第37話 最後に残るもの
目が覚めたのは、夜半だった。
堂の中は暗い。段の上の燭台は消えていて、高い窓から星の明かりだけが薄く入っている。エルドは革袋の上で頭を動かした。首が痛い。断ったあとの眠りはいつも深くて、短い。三つ目の夕方もそうだった。今夜は深さが違った。井戸の底から引き上げられたような目覚めだった。
誰も起きていない。
いや、戸口の近くで一人が座ったまま起きている。年嵩の騎士だ。膝に剣を置いて、戸を見ている。エルドが起き上がると、その目がこちらへ来て、すぐに戸へ戻った。何も言わない人だ。この堂の人は、皆そうらしい。
エルドは外套を掴んで、戸を開けた。
◇
外は涼しかった。
夏の盛りを過ぎた夜だ。刈った麦の匂いが畑のほうから来る。堂の脇の井戸の縁に腰を下ろして、エルドは空を見上げた。星が多い。北の城の裏山で見た空と同じ数だけある。数えたことはないけれど。
今日、何かを失った。
それは分かる。断てば払う。四つ目だ。……何を、は分からない。分からないはずだった。
分かっていた。
ゆうべの自分の口が言った。誰に習った、その字は。……探して、見つからなかった。それだけだ。
五日前、炭焼きの小屋で、ある、と言った。いまは、無い。
ある、と言ったことだけが残っている。中身が無い。五日前の自分の声が、空になった袋の口を結んでいる。袋は軽い。知っている、と、覚えている、の間に、こんなに隙間があるとは。あの雨の夜、一冊目の頁を見て、そう思った。あのときは拾われた晩の話だった。今夜は、レイフの字の話だ。
次は、何だ。
考えるな、と自分に言った。言った端から、数えていた。魚。晩。鷹。字。……順に深くなっている。壁の字が言ったとおりに。重き誓いほど、深く。字を教えた冬は、レイフとの日々の、いちばん外側だ。いちばん外側から、もう、レイフに届いている。
その先は。
エルドは、井戸の縁を掴んでいる自分の手に気づいた。掴んでいる。石が冷たい。冷たいのは分かる。
数えた。
父の顔。ある。母の茶の匂い。ある。冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日。ある。宴の前の晩。ある。歩みは七歩、壇の右手から。ある。雪の道の、あの背中の革の匂い。ある。峠下の町で煮た鹿の、ちょうどです。ある。二十歳の朝の卵二つ。ある。祭りの町の井戸端の、井戸のがいちばん冷えます、夏ですし。ある。ある。ある。……厚い。レイフの言ったとおりだ。残っているものの帳は、まだ厚い。
厚い。まだ、厚い。薄くなった所は、数えない。あの雨の夜に、そう決めた。
◇
戸が開いて、大きな影が出てきた。
レイフだった。何も言わずに井戸の脇まで来て、釣瓶を下ろした。縄が伸びて、遠くで水の音がして、縄が戻ってくる。桶が上がった。レイフはそれを井戸の縁に置いて、柄杓で一杯すくって、エルドに渡した。
冷えていた。
「……起こしたか」
「いえ。番の交代です。あの騎士様と、俺と。……夜半から夜明けまでが、俺です」
「そうか」
エルドは水を飲んだ。井戸の水は、どこの町でもいちばん冷えている。この男がいつか言った。夏ですし、と。ある。祭りの町の井戸端だ。ある。
「深いな、この井戸は」
「北の城のより、深いです」
「測ったのか」
「縄の長さで。ゆうべ、桶を上げたときに」
この男は、そういうことをする。井戸に来れば縄の長さを見る。荷を担げば重さを覚える。沢に立てば石の陰を数える。……そういう男に、自分は字を教えた。教えた、と、帳面が言っている。
「レイフ」
「はい」
レイフは井戸の縁に、少し離れて腰を下ろした。二人のときの距離だ。
「俺は、おまえに字を教えたか」
訊いた。訊く声は、思ったよりふつうに出た。
レイフはすぐには答えなかった。答えないで、桶の水を見ていた。それから言った。
「教わったのは、俺のほうです」
「……覚えていない」
「はい」
レイフはそれだけ言った。言ってから、少し足した。
「……書いてあります」
書いてあります。炭焼きの小屋で、鷹の話のときに、この男はそう言った。一冊目を開いて、こちらへ向けずに膝の上に置いて。今夜は帳面を出さなかった。出さなくても同じことだ。
「五日前に、ある、と言った」
「はい」
「言ったことは、覚えている。……中身が、無い」
「はい」
レイフは、それも、はい、と言った。この男の、はい、は幾つも種類がある。もう、たいていは聞き分けられると思っていたのに、今夜のは、初めて聞く種類だった。
