第36話 誰に
四日、街道を避けて歩いた。
雑木の丘が切れると麦畑で、麦畑が切れるとまた丘だった。刈り入れが始まっていた。畑では鎌を持った人が腰を屈め、道では刈った麦を積んだ荷車が街道のほうへ下っていく。四人はその流れと反対に、丘の裾を縫って南へ歩いた。自分が先で、エルド、セシル、マグダの順だ。人足の顔は、もう顔というより身体の一部だった。
エルドは、ふつうに歩いていた。
朝は自分で靴の紐を締め、昼は干し肉を小さくちぎって食べ、夜は革袋を枕にした。川べりで受け取った書状は、懐に入れたままだ。ときどき外套の上からそこを押さえる。押さえて、離す。それだけで、何も言わない。
セシルは、夜ごとに帳面を開いていた。粗い紙の帳面だ。祭りの町の市で、紙の束を買っていたらしい。炭で書く。書き終えると、外套の内側に入れて、上から押さえる。エルドが紙を押さえるのと、同じ手つきだった。
三日目に、街道に関を一つ見た。遠くからだ。白い制服が二人、荷車を止めて、若い男の頭巾を取らせていた。四人は丘の向こう側を回った。
四日目の夕方、街道を東に外れた町の屋根が見えた。
町には入らなかった。町の外れを、畑の縁を伝って回った。外れの外れに、古い堂があった。
屋根の反った、石と木の建物だった。壁の石は苔で緑がかり、木の戸は灰色に乾いて、戸の前の石段は真ん中が擦り減っている。擦り減るだけの人が、昔はここへ来た。いまは、誰も来ない顔をした堂だ。堂の脇に小さな畑と、井戸。井戸の縁は濡れていた。
エルドが懐から灰色の布を出した。
レイフは戸を叩いた。叩き方は知らない。セシルの叩き方を一度見ているので、それに似せた。
戸が、少しだけ開いた。
中年の男が立っていた。法衣だ。総本山の学僧が着ているような灰色の法衣で、袖が短い。男はレイフを見上げ、それからエルドの手の布を見た。灰色の地に、白い筋が三本。男はうなずいて、戸を大きく開けた。
一言も言わなかった。
◇
堂の中は暗くて、広かった。
石の床。高い天井。奥に段があって、その上に、教会の紋を刻んだ古い石の台がある。台の前に燭台が一つ。灯りはそれだけだった。壁際に長い腰掛けが並び、その一つに、剣を膝に置いた男が座っていた。
白い制服ではない。旅の平服だ。だが座り方が、騎士のそれだった。
レイフの後ろで、セシルの足が、一つ遅れた。
男が顔を上げた。四十がらみの、目の細い男だった。セシルを見て、一度だけうなずいた。セシルの顎が、同じだけ引かれた。
レイフは訊かなかった。だが、見た。丘の上の警固の列で、セシルの隣に立っていた騎士だ。夕方の井戸端へ、団長がお呼びだ、と呼びに来た男だ。旅の三人を、見ないようにしていた男。
その男が、ここにいる。
「……セシル」
男が、低く言った。
「はい。……南の巡察を、願い出たのですか」
「願い出た」
それだけだった。
◇
段の上に、もう一人いた。
最初は分からなかった。石の台の脇の、燭台の光の届かない所に、腰掛けが一つ置いてある。そこに座っている人は、動かなかった。灯りに目が慣れて、ようやく見えた。
老人だった。
八十に近いだろう。痩せて、背が高い。法衣は古く、色が褪せて、灰色とも白ともつかない。ただ、その袖の縁と襟の縁に、金の糸が残っていた。褪せた布の上で、糸だけが、燭台の火を受けて鈍く光る。昔は、この糸の分だけ高い所にいた人だ。
老人は立ち上がって、段を下りてきた。
足は確かだった。四人の前で止まって、順に顔を見た。マグダ。セシル。レイフ。最後にエルドを、長く見た。琥珀の目を。
「北の、断ちを継ぐ者か」
低くて、落ち着いた声だった。
「エルド。エルド=ファーレンです」
エルドは言った。
「北の辺境伯アルドレッドの子です。誓いを、一つずつなら、断てる者です。これまでに、三つ」
「三つ」
老人はうなずいた。それから、レイフを見た。
「誓わぬ剣か。……噂の」
レイフは何も答えなかった。答える必要のあることを言われていない。老人はそれ以上訊かなかった。訊かないで、エルドに目を戻した。
