第30話 六つ
装備は、数えられる。
寝床の上に、セシルは並べた。直剣。小盾。捕縄が二本。笛。認め状。路銀の袋。六つ。それから、寝床の脇の床に、火の消えた角灯がひとつ。参道の夜道にと大男が置いてくれたきり、返しそびれていたものだ。油は、自分で足した。
団長の部屋から戻って、半刻が過ぎていた。
紙は、枕の脇に畳んである。開かなくても、一語ずつ言える。疑わしき者。夜明け。捕縛。案内せよ。
セシルは自分の右手を見た。
薄青い、小さな紋。三年前、この丘の上で授かった。授かった日の口上は、いまも一語ずつ言える。
——大誓約の下、誓いの正しきを守り、偽りの誓いを正し、この剣を誓いに捧げる。この誓いを、天と立会の御前に立てる。
誓いの正しきを守り、偽りの誓いを正す。
団長に従う、とは、どこにも言っていない。閣下に従う、とも。教本の規程には書いてある。騎士は団長の指図に従うこと。第四条だ。だがそれは規程で、誓いではない。規程を破れば、咎めを受ける。誓いを破ることは、できない。二つは、別のものだ。見習いのころ、先生がまずい茶を淹れながら、そう教えた。
この命令に従えば、どうなるか。
大所長の部屋で聞いたことを、セシルは順に並べた。北方の冬の巻は、写しを取らずに閣下へ渡った。三年前、地方の巻は水損で消えた。この夏、目録に収蔵と書かれた。閣下の御裁可により、写しは在り、登録に誤りなし。……そして、あの筆耕は、それを見つけた人だ。欠けを見て、墨を見て、印を見て、番人の手が止まるところまで見た人だ。
夜明けに、その人を縛る。縛れば、棚は閉まる。閉まった棚の中に、写しは無い。無いものを在ると書いた返書が、正しい登録として綴じられる。
偽りの誓いを正す、と自分は誓った。
この命令に従うことは、偽りを綴じる手を、自分の手で守ることだ。
誓いが、それを許すはずがない。
セシルはしばらく右手を見ていた。紋は、青いままだった。焼ける気配も、疼く気配もない。誓いは、何も言わない。言わなくて当たり前だ。誓いは、破ろうとしたときにしか声を上げない。自分はいま、破ろうとしていない。
守ろうとしている。
縛りは、行き先の決まった誓いにしか働かない。自分の誓いは、正しきを守れ、としか言わない。どこへ行けばそれを守ることになるのかは、言わない。……決めるのは、自分だ。
筆を取った。
書き付けは、短くした。
——団長へ。私は、この命に従いません。理由は三つ。北方の目録の、写し一綴の一行だけ、墨が新しいこと。写しは在りとの返事に、閣下の印が無く、大所長の印だけがあること。そして今日、大所長が私の前で、写しは取らなかった、と言ったこと。
——私は、誓いの正しきを守り、偽りを正すと誓いました。この命に従うことは、その誓いに背くことです。
——私が従うのは、閣下の命ではなく、私の立てた誓いです。
——認め状を、ここに置きます。巡察のセシル。
読み返して、一箇所だけ直した。巡察の、を消した。セシル、とだけ残した。
筆を、もう一度取った。取って、置いた。
丘に上がった月から、家に銭が届いている。来月の分は、届かない。……それを書く先は、団長ではない。父にも、まだ書けない。
認め状を、書き付けの上に置いた。徽章は、外さなかった。外す理由が、まだ見つからない。
装備を、もう一度数えた。直剣。小盾。捕縄が二本。笛。路銀の袋。……角灯。
六つ。数は、合っていた。
◇
外郭の門は、夜も番がいる。
騎士団の若手が一人だった。セシルの顔を見て、剣と角灯を見て、こんな刻限に、と言った。
「務めです」
セシルは言った。嘘ではなかった。若い騎士は、それ以上訊かなかった。訊かない顔をしているのは、たぶん、あの年嵩の同僚が何か言っておいたからだ。何を言っておいたのかは、考えないことにした。
角灯に火を入れて、参道を下りた。
最後の折れの石を過ぎると、門前の町の屋根が黒く見えた。大祭の飾り紐が、風に鳴っている。旅籠の戸は閉まっていたが、裏の井戸端に灯りがひとつ、まだ起きていた。
◇
大男が、井戸の縁で帳面を開いていた。
セシルの角灯を見て、炭を置いた。置いて、立ち上がって、何も訊かずに、旅籠の裏戸を開けた。狭い部屋に、灯りがひとつ。マグダは椅子で、剣士は寝床の端で、二人とも、起きていた。
「……夜明けです」
セシルは戸口に立ったまま言った。
「夜明けに、捕縛の組が、この旅籠へ来ます。黒い兵が八、騎士団が四。筆耕を名乗る者は、北の逆賊の遺児と疑わしき者、とあります。……案内役は、私です。顔を知っているのは、私だけですから」
誰も、動かなかった。
剣士の顔を、セシルは見なかった。見れば、訊きたくなる。訊けば、答えを聞くことになる。……答えは、夜明けの後でいい。夜明けより先に済ませることが、今夜はひとつだけある。
マグダの目が、セシルの顔から、手へ、足へと下りて、また顔へ戻った。人を値踏みする目だ。値踏みが終わるまで、セシルは戸口で待った。
「……で、案内しに来たのかい」
「はい」