「なら、今度は、おまえが俺に教えろ」
「何をです」
「俺がおまえに教えた字を」
レイフは、桶の水を見た。見て、しばらく黙って、それから、言った。
「はい。読みやすい字なら」
ゆうべ、自分がそう言ったのだ。読みやすい字だな、と。この男はそれを、もう帳面に書いている。書いてあるものは、この男の中で、減らない。
エルドは柄杓を桶に戻した。
「多くを、忘れた」
星を見ながら言った。
「父の鷹も。川の魚も。……おまえに字を教えた冬も。この先、まだ払う。壁は、すべて、と言った。……だが」
言葉が一度、止まった。止めたのではなく、止まった。
「俺は、おまえを忘れるのだけは、いやだ」
言った。
言ってから、まるで子どもの泣き言のようだと思う。誓いではない。誓えることでもない。何を払うかを決めるのは自分ではない。……それでも、言った。
レイフは、しばらく黙っていた。
桶の水面に星が幾つか映っている。レイフはそれを見ていた。それから顔を上げて、言った。
「……なら、忘れる前に、寝てください」
エルドはレイフを見た。
「明日も、早いので」
真顔だった。この男はいつもそうだ。
息が、鼻から抜けた。
笑った。笑えた。堂の外の夜半の井戸端で、声を出さずに。この男は、こういうときに、こういうことを言う。ずっとそうだった。値段の話をしているときに魚の話をする。石の間の話をしているときに、灯りをこちらへ、と言う。……今夜は、寝ろ、と言った。
「……そうだな」
エルドは言った。
「明日も、早い」
「はい」
「おまえは、寝ないのか」
「番です」
「番の次は」
「寝ます」
「書くのは」
「書いてから、寝ます」
「いつ寝るんだ、おまえは」
「朝が来る前に」
もう一度、鼻から息が抜けた。レイフは顔を変えなかった。変えないまま立ち上がって、桶の水を井戸の脇の畑に空けた。空けて、桶を伏せた。堂の戸へ歩きかけて、止まった。
「エルド様」
「なんだ」
「あの人は、五十年、言えなかったことを、今日、言いました」
それだけ言って、レイフは堂の中へ入っていった。
◇
一人で、井戸の縁に残った。
五十年、言えなかったことを、今日、言った。……そうだ。あの人は泣いた。言える、と三度言った。あの人の五十年と自分の一つの冬と、どちらが重いかは、比べるものではない。比べない。比べないが、あの涙は見た。値段の話ではない。値段の話にしないと、自分はこの先を歩けない気もした。
誓えぬことを軽々しく口にするな。
父の声だ。あの晩の居間の声だ。ある。……ある。
忘れるのはいやだ、と口にした。誓いではない。誓えることでもない。忘れるかどうかを決めるのは自分ではない。……軽々しくは、言っていない。あれは本心だった。本心でなければ口が動かなかった。それだけだ。誓えぬことを口にした。軽々しくは、ない。
父上。
胸の中で呼んだ。声にはしなかった。
……この先、何を払うのか。分からない。壁は、すべて、と言った。すべての中に、レイフがいる。いちばん奥に。そこまで届くのは、いちばん重い誓いを断つときだ。地の底の、石の間で。
断つと、決めたのではない。見に行く。この目で見て、あの人と話して、それから決める。炭焼きの小屋で、そう言った。言ったとおりにする。だが、見て、話して、それでも断つしかないと自分で決めたら。
その場に、レイフを立たせるのか。
自分がレイフを忘れるのを、レイフの目の前で。マグダの目の前で。セシルの目の前で。
答えは、出さなかった。出さないでいるうちに、星が少し動いていた。
夜明けまで、まだ間がある。エルドは立ち上がって、堂の戸を開けた。番の場所にレイフが座っていた。膝に剣を置いて、戸を見ている。エルドが入ると、その目がこちらへ来て、すぐに戸へ戻った。
腰掛けの一つで、セシルが仰向けに寝ていた。規程どおりの寝方だ。胸の上に、両手で帳面を押さえている。寝ていても、押さえている。段の上の暗がりで、老人の目が開いていた。開いたまま、こちらを見て、何も言わなかった。この堂には、覚えている者が、自分のほかに四人いる。帳面が二冊。口が、二つ。
いつもの場所へ戻って、革袋を引き寄せた。
いちばん底に一冊目。その上に二冊目と三冊目。三冊目の今日の頁に何が書いてあるかは知らない。知らなくていい。書いてある。それだけでいい。
横になった。
目を閉じる前に、もう一度だけ、数えた。父の顔。ある。母の茶の匂い。ある。井戸の水。ある。……レイフ。
ある。
まだ、ある。




