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第38話 勝手な理由


 井戸の水は、朝も冷えていた。


 顔を洗って、エルドは縄を見た。ゆうべ、レイフが桶(おけ)を上げたときに、縄の長さで測った井戸だ。北の城のより深い。深さは、覚えている。城の井戸の深さも、覚えている。そういうものは、ある。


 顔を上げると、堂の戸口から、畑と町の屋根と、その向こうの街道が見えた。街道は南へ下る。下った先に、王都がある。


 見た。見て、戸をくぐった。


  ◇


 朝の堂は、夜より広く見えた。


 高い窓から光が斜めに入って、石の床に四角く落ちている。埃がその中で回っていた。段の下に、腰掛けが四つ、向かい合わせに置いてある。老人が一つ。マグダが、その正面の一つに座って、腕を組んでいた。


 坊主の家には行かない、と言った人だ。説教くさい坊主は嘘の次に嫌いだ、と。その人が、掌典(しょうてん)だった老人の前で腕を組んでいる。組んでいるが、鼻は鳴らしていない。


「ちび。座りな。……話が、始まる」


 エルドはマグダの隣に座った。セシルが向かいに、膝の上に帳面を開いて座った。レイフは座らなかった。エルドの後ろに立った。年嵩(としかさ)の騎士が、少し離れて座った。戸を開けた法衣の男は、戸口に立ったままだ。


 三冊目の帳面が、真ん中の床に開いて置かれた。石の字の頁。


「昨日、言えなかったことを、言う」


 老人は言った。声は低くて、落ち着いていた。ゆうべ泣いた人の声には聞こえなかった。


「長くはない。長く話せるほど、わたしは知らぬ。掌典に上がる者は、上がる前に一度、あの石段を下りる。代々だ。下りて、読んで、上がってきて、口を縫う。それが、教典を預かる役の、最初の務めだった。わたしの前の掌典もそうした。わたしもそうした。わたしの後の者も、そうしたはずだ」


「大所長(たいしょちょう)は、あの鍵を三十年、一度も使っていない、と言いました。前の大所長も、と」


 セシルが言った。石段の上で、燭台を持った小柄な老人が、そう言った。あの晩、自分も聞いた。


 老人は、しばらく黙った。


「ならば、わたしの後の者は、下りておらぬ。読まずに、預かっておる。……いつからか、誰かが、下りさせなくなった」


 誰かが。名を言わなくても、全員が同じ顔を思い浮かべたようだった。白い髪。薄い灰色の目。


「教典の一頁目は、あの壁から書き起こされた」


 老人は続けた。


「始祖が戦の世を終わらせ、大誓約(だいせいやく)を結び、以来この大陸は戦を知らぬ。最初の行と、最後の行だけを取って、間を捨てた。誰から何を預かったかを、書かなかった」


 間を捨てた。


 セシルが、膝の上で右の手を開くのが見えた。薄青い、小さな紋。叙任の壇上で立てた誓いの、口上の元は、間を捨てた一頁目だ。セシルは何も言わなかった。言わないで、手を閉じた。


「わたしは、五十年、その間を知って黙った。昨日、口が開いた。開いたので、言う。この写しは、真だ。わたしが、わたしの名でそう言う。丘の上で、聖堂の前庭で、言う」


「丘へ、上がるのですか」


 セシルが訊(き)いた。


「上がる。声が出るうちに。この人が、連れて行ってくれる」


 老人は、年嵩の騎士のほうを見た。


「丘の上には、わたしの声を待っている者が、幾人かいる。閣下の顔ばかり見てきた者も、幾人かいる。わたしが前庭で口を開けば、丘は、割れる」


 割れる。


 年嵩の騎士は、誰も見なかった。見ないで、剣の柄に置いた手を、一度、握り直した。


  ◇


「読んでみな、白いの」


 マグダが言った。


「正面の壁の行を。ちびが読んだのは聞いた。爺さんが読んだのも聞いた。あんたの声で、まだ聞いてない」


 セシルは床の帳面の前に膝をついた。指で追って、声に出した。


「——戦は、上を望む心から起こる。わたしは万の民から、生まれた場所より上を望む心を預かった。誰にも告げずに。それを、二度と戦を起こさぬ誓いに注いだ。……これを、大誓約と呼ぶ」