「わたしは、前の掌典だ。名は、要らぬ。……教典を預かる役を、長く務めた。退いてから、この堂にいる。参籠の者は、もう来ない。来ないので、静かだ」
「あなたが、私を捜していた」
「捜していた」
老人は、右の手を、自分の胸に当てた。法衣の上から。心の臓のある所を。
「わたしは、五十年前に、あの石段を下りた」
言った。言えた。
「下りた、とまでは、言える。……その先が、言えぬ」
老人は、そこで口を開いた。何かを言おうとした。声は出なかった。喉が動いて、息だけが出た。胸に当てた手の指が、法衣を掴んだ。掴んで、白くなった。
「……これだ」
やっと、出た。
「若いころ、教会の中枢へ上がるときに、誓った。教典のいちばん奥で見たものを、誰にも告げぬ、と。……本心だった。あのころのわたしは、あれを守るべきものだと思っていた。それが、いちばん深いところで、民を守っていると。……五十年、黙った。黙っているうちに、黙ることが何を守っているのかが、見えてきた。見えても、言えぬ」
「書くことは」
セシルが訊いた。
「書けぬ。……手が止まる。声より先に、手が止まる。五十年、幾度も試した」
エルドは、しばらく黙っていた。
「門前の町の外れに、老いた書役がいます」
「知っている」
老人の声が、少しだけ低くなった。
「五十年前、あの男は、石段の下を三度訊いた。……三度目のとき、あれを棚から降ろすよう、書役長に言ったのは、わたしだ。あのころのわたしは、そういう役だった」
セシルが、息を止めた気配がした。
「あの男は、無事だ。丘の上の者が、先に連れ出した。……大所の番人が閣下に伝える前に、こちらの者が動いた。門前の町は狭い。狭いから、早い。あの男はいま、ここより北の、別の堂にいる。……五十年、同じ問いを立て続けた男に、わたしはまだ、答えを言えぬ。言えるようになりたい」
◇
「写しが、あります」
エルドが言った。
レイフは革袋の紐を解いた。三冊目を出す。石の字の頁を開いて、燭台の脇の腰掛けの上に置いた。老人が、その前に膝をついた。
膝をついた。掌典だった人が。
見たままの形を写した、石の字。老人の指が、その形を一つずつなぞった。指は震えていた。震えたまま、上から下へ、左から右へ、行を追った。唇が動いた。声は出なかった。読んでいる。読めている。それは分かった。読めているのに、声だけが出ない。
右の壁の、いちばん上の行。老人の指がそこで止まった。
唇が、同じ形を三度、作った。
声は出なかった。
老人は目を閉じた。閉じた目の縁が、濡れていた。
「……読める」
やっと、言えた。
「読めるが、——」
その先が、出なかった。
「分かりました」
エルドが言った。静かな声だった。
エルドは、老人の前に、同じように膝をついた。目の高さを合わせた。
「あなたが誓ったものを私が断てば、あなたは、教会に背いた者になる」
「背くのではない」
老人は目を開けた。
「五十年、背いていたのだ。黙ることで。……あなたが払うものを、わたしは知っている。右の壁の、四つ目の行を、わたしは読んだ。五十年前に。……知っていて、頼む。断ってくれ」
払うものを知っていて、頼む。
レイフは、その言葉を聞いた。聞いて、エルドの背中を見た。エルドは動かなかった。
「相場は、知っています」
エルドは言った。言って、立ち上がった。
「マグダ」
「なんだい」
「立会を、頼みます。あなたと、セシルと、レイフに」
マグダは腕を組んでいた。組んだまま、老人を見て、エルドを見た。
「重いよ、これは。三つ目より、ずっと」
「はい」
「三つ目で、膝がついた。……今度は、膝じゃ済まない」
マグダは腕を解いた。
「でかいの。後ろに立ちな。……ちびの、真後ろだ」
「はい」
レイフは立った。主の真後ろに。触れない所に。
◇
老人は、法衣の胸を開いた。
痩せた胸だった。肋が浮いている。その左、心の臓の上に、紋があった。
古い紋だ。青が、黒ずんで沈んでいる。五十年、肌の上にあった色だ。形は、横に引いた一本の線と、その線を上下から跨ぐ短い線が幾つも。縫い目だ。口を、縫い合わせた跡のように見えた。
