第31話 供は、お好きに
舟は、町の上手の柳の岸に着けた。
祭りの町の屋根が、川下に低く見える。橋も見える。あの橋の上には、黒い装備の兵が二人、朝から立っているはずだ。マグダは町へ入る気がないようで、エルドもそれは同じだった。
舟を柳の根に繋いで三人が岸に上がったころ、川沿いの道を大男が走ってきた。
本当に走ってきた。荷を背負ったまま、息を切らして、それでも足の運びは乱れていない。レイフは三人の前で止まり、膝に手をついて二度、大きく息をした。
「……追いつきました」
「見りゃ分かるよ」
マグダが呆れた声で言った。水の入った革袋を投げて寄越す。レイフは受け取って、半分を一息に飲んだ。
「舟より、速かったのですか」
セシルが真面目に訊いた。
「舟は、流れに乗っていました。俺は、道を走りました。……舟は、三人乗りなので」
答えになっていない。なっていないのに、セシルがうなずいた。エルドは少しだけ笑った。夜明けに縛りに来る組を空振りさせて、川を下って、追い手がなく、代わりに書状が来た朝だ。笑う場所ではない。それでも、レイフの背中の荷が、走っても少しも傾いていないのを見ると、口元が勝手にゆるんだ。
エルドは書状を懐から出した。
黒い蝋に、銀の印。整った字。——南へ下る街道の、離宮にて待つ。供は、お好きに。
「王家の離宮です」
セシルが言った。
「川の町から街道を南へ一日半ほど、街道が低い丘を越えた先にあります。王が総本山へお出ましのとき、往き帰りにお泊まりになる館です。閣下も、王都との行き来に使われると聞きました。……見習いのころ、警固の割りで名だけ習いました。行ったことは、ありません」
「館なら、誓いがあるね」
マグダが言った。
「はい。客の誓いです。館の内で、刃を向けない。手を上げない。……門の脇の台で、入る者は皆、立てさせられます」
「宴の誓いと、同じ文言ですか」
エルドは訊いた。セシルは少し考えてからうなずいた。
「似ています。今宵が今日に、城が館に変わるだけです」
似ている。同じ文言を、七年前の冬、十三の自分は大広間の扉の前で唱えた。手の甲に浮いた紋を、レイフのそれと見比べて笑った。あの紋は、朝には無かった。城を出たときに前提を失って解けたのだと、あとで知った。消えるところは、見ていない。
「網の口だよ、ちび」
マグダは柳の根に腰を下ろした。
「招きってのは、そういうものだ。門を入りゃ、こっちの手は誓いで縛られる。向こうは、いつでも使える。あの夜と同じだ。……分かってて行くのかい」
「分かって、行きます」
「理由を言いな」
「的が、来いと言っています」
エルドは書状を畳んだ。
「的を確かめてから振り下ろせ、と教わりました。これまで、確かめてきました。夜番の男。典礼官。大所長。……全部、段取りをした人たちでした。段取りをさせた人が、いま、来いと言っている。行かなければ、確かめられません。それに」
少し間を置いた。
「訊くことが、ひとつあります。……なぜ、と」
マグダはしばらくエルドの顔を見ていた。それから、レイフを見た。
「でかいの。あんたは」
「行っても、行かなくても、あの兵は来ます」
レイフは水の革袋の口を締めながら言った。
「来るなら、こっちから行くほうが、道を選べます。……それに、俺は誓いません。誓わない者が、一人います」
「一人じゃ足りないよ」
「足りなくても、います」
マグダは鼻を鳴らした。怒った音ではない。セシルを見る。
「騎士様は」
セシルはまっすぐ答えた。
「私は、前庭で、閣下が手を上げるのを見ました。……次は、口を開くのを見ます。あの人が、この人の家に何をしたのか、ご自分の口で言うのを」
「言うかね」
「言わないなら、それも見ます」
マグダは立ち上がった。外套の裾を払って、四人の顔を順に見る。
「いいよ。行こう。……ただし、ひとつだけ守りな。館の中じゃ、手は出さない。あたしも、騎士様も、でかいのもだ。それから、ちび」
声が低くなった。
「あの男の前で、払うんじゃないよ。何を取られるか分からないものを、あの男に見せるために払うのは、いちばんの下策だ。……いいね」
