第33話 残っているもの
夜明け前に、四人は杉の小道を下りた。
沢を伝い、瀬を下り、川沿いの道に出るころ、東の空が白んだ。舟は使わなかった。柳の岸に繋いだままの舟は、亭主のものだ。返しに行く暇はないが、川下へ流してしまうのは違う。マグダがそう言って、レイフもそう思った。
祭りの町には朝の市が立っていた。
レイフが先に立って、門楼の下をくぐった。人足の顔で、荷を担いで。エルドは頭巾を目深にかぶって、その後ろ。セシルは荷番の外套の前を合わせ、マグダが最後だった。橋の上に、黒い装備の兵が二人、立っている。往きも、戻りも、同じ二人だった。二人は、橋を渡る者の顔を、順に見ていた。
四人は橋を渡らなかった。
門楼の石段の脇に、触れ書きが貼ってあった。新しい紙だ。糊がまだ乾ききっていない。人だかりはない。読める者が少ないからだ。レイフは荷を担ぎ直すふりをして、足を止めた。字は読める。北の城の冬に、エルドに習った字だ。
——偽の立会状をもって誓いを騙りし一味の残党、三名。若き男、亜麻色の髪、琥珀の目、剣を帯ぶ。大男の従士。女、一人。誓約騎士団の巡察セシル、規程に違背してこれに与す。見かけし者は教会の詰所へ届け出よ。——誓約騎士団。
二度、読んだ。
偽の立会状の一味。あの、頬傷の男たちだ。頬傷は宿場で縛られ、頭目は門の網で捕まって、教会へ護送された。残っているのは、一人のはずだ。三名、と触れ書きは言う。北の逆賊の遺児、とは書いていない。琥珀の目、とは書いてある。
レイフは歩き出した。
歩きながら、市の声を聞いた。人足の声。魚売りの声。荷車の軋み。その中に、ひとつ、低い声があった。
「……北の、生き残りだとよ」
「誰が」
「琥珀の目の、若いのだ。丘の上の騎士様が、酒の席でな。……触れ書きに書いてあることと、騎士様の言うことが、違う」
「お触れの方が正しいに決まってらあ」
声はそれきり荷車の軋みに紛れた。
レイフは振り返らなかった。振り返らずに、市の外れの、塩を売る店の前で、荷を下ろした。マグダが店の女と二言三言やり取りして、塩の袋と、それから、酒壺をひとつ買った。買って、外套の下に抱えた。
セシルが、少し離れた屋台の前に立っていた。
背中しか見えない。屋台の親父と何か言って、銅貨を出して、包みをひとつ受け取った。受け取って、外套の内側に入れた。何を買ったのかは見えなかった。レイフは訊かなかった。
◇
街道は使わなかった。
「関がある」
マグダが言った。町を出て、街道が川を離れるあたりで、南から来た荷車の男に、マグダは干し肉を一切れ分けて聞き出していた。街道の先の関で、教会の詰所の者が、若い男の目の色を見ている。目の色で、人を止めている。
「山側の枝道を行く。遠回りだが、関はない」
誰も異を唱えなかった。
「追われちゃいないよ」
歩き出してから、マグダが言った。
「追う気なら、夜明けに戸を蹴る。黒いのが八、白いのが四でね。あんたが空振りさせたやつさ。あれが網だ。……触れ書きは、網じゃない。目を増やしてるんだ。橋の二人、関の詰所、酒場の耳。あたしらが止まった所で、網になる」
「止まらなければ」
セシルが訊いた。
「止まらなけりゃ、見られてるだけさ。……見られてるだけの道を何日も歩くのは、別の疲れ方をするよ」
枝道は、麦畑を離れて、雑木の丘へ入っていく。荷車の轍はなく、人の足で踏まれただけの道だ。レイフが先に立った。エルド、セシル、マグダの順。日が高くなると、雑木の影が短くなり、蝉が鳴きはじめた。
昼過ぎ、雑木が切れて、下に街道が見えた。
白い道の上に、荷車が三台、止まっている。その先に、詰所の者らしい白い制服が二人。荷車の脇に立たされた若い男が一人、頭巾を取らされて、顔を上げさせられていた。遠くて、声までは聞こえない。聞こえないが、何をされているのかは分かる。男はしばらくして、通された。次の荷車が進む。
白い制服の一人が、顔を上げた。上げて、こちらの尾根を見た。遠い。顔の向きだけが分かる。