 石の間で自分が読み上げたのと、同じ行だ。この人の声で聞くと、違う行に聞こえた。教本を読む声で、教本にない行を読んでいる。


「預かった、と書いてあります」


 セシルは言った。


「取った、ではなく。奪った、でもなく。預かった、と。……質屋の言い方です。預かったものは、いつか返す前提の言い方です」


「返した質屋を、あたしは知らないけどね」


 マグダが言った。


「幾百年、返してない。返す気もない。……返すつもりのない預かりを、世間じゃ、盗みって言うんだよ」


「それでも、預かった、と書いた人がいます」


 セシルは帳面から顔を上げなかった。


「書いた人は、返せることを知っていた。……知っていて、返す者を、北へ遣(や)った」


 北へ遣った。遣られた者が、この腰掛けに座っている。知らずにいた家は、七年前の冬に、知らないまま消えた。


  ◇


「断てば、消える」


 エルドは言った。今朝、初めて出した声だった。自分の耳には、いつもの声に聞こえた。


「大誓約を断てば、預かったものが、万の民へ戻る。パン屋の娘の足が、動いたように。それと一緒に、あの人の払う先が消える。あの人は、外した誓いの払いを、そこから崩して済ませてきた。あの夜と同じことは、二度と、誰にもできない。……だが、二度と戦を起こさぬ誓いも、一緒に消える。注いだものだけを戻す手は、無い」


「戦が、また起きると」


 セシルが言った。


「分からない。誓約主(せいやくしゅ)は、起きると信じている。始祖も、そう信じた。……私は、信じていない。だが、起きない、とも言えない。起きない、と私は誓えない」


 エルドは、床の帳面を見た。レイフの手で写された、始祖の字。


「証文は、書き換えられる」


「紙が、要りますか」


 後ろで、レイフが言った。朝の堂で、この男が初めて口を開いた。


「紙は、あとだ。書ける手が、先だ」


 エルドは振り向かずに答えた。


「誓いは、証文だ。預ける者が、承知していたか。済んだら、引き取れるか。証文なら、そこが書いてある。……パン屋の娘の窯の誓いは、六代前の当主が、娘に断りもなく、代々の血を縛った。無断で、二度と引き取れない形で。商いの証文は違う。承知の上で結んで、済めば消える」


 セシルが炭を持った。帳面に、短く二つ、書いた。窯。商い。この人は、聞いたことを並べて書く。並べると、違いが見える。


「大誓約は、誰も決めていない。万の民は、預けさせられただけだ。無断で、二度と引き取れない形で、幾百年。パン屋の娘の窯と、同じ形だ。大きさが違うだけだ」


 セシルの炭が、三つ目を書いた。書いて、いちばん上の行へ戻って、そこに何かを足した。窯の行だ。同じ列に、並べた。


「書き換えるなら」


 セシルが言った。顔は帳面に向いたままだった。


「……無断で、を、承知で、に。二度と引き取れない、を、いつでも引き取れる、に」


「そうだ」


「戦を封じる意図は残して、質だけを差し替える」


「そうだ。引き取れる質なら、人の払いに崩されて黙っている者はいない。預けた者が、引き取る。……戦封じは残る。安い払いの元だけが、無くなる。そういう証文が、書けるなら」


 エルドはそこで止まった。


 書けるなら。ここまでは、品を見て、値を言っただけだ。売り手が、まだいない。


「書けるさ」


 老人が言った。言って、身を乗り出し、床の帳面の、右の壁の三つ目の行を、指で押さえた。


「繋げる、と書いてある。外せる、ではなく。閣下は、あれを、外すためにしか使っていない。百の紋を外し、二十の紋を外した。……だが、繋ぐ、が何かは、正面の壁に書いてある。始祖は、万の民から預かったものを、二度と戦を起こさぬ誓いに注いだ。預かりものを、誓いへ繋いだのだ。それが、繋ぐ、だ。大誓約は、そうやって結ばれた」


 指が、正面の壁の行へ動いた。預かった、と書いてある行だ。


「結んだ手の業(わざ)が、王都に残っている。……繋げる手は、結び直せる手だ。一度結べるものは、結び直せる」


 結び直せる。


 石の間で読んだ行だ。届くゆえに、断てる。届くゆえに、繋げる。断つ、は分かる。この手がしてきたことだ。繋ぐ、は分からないまま、ここまで歩いてきた。老人の指の下で、初めて、繋ぐ、が値のあるものに見えた。


