第32話 証として
街道を、二日、北へ戻った。
往きと同じ道を、往きより黙って歩いた。刈り入れ前の麦は同じ向きに傾き、荷継ぎの小屋には別の人足が寝ていた。祭りの町は、また市の裏を回って抜けた。橋の上の黒い兵は、まだ二人、立っていた。川沿いの道を上手へ辿り、柳の岸に繋いだままの舟の脇を過ぎる。亭主の舟だ。返す暇は、まだない。
沢を、今度は登った。
瀬を伝い、淵の脇を過ぎ、杉の小道を上がる。三日前に下りた道を、逆に辿る。小道の口の石には誰も座っていなかった。番の兵は、誓約主と一緒に南へ下ったのだろう。マグダはそれを確かめてから、初めて、外套の襟をゆるめた。
門前の町の外れは、大祭の飾りが外され、ただの畑と石垣に戻っていた。
木の垣の家の戸を叩くと、老人が顔を出した。四人の顔を順に見て、最後に、セシルの外套の裾から覗く白を見た。
「戻ってきよったか」
それだけ言って、戸を大きく開けた。
「入りなさい。茶は——」
「まずいんだろ」
マグダが言った。
「聞いてるよ」
老人は、そこで初めて、マグダの顔をまともに見た。
◇
茶はやはりまずかった。
狭い板の間に、四人と老人。書き物の山を壁際へ寄せて、ようやく座る場所ができた。レイフは戸口の近くに腰を下ろし、外の道に耳を向けている。老人は自分で湯を沸かし、五つの茶碗に注ぎ、自分でひと口飲んで顔をしかめた。
「セシル。認め状を置いてきたそうだな」
「はい」
「大所の書役の愚痴は、その日のうちにわしまで届く。……門前の町というのは、狭い」
老人は茶碗を置いた。
「で。何を訊きに来た。わしは答えを持たんぞ。前にも言った」
「棚の話です」
エルドは言った。
「大所の棚の間の、その下。先生が若い頃に、下りたいと言って降ろされた石段の話です」
老人の白い眉が少しだけ上がった。上がって、下りた。
「……誰に聞いた」
「セシルに。セシルは、先生に」
「わしは、石段があるとしか言っておらん」
「はい。それ以上は、誰も知りません。だから、伺いに来ました」
老人はしばらく黙っていた。外で、風が石垣の草を鳴らした。
「五十年前だ」
やがて、老人は言った。
「わしは大所の書役で、若くて、字が速かった。棚の間に入ることを許されていた。写しを納めに、幾度も入った。棚の間のいちばん奥に、小さな鉄の戸がある。戸の向こうに、石段が下りておる。……何が下にあるのかと、書役長に訊いた。知らん、と言われた。大所長に訊いた。知る役ではない、と言われた。下りたい、と言った。それが三度目のときに、わしは棚から降ろされた」
「何があるかは」
「知らん。下りておらんからな」
老人はまずい茶をすすった。
「知らんから、五十年訊いておる。……あの石段の下に何があるにせよ、上の棚に並んでおる幾百年ぶんの写しより、古いものだ。それだけは分かる。大所の建物は、聖堂より新しい。聖堂は、その石段より新しい。順番が、そうなっておる」
エルドは自分の茶碗を見た。渋くて、薄くて、少し塩辛い。
「先生。番人は、いま」
「大所に一人だ。閣下が発たれてから、書役は昼のうちに帰される。夜は、番人と、墨を磨る学僧が一人。……妙な話でな。閣下が発たれた朝から、番人は夜も大所におる。何かを待っておるように」
マグダが鼻から短く息を吐いた。
「待ってるのさ」
「ほう」
「あたしらをね」
老人は、マグダの顔を、もう一度見た。見て、何も訊かなかった。訊かないかわりに、セシルを見た。
「セシル」
「はい」
「棚の下に降りたら、教本を持って上がってはこられん。……それでも、降りるか」
セシルは茶碗を両手で持ったまま答えた。
「教本は、その棚の前に立ったことがないと、知りました」
老人は、少しの間、その顔を見ていた。それから、声を立てずに笑った。
「教本の申し子が、そう言うようになったか。……行きなさい。夜のうちにな。わしは、五十年、下りられなかった。君らが下りて、何があったかを、わしに言うかどうかは、君らが決めればいい」
◇
外郭の門は夜になっても開いていた。
大祭の後片付けだ。前庭の高い組み木を夜のうちに下ろす人足が要る、と口入れが門前の町を触れて回っていた。レイフはその口に乗った。荷運びの日雇いの顔で門をくぐり、三人は、その荷を担ぐ手伝いの顔でついていった。エルドは頭巾を目深にかぶり、セシルは荷番の外套の前を固く合わせ、マグダは、いつもの顔だった。門の番は知らない顔だった。四人を順に見て、荷を見て、通した。
