第35話 北からの証人
客だ、とマグダが言った。
その声で、エルドは目を開けた。沢の音は夜のままで、木の間の空だけが白みはじめている。火は熾も残らずに冷えていた。レイフが身体を起こす気配がして、自分も身を起こすと、外套が一枚、滑り落ちた。ゆうべ、誰かが掛けてくれたものだ。誰かは、見なくても分かる。
岩の陰に、マグダが身を低くしていた。
エルドはその隣へ這った。街道は遠い。麦の色の帯が、朝の靄の下に細く見える。その上に、一騎。黒い装備ではない。旗もない。馬は歩いている。歩きながら、ときどき止まる。止まって、こちらの尾根を見上げる。
朝日が横から差して、一度、その顔が明るくなった。
顎に、古い傷。
「東の家の、古参です」
エルドは声を低くして言った。
「沢で見ました。上流の岩の上から、ヴァルド様は静かな釣りをなさる、と言った人です。行列の日は、主の馬の口を取っていました」
「参籠の館の裏で、あたしも見た」
マグダが言った。
「荷を検めに来た供だ。灯りの下で、あの傷を見た。……あの領主様は、大祭が明けるまで参籠を延ばしてた。その古参が、旗も持たずに、こんな枝道の下を一人でね」
「網でしょうか」
セシルだった。いつの間にか木の幹から離れて、荷の脇に膝をついている。外套の前は合わせてあった。
「網なら、こんな回りくどいことはしないよ」
マグダは街道から目を離さなかった。
「一騎で、旗なしで、尾根を見上げてるのは、探してる足だ。何を探してるかは、顔を見なきゃ分からない」
「顔を、見ます」
エルドは立ち上がった。
「あの人の主は、私の的の一つでした。沢で揺れた的です。揺れたまま、確かめていない。確かめに、下ります」
「俺が、先に」
レイフが言った。もう荷を担いでいた。
「ああ。……隠れるな。隠れずに行け」
「はい」
レイフは沢を下りていった。大きな背中が、雑木の間で、ちっとも隠れずに小さくなっていく。エルドは剣を腰に差し直した。差してから、右手を一度見た。紋のない手。この手が今朝、何をするのかは、まだ分からなかった。
◇
古参はレイフを見て、馬を止めた。
止めて、馬を降りた。剣は腰にある。その柄から両手を離して、手綱だけを持った。沢を下りきったエルドが雑木の陰から出たとき、古参はもう、そこにそうして立っていた。
「魚籠持ちだな」
低い声だった。沢で聞いた、あの声だ。
「ヴァルド様の魚籠と並べて置いた男だ」
「はい」
レイフは答えて、脇へ退いた。退いた先に、エルドが立っていた。
古参の目が、エルドの顔で止まった。
目の色を見た。朝の光の中で、見た。見て、何も言わなかった。言わないかわりに、旅の者への辞儀でも家来の辞儀でもない、短い会釈をした。
「探した」
「私を、ですか」
「ゆうべ、尾根に火が見えた。ヴァルド様が、あれだ、と仰った。四日、この街道を行ったり来たりした。関の南から、離宮の丘の手前まで。ヴァルド様は、川で待っておられる」
「川」
「街道の脇に川がある。この沢が落ちる川だ。……ヴァルド様は、竿を出しておられる」
エルドは、しばらく古参の顔を見ていた。
嘘をつく顔ではなかった。それは分かる。分かるが、嘘をつかない顔が網の口に立っていることもある。マグダの声が、胸の中でそう言った。
「供は」
「わし一人だ。ほかの供は、半日先の宿場に置いてきた。ヴァルド様は、人に聞かせたくない話をなさるおつもりだ。人に聞かせたくない話をするのに、供を並べる者はおらん」
古参は馬の口を取った。
「来るか来んかは、おぬしが決めろ。ヴァルド様は、そう仰った。来んなら竿を畳んで、北へ帰る、と」
北へ帰る。
……四日、街道で竿を出して、来るかどうかも分からない者を待った人だ。また来る、と言った父の、その言葉を言われた側の人だ。
「行きます」
エルドは言った。
◇
川は、街道の東を流れていた。
沢の水が落ちる先に岸の草が茂って、その向こうに、幅の広い浅い川がある。大した川には見えない。……あの川は、いい川だ。七年前の当主卓で、そう言った声を、胸の中で聞いた。父の声ではない。あの人の声だ。
岸の石に、岩のような背中が座っていた。
竿を出している。動かない。七年前の広間で、夜明けの沢で、恩赦の儀の桟敷で見た背中だ。鉄色の髪は、白いほうがさらに勝っていた。朝の光の中で、その背中は、沢で見たときより少しだけ小さく見えた。