レイフは足を止めなかった。止めずに、エルドの頭巾が深くかぶり直されるのを、後ろの気配で知った。白い制服は、やがて目を戻して、進んできた荷車の幌をめくった。
歩きながら、レイフは背中の革袋を思っていた。
いちばん底に、一冊目がある。その上に二冊目と三冊目。三冊目の後ろのほうの頁に、ゆうべ、石の字を写した。読めない字だ。形だけを、見たままに写した。石垣のような字で、石の字を。エルドが読んだ順に、頁の端に印を付けた。それが何の役に立つのかは、分からない。分からないものは書いておく。それだけだ。
エルドは前を歩いている。
頭巾を取っていた。雑木の道に、人はいない。亜麻色の頭が、木漏れ日の中で、明るくなったり暗くなったりする。出会ってからずっと、この背中を後ろから見てきた。その背中が、ゆうべ、石の壁に掌を当てていた。長いこと。何を思っていたのかは、レイフには分からない。分からないまま、後ろに立っていた。
残っているものを、ひとつずつ訊く。
パン屋の娘の紋を断った夜に、そう言った。訊けないまま、大祭が来て、儀があって、逃げて、館へ行って、丘へ戻って、石の字を読んだ。半月近く、訊けていない。訊くなら、今夜だ。ゆうべ、壁は言った。重い誓いほど深く。すべてを払う、とも。……エルドは、それを読んだ。読んだエルドが、いま、何を持っているのか。数えるのは今夜がいい。
◇
日暮れに、炭焼きの小屋を見つけた。
窯は冷えて、小屋は空だった。炭焼きの季節ではない。四人は小屋の中に荷を下ろし、マグダが外で火を焚いた。塩を振った干し肉と、町で買った丸パン。酒壺は開けなかった。マグダは壺を荷の脇に置いて、一度だけ撫でて、それきりだった。
食べ終わると、セシルが小屋の外へ出ていった。
見張りに立つ、と言った。マグダは火の脇で外套にくるまった。寝てはいない。寝ていないが目を閉じている。
レイフは革袋の紐を解いた。
三冊目を出す。石の字の頁より前、拾われた晩の頁のあと。「残っているものの帳」と、自分で書いた頁がある。半月ほど前、雨の夜に、エルドが、これは、ある、と言った晩に始めた頁だ。
「エルド様」
エルドは火を見ていた。振り向いた。
「残っているものを、訊きたいのですが」
少しの間があった。それから、エルドはうなずいた。
「……ああ。訊いてくれ。いまなら、数えられる」
レイフは炭を削った。
順は、決めてあった。
「北の城の、沢です。俺と、あなたと。宴の前の日、魚を焼いた日」
「ある」
エルドは即座に言った。
「おまえが焼いた。三尾。私が二尾目の串を押し返して、おまえが観念した。……それから、沢に向かって口上を唱えた。おまえは、聞かされすぎて先に諳んじられそうな顔をしていた」
レイフは書いた。ある。それだけを書く。何があったかは一冊目に書いてある。
「宴の、前の晩です。御館様の居間で」
「ある。ぜんぶ、ある。……歩みは七歩、壇の右手から。あの晩のことは、七年、数えきれないほど思い返した。あの家の、最後の団らんだった」
ある。
「雪の道です。城を出た夜と、次の朝」
「ある。寒かった。おまえの背中の、革の匂い。……どこへ行く、と私が訊いた。南へ、とおまえが言った。北は冬と国境しかない、と」
「はい」
ある。
レイフは次の頁を見た。拾われた晩。ここは無い。もう、分かっている。エルドも分かっている。訊かなかった。訊かずに、その次を訊いた。
「……俺に、字を教えた冬です。従士に上がった、最初の冬」
エルドは少し黙った。黙って、火を見た。それから、口の端が、少しだけ動いた。
「ある。おまえの字が、石垣のようだと言った。教え方が悪い、俺が教える、と言った。……おまえは、蚯蚓の凍え死んだ跡、と言われて、平気な顔をしていた。平気な顔のまま、毎晩、書いていた。……ある。いまも、笑える」
レイフは書いた。ある。
書きながら、手が、少しだけ重かった。理由は分からない。ゆうべ、石の壁に、重い誓いほど深く、と刻んであった。深い、というのが、どこまでのことなのかは、書いていなかった。この頁の、どこまでが、深いのか。……分からないことは、書かない。ただ、ある、と書く。