「はい」
エルドは答えた。答えてから、右手を見た。紋のない右手。館の門をくぐれば、ここに、七年ぶりの紋が浮く。
◇
街道を、南へ。
祭りの町は、市の裏を回って抜けた。橋の上の黒い兵は、こちらを見なかった。見なかったのか、見て通したのか、エルドには分からなかった。どちらでも、同じことだ。
街道は、川を離れて、麦の畑の間を南へ延びていた。刈り入れの前の麦が、風で一斉に傾く。荷車と、巡礼の帰りの列と、大祭の飾りを外して運ぶ人足が、同じ道を南へ下っていく。四人は、その流れの中を歩いた。レイフが先、エルド、セシル、マグダが後ろ。セシルは荷番の外套の下に白い制服を着たままで、外套の丈が足りないのは、歩くたびに裾から白が覗くので分かった。
夜は道端の荷継ぎの小屋で明かした。誰も多くは話さなかった。
翌日の日が傾くころ、街道は低い丘にかかった。丘を越えると、道の先に白い壁が見えた。
低い壁だった。総本山の外郭のあの白い山とは比べようもない。人の背の倍ほどもある石の壁が、街道に沿ってしばらく延び、その真ん中に、門がある。門の扉は、開いていた。開いた門の両脇に、黒い装備の兵が一人ずつ。壁の内側に、屋根の低い館の棟がいくつか、夕日の中で並んでいる。
「あれです」
セシルが言った。
王家の離宮。街道を行く者は壁の前を素通りする。素通りできる者の目には、ただの古い館だ。門の脇の兵は、街道の人足の列を、旗も館も見ずに、順に見ていた。
エルドは足を止めなかった。
◇
門の脇に、台があった。
教会の紋を刻んだ石の台に、綴りと、燭台。脇に、宰相府の式官が一人立っている。式官は四人の顔を見て、待っていたかのように綴りを開いた。
「館の内に入る者は、皆、ここで誓いを立てる。閣下の客人であっても、例外はない。……一句ずつ、後について唱えよ」
セシルが最初に台の前へ出た。
荷番の外套の前を開けて、白い制服の胸の徽章を見せ、規程どおりの姿勢で立つ。式官は、その徽章を一度見て、何も言わなかった。
「——今日、この館の内にて、何人にも刃を向けず、手を上げず。この誓いを、立会の御前に立てる」
セシルの声は、よく通った。
唱え終わると、右手の甲に淡い青の線が走った。叙任の紋の隣に、小さな紋が、ひとつ並ぶ。セシルは自分の手を見て、それから台を離れた。
マグダが前へ出た。
唱える声は投げやりだった。投げやりだったが、一句も違えなかった。紋は浮いた。マグダは自分の手の甲を、面白くもなさそうに一度眺めて、鼻を鳴らした。
「……審問官の頃から、幾つ立てたか、数えてないよ」
誰にともなく言って、台を離れた。
エルドの番だった。
台の前に立つ。式官の顔を見る。式官はただの式官の顔をしていた。七年前、大広間の扉の前で綴りを掲げていたのが、この男だったのかどうかは、分からない。あのときの式官の顔を、自分は覚えていない。
誓えぬことを軽々しく口にするな。
父の声だ。エルドは、自分の胸の内を、一度だけ検めた。この館の内で、刃を向けない。手を上げない。……斬るためではなく、訊くために来た。それは、本心だった。本心でなければ、紋は浮かない。浮かなければ、門で割れる。
「——今日、この館の内にて、何人にも刃を向けず、手を上げず。この誓いを、立会の御前に立てる」
自分の声が夕方の門の前に落ちた。
右手の甲に線が走った。
熱くはない。痛くもない。肌の下を細い線が通って、見る間に、淡い青の紋を結んだ。剣を執る側の手の甲。十三の夜と、同じ場所に、同じ紋が浮いている。あの夜、レイフの手と見比べて笑った、あの紋だ。
エルドはしばらく自分の手を見ていた。七年、この手には何もなかった。紋のない手を訝られ、紋のない手で三つの紋を焼き切った。その手に、いま、誓いがひとつ据わっている。そこに、何かが在る。七年、無かったものが。
台を離れた。
最後にレイフが台の前に立った。立って、式官を見て言った。
「俺は、誓いません」
式官の眉が初めて動いた。
「誓わぬ者は、通せぬ」
「では、ここで待ちます」
