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間話 四つ目の椀


 母上へ。北は、朝に霜の降りるころになりました。今年の茶も、たしかに受け取りました。いつも、ありがとうございます。この冬は、城に大勢の客がございます。長い争いが、終わります。春になりましたら、ひとつ、お知らせしたいことがございます。どうか、お身体をお大事に。


  ローザ


  ◇


 王都からの荷は、年に二度、春と秋に着く。


 今年の秋の荷は、霜の朝に着いた。


 ローザは自分の部屋で、それを受け取った。北の城でいちばん日当たりのいい部屋だ。嫁いで来た年に夫が選んでくれた。鏡があって、王都から持ってきた小さな机があって、窓の外に東の街道が見える。荷を運んできた従者が下がると、侍女頭(じじょがしら)が箱を机の上に置いた。木の箱に蝋(ろう)で封がしてある。蝋の上に、樫(かし)の葉の印。オーベルの家の印だ。


 箱の上に、文が一通載っていた。


 母の字だ。短い。無事に届くよう祈ります。冬の支度を怠らぬように。それだけで、母、と結んである。ローザは二度読んで、文を机の引き出しに入れた。母の文は、いつも短い。短いのは、書くことがないからではない。王都の母が、北へ嫁いだ娘に書いてよいことが、少ないからだ。それはローザにも分かる。分かるから、二度読む。


 封を切って、蓋を開けた。


 黒い茶の葉に、干した果実の皮と白い小さな花が混ぜてある。王都の茶だ。甘い匂いが、蓋の下から立ちのぼって——


 ローザは蓋を閉めた。


 胃の底が持ち上がっていた。息を止めて、窓のほうを向いて、霜の降りた街道を見て、それからゆっくり息を吐いた。夏の終わりから、こうだ。甘い匂いが駄目になった。台所の菓子の匂いも、蜂蜜も、この茶も。北の年寄りは、腹の子が匂いを選ぶのだ、と言う。


「奥方様」


 侍女頭が箱に手を置いた。エルドの乳母(うば)だった女で、北の生まれの骨の太い人だ。エルドが乳離(ちばな)れしてからは、侍女たちの頭をしている。この人の前では、隠せるものは何もない。


「今年は、私がお預かりします。春になったら、お出しします」


「……そうしてちょうだい」


 箱が部屋から出ていった。甘い匂いも一緒に出ていった。


 ローザは机の前に座り直した。座って、数えた。夏の終わりに分かって、いまが秋の初め。北の冬は長い。冬が明けて、雪が消えて、風が来て、それから、春。


 春に。


  ◇


 王都にいたころ、この茶はただの茶だった。


 オーベルの家の台所に、いつもあった。秋になると母が買い足し、冬のあいだ居間の火のそばで家の者が飲む。王都の冬の茶。それだけのものだった。


 嫁いで来るとき、箱に一つ入れてきた。


 北の春の終わりに着いて、冬の初めには、箱が空になった。北の茶は、薬草を煮出したような味がする。夫はそれをおいしそうに飲む。ローザは飲めるようにはなった。好きにはなれなかった。空になった箱を、しばらく捨てられずにいた。王都の匂いのするものが、その箱のほかにもう部屋になかったからだ。


 翌年の春、エルドが生まれた。


 その夏、王都から荷が着いた。何の前触れもなく、樫の葉の印の箱が一つ。開けると、あの茶が入っていた。母の文は短かった。無事に産んだと聞きました。それだけだった。


 ローザはその文を、いまも持っている。


 北へやるのをいちばん嫌がったのは母だ。嫌がって、口には出さず、ローザが行きます、と言ったとき、黙って部屋を出ていった。あの母が茶を送ってきた。以来十三年、春と秋に、箱は絶えたことがない。


 最初の一箱を淹(い)れたとき、少し、違う、と思った。王都で飲んでいたときより、ほんの少し舌の奥に渋みが残る。産んで、舌が変わったのかもしれない。王都の水と北の水が違うのかもしれない。そう思って、二杯目を飲んで、三杯目を飲んで、忘れた。忘れたことも、いまはもう忘れかけている。あの茶はローザの茶になった。夫が飲み、エルドが飲み、二年前の冬からは、あの従士の子も飲む。北の城の冬の味だと、家の者は言う。