前庭は松明で明るかった。
組み木の上で人足が綱を解き、幕が落ち、白い石の上を人が行き来している。恩赦の儀の祭壇はもう半分がなかった。四人はその明るさの縁を回った。厩の前を過ぎ、聖堂の脇を抜けると、裏手は急に暗くなった。
大所の戸は閉まっていた。
閉まっているが、戸の隙間から、灯りがひとつ漏れている。
セシルが戸を叩いた。規程どおりの叩き方だった。
「どうぞ」
柔らかい声が中から言った。
◇
写字の間は暗かった。
七つの机は空で、綴りの山だけが、昼のまま積まれている。壁際で、学僧が一人、墨を磨っていた。灯りは持っていない。暗がりの中で、硯の音だけがしていた。四人が入っても手を止めなかった。顔も上げなかった。
灯りはいちばん奥にあった。
書役長の机に、燭台がひとつ。その前に、小柄な老人が座っている。指の先に墨。膝の上に、小さな帳面。大所長は四人の顔を順に見た。セシル。エルド。レイフ。マグダ。見終わって、うなずいた。
「お待ちしておりました」
「……いつから」
「閣下が丘をお発ちになった朝からです。今夜で、三晩目になりますな」
大所長は帳面を開いた。
「閣下の仰せです。あの者らが来たら、通せ。読ませてやれ。写しは取らせるな、とは仰いませんでした。……そして、誰が来て、何を読んだか、書き留めておけ、と」
筆を取る。
「書き留めますよ」
「書いてください」
エルドは言った。
「正しく書いてください。エルド=ファーレン。二十歳。北の辺境伯アルドレッドの子です」
筆が動いた。動きながら、大所長は顔を上げなかった。
「巡察のセシルどのは」
「セシル、と。巡察は、要りません」
「大男は」
「レイフ」
筆がまた動いた。それから、大所長の小さな目が、マグダの上で止まった。
「そちらの女人は」
マグダは答えなかった。
エルドはマグダを見なかった。見なくても分かった。隣で、息が一つ、止まった。八年前、この人の書いた一行に頭を下げるしかなかった女が、いま、その手の持ち主の前に立っている。訊くだけでは済まない、と自分で言った女だ。
「用心棒です」
エルドは言った。
「名は、要りません」
大所長は、少しの間、マグダを見ていた。それから、筆を動かした。女、一人。そう書いたのだろう。それ以上は訊かなかった。
「では」
大所長は立ち上がって、腰の帯から、大きな鍵を外した。
◇
鉄の帯を巻いた戸は重い音を立てて開いた。
冷たい、乾いた空気が流れ出た。古い紙と、蝋と、埃の匂い。大所長が燭台を持って先に入り、四人が続いた。
棚の間は長かった。
石の壁に沿って、木の棚が天井まで組まれ、その棚のすべてに、綴りが並んでいる。木の表紙。革の背。地方の名と、年と、誓いの種類を書いた札。それが、灯りの届く限り、奥へ延びていた。幾百年ぶんの、約束の写し。この国の誰かが、いつか、誰かと交わした誓いの、控え。
セシルが足を止めた。
止めて、棚を見上げていた。この人が背骨と呼んだものの、実物だ。エルドはセシルの横顔を見た。何を思っているのかは、分からない。ただ、その目が、棚の上から下まで、一列ずつ、数えるように動いているのは分かった。
「北方は、こちらです」
大所長が燭台を掲げた。
北方の棚。札には、年と、誓いの種類。盟約。臣従。境。婚姻。エルドはその札を目で追った。七年前の冬。盟約。
そこに、綴りは無かった。
指二本ぶんの隙間が棚に空いている。両隣の綴りが、少し傾いて、その隙間に寄りかかっていた。埃が隙間の底に薄く積もっている。七年、何も置かれたことのない棚の底の埃だった。
目録には、収蔵、とある。墨の新しい一行で。
セシルは、その隙間を、長いこと見ていた。
何も言わなかった。右の手を袖に入れもしなかった。ただ、見ていた。見終わって、エルドを見た。目は乾いていた。
「……先へ」
◇
棚の間のいちばん奥に、小さな鉄の戸があった。
人ひとりが屈んで通れるほどの、古い戸だ。錆びた鉄の帯。鍵穴は、棚の戸のそれより小さく、古い。大所長は別の鍵を出した。小さな、黒ずんだ鍵だった。
「この鍵を、私は三十年、預かっております」
柔らかい声で、大所長は言った。