レイフは本当にそのつもりの顔をしていた。門の脇の黒い兵の一人が、式官に目で何か訊いた。式官は少し迷い、それから兵に顎を振った。兵は館の奥へ入っていき、長くはかからずに戻ってきた。
「閣下の仰せだ。……通せ、と」
式官は綴りを閉じた。閉じながら、レイフの紋のない右手をもう一度見た。
「誓わぬまま、閣下の御前に立つ者を、私は初めて見る。……通れ」
レイフは礼を言って、台の前を通った。
◇
広間は、夕方の光を切って、燭台の火だけで明るかった。
長い部屋だった。石の床。高い窓にはもう幕が下りている。両側の壁際に、黒い装備の兵が並んでいた。左に十、右に十。槍を立て、旗も窓も見ず、入ってきた四人だけを、順に見ている。その右手の甲に、淡い青の小さな紋があった。門の台で立てた、客の誓いの紋。古い臣従の紋の隣に、今日浮いたばかりの紋が並んでいる。
七年前の広間の、壁際と同じだ。
部屋の奥に机がひとつ。
その向こうに、黒い官服の痩せた人が座っていた。総白髪を後ろへ流し、細い杖を膝の上に横たえている。供が二人、机の両脇に立つ。燭台の火が、薄い灰の目に映っていた。
エルドは部屋の真ん中で足を止めた。レイフがその後ろにつき、セシルが右に、マグダが左に立つ。
「エルド=ファーレン」
平らな声だった。張り上げていないのに部屋の隅まで届く。
「……大きくなった」
エルドは頭を下げなかった。下げない、と決めて来た。それでも、身体のどこかが下げようとした。七年前、この声が両家の当主を壇上へ呼んだとき、広間の空気が変わった。あの変わり方を、身体が覚えている。
「誓約主閣下」
声は出た。硬かったが、出た。
「お招きに、応じました」
「よく来た。この国で、私と同じものを見ている目は、もう、お前のそれしかない。一度、話してみたかった。……歩みは七歩、壇の右手から。杯は捧げ持ち、唱え終えるまで口をつけない」
エルドの息が止まった。
「あの段取りを組んだのは、私の府だ。お前は、そのとおりに歩いた。一歩も違えなかった。よく通る、いい声だった。私は、一度会った者の名と顔を忘れん。声もだ。……あの晩の献杯の口上を、私はいまでも一語ずつ言える」
よく通る、いい声。
母が、そう言った。あの晩、居間で、父の前で。同じ言葉が、いま、机の向こうから来た。エルドは何も言わなかった。言わずに、息を戻した。この人はあの晩、立会の席で、扉と柱と人の配置を数えていた。レイフがそう言った。声も、数えていたのだ。
「供は、三人か」
灰の目が、エルドの後ろへ流れた。
「二人と、一人です」
エルドは答えた。誓約主の目がセシルの上で止まった。
「巡察のセシル。団長から聞いている。認め状を置いてきたそうだな。……誓いは、置いてこなかったか。手の甲に、まだ青い」
「はい」
セシルの声は揺れなかった。
「結構だ。……そちらの大男。名は」
「レイフ」
「誓わぬ従士。珍しい。門の式官が、初めて見たと言っていた。私も、初めてだ。剣は持っているが、この館では役に立たん。お前が抜くより先に、二十の槍が動く」
レイフは何も答えなかった。答える必要のあることを、言われていない。
「そちらの女は」
「ただの用心棒だよ」
マグダが言った。
「用心棒は、手を上げぬと誓わされて、何を守る」
「顔を、見に来ただけさ」
誓約主はそれ以上訊かなかった。マグダの顔を、覚える目で一度見て、それきりだった。
◇
「伺います」
エルドは言った。
「あの夜。宴が更けたころ、立会の席が空いていました。……空けたのは、あなたですか」
「そうだ」
誓約主は杖を膝の上で少しだけ動かした。
「楽師席の張り出しに、立った。あそこからなら、広間の全部が見える。壁際の兵の手も、壇上の当主の手も、当主卓の子どもの手も。……私が命じ、私が解いた。あれは、国策だ」
平らな声のまま、そう言った。
「謀反の証しの品は、私が作らせた。触れ書きは、宴の前に書いてあった。北の辺境伯家、謀反の企てにより、勅命をもって誅す。……あれを書いたのは、私だ。討ち手の口は、後で典礼官に縛らせた。東の家には、何も知らせていない。あの男は、本心で和睦を望んでいた。だから、使えた」