「三人の食卓です。川で、あなたが素手で魚を獲った日」
「無い」
エルドは静かに言った。
「帳面で、知っている。覚えては、いない。……マグダが、五つ目の岩の若様、と言った。私は、本気で聞き返した」
無い。既に、書いてある。レイフは印だけを打った。
次だった。
同じ日の、夕方。三人で魚を食べたあと、川の上を鳶が回っていた。エルドは、それを見て、話しはじめた。八つの年に、御館様の鷹狩りに、初めて供をした話。呼び戻しの鷹がエルドの頭に降りた話。御館様が声を立てて笑った話。鷹に好かれるのは、いいことだ、と。
レイフは、その日の頁を、一冊目に書いた。八つの年、鷹狩り。帽子。御館様が笑う。それだけの、短い行で。
訊くのはここだ。
「御館様の、鷹の話です」
エルドはレイフを見た。
「鷹」
「御館様が、鷹を飼っておられた。……その話です」
「飼っていた」
エルドはうなずいた。
「それは、ある。北の城の裏山で、飛ばした。鷹匠がいた。鷹は、名を呼ぶ声で人を覚える、と鷹匠が言った。……ある。だが」
言葉が止まった。
「私が、供をしたことは」
エルドは火を見た。見て、しばらく、探している顔をした。探して、探して、見つからない顔をした。レイフは、その顔を、雨の宿で一度見ている。マグダと会った晩を探して見つからず、あの晩に、私がいないと言った、あのとき。
「……無い、と思う」
エルドは言った。
「父の鷹狩りに、私が供をした覚えは、無い。……私が、供をした、と言ったのか。いつか」
レイフはすぐには答えなかった。
答える代わりに、一冊目の、その頁を開いた。開いて、エルドのほうへ、向けなかった。向けずに、自分の膝の上に置いた。
「……書いてあります」
それだけ言った。
エルドは帳面を見なかった。見ずに、うなずいた。うなずいて、火に、目を戻した。
「そうか」
声は静かだった。
「三つ目は、それか」
レイフは書いた。無い。それから、頁の端に、三、と書いた。数だけだ。魚。晩。鷹。三つ。
「三つで、済んでいる」
エルドが火を見たまま言った。
「はい」
「父の顔は、ある。母の茶の匂いも。おまえの字も。……三つで、済んでいる」
「はい」
レイフは炭を置いた。
置いて、自分の書いた頁を、上から下まで見た。ある、が、無い、より多い。ずっと多い。この頁は、失くしたものの帳より、厚くなります、と自分は言った。いまもそうだ。厚い。
火が爆ぜた。
外套にくるまっていたマグダが、目を閉じたまま、言った。
「……覚えたよ」
それだけだった。
◇
セシルが戻ってきたのは、レイフが帳面をしまってからだった。
外套の前を押さえて、火の脇に座る。何も訊かなかった。訊かないかわりに、革袋を見た。革袋の底に何があるかを、この人はゆうべ、石の部屋で見ている。
「写しは、ただの紙です」
セシルが言った。
「読めない字の写しを、誰が真だと言えるでしょう。私が言っても、規程に背いた巡察の言葉です。エルドどのが言っても、逆賊の遺児の言葉です。……紙は、紙です」
「紙は、書いた奴の味方をする」
マグダが目を開けた。
「顔は、誰の味方もしない。……写しを真だと言えるのは、あの石段を下りたことのある奴だ。三十年、鍵を預かって一度も下りなかった番人以外に、いるかね」
「いるはずです」
セシルは言った。
「いなければ、誰が、あの字を刻んだことを、教会に伝えてきたのです。……教典の一頁目を書いた人は、あの壁を読んでいる。読んだ人が、代々、いるはずです」
「探すのかい」
「探します」
セシルは右手を膝の上に置いた。薄青い、小さな紋。袖には入れなかった。
「私が従うのは、閣下の命ではなく、私の立てた誓いです。その誓いが、あの石の壁に繋がっているとしても。……従います」
マグダはしばらくセシルの顔を見ていた。それから、鼻を鳴らした。
「白いの。あんた、少し、顔が変わったね」
「そうでしょうか」