  ◇


 夫と初めて会ったのは、十五の秋だ。


 王宮の秋の集まりだった。オーベルの家は、王宮の集まりに呼ばれる家のいちばん端だ。ローザは母の後ろで、大人たちの話を聞いていた。北の若様、と誰かが言った。辺境伯の名代(みょうだい)で、初めて王都へ来たのだという。亜麻色の髪の、背の高い人だった。人の話を聞くとき、相手の目を見て、最後まで聞く。それから短く答える。王都の若様たちは、そういう聞き方をしない。


 話したのは、一度だけだ。帰る日に、廊下で。


 北には何があるのか、とローザは訊(き)いた。若様は少し考えて、川がある、と答えた。それから、冬が長い、と付け足した。それで終わりだった。


 その冬、文が来た。


 北の字は、短い。天気のこと。川のこと。雪のこと。最後に一行、来てほしい、と。ローザは返事を書いた。次の冬も文が来た。次の冬も。三度の冬を、文が越えた。


 北へやるのか、と父は言った。冬が半年ある土地だ、と。母は何も言わなかった。ローザは行きます、と言った。二度は言わなかった。


 婚姻の誓いは、王都で立てた。


 立会は、誓約主(せいやくしゅ)だった。オーベルの家は、誓約主の家から四代前に嫁いだ娘の家だ。遠い縁だと父は言ったが、ローザはその日まで会ったことがなかった。痩せた、髪に灰のまじり始めた人だった。灰色の目をしていた。口上のあいだ、一度も笑わなかった。


 左の手首に、熱くも痛くもなく、色が滲(にじ)んだ。血の滲んだような、温かい赤だった。夫の左の手首にも同じ色が浮いていた。誓約主の灰色の目が二人の手首を見て、それから、ローザの顔を見た。覚えておこう、とでも言うように。


 それきり、あの人とは会っていない。この冬、また会う。北の家と東の家の盟約に、あの人が立会に来る。夫が何年もかけて、やっと取りつけた席だ。


 ローザは左の手首に右の手を添えた。考えるとき、いつからかこうする。赤い紋は袖の下で温かい。


  ◇


 四つ。


 数えれば、四つだ。


 エルドを産んだ二年後の冬に、一つ。その三年後の冬に、一つ。それから三年おいた春に、一つ。一昨年の春に、一つ。みな育たなかった。北の冬が重なる年もあれば、雪の消えた春に流れた年もある。


 北の家は、代々、子が少のうございます、と侍女頭は言った。先の御館様(おやかたさま)も、お一人。いまの御館様も、お一人。北の冬のせいだと、年寄りは言う。この土地の女でも、そうです。奥方様のせいではございません。


 ローザは誰のせいにもしなかった。四つ、と数えて、数えたものを責めずにおいた。エルドは丈夫に育った。それで十分だと思える日もあったし、思えない日もあった。思えない日は、あの茶を淹れて、火のそばで夫の横顔を見た。


 お義父様(とうさま)は、エルドが三つの冬に亡くなった。あの人も一人子(ひとりご)だった。


  ◇


 五つ目が分かったのは、夏の終わりだった。


 夫に言ったのは、その夜だ。居間の火のそばで、二人きりで。夫は何も言わなかった。言わずに、右の手の甲を袖で拭った。濡れてもいない手の甲を。


 ローザはそれを知っている。嫁いで三年目に知った。この人は、嬉しいときにそうする。エルドが初めて自分の馬に乗った日もそうだった。


「エルドには」


「宴が、済んでからでよい」


 夫は火を見たまま言った。ローザもそう思っていた。四つの後だ。安定するまでは、誰にも言わない。言えば、あの子は春を数えて待つ。待たせて、また、というのは、あの子にはさせたくなかった。


 それから、夫は春のことを一度も口にしなかった。


 誓えぬことを軽々しく口にするな。それがこの人の口癖だ。家中(かちゅう)の誰にでもそれを求める。ローザは火を見ている横顔を見て、この人は春のことを誓えないから言わないのだ、と思った。思って、少し笑った。夫が、なんだ、と言った。なんでもありません、と答えた。