東の家。……夜明けの沢で、あの男は、何も言えん、と言った。知らされていない、とは言わなかった。エルドはそれを胸の隅に置いて、置いたまま、次を待った。
部屋が静かだった。
燭台の火が動いていない。二十の兵も動いていない。エルドは自分の息の音を聞いていた。七年、探していた答えが、机の向こうから、天気の話のように差し出されている。悪びれてもいない。隠してもいない。
「なぜ」
声が、出た。
「なぜ、父を」
「お前の家が、この国の平和を壊せるからだ」
誓約主は言った。
「それだけの理由で、消した。ほかに理由はない。恨みも、領も、川も、関わりがない。アルドレッドは、良い当主だった。民の顔と名を覚えていた。私と、同じようにな。……あの男は、自分の家が何であるか、知らずに死んだ。知らずに死ねたのは、あの男の幸いだった」
右手が動いた。
動いたのは自分の意志だった。柄へ。七年、握ってきた数打ちの剣の柄へ。
届かなかった。
手が途中で止まった。止めたのは、自分ではない。手の甲の下で、何かが引いた。淡い青の紋。この館の内で、手を上げず。指の先が、柄の一寸手前で、石になったように動かない。押した。押すと、手の甲が、内側から熱くなった。焼ける、と身体が知った。この熱の向こうに道があると、指のほうが先に知っていた。掴んで断つのとは違う。押し通るのだ。押し通れば、手は動く。動いた手で、あの机まで、六歩。
払えば、動く。
「ちび」
マグダの声が低く落ちた。それだけだった。それだけで、足りた。
レイフが半歩前へ出た。紋のない右手が、剣の柄に触れている。触れているだけで、抜いていない。壁際で、二十の槍が、わずかに傾いた。
「払ってみるか」
誓約主が言った。声は少しも変わらなかった。
「いいだろう。何を失うか、私も見てみたい。……お前は、断つたびに払っている。何を払ったか、数えているか」
エルドは手を柄から離した。
離すのに、息を三つ使った。手の甲の熱が引いていく。紋は淡い青のまま、そこにある。焼けていない。自分は払わなかった。払わなかったことを、机の向こうの人が黙って見ている。
「そうだ。それが、お前の家の値だ」
誓約主は膝の上の杖から右手を離した。
離した手が、すっと上がった。
壁際で、二十の右手の甲の青が、いっせいに黒く裏返った。
裏返って、剥がれた。焼けていない。焦げてもいない。灰も、匂いも、白い線もない。ただ、剥がれて、消えた。あとには何も残らない。古い臣従の紋の隣に、ただの肌があった。
二十の槍が下りた。穂先が四人を囲む。
セシルの息が鳴った。マグダは動かなかった。レイフは柄に手を置いたまま、槍の穂先を数えていた。エルドは自分の手の甲を見た。淡い青の紋が、まだそこにある。自分は縛られている。セシルも、マグダも。この部屋で、手を上げられるのは、壁際の二十と、レイフだけだ。
「これが、あの夜だ」
誓約主は手を膝に戻した。
「見てのとおり、誰も、誓いを破っていない。兵たちは、私が解いた。お前たちは、いまも縛られている。……あの夜も、同じだった。ファーレン家の者は、一人も誓いを破らなかった。破らなかったから、死んだ」
レイフの手が、柄の上で動いた。
「大男」
誓約主の目が、レイフを見た。
「誓わぬ剣か。私には、触れられんな。解くべき紋が、お前には無い。……だが、二十の槍には触れられる。抜くなら、お前の主の喉が先だ。数えてみるがいい。お前が三人倒すあいだに、槍は幾つ届く」
レイフは数えたらしかった。手を柄から下ろした。下ろして、エルドの前から退かなかった。
◇
「殺しはせん」
誓約主は言った。
市で、今日の値を告げるような声だった。
「ここでお前を殺すのは、たやすい。だが、殺せば、触れ書きを貼り替えねばならん。北の逆賊の遺児、七年を経て誅す、とな。読んだ者は、考える。十三の子どもが、七年、どこで何をしていたのか。なぜ、いまなのか。……人に考えさせるのは、下策だ。七年前に私が書いた筋書きは、お前が死んだことになっている。死んだ者のままでいてもらうほうが、話が通る」
