第34話 今夜は水じゃない
尾根の道は日暮れ前に沢に出た。
細い沢だ。岩の間を、膝ほどの深さの水が、音を立てて下っている。両岸は雑木で、上を見れば空が細く、下を見れば街道のあたりが、遠く、麦の色に見えた。マグダは沢の縁の平らな岩に荷を下ろして、言った。
「今夜は、ここで飯だ」
「まだ、日があります」
セシルが言った。街道を避けて枝道を二日。日のあるうちは歩く、というのが、この騎士様の身体に染みついている。
「日があるうちに、火を起こすんだよ。暗くなってから、濡れた枝を探すのは下策だ。……黒いのは南へ下った。街道から見えても、今夜は焚く。焚かずに冷えるほうが、高くつくよ」
「靴と飯は、抜かない、と教わりました」
エルドが荷を下ろしながら言った。
「誰に」
「あなたに」
マグダは鼻を鳴らした。鳴らして、外套を脱いだ。旅の二年目の夏の終わり、脚を痛めた子が銭の心配をしたときに言った言葉だ。旅の決まりは四つ。靴と飯は、抜かない。……この子は、そういうものを、覚えている。
「でかいの。魚」
「はい」
レイフは荷を置いて、袖をまくって、沢へ下りていった。訊き返しもしない。七年、道の先を見張ってきた目は、沢の魚を見るときも、同じ目をする。岩の陰に手を入れて、動かない。しばらく動かない。それから、水の中で、何かが跳ねた。
一尾目が岩の上に上がった。
「……素手で」
セシルが目を丸くしていた。
「素手だよ。あの男は、素手のほうが早い。竿は、ちびのほうが上手い」
「竿は、亭主のものでした」
エルドが言った。柳の岸に繋いだままの舟のことを、この子はまだ気にしている。返せなかった竿と、流さなかった舟。マグダはそれには答えなかった。答えない代わりに、火を起こしはじめた。
◇
魚は五尾になった。
串はレイフが削った。焼くのも、レイフだ。誰が決めたのでもない。北の城の沢でも、川べりでも、この男が焼き手だったのだと、二人はいつか言った。串を刺して、火の周りに立てて、焼き加減を見る。エルドは火の脇に座って、その手を見ていた。見る目が、いつもと少しも変わらないのを、マグダは見ていた。ゆうべ、炭焼き小屋で、三つ、と数えた子の目だ。
塩は祭りの町で買った。
振る。皮がぱちぱち言いはじめる。
「……いい匂いです」
セシルが言った。言ってから、少し恥ずかしそうにした。
「騎士団の食事には、匂いがありません。あるのでしょうが、覚えていない。……こんなに、匂うものだったのですか、魚は」
「宿舎の飯は、規程どおりに焼くからね」
「規程は、ありません」
「あるように焼くのさ。……食いな」
一尾ずつ、串ごと渡る。レイフはいちばんよく焼けた一尾を、布を添えてセシルに渡した。焼き手のくせに、自分を後回しにする男だ。エルドがそれを見て、口の端を少し上げた。セシルは、少し迷ってから、布ごと受け取って、背筋を伸ばしたまま、串にかぶりついた。
皮がいい音を立てた。
誰もしばらく喋らなかった。魚を食う音と、火の音と、沢の音。骨を外す、レイフの大きな指。塩の効いた腹身を、エルドが小さくちぎって食べる、育ちの出る食べ方。セシルは、二尾目に手を伸ばして、止まって、レイフを見て、レイフがうなずくのを見て、二尾目を取った。
マグダは、自分の分を食べ終えてから、荷の脇の酒壺を引き寄せた。
「今夜は、水じゃないよ」
栓を抜く。安い酒の匂いが魚の匂いに混じった。
六日前、丘の上の井戸端で、桶の水を顔に叩きつけた。あれは水だった。冷たくて、味がなくて、頭を冷やすためのものだった。今夜のは違う。口に入れて、喉を通して、腹に落とすものだ。
杯は四つあった。
でかいのが削ってくれた樫の杯が、ひとつ。あとの三つは、旅の途中で買った、揃いでもない木の杯だ。マグダは樫の杯を自分の前に置いて、四つに注いだ。セシルの分は半分にした。この騎士様は酒に弱い。祭りの町の井戸端で、それは知っている。