エルドは、その紋を見た。それから右の手を上げて、掌を、老人の胸に当てた。
老人は動かなかった。目を閉じもしなかった。開けたまま、エルドの顔を見ていた。
セシルが、エルドの右に立っていた。白い制服の胸を張って、規程どおりの姿勢で。誓約騎士として立っている。誓いを断つ場に。マグダは左に立っていた。腕は組んでいない。両手を、身体の脇に下ろしている。
レイフは主の真後ろにいた。
エルドの背中が、少し、動いた。
掌の下で、縫い目が、内側から赤く透けた。一本ずつ。糸に火が移るように。横に引いた線の端から、赤が走った。跨いだ短い線が、順に赤くなって、黒ずんで、切れた。切れるたびに、音がした。細い音だ。蝋燭の芯が燃え尽きるときの、あの小さな音。それが、幾つも。
匂いがした。古い蝋を焼いた匂いだった。
最後の一本が切れて、横の線が、端から端まで赤くなって、黒くなって、灰になって、落ちた。あとには白い線が一本、横に残った。火ぶくれはない。焦げ跡もない。ただの、細い白い線。五十年の縫い目の、跡だ。
老人の口が、開いた。
エルドの背中が、崩れた。
レイフは受けた。膝ではなかった。エルドの身体は、膝を折るより先に、後ろへ倒れた。倒れる背中を、両腕で受けた。軽かった。荷より軽かった。腕の中で、エルドの頭が、レイフの肩に落ちた。
目は、開いていた。開いていて、何も見ていなかった。
レイフは数えた。
一つ。二つ。三つ。……三つで、パン屋の娘のときは戻った。戻らなかった。四つ。五つ。声を、かけなかった。かけて戻るものではない。かけて戻らなかったら、それを聞くのが怖かった。六つ。七つ。マグダが、黙って、エルドの顔を覗きこんだ。覗いて、何も言わなかった。八つ。九つ。十。
十で、戻らなかった。
レイフは数え続けた。十一。十二。腕の中の身体は温かい。息はある。息の音を、耳で聞いた。十五。十六。セシルが規程どおりの姿勢のまま、拳を握っているのが見えた。十八。十九。
二十で、琥珀の目が、動いた。
動いて、レイフを見上げた。焦点が、合った。合って、口が開いた。声は出なかった。喉が動いて、息だけが出た。……さっき、老人がそうしたように。
レイフは待った。
エルドの口が、もう一度動いた。今度は、音が乗った。掠れて、低い。
「……レイフ」
「はい」
名を呼んだ。自分の名を。それだけで、レイフの腕から、力が抜けそうになった。抜かなかった。
「……どれくらいだ」
「二十です」
「……そうか」
エルドは、レイフの腕の中で、目を閉じた。閉じて、また開けた。
「……重かったな」
「はい」
それ以上のことは、言えなかった。
◇
老人は、自分の胸を見ていた。
白い線を。指で、一度なぞった。なぞって、顔を上げた。口が開いた。
「大誓約は——」
声が、出た。
老人は、そこで止まった。止まって、自分の喉に手を当てた。当てて、もう一度、口を開いた。
「——万の民から」
出た。
老人の目から、涙が落ちた。音もなく、痩せた頬を伝って、法衣の襟の金の糸に落ちた。老人は泣きながら、腰掛けの上の帳面に、もう一度膝をついた。三冊目の、石の字の頁。指で、右の壁のいちばん上の行の、次の行を、なぞった。なぞりながら、声に出した。
「——誓いは、預けて成る。誓う者は、おのれのいちばん尊いものを、知らずに預ける。預けたものに、預けた者の手は届かぬ。ゆえに、誓いは破れぬ」
教典の古語だった。エルドが石の間で読んだのと、同じ行だった。一字も違わない。レイフは古い字が読めない。だが、エルドの声で聞いた言葉を、耳は覚えている。同じだった。
「これは、確かに、始祖の字だ」
老人は言った。
「五十年、口の奥で錆びていた。……錆びたまま、死ぬと思っていた」
老人は帳面を、両手で持ち上げた。持ち上げて、エルドのほうへ向けた。エルドはまだレイフの腕に背中を預けたまま、床に座っていた。
「これで、証人になれる。……この写しが真であることを、わたしは、わたしの名で言える。掌典だった者の名で。教会の名で。……言える」
言える、と、三度言った。