エルドは聞いていた。
「それに、生かして歩かせれば、お前に手を貸す者が、私の前に顔を出す。教会の中にも、外にも。今日は、そこに一人いる」
灰の目が、セシルの上で一度止まった。
「巡察のセシル。団長には、追うな、と言ってある。……お前が、連れて歩いてくれる」
セシルは何も言わなかった。言わずに、右の手を袖の中に入れかけて、止めた。止めて、その手を外に出したままにした。
「もう一つ、ある」
誓約主は、机の上の手を少し動かした。
「お前は、断つたびに、空になっていく。典礼官の喉を、お前は開けた。あの男は王都で、私に自分の喉を見せた。……ほかにも、あるのだろう。断つたびに、何を払ったか。自分で言えるか」
エルドは答えなかった。
三つ目が、出てこなかったからだ。魚と、拾われた晩と——パン屋の娘の紋を断った夕方、自分は何かを払った。払った、という覚えだけがある。何を、は無い。帳面を見るまで分からない、とレイフに言った。見ても、分からないかもしれない、とも。
「言えんか」
誓約主はうなずいた。
「そういうものだ。お前の家の業は、使うたびに、使い手を削る。大誓約を断てるほどのものが、お前に残るかな。……私は、賭けをせん。数える。お前が空になる速さと、お前がここへ辿り着く速さと、どちらが早いか。そのうえで、後のほうが早いとは、思っていない」
それから、少しだけ声の調子が変わった。平らなままだが、低くなった。
「私は、忘れん。……お前は、父の顔を、まだ覚えているか」
「あります」
エルドは即座に言った。
「ぜんぶ、あります」
「いまは、な」
誓約主は杖を取って立ち上がった。
立ち上がっただけで、二十の槍が上がった。穂先が天井を向く。囲みが解ける。
「用は済んだ」
薄い灰の目が、最後にエルドの顔を見た。琥珀の目を。あの夜、献杯の壇上で見た目を。
「知ってから、来るがいい。お前の家が何であったか、知らずに死ぬのは、不憫だ。……供は、お好きに。行け。私は王都で待つ」
◇
門を出ると、街道はもう夜だった。
右手の甲の紋が、薄れはじめていた。前提の消えた誓いの、静かな消え方だ。焼けもせず、外れもせず、ただ、薄くなっていく。エルドは歩きながらそれを見ていた。十三の夜には見られなかった消え方だった。
誰もしばらく口をきかなかった。
丘を下りきったところで、マグダが言った。
「……人を呼びつけといて、茶も出さない」
「茶、ですか」
「茶だよ。あたしの酒場じゃ、あんな客は二度と入れないね」
セシルが、小さく息を吐いた。エルドは笑わなかった。笑わなかったが、胸の中のいちばん硬くなっていたところが、少しだけ緩んだ。あの部屋を出てから初めて、息が下まで入った。
街道の脇に古い里程の石があった。マグダがそこに腰を下ろし、四人は自然とその周りに集まった。
「知ってから来い、と言った」
エルドは言った。
「あの人は、知る場所を言わなかった」
「知る場所なら、あります」
セシルが言った。
声は静かだった。前庭で誓約主の手だけを見ていた、あのときの目をしていた。
「丘の上の、いちばん下の棚です。大所の棚の間の、その下。先生が、五十年前に、下りたいと言って降ろされた棚です。何があるかは、先生も知りません。……あの人は、閣下から、触れるな、と言われています。番人は、鍵の持ち主に逆らわない」
「来た道を、戻るのかい」
マグダが訊いた。答えは分かっている顔だった。
「戻ります」
エルドは言った。
「あの人は、王都で待つと言いました。丘は、いま、いちばん空いている。……餌だとしても、食います。知らずに、南へは行けません」
レイフが荷を担ぎ直した。セシルが外套の前を合わせた。マグダは里程の石から立ち上がって、来た道のほうを一度だけ見た。
四人は、北へ歩き出した。街道は暗く、振り返ると、丘の上の低い壁に灯りがひとつだけ残っていた。誰も、二度は振り返らなかった。
知ってから、来るがいい。あの人は、そう言った。
知ってから、行く。