「一度も、使ったことがありません。前の大所長も、使わなかったと聞いています。……下は、私の棚ではない。鍵を預かっているだけです。読む役では、ない」
鍵が回った。
戸の向こうに、石段が下りていた。狭く、急で、暗い。冷たい空気が下から上がってくる。大所長は燭台をエルドに渡した。
「私は、ここまでです。書くものが、下にはありませんので」
エルドは燭台を受け取った。
石段を、下りた。
◇
石の間は、四人が立てば満ちるほどの、小さな部屋だった。
四方の壁が石だ。丘の岩をそのまま刳り抜いた部屋だった。天井が低い。床が冷たい。そして四方の壁に、灯りを近づけると、字があった。
刻んである。
鑿で、石に。上から下へ、左から右へ、壁一面。古い字だ。教典の古語より、さらに古い。エルドは燭台を壁に寄せた。読める。ゆっくりなら、読める。城で、口上を諳んじるために習った古い言葉が、この壁に刻まれている。
持ち出せない。
最初に思ったのはそれだった。壁だ。写しを取るほかない。取った写しはただの字だ。
「読めますか」
セシルが後ろで言った。声が低い。
「読めます。……あなたも」
「教典の古語なら。……半分ほど」
「では、半分ずつ」
エルドは、右の壁の、いちばん上の行に灯りを寄せた。
レイフが革袋の紐を解く音がした。三冊目を出し、炭を削る音。古い字は読めない。だがこの男は見たままを写す。石垣のような字で、石の字を。灯りを、もう少しこちらへ、と低い声が言うので、エルドは燭台を壁と帳面の間に置き直した。
エルドは読みはじめた。
「——わたしは、アルドリック。戦の世を、終わらせた者である」
声が石に吸われた。
アルドリック。アルデン。名の音が頭の中で重なった。国の名は始祖の名を継いだ、と教典は言う。始祖の名そのものを、教典は書かない。この壁は書いている。
次の行。
「——誓いは、預けて成る。誓う者は、おのれのいちばん尊いものを、知らずに預ける。預けたものに、預けた者の手は届かぬ。ゆえに、誓いは破れぬ」
後ろで、マグダが小さく息を吐いた。
「……質屋の帳面だ」
質。質屋の、質。借りるときに預ける、大事なもの。誓う者は、何かを預ける。何を、誰に、教典は書いていない。壁は書いていた。いちばん尊いものを。知らずに。
我が最も尊きものを証として。
盟約の口上の、あの一句。意味の薄れた飾りだと、誰もが思っている一句。壇上で父が唱えた声が、石の部屋に、遠く聞こえた気がした。飾りではなかった。証、とは、質のことだ。父は、あの夜、自分のいちばん尊いものを預けて、隣家と誓った。何を預けたのかは父も知らなかった。
エルドは次の行に灯りを寄せた。
「——わたしだけが、預けたものに手が届く。届くゆえに、断てる。届くゆえに、繋げる」
断つ。繋ぐ。
二つの言葉が並んでいた。断つ、は分かる。この手がしてきたことだ。繋ぐ、は分からない。
「……繋げる、とは」
セシルが後ろで言った。エルドは首を横に振った。分からないものは、分からないまま先へ行く。壁は、まだ続いている。
「——断つ者は、おのれの預けたものを、新たに払う。重き誓いほど、深く」
読みながら、自分の声が、少し遅くなるのが分かった。
払う。魚。拾われた晩。三つ目の、名のないもの。夜番の男の喉は軽く、典礼官の喉は重く、パン屋の娘の胸の綱は、もっと重かった。重い誓いほど、深く。翳りは、一瞬から、二呼吸に、三呼吸になった。膝が土についた。……壁は、それを、幾百年前に書いていた。自分が身体で覚えてきたことが、一行で、ここにある。
おのれの預けたもの。
そこで、引っかかった。自分は、誓ったことがない。あの館の門で立てた客の誓いが、十三の夜に次いで二度目で、それも薄れて消えた。預けた覚えは、無い。無いのに、払った。三つ。……誓わずに預けさせられているものが、この身体のどこかにある、ということか。壁は、そこまでは書いていなかった。
エルドは正面の壁に移った。行が長い。灯りを、ゆっくり動かす。
「——戦は、上を望む心から起こる。わたしは万の民から、生まれた場所より上を望む心を預かった。誰にも告げずに。それを、二度と戦を起こさぬ誓いに注いだ。……これを、大誓約と呼ぶ」
読み終えて、しばらく、誰も動かなかった。
硯の音のような、炭が紙を掻く音だけがしていた。レイフが写している。