「結び直すには、口上が要ります」


 セシルが言った。言ってから、自分の口が言ったことに驚いた顔をした。


「誓いは、本心と、口上と、作法で成る。見習いの一年目に習うことです。……新しい誓いには、新しい口上が要ります」


「書いてみな」


 マグダが顎で帳面を示した。


「あんたの帳面に。……誓約法の申し子だろ」


 セシルは炭を持ち直した。書いて、消した。書いて、消した。三度目に、消さなかった。消さないで、読んだ。


「——我らは、承知の上で、わずかを預ける。いつでも引き取れると、定めて。二度と戦を起こさぬために、この盟を結ぶ」


 読み終えて、セシルは炭の先で、その下に小さく何かを書いた。


「……まだ、違います」


「何が、違う」


「並びません。口上には、並びがあります。言葉を決まった順に置いて、初めて、誓いを結ぶ形になる。見習いの四年で叩き込まれました。……この口上の並べ方は、その四年のどこにもない」


 言葉は、あった。並べ方が、無い。始祖のあとに、誰も結んだことのない盟だ。


「並ばないのは、口上のせいじゃないよ」


 マグダが言った。


「並べる前に、決まってないことがある。……繋げるのは、誰だい」


 マグダは、老人を見て、それからエルドを見た。


「壁は、わたしだけが、と書いた。始祖は血を二つに分けた。断つ血を北へ、繋ぐ血を王都へ。ちびは、断つ血だ。断てる。繋げない。三つ、いや四つ断ったが、一つも繋いだことはないだろ」


「ありません」


 エルドは言った。


「繋げるのは、王都の血だ。……誓約主だ」


 誰も何も言わなかった。


 高い窓の光が、床の四角を少しだけ動かした。埃が回っていた。


「断ちは、壊すだけです」


 セシルが言った。教本を読む声だった。


「壊して、断つ者はすべてを払う。繋ぎは、結び直せる。結び直すなら、繋ぐ血が要る。繋ぐ血は、一人しかいない。この国で。……閣下だけです」


「書き換えるには、あの人に、繋いでもらうしかない」


 エルドは言った。


「私が一人でできるのは、断つことだけだ。断てば、全部を払って、戦封じも消える。……書き換えたければ、仇(かたき)に、手を貸してもらう」


「殴り込んで、手を貸せと頼むのかい」


 マグダが言った。皮肉の顔だったが、目が笑っていなかった。


「七年、的にしてきた男のところへ行って、私の家を消したあなたの手で、あなたが守っている大誓約を、書き直してください、と。……そう頼むのかい」


「……そう、頼むことになります」


 エルドは、床の帳面を見たまま言った。


「頼める相手ではない。……だが、頼むしかない」


 言ってから、値が分からない、と思った。相場を知ってから払う。マグダに、そう教わった。頼む、の値を、誰に聞けばいい。始祖のあとに、誰も頼んだことがない。


  ◇


 昼の飯は、堂の脇の畑の縁で食べた。


 法衣の男が、町から丸パンと干し果実を買ってきていた。マグダが老人の分のパンを、一口大に割って渡した。渡してから、自分でも驚いた顔をして、鼻を鳴らした。


「坊主に飯を割ってやる日が来るとはね」


「坊主ではない。掌典だった者だ」


「同じことだよ」


 老人は、少しだけ笑った。


 レイフが、パンを数えていた。


「証人が、二人。書状が一枚。帳面が、二冊。……写しが、一つ」


「何を数えてるんだい、でかいの」


「持ち物です。王都へ持っていく分の」


「パンは」


「四つ。四人で、割り切れます」


 四人。この男は、人も数える。エルドは口の端を上げた。上げて、パンを一口、齧(かじ)った。


 年嵩の騎士は、少し離れた畑の縁に座っていた。セシルが、パンを持って、そちらへ歩いた。座った。一人分、空けて。風のない昼だった。声は、届いた。


「……酒の席で、漏らしたのは」


「俺だ」


「なぜです」


「触れ書きが、騙(かた)りの残党三名、と書いた。頬傷は宿場で、頭目(とうもく)は町の門で縛った。おまえも、俺も、その場にいた。残りは、一人だ。数の合わん触れ書きを、俺は読まされた。俺は、見た側だ」