「白いの。半分だ。それ以上は、明日の足に響く」
「……はい」
セシルは素直に半分の杯を受け取った。受け取って、それから、外套の内側に手を入れた。
「その前に」
包みが出てきた。
油紙の包み。セシルは、それを火の脇の平らな石の上に置いて、丁寧に開いた。焼き菓子だった。祭りの町の屋台で買ったに違いない、蜜の照りのある、丸い焼き菓子。
六つ。
「負けの、菓子です」
セシルは言った。
「菓子は六つ、次の町で買います、と言いました。次の町は、祭りの町でした。……約束ですから」
マグダは、杯を持ったまま、その六つを見た。
見て、何か言おうとして、先に、レイフが口を開いた。
「六つ」
真面目な声だった。
「四人で、割り切れません」
火の脇が静かになった。
「……一つ半ずつ、になります」
「割れる菓子かい、それが」
「割れます」
レイフは腰の小刀に手をかけた。本気だ。この男は、本気で、蜜の照りのある焼き菓子を、小刀で一つ半ずつに切り分けるつもりでいる。
「騎士団では」
セシルが真顔で言った。
「割り切れないときは、年長から取ります」
「じゃあ、あたしが三つだ」
「負けた者は食べない、というのが、賭けの相場では」
エルドが言った。この子は、こういうときに、相場を持ち出す。
「負けたのは私ですが」
セシルは少しも引かなかった。
「買ったのも、私です」
「では、買った人が二つで」
レイフが、小刀を握ったまま、指を折りはじめた。折って、止まった。
マグダが、先に噴いた。
自分でも思いがけなかった。杯を持ったまま、息が鼻から抜けて、次に喉から出た。七年、この男の律儀さで笑わされるときは、いつも二番手か三番手だった。今夜は一番だ。
セシルが、つられた。押さえようとして、押さえきれずに、高くて少し掠れた若い声が漏れた。この騎士様が、こんなふうに笑うのを、マグダは初めて聞いた。
エルドは、少し遅れた。遅れて、火の向こうで、十三の子どもの笑い方をした。
レイフは、小刀を持ったまま、三人を順に見た。何がおかしいのか分からない顔で。分からない顔のまま、それでも、口の端が上がった。この男が笑うと、音がしない。肩が揺れるだけだ。揺れていた。
四人が、同じ火の周りで、同じことで笑っている。……こんな夜に。壁の字を読んで、三つを数えて、王都へ行くと決めた、その次の夜に。
「……分かった、でかいの。小刀をしまいな」
マグダは目尻を拭った。
「あたしが二つ。あんたが二つ。ちびと白いのが一つずつ。それで六つだ。文句は」
「ありません」
「ありません」
「……買った者が一つ、というのは」
「白いの。あんたは半分の酒と、一つの菓子だ。それが負けた者の相場だよ」
セシルはそれ以上言わなかった。言わずに、一つを取って、小さく齧った。齧って、目を閉じた。
「……甘い」
「菓子だからね」
◇
酒が一巡した。
セシルは半分の杯を、半分だけ飲んで、あとは膝の上に置いていた。レイフは木の杯を両手で持って、火を見ている。エルドは、二杯目を、断らなかった。
「……ひとつ、伺っても」
セシルが言った。
「壁を読んで、まだ二晩目です。……こんなに、食べて、笑っていいのでしょうか」
マグダは杯を傾けた。
「白いの。どん底ってのはね、飯を抜いた日のことを言うんだよ」
「飯」
「飯だ。あたしは、記章を外した晩、飯を抜いた。次の日もだ。三日目に、腹が減った。減って、初めて、まだ生きてるんだと分かった。……生きてりゃ腹は減る。減るうちは、生きてる。生きてる者は、食う。食って、笑う。それで、壁の字が変わるわけじゃない。変わらないから、食うんだ」
セシルはしばらく黙っていた。
「教本には」
「載ってないだろうね」
「……載っていません」
セシルは、膝の上の杯を取って、残りの半分を飲んだ。飲んで、少し咳をした。
マグダは火を見た。