「……あの爺さんの問いだ」
マグダが言った。低い声だった。
「誰も誓った覚えはないのに、誰かが誓ったみたいに、戦だけが起きない。……誓っちゃいないんだよ。預けさせられただけだ。上を望む心を。生まれた場所から動く気を。……この国の連中が、あくびが出るほど安全に暮らして、逃げ場がないと嘆きながら一歩も動かないのは」
言葉が途切れた。
途切れたところに、エルドは、パン屋の娘の足を思った。煙の見える所で止まる足。あれは血の誓約だった。娘一人を縛る、六代前の誓い。断てば、足は動いた。……この国の万の足を、幾百年、同じ所に止めているものがある。誰もそれを縛りと呼ばない。当たり前と呼ぶ。自分も、十三まで、そう呼んでいた。
セシルが石の床に座り込んだ。
膝が折れた、というのが近かった。外套の裾が石に広がり、白い制服の膝が覗いた。セシルは正面の壁を見上げていた。教典の一頁目を、五十年教えた人の生徒の目で。
「……始祖が戦の世を終わらせ、大誓約を結び、以来この大陸は……」
口の中で、教典の一頁目を言った。言って、止めた。
「私は、これを守ると誓ったのですか」
「あなたが誓ったのは、誓いの正しきを守ることです」
エルドは言った。言いながら、自分の声が、思ったより静かなのに気づいた。
「これが正しいかどうかは、どこにも書いていない。この壁にもだ。……あなたが、決める」
セシルは答えなかった。答えずに、右の手を、膝の上で開いた。薄青い、小さな紋。叙任の紋。それを、袖に入れなかった。入れずに、見ていた。
エルドは左の壁に灯りを移した。
「——預かったものは、王都の地の底、わたしが最初の口上を唱えた石の間に、凝って在る」
王都。地の底。石の間。
この部屋のような、と思った。だがこの部屋には何も凝っていない。冷たい石と、字があるだけだ。あちらには、万の民の預けたものが、在る。実物として。この国の南の果ての、地の底に。
次の行。
「——わたしは、わが血を二つに分けた。繋ぎを継ぐ血を、王都に。断ちを継ぐ血を、北へ。……いつか、この誓いが人を殺す鎖に変わる日に、断つ者があるように。それまで、北の家は、知らずにいるがよい」
エルドは、読み終えて、灯りを下ろした。
人を殺す鎖に変わる日。……七年前の冬だ。あの夜、誰も誓いを破らなかった。破らなかったから、死んだ。館で、そう聞いた。
断つ者があるように。
書いた人は、断つ者に、断つかどうかを訊いていない。
北の家。知らずにいるがよい。
知らずにいるがよい、と始祖が書いたから、北の家は幾百年、知らずにいた。知らないまま誓い、知らないまま和睦し、知らないまま、誓いに縛られて討たれた。その日のために、知らずにいたのだ。知らずにいた家の者は、もう、自分ひとりだ。いずれ話す、と父は言った。十の春に。父が話すはずだったのは、これの切れ端だったのだろうか。それとも、父も、切れ端しか持っていなかったのか。
我らの血は——。
父の最後の言葉の続きを、自分はまだ持っていない。だが、その前の半分が、いま、石に刻まれている。
セシルが、左の壁の下の行を、指で辿った。声が低かった。
「——繋ぐ者は、万の民の預けたものを崩して払う。……安く、幾度でも」
「……両替だ」
マグダが言った。
「人の預けた銭を崩して、自分の払いに当ててる。質屋のいちばん汚いやり方だよ」
繋ぐ。
王都に残った血の業。前庭で手を上げた人。百の紋を、一度に外した。館で、二十の紋を、一度に外した。解く、とは書いていない。繋ぐ、と書いてある。……外した誓いの払いを、万の民の預けたものへ繋いで、そこから払わせる。あの人の物は、一つも減らない。だから安い。だから、幾度でも。
「……費えは」
セシルの声が言った。
「あの百の紋を外した費えは、誰が」
誰も答えなかった。壁が答えていた。
「エルド様」
レイフが低く呼んだ。人目のない所でだけ使う呼び方だった。エルドは振り向いた。レイフは帳面を膝に置いたまま、正面の壁の、いちばん下の行を、顎で示した。読めない字だ。だが、他の行より深く刻まれているのが、灯りが遠くても分かるほどだった。
エルドは灯りを寄せた。
「——これを断つ者は、おのれのすべてを払うであろう」
声に、出した。出してから、それが自分の声だと、一拍遅れて分かった。