古参が馬を木に繋いで、少し離れた所に立った。レイフはエルドの後ろについた。マグダとセシルは、街道の縁の木立に残っている。四人で降りて、二人で岸へ出た。
「そこは、釣れん」
背中から声が来た。振り向かない。
「南の川は、わしの川ではない。四日、糸を垂れて、一尾も上がらぬ。……座れ。おぬしの隣なら、釣れるかもしれぬ」
エルドは、当主から三歩の石に腰を下ろした。沢のときと同じ距離だ。竿は持っていない。持っていない手を、膝の上に置いた。
当主が、こちらを見た。
暗い青の目が、朝の光の中でエルドの目を見た。琥珀の目を。今度は見開かなかった。見て、うなずいた。
「アルドレッドの、倅か」
「エルド。……エルド=ファーレンです」
「知っていた。沢で目を見たときからな。あいつの目だ。あいつも朝日の中では、その色をしていた」
当主は竿を膝の上に横たえた。
「おぬしは、あの朝、わしの声を聞いた。何も言えん、と言った声だ。……あれは、誓いに縛られておる声ではなかった。おぬしは、そう見たはずだ。目のいい子だ」
「はい。言えないのではなく、言わないのだ、と」
「そのとおりだ」
川の音がしていた。沢より低く、広い音だった。
「わしを縛っていたのは、誓いではない。恥と、欲だ。……誓いのない縛めのほうが、よほど固い。誓いなら、前提が消えれば外れる日が来る。恥は外れぬ。自分で外すほかない」
当主は川を見た。
「聞け。一度しか言わぬ。一度言えば、わしはこの川を上がれる」
◇
「あの夜、わしは壇上で、あいつと手を交わした」
当主の声は仏頂面のままだった。仏頂面のまま、低く、揺れずに続いた。
「手の甲に、同じ紋が浮いた。あいつはそれを見て、手の甲を袖で拭った。濡れてもいない手をな。……嬉しいときの、あいつの癖だ。川で魚が上がったときにも、そうしていた。わしはそれを見て、ようやく、と思った。ようやく、あの川へまた行ける、と」
エルドは動かなかった。
父の癖を、この人は知っている。自分の知らない、川での父の癖を。
「我が最も尊きものを証として。あの一句を、わしは飾りだと思って唱えた。あいつも、そう思っていただろう。何を証に取られたのか、わしはいまも知らぬ」
飾りではない。三日前に、石の壁がそう言った。この人も、あの夜、何かを預けた。何を、は、この人も知らない。父と同じに。エルドは言わなかった。言えば、川べりの話が、石の間の話になる。
「宴が更けた。わしは席へ戻って酒を飲んだ。あいつの酒だ。うまかった。立会の席が空いた。それは見た。それだけなら厠だ。誰も気にせぬ。わしも気にしなかった。……それから、楽師の張り出しを見た」
当主の指が、膝の竿の上で一度止まった。
「黒い、痩せた人が立っていた。手を上げていた。わしの目は、その手から壁へ行った。壁際の兵の、右手の甲だ。青が黒くなった。黒くなって、剥がれた。いっせいに。……それが何なのか、わしには分からなかった。誓いがそういうふうに消えるのを、わしは見たことがなかった。分からぬまま、次の息で、刃が抜けた」
川が音を立てていた。
「わしの供が、わしを扉へ押した。三人だ。三人がわしを押して、扉の外へ出した。……三人は戻らなかった。誓いで縛られておる手で、刃を持たずに、わしを押した。……そこの男の甥もだ」
木に繋いだ馬の脇で、古参は顔の向きを変えなかった。
「翌朝、触れ書きが貼られていた。北の辺境伯家、謀反の企てにより、勅命をもって誅す。東の隣家は勅に従いてこれを助く。……わしは、何も助けていない。押されて、扉の外へ出ただけだ。だが触れ書きは、そう言っていた。触れ書きが先に、わしの手柄を書いていた」
当主はそこで少し黙った。
「翌年の春、宰相府の使いが来た。境の川の、どちらとも言えなかった岸が、わしの岸になった。勅でな。忠義の隣家への褒美だ。使いはそれを置いて、一言だけ添えた。東の家は、あの夜、何も見ておらぬ、と。……誓え、とは言われなかった。誓いは、要らなかったのだ。わしは自分で、見なかったことにした」
見なかったことにした。
木立の中で、セシルが身動きをした気配がした。振り向かなかった。振り向かなくても、どんな顔をしているかは分かる気がした。見たものを見なかったことにできない人だ。