エルドは、うなずいた。うなずくのに、時間がかかった。
◇
その夜、堂の隅で、レイフは三冊目を開いた。
燭台の火は、段の上に一つだけだ。堂の中は暗い。マグダは腰掛けの一つで外套にくるまっていた。寝てはいない。セシルは戸口の近くで、あの年嵩の騎士と、少し離れて座っていた。二人とも、何も話していなかった。老人は、段の上の腰掛けに戻って、目を閉じている。泣き終えた顔だった。
書くことは多い。
四日の道。関。町の外れの堂。灰色の布。戸を開けた男。腰掛けの騎士。段の上の老人。縫い目の紋。断ち。二十。老人が読んだ、教典の古語の一行。
炭が紙を掻く音だけが、堂の隅でしていた。
足音がした。
エルドだった。立てるようになっていた。立って、歩いて、レイフの隣に、腰を下ろした。革袋を枕にはしていない。まだ、寝る時刻ではない。
「書いているのか」
「はい」
「今日のことも」
「書きます」
「崩れたところは、短くしろ」
「短くします」
「二十、と書いたか」
「書きました」
「多いな」
エルドの口の端が、少しだけ上がった。レイフも、少しだけ上げた。いつもの、夜のやり取りだ。何も変わっていない。
「俺の寝顔は、書いていないだろうな」
「書いていません」
「ほんとうか」
「寝息は、書きました。すぐでした、と」
エルドは、短く息を吐いた。笑ったのだと思う。七年、この主は、帳面を覗きたがって、この従士は、見せなかった。今夜も、それは同じだった。
エルドは、帳面を、覗きこんだ。
覗きこんで、レイフの字を、見た。炭の字を。北の城の冬に、エルドが笑った字を。
エルドは、しばらく、見ていた。
「読みやすい字だな」
レイフの手が、止まった。
「誰に習った、その字は」
炭が、紙の上で止まっている。
レイフは、エルドの顔を見た。
エルドは、帳面を見ていた。何気なく、訊いていた。夜の焚き火で、今日は何を書く、と訊くときの、あの声で。何も、探していない声だった。
「……あなたに」
レイフは言った。
エルドが、顔を上げた。
レイフを見た。それから、少し、目を逸らした。逸らして、堂の暗い天井のほうを見た。何かを見ている目だった。見て、見つからない目だった。……夏越しの祭りの雨の夜に、一度。炭焼きの小屋で、一度。この目を、レイフは見ている。三度目だ。
エルドは、目を戻した。
「……そうか」
静かな声だった。
「いい師だったな」
レイフは、何も言わなかった。
訂正しなかった。
エルドは、それ以上何も訊かなかった。訊かないで、しばらくレイフの隣に座っていた。炭の音が、また始まるのを待っているように。それから立ち上がって、いつもの場所へ戻って、革袋を引き寄せた。レイフの革袋だ。いちばん底に、一冊目が入っている。エルドはそれを枕にして、横になった。
寝息は、すぐだった。
レイフは、炭を持ち直した。
書いた。
——今日、主は俺の字を褒めた。誰に習ったと訊かれた。あなたに、と答えた。主は、いい師だったな、と言った。
それだけ書いた。
書いて、頁の端に、四、と書いた。数だけだ。魚。晩。鷹。……字。四つ。
北の城の冬。従士に上がった最初の冬。囲炉裏の脇で、石板に書いた字を、主が見て、腕を組んだ。教え方が悪い、俺が教える、と言った。それから毎晩、主が蝋板に一字書いて、自分が隣に一字書いた。主は笑った。笑いながら、直した。直しながら、褒めた。蚯蚓の凍え死んだ跡、と言った教え役の前で、この字は俺が教えた字だ、と言った。
エルドは、それを笑えた。五日前の炭焼きの小屋で。いまも笑える、と言った。
いまは、笑えない。笑う元のものが、無い。
レイフは炭を置いた。
エルドは、自分を覚えている。自分の名を、腕の中で、いちばん先に呼んだ。崩れたところは短くしろ、と、いつもの声で言った。寝顔を書くなと言った。革袋を、いつものように枕にした。
自分がエルドから教わった冬だけを、エルドは失くした。
燭台の火が、段の上で小さくなった。
レイフは帳面を閉じた。閉じて、革袋の紐を確かめた。紐は、主の頭の下で、いつもの結び方のままだった。