 触れ書きが残党三名と書いた三名は、この畑の縁でパンを食っている。


「読んで、酒の席で、違うことを言った。……それだけだ。おまえほど、まっすぐじゃない」


「願い出は、通ったのですか」


「あっさり通った。追うな、と言われている、と団長は言った。追わなければ、どこへ行ってもいいらしい」


 追うな。あの人の言葉だ。供は、お好きに、と言った。追わないで、待つ。二十の槍の後ろで。


「掌典さまを、丘へお連れする。……お前は、南へ行くんだろう」


「はい」


「戻ってこい。……丘は、割れる。割れたあとに、おまえの立つ側がある」


 セシルは答えなかった。答えないで、パンを一口、齧った。


 セシルは、立つ側がある、と言われた。彼女には、戻る丘がある。マグダには、的がある。レイフには……。


 考えるのを、やめた。考えないようにして、パンを一口、齧った。


  ◇


 午後、堂の中で、エルドはセシルと二人になった。


 マグダは老人と、明日の道の話をしていた。レイフは井戸で桶を洗っている。エルドは腰掛けに座って、床の帳面を見ていた。


「……ひとつ、伺っても」


「どうぞ」


「あなたは、断つ側です。壁は、そう言っています。……それでも、書き換える、と言った」


 エルドは、帳面から目を上げた。


「断てば、私はすべてを払う。壁に、そう書いてある。……書き換えられるなら、払いは、浅くて済むかもしれない。壁は、そこまでは書いていない。書いていないものは、値切ってみる」


 そうやって七年、歩いてきた。


「私は」


 セシルは言った。膝の上の右手を、開いた。薄青い、小さな紋。


「誓いを捨てるのではありません。……誓いを、選べるものに、正すのです。誓いの正しきを守り、と口上は言います。あの壁が正しくない誓いなら、それを正すのが、正しきを守る、ということです。……私の誓いは、まだ、私を縛っています。縛ったまま、私を、こちらへ向かせている」


 エルドは、何も言わなかった。言わずに、聞いていた。


「父の手は、袖の中にあります」


 声が、少しだけ低くなった。


「十四の秋に、紋が消えて、それきり袖から出ない。失効です。破ってはいない。破られてもいない。仕えた人が死んだ、それだけです。誓いが父を立たせて、誓いが父から抜けた。抜けたあとの父に、選べるものは、一つも残っていなかった。……選べる盟約なら」


 セシルは言葉を探した。習った覚えのない言葉を探す顔だった。


「預けたものを、自分で引き取れる。引き取って、もう一度、選べる。大誓約がそういうものに書き直されるなら、その下で結ぶ誓いも、いつか、そうなる。……父のような手は、生まれない。……私の勝手な理由です」


「勝手でいい」


 エルドは言った。


「私の理由も、勝手だ。皆の顔を、覚えていたい。それだけだ」


 言ってから、皆、の中を数えた。三人と、自分の中の父と母。覚えていたいから、書き換えたい。書き換えるには、あの人が要る。あの人に頼む言葉が、無い。


 輪が、閉じた。閉じた輪の中に、自分がいた。


  ◇


 日が傾(かし)いた。


 エルドは、堂の戸口に立って、外を見ていた。畑の向こう。町の屋根。その向こうの、街道の南。……王都の方角だ。


 何をしに、行くのか。


 二十歳になる前の冬、宿で言った。真実を知る。嘘を、本当の話にさせない。責を負う者に、報いを。三つだ。あのとき、この手の力を、自分はまだ知らなかった。


 真実は、知った。仇の口から聞いて、壁で読んだ。嘘のほうは、証人が増えた。丘が割れれば、七年前の触れ書きは、嘘だと知れる。


 残るのは、報いだ。離宮で、手が柄へ行った。あそこで払えば、六歩で届いた。届いて、斬って、それで済んだか。


 済まない。誓約主の手は、地の底のものを崩して払っている。斬っても、崩す先は残る。残れば、繋ぐ血の手が、いつかまた、同じことをする。あの夜と同じことを、誓いのある所なら、どこでも、何度でも。


 仇は、あの人だ。それは変わらない。振り下ろす先が、人から、あの人の手の元へ移った。的は、王都の地の底にある。断つにしても、書き換えるにしても、あの石の間へ行かなければ、始まらない。