八年の相手は二つある。ひとつは丘の上に戻って、鍵を預かって、帳面に書いている。顔は見た。一昨日の夜、石段の上で。訊かなかった。訊くのは、この子の的の後だ、と自分で言った。言った以上、守る。もうひとつは南だ。この子の的と、同じ所にいる。
……的は、人の形をしていなかった、と、この子は言った。
それでも、あの二人は、人の形をしている。この子の的が壁の字だとしても、あたしの的は、まだ、顔を持っている。それでいい。持っている顔を、いつか、もう一度見に行く。この子の後で。
マグダは酒を一口飲んだ。
◇
火が落ち着いた。
大きな炎が消えて、赤い熾になる。沢の音が大きく聞こえるようになった。レイフは革袋を引き寄せて、帳面を出さずに、紐だけを確かめた。セシルは少し離れた木の幹に背をつけて、目を閉じかけている。
エルドは火を見ていた。
二杯目の杯を、両手で持って。ゆうべ、炭焼き小屋で三つを数えたときと、同じ姿勢で。ただ、顔が、違った。
「……マグダ」
「なんだい」
「この焚き火は、覚えていたい」
静かな声だった。
マグダはその顔を見た。
見て——読まなかった。
読める顔だった。審問官の目なら、幾らでも読める顔だ。この子が、いま、何を思ってそう言ったのか。なぜ、覚えていたい、と、願う形で言ったのか。読める。読めるが読まない。読める顔を読まないのも、八年で覚えた技のうちだ。桶屋の職人の顔は読んだ。読んで、手を止められなかった。あれ以来、読まない、と決めた顔が、幾つかある。
この子の、いまの顔も、そのひとつにする。
「……覚えときな」
マグダは言った。
「あんたが忘れても、でかいのが覚えてる。あたしも覚えてる。あたしは、忘れないたちだ。……それから、たぶん、白いのも。三人だ。帳面より、多い」
エルドは少しだけ笑った。
「三人」
「三人だ。数は、合ってるかい、騎士様」
木の幹に背をつけていたセシルが、目を閉じたまま、答えた。
「……合っています」
エルドは杯の酒を飲み干した。
飲み干して、横になった。ゆうべと同じ、でかいのの革袋を枕にして、目を閉じた。レイフが、外套を一枚、その上に掛けた。掛けて、何も言わずに、火の反対側に座った。
寝息はすぐだった。
笑って、食って、飲んで、寝た。こういう夜のことは、あたしが覚えている。
◇
夜明けの番はマグダだった。
沢の音の中で、東の空が白む。麦の色の街道が、遠くに、また見えはじめる。四人分の荷。冷えた熾。六つあった菓子の油紙が、畳んで石の上に置いてある。誰が畳んだのかは見なくても分かった。
街道に、動くものがあった。
一騎。
マグダは、岩の陰に身を低くして、目を細めた。遠い。だが、審問官の目は、遠いものを見るためにも仕込まれている。黒い装備ではない。旗も持っていない。馬の足はゆっくりだ。追う者の足ではない。探す者の足だ。街道を行きながら、時おり馬を止めて、山側の雑木の尾根を、見上げている。
その顔が、朝日で一度、明るくなった。
五十過ぎの男だった。よく日に焼けて、長く仕えた者の背中をしている。顎に、古い傷がひとつ。
マグダはその顔を知っていた。
総本山の門前の町に上がって三日目、参籠の館で荷番に入った晩だ。東の領主の荷を、裏の戸口まで検めに来た供が一人いた。灯りの下で、顎の傷を見た。次の朝、領主が竿を担いで沢へ下りるとき、供に付いたのもその男だと、館の下働きが笑っていた。あの男だ。
東の領主の、古参だ。
旗を持たずに、一人で、こんな枝道の下を探している。
マグダはしばらくその馬の足を見ていた。それから、岩の陰から身を起こして、火の反対側で寝ている大男の肩を、爪先で軽く突いた。
「……でかいの。起きな。客だ」
レイフは目を開けた。開けて、何も訊かずに、身体を起こした。
街道の一騎は、また馬を止めて、尾根を見上げていた。
顎に、古い傷のある顔だった。




