一枚。帳面が二冊。写しが一つ。……人が、四人」
白いのが口の端を上げた。
マグダは荷を担いだ。担いで、道の先を見た。丘と、麦畑と、その向こうの、まだ見えない南。八年前の相手が二人、その先にいる。丘の上の番人は、丘が割れれば、割れ目の中に立つ。もう一人は、地の底の番をしている。……どちらも顔を持っている。あたしの的は、まだ顔を持っている。
この子の的の、後で。
今度は、見ているだけの女じゃない。
四人は丘の裾を南へ歩き出した。爺さんと騎士は井戸端に立って、それを見ていた。
覚えている者が、増えた。三人、と言ったのが五日前だ。帳面より、多い。