 知っていて、言わない。この家の癖だ。ローザにも、いつのまにかそれが移っている。


  ◇


 宴のひと月前、王都から役人が来た。


 宰相府の典礼官(てんれいかん)だと、家令(かれい)が言った。盟約の宴の段取りを組みに来たのだという。誰がどこに座り、誰がどこに立ち、誰が何を唱えるか。王都の役人はそれをすべて紙に書いて持って帰る。几帳面(きちょうめん)な字を書く男だった。大広間を歩いて測っていた。


 ローザは奥方として、大広間で挨拶を受けた。昼の広間は火が入っていない。石の床から冷えが上がってくる。侍女頭がローザの肩に厚い布をかけ、扉からの風の来る側に黙って立った。


 典礼官は深く頭を下げた。


「奥方様のお席は、暖炉にお近いところへ、お取りいたします」


 それだけ言って、また頭を下げた。目が一度、侍女頭の手の上で止まった。止まって、すぐに紙に戻った。気の利く男だ、とローザは思った。それだけだった。


  ◇


 秋の終わりから、廊下にエルドの声がしていた。


 盟約が成りましたのち、両家の誼(よしみ)に杯を捧げます。献杯の口上だ。当主の子の役目として、夫が与えた。エルドはそれを廊下で、書庫で、沢へ下りる道で、百回でも唱える。声変わりの前の、まだ高い声だ。廊下の端まで届く。


 聞こえていますよ、と、いつか言ってやろう。ローザはそう決めていた。あの子はきっと、声が大きすぎるという意味かと訊く。そうではない、と答える。よく通る、いい声だ、と。それは本当のことだ。


 沢から戻ってくる二人を、窓から見る日もあった。


 従士の子と、エルド。焚き火の匂いと魚の匂いをさせて、裏門から入ってくる。門をくぐるまでの、エルドの顔。門をくぐってからの、顔。あの子は門で、当主の子の顔になる。なる前の顔を、あの従士の子だけがいつも見ている。


 あの従士の子は三杯食べる。三杯食べても、誰も何も言わない。夫が取り立てた子だ。字はまだ下手だが、エルドの後ろにいつもいる。


 この子にも。


 ローザは腹に手を当てて思った。この子にも、あの子のような供がいつか、いればいい。


  ◇


 東の家の行列が着く前の晩、ローザは居間へ向かった。


 居間の戸口で、侍女頭が盆を渡した。茶器と、椀が四つ。いつもの数だ。


 ローザは一つを盆に戻した。侍女頭は黙って、白湯の入った小さな椀を盆の隅に置いて、下がった。


 居間に入ると、夫が火のそばにいた。エルドがその前に立って、明日の役目を言わされている。壁際に、あの従士の子。いつもの居間だ。暖炉の火が大きく、燭台は少ない。


 三つ、淹れた。


 王都の茶だ。春に届いた分の、残り。湯を注ぐと、甘い匂いが立つ。ローザは息を浅くして、椀を運んだ。夫に一杯。エルドに一杯。それから、壁際へ。


「あなたも。冷えたでしょう」


 レイフは、頂戴します、と言って、両手で椀を包んだ。大きな手だ。この二年でまた大きくなった。


 ローザはエルドの襟に手を伸ばした。直すところはなかった。それでも、直した。


「大きくなりましたね。口上、聞こえていましたよ。廊下まで」


 あの子は声が大きすぎるという意味か、と訊いた。ローザは、よく通る、いい声だという意味です、と答えた。決めていたとおりに。あの子の耳が赤くなった。


 夫は椀を手にしたまま、火を見ていた。


 長いこと、見ていた。ローザは冷めますよ、と言った。夫はうむ、と言って、茶を一口含んだ。


「……長かった」


 それきり、誰も何も言わなかった。


 ローザは夫の横顔を見ていた。火の色が彫りの深い頬の上で動いている。何年もかけて、やっと明日が来る。この人が、長かった、と口にする。それだけで、ローザには十分だった。


 白湯の椀は手の中で温かかった。


 明日が済んだら、話そう。


 春に。


  ◇


 ローザが母に宛てた文は、初雪の前に王都へ着いた。それに返事が書かれる間もなく、北の大火の知らせが、王都へ届いた。


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