「七年、見なかったことにしていた」
当主は川を見たまま言った。
「三度、丘へ上がった。参籠だ。何を祈りに行ったのかは、自分でも分からぬ。祈る顔をして、朝は沢へ下りて、あいつの川の話をした。……三度目に、おぬしがいた」
「はい」
「そして、大祭の三日目だ」
当主の声が、初めて少しだけ変わった。
「閣下の手が上がった。百の手の青が、黒になった。黒になって、剥がれた。いっせいに。……同じだった。あの夜、卓からわしが見たものと。七年、見なかったことにしていた目が、あの前庭で勝手に開いた。頭が、下がらなかった。下がるのが遅れて、上がるのが早かった。閣下の目が一度、わしで止まった。あの人はあの日、わしが見たことを知ったろう。知って、何もしなかった。わしのような臆病者は、放っておいても何もせぬと踏んだのだ」
当主はこちらを見た。
「わしは、卑怯者だった。……だが、卑怯者のまま死にたくはない」
◇
右手は、動かなかった。
膝の上に置いたまま、動かなかった。止めるものは何もない。客の誓いも、立会も、この川べりにはない。二十の槍もない。動かそうと思えば、柄まで、何にも遮られずに届く。……届く手を、エルドは膝の上に置いたままにしていた。
的は、人の形をしていなかった。三日前に、自分でそう言った。
この人は、人の形をしている。父と川で竿を並べた人の形を。七年、見なかったことにした人の形を。的ではない。斬っても、父は川へ来ない。
「三人の供と、父と、母と、家の者たちの上に」
声は出た。硬かった。
「あなたの岸があります」
「そうだ」
当主は言った。言い訳はなかった。
「返してくれ、とは言いません。……返す相手が、もう、いません」
「……そうだな」
川の音が、しばらく二人の間にあった。
「あの川はいい川だ、と、あなたは言いました。あの晩、当主卓で、父の前で。……いい川のままなら、それでいい。父は、また来る、と言った人です。その父の岸を、あなたから取り立てる気はありません」
当主は答えなかった。答えずに、懐へ手を入れた。
出てきたのは折り畳んだ紙だった。灰色の蝋で封じてある。蝋の上に、三筋の印。桟敷の柱に掛かっていた旗と同じ三筋だ。
「書いた。館で、四晩かかった。字は下手だ」
エルドは受け取った。封を切って、開いた。
——七年前、冬の入りの夜。ファーレン城の広間にて、われは北の辺境伯アルドレッドと盟約を唱え、手を交わした。そののち、壁際に立つ兵の手の紋が、いっせいに黒く裏返り、焼けずに剥がれ落ちるのを、広間の卓より、この目で見た。討ち手は、誓いを破ってはおらぬ。何者かが、外したのである。北の家は、誓いを破らず、破られもせず、討たれた。ここに記し、グレンツの印をもって証とする。——東方、グレンツ家当主、ヴァルド。
二度、読んだ。
字は下手ではなかった。角ばって、力が強くて、一画ずつが遅い。何度も書き損じて、何度も書き直した字だ。……何者か、で止まっている。
「何者か、で、止まっていますね」
「止まっておる」
当主は隠さなかった。
「わしの印を押した書状に、閣下の名は書けなかった。書けば、わしの家が消える。……わしはまだ、それが惜しい。卑怯者のままだ、と思ってくれてよい。ここまでだ。ここまでが、わしだ」
「口では、言いました」
「口では、言った」
当主は、木立のほうへ顎を振った。
「おぬしと、そこの大男と、木立の二人が聞いた。……聞いた者が、覚えておけ。わしは、書けるところまでを書いた。書けぬところは、聞いた者の中にある」
木立から、白い裾が出てきた。
セシルだった。荷番の外套の前を開けて、白い制服の胸の徽章を見せ、川べりの石の上をまっすぐに歩いてきた。当主の前で止まって、規程どおりの姿勢で立つ。
「誓約騎士団の、セシルです。……巡察の、は要りません」
「触れ書きの白いのか」
「はい。印を、見せていただけますか」
当主は書状の封を顎で示した。セシルはそれを見て、旗の三筋と見比べて、うなずいた。
「グレンツ家の印です。私は、恩赦の儀の桟敷で旗を見ました。見たものを綴じます。私の帳面に。印と、いま伺った言葉と、両方を」
「綴じろ」
当主はそれだけ言った。
◇
「もう一つ、渡すものがある」