「教本の顔じゃなくなった。……悪くない」
エルドが、火の向こうで、口を開いた。
「王都へ行く」
静かな声だった。
「南へ下って、王都へ。地の底の、石の間へ。……あの壁が言っていた、大誓約の凝っている所を、この目で見る」
「見て、どうするんだい」
「値切れるものなら、値切る。あなたに、そう教わった」
「値切れなかったら」
エルドは、少しの間、火を見ていた。
「断つ者があるように、と壁は書いていました。……ですが、幾百年前の人が書いたとおりに払うために、行くのではありません」
「じゃあ、何のために行くんだい」
「あの人の手は、地の底のものを崩して払っています。あの夜と同じことを、誓いのある所なら、どこでも、何度でもできる。あの人自身は何も払うことなく、安く、簡単に。……あの人を斬っても、崩す先は残る。残したまま背を向ける道が、私には見えません。それだけです」
「払うものは」
マグダが訊いた。訊きながら、答えは知っている顔だった。ゆうべ、石の部屋で、エルドが読み上げるのを聞いていた。
「すべて、と壁にありました」
レイフは、脇の革袋に手を置いていた。いつ置いたのかは、分からなかった。
「払わせるために、育てたんじゃないよ」
マグダの声は低かった。怒ってはいない。怒っていないのがかえって重かった。
「七年、飯を食わせて、剣を仕込んで、値切りを教えて。……あんたが、その石の間で全部払うのを、見物するために育てたんじゃない。あたしは、あんたが払うのを見てるだけの女じゃない。八年前に、一度、見てるだけだった。二度目は、ないよ」
「はい」
エルドはうなずいた。
「払うかどうかは、まだ決めていません。相場を、知っただけです」
「値切れるのかい、あれが」
「分かりません。分からないから、行きます」
「……断てば」
セシルが言った。膝の上の右手を、見たまま。
「戦を封じていたものも、消えます。壁は、そう書いていました」
「はい」
エルドは、セシルを見た。
「その先に何が来るかは、私には分からない。壁は、そこまでは書いていない。……分からないまま、断つ、とは、言いません。見に行くのは、そのためです」
マグダはそれ以上言わなかった。言わずに、酒壺を、一度、撫でた。
レイフは自分の順が来たのが分かった。
誰もこちらを見ていない。見ていないが、火の脇の三人が、次の言葉を待っているのは分かった。
言いたいことは、一つではなかった。言えることは、一つだった。
「俺は、覚えています」
それだけ言った。
言ってから、足りない気がして、少しだけ足した。
「あの館で、誓約主が言いました。誓わぬ剣は、触れられん、と。……俺の覚えていることにも、紋はありません。あの人の手は、届かない。エルド様が払っても、俺の帳面からは、減りません」
その言葉に、エルドがこちらを見た。
長いこと、見ていた。それから、目を戻した。何も言わなかった。言わないのが、この人の、いちばん重い返事だ。それは、もう分かっている。
◇
火が小さくなった。
マグダが、最初の番に立つと言って、小屋の外へ出た。セシルは壁に背をつけて、目を閉じた。エルドは、火のそばで、革袋を枕にした。レイフの革袋だ。いちばん底に一冊目が入っている袋を、エルドは黙って引き寄せて、頭の下に置いた。レイフは、それを見て、何も言わなかった。
「レイフ」
目を閉じたまま、エルドが言った。
「はい」
「南へ、行く」
「はい」
七年前の雪の道では、逆だった。どこへ行く、とエルドが訊いて、南へ、と答えたのは自分だった。北は冬と国境しかない。南は人が多い。それだけの理由で。……今夜は、エルドが言って、自分が、はい、と答えた。エルドはあの朝を、ある、と言った。自分も、ある。同じ朝を、二人で持っている。
レイフは炭を取った。
三冊目の、今日の頁。書くことは多い。触れ書き。市の声。関。枝道。炭焼きの小屋。残っているものの帳の、三つ。四人の言葉。
最後に、一行だけ、別に書いた。
——南へ。四人で。