大誓約を断てるほどのものが、お前に残るかな。館で、あの人はそう言った。……この壁を、あの人は知っている。知っていて、読ませた。
その下に、最後の一行があった。短い。
「——アルドリック。アルデンの、最初の誓約主」
誓約主。
繋ぐ血を王都に残し、断つ血を北へ遣った人。自分の名を国に付け、自分の名を北の家の当主に代々継がせた人。アルドリック。アルドレッド。エルド。……王都に残った血と、北へ遣られた血。この国で私と同じものを見ている目は、もう、お前のそれしかない。あの人はそう言った。同じものを見ている目。同じところから来た、二つの血。
エルドは燭台を床に置いた。
置いて、石の壁に、掌を当てた。冷たい。刻んだ字の溝が掌の下にある。幾百年前に、この字を刻んだ手があった。刻みながら、その人は、自分の作った誓いがいつか鎖に変わると、知っていた。知っていて、結んだ。知っていて、断つ血を遺した。……なぜ。分かっているなら、なぜ結んだ。
壁はそれには答えなかった。
◇
「写しました」
レイフが言った。帳面を閉じて、革袋にしまう。
「字は、読めません。形は、写しました。……エルド様が読んだ順に、頁に、印を付けてあります」
「ああ」
エルドはうなずいた。
持ち出せない壁の字が、いま、この男の帳面の中にある。読めない字の写し。それが何の役に立つのかは、まだ分からない。分からないが、書いたものは、書いた奴より長生きする。マグダが昔、そう言った。
マグダが、石段の下から、上を見ていた。
上には、燭台の灯りと、大所長がいる。三十年、鍵を預かって、一度も下りなかった人。マグダはその灯りを見ながら、外套の胸元に手をやって、今度は、止めなかった。四角い縫い痕を、外套の上から、一度、押さえた。押さえて、離した。何も言わなかった。
「……ちび」
「はい」
「的は」
エルドは立ち上がった。膝が石で冷えていた。
「あの人ではありません」
自分の声が石の部屋に落ちた。
「あの人を斬っても、終わらない。あの人は、番をしているだけだ。番人は、鍵の持ち主に逆らわない。……上を望む心を万の民から取り上げたのは、幾百年前の、この字を刻んだ人です。その人は、もう、いない。いないのに、鎖だけが、残っている」
セシルが床から顔を上げた。その目を見て、エルドは続けた。
「私の的は、あの人ではない。……この字が言っている、王都の地の底の、石の間にあるものです。先生の言った、もっと大きな棚だ」
言い切ってから、右手を見た。
紋のない手。三つの紋を焼き切った手。この手で断てば、すべてを払う、と壁は言った。すべて。父の顔。母の茶の匂い。沢の魚を焼く火。レイフの、石垣のような字。……全部。
それでも、と思った。思って、その先を、いまは考えなかった。
値札を、初めて見た気がした。
すべて、と書いてある。高いか安いかは、値札だけでは決まらない。何を買うのかと引き比べて、初めて決まる。この払いで何が手に入り、何が失われるのか。それを見定めるまでは、買うとも、買わないとも言えない。
「上がろう」
エルドは燭台を取った。
「レイフ。帳面は、いちばん底に」
「はい」
◇
石段を上がると、大所長が、同じ場所に立っていた。
帳面を開いて、筆を持って。四人の顔を順に見て、何も訊かなかった。何を読んだかは訊く役ではない。
「書き足してください」
エルドは燭台を返しながら言った。
「北の家の者が、知らずにいるのを、やめた、と」
大所長の小さな目が、一度、エルドの顔を見た。
それから、筆が動いた。
「……書きました。閣下には、そのままお伝えします」
「どうぞ」
大所長は、小さな鉄の戸を閉め、黒ずんだ鍵を回した。三十年で、二度目の音だった。
◇
大所を出ると、前庭の組み木は、もう半分以上が下ろされていた。
松明の火が白い石の上で揺れている。人足たちが綱を引き、幕を畳み、恩赦の儀の祭壇が、ただの木材に戻っていく。四人は、その明るさの縁を、来たときと同じに回った。誰もこちらを見なかった。
外郭の門を出て、参道を下りる。
夜の参道は長い。最後の折れの石を過ぎると、門前の町の屋根が黒く見えた。その下に、川。遥か下に、祭りの町の灯り。エルドは石の脇で足を止めて、南を見た。
的を確かめてから振り下ろしな、とマグダは言った。
確かめた。的は、人の形をしていなかった。