当主は懐から、今度は布を出した。
灰色の布に、白い筋が三本。手のひらほどの大きさに切ってある。切り口が、ほつれていた。
「わしの旗の切れ端だ。旗を切るのは、家を切るのと同じでな。……切った」
エルドはその布を見た。
「これを、誰に」
「南へ四日、街道を東に外れた町がある。その外れに、古い堂がある。参籠の人が絶えて久しい堂だ。そこに、教会の高い位の御仁がおられる。前の掌典だ。教典を預かるいちばん上の役を長く務めて、老いて退いた人だ」
「掌典」
「その人が、誓いを断つ者を捜しておられる」
エルドは、布を握った手を止めた。
「館で、わしのところへ人が来た。白い制服ではない。法衣だ。閣下に頭を下げるのが遅い者を、あの丘の上で探しておる者がいる、とな。そやつが言うには、掌典は何かに縛られて、口がきけぬ。世に言いたいことがあって、言えぬ。……わしのような臆病者とは違う。断ってくれ、と自分から言う人だ」
臆病者、と言うとき、当主は川ではなく、膝の竿を見ていた。
断ってくれ、と自分から言う人。
パン屋の娘は、切ってください、と言った。その前は、誰も自分からは言わなかった。夜番の男も、典礼官も。
「その布を見せれば、堂の戸は開く。わしが遣った者だと分かる。……それから先は、おぬしの領分だ。わしは知らぬ」
知らぬ、と言うとき、当主は目を逸らさなかった。
「斬るなら、ここで斬れ」
当主は竿を膝から取って、立ち上がった。
「客の誓いも、立会もない。わしは今日、そのつもりで供を置いてきた。……あいつの倅に斬られるなら、それも、わしの払いだ」
「斬りません」
エルドは座ったまま言った。
「あなたは、私の的ではない。……あなたを斬っても、父は川へ来ない」
当主は、しばらくエルドを見下ろしていた。岩のような顔の中で、口の端が、ほんの少しだけ歪んだ。沢で見た、あの歪み方だった。
「……あいつの倅だ」
それだけ言って、竿を肩に担いだ。
◇
「領へ帰る」
馬の口を古参が取った。当主は鞍に上がってから川を一度見て、それから、エルドを見た。
「老いた。王都へは行かぬ。……わしの証は、書状で行く。おぬしが持って行け」
「はい」
「それから」
当主は言いかけて、止めた。止めて、川を見た。
「アルドレッドのやつに、遅ればせながら、竿を返しに行く、と伝えてくれ。……いや」
鉄色の眉が寄った。
「伝える先がない。……おぬしが、覚えておいてくれ」
覚えておいてくれ。
エルドは、答える前に、一度だけ息を吸った。
「はい」
覚えておく。自分が覚えていられる限り。……それから先は、自分の後ろに立っている男が書く。
「行くぞ」
当主が古参に言った。古参は手綱を引いた。引く前に、一度だけエルドを見た。顎に傷のある顔は、沢のときと同じに、何も言わなかった。言わないまま、今度は短く頭を下げた。
一騎と徒歩の一人が、街道を北へ上っていった。
旗はない。竿だけが、鞍の脇で揺れていた。
◇
木立に戻ると、マグダが木の根に腰を下ろしていた。
「四日も、釣れない川で竿を出して待つ領主様がいるとはね」
軽口だった。軽口の声の底が、少し重かった。
「また来る、と言われた側の人です」
エルドは言った。マグダは鼻を鳴らした。それだけだった。
セシルは、荷の脇で帳面を開いていた。粗い紙の帳面だ。いつ手に入れたのか、エルドは知らない。炭で、印の形を写している。写し終えて、その下に字を書きはじめた。何を書いているのかは見なかった。見なくても分かった。聞いたものを、あの人は綴じる。
レイフは荷を担いだまま、川のほうを見ていた。
何を見ているのかは分からない。北へ上っていった竿かもしれないし、川かもしれない。この男は今夜、帳面に何を書くだろう。竿を返しに行く、と言った人のことを、この男は、自分より長く覚えているだろう。
エルドは、懐に書状を入れた。
その隣に、灰色の布を入れた。書状と、旗。
「行こう」
エルドは言った。
「南へ、四日。……次は、南の証人だ。何かに縛られて、口がきけない人がいる」
レイフが荷を担ぎ直した。マグダが立ち上がった。セシルが帳面を閉じて、外套の内側に入れた。
四人は街道を避けて、また雑木の丘へ入った。
書状は、何者か、で止まっている。口は、止まらなかった。……聞いた者が、四人いる。