 石の間で、四方の壁の字を、全部読んだ。読めない字は、一つも無かった。あの人に頼む言葉だけが、どこにも見つからない。


「頼める相手ではない」


 外を見たまま言った。独り言に近かった。


 後ろで、帳面を閉じる音がした。それから、セシルが訊いた。訊かずにいられない声だった。


「では、どうやって、仇に頼むのです」


 エルドは、振り向かなかった。


 答えなかった。答えが、無かった。


  ◇


 夕飯は、堂の中で食べた。町から戻った法衣の男が、鍋を提(さ)げてきた。豆と、干した肉の汁。七人分の椀が並んだ。


 エルドは椀を持って、戸口に立った。立ったまま、食べた。食べながら、南を見ていた。


 頼む言葉を、並べてみた。私の家を消したその手で。……並ばない。あなたが番をしている大誓約を、あなたの手で。……並ばない。並べられるものが、自分の七年のどこにも無い。


 背中に、目を感じた。マグダの目だ。七年、この人は、読める顔を読まないでいてくれたことがある。今夜は、読んでいる。


 エルドは、顔を、戸の外へ向けた。


 椀を返すときに、レイフの目がこちらへ来た。少しだけ長く留まって、それから椀へ戻った。


  ◇


 宵の番は、年嵩の騎士だった。夜半(やはん)からレイフ。未明はマグダ、と決まった。決めたのはマグダだ。誰も反対しなかった。


 エルドは、いつもの場所に横になった。革袋を枕にして。目は、閉じなかった。


 頼む言葉が、無い。……それでも、あの人は待っている。王都で待つ、と言った。供は、お好きに、と。頼む言葉を持たない者を、あの人は待っている。


 行く。それは、ゆうべも今日も、変わらない。行って、あの人と話す。話して、石の間を、この目で見る。見てから、決める。炭焼きの小屋で、そう言った。決めていないことを、決めたことにはしない。


 変わったのは、一つだけだ。あの人の所へ、何を持っていくか。


 写しは、要らない。あの人は、壁の字を知っている。証しの書状も、要らない。あの夜、広間で手を上げたのは、あの人だ。写しと書状が要るのは、丘だ。割れた丘に、写しと書状と、証人が要る。それは、三人が運べば済む。あの人の所へ持っていくもので、あの人が持っていないものは、一つしかない。北の家の血だ。あの人が待っているのは、それだ。


 だから、四人は要らない。あの人の後ろには、二十の槍が並ぶ。話をしに行くのに、四人で槍の前に立つことはない。


 理屈は、そこまでだ。理屈の下に、もう一つある。


 見て、話して、それでも断つしかない、と自分で決めたら。決めるのは、あの石の間だ。決めた場に、レイフを立たせるのか。ゆうべ、井戸の縁で、そこまで考えた。自分がレイフを忘れるのを、レイフの目の前で。マグダの目の前で。セシルの目の前で。


 答えは、ゆうべは出さなかった。今夜、出た。


 立たせない。


 今日、書き換えには、あの人の手が要ると分かった。頼む言葉は、見つからなかった。見て、話して、それでも断つしかない、へ行き着く見込みは、ゆうべより高い。


 決めるのが自分なら、払うのも自分だけでいい。払わせるために育てたんじゃない、とマグダは言った。見てるだけの女じゃない、と。見なくていい。見ずに済むなら、マグダは、二度目を見ずに済む。


 安く済むものは安く済ませろ、と教わった。これは、そういうものではない。


 口には出さなかった。出せば、レイフは、はい、と言わない。レイフが、はい、と言わないときは、動かない。七年より前から知っている。


 そういう男に、自分は字を教えた。教えた、と、帳面が言っている。


 夜半に、番が代わる気配がした。年嵩の騎士が戸口を離れ、レイフが座った。膝に剣を置いて、戸を見ている。見ていて、一度、こちらを見た。


「エルド様」


 小さな声だった。堂の中の寝息を、起こさない声だ。


「……明日、王都へ。四人で、ですね」


 エルドは、答えなかった。


 答えないのを、この男は、聞いた。聞いて、戸へ目を戻した。はい、とも、いいえ、とも言わなかった自分を、この男は帳面に書くだろうか。書かないだろう。書けないものは、書かない。


 南へは、一人で。


 口には出さなかった。出さないまま、目を閉じた。


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