セシルは言った。
「別の道を」
マグダが、鼻を鳴らした。怒ったときの音ではなかった。それだけは分かった。
剣士は、寝床の端から立ち上がった。
「……戻れなくなります」
「戻る場所が、本物かどうか、分からなくなりました。分かるまで、戻れません」
セシルは言い切ってから、少しだけ言い足した。
「認め状は、宿舎に置いてきました。団長への書き付けと一緒に。……私は、見たものを、見なかったことにはしない、と言いました。登録院の石段で。あれは、誓いではありません。ただの約束です」
「約束は、破れます」
「破りません」
剣士は、何も言わなかった。言わないまま、少しだけ、目を細めた。あの、かすかな笑い方の手前だった。
「白いの」
マグダが、立ち上がった。
「その白いの、隠しな。夜の沢で白いのを着てるのは、灯りを提げて歩くのと同じだ」
荷番のときの粗い外套を、椅子の背から取って、投げて寄越した。セシルは受け取って、制服の上から羽織った。丈が、少し足りなかった。
「それから、装備は」
「直剣。小盾。捕縄が二本。笛。路銀の袋。……角灯。六つです」
「角灯」
「……数は、合っています」
マグダは、しばらくセシルの顔を見ていた。それから、笑った。皮肉が先に立つ、いつもの笑い方だった。
「ひとつ、違うね」
「はい」
「それでいい。……でかいの、荷を担ぎな。ちび、パンは」
「三つ、あります。ゆうべの」
「靴と飯は抜かない。歩きながら食いな」
剣士が、うなずいた。うなずいて、大男を見た。
「道は」
「杉の小道です。口に番が一人。……騎士様、番は、動きますか」
「動きます。夜明けの半刻前に、旅籠へ回ります。捕縛の組の割りに、小道の番も入っていました」
「半刻」
マグダが、繰り返した。
「半刻あれば、沢まで下りられる。沢を下った川には、亭主の舟が繋いである。……着いた日に、決めてある」
「舟は、三人乗りです」
大男が、言った。
「俺は、岸を走ります」
「舟と競争する気かい」
「追いつきます」
真面目な顔だった。剣士が、袖で口元を隠した。セシルは、自分の肩が揺れそうになるのを、外套の中で押さえた。夜明けに縛りに来る組を待つ部屋で笑いかけているのは、自分でもおかしかった。
おかしかったが、悪くなかった。
「……ひとつ、言い忘れました」
セシルはマグダを見た。
「負けを、認めに来ました。棚は、水損のひと言で閉まる棚でした。あなたの目が、正しかった。……菓子は六つ、次の町で買います」
マグダは、外套の襟を立てる手を止めた。
「こんな夜中に、菓子の話かい」
「約束ですから」
「……覚えとくよ。あたしは、忘れないたちだ」
◇
杉の小道の口が見える木立で、四人は待った。
番の兵は、小道の口の石に腰を下ろして、動かなかった。黒い装備。目だけが、暗い参道の上を行き来している。角灯の火は、旅籠を出るときに消してある。セシルは木立の中で、右手を外套の袖の中に入れていた。冷えたからではない。癖になりかけていることに気づいて、出した。
東の空が、わずかに薄くなったころ、参道の上から足音が下りてきた。
二人。黒い装備。番の兵に短く何か言い、三人で町のほうへ歩いていった。旅籠の方角だ。小道の口に、誰もいなくなった。
「……行くよ」
マグダが、最初に木立を出た。
杉の小道は、暗く、石は露で濡れていた。大男が先に立ち、剣士が続き、セシルが続き、マグダが後ろを歩いた。誰も、灯りを持たない。大男の足は、暗い石の上で迷わなかった。半歩前で確かな石を踏み、後ろの者が、同じ石を踏む。セシルはその大きな背中を見ながら下りた。誓約の恩恵を持たない足が、なぜこれほど暗い道に強いのか。恩恵の代わりに、七年ぶんの夜道が、この足には入っているのだろう。
水音が、大きくなった。
沢だ。淵がひとつ、その上に岩が張り出し、下は瀬になって流れ落ちている。剣士が、一度だけ、淵の脇の平らな石を見た。見て、何も言わずに、瀬に沿って下りはじめた。
セシルは、一度だけ、後ろを見た。杉の小道は暗いままで、灯りは一つも下りてこなかった。
瀬は、丘を下っていた。
石から石へ、水音を頼りに下る。空が白みはじめ、杉が切れ、低い木になり、やがて草地になった。足の下の石が、丸くなった。川が近い。
セシルは歩きながら、自分が何も数えていないことに気づいた。
装備も、規程も、閣下の命の語も。数えないまま、石を踏んでいる。三日、警固の列で数え続けたものが、ひとつも頭に無い。空いた場所に、水音だけがある。
妙だった。縛りに来る組を、自分の手で空振りさせた朝だ。認め状は、宿舎の寝床の上だ。戻れば、規程の何条かで裁かれる。戻らなければ、追われる。……なのに、足が軽かった。
この軽さを何と呼ぶのかは、教本にない。
◇
川は、朝の光を受けて、白く流れていた。
沢の口に、小さな舟が繋いであった。釣り舟だ。マグダが綱を解き、剣士が乗り、セシルが乗った。大男は荷を舟に置いて、岸の道に立った。走る気だ。本当に。
川沿いの道の、川下のほうから、蹄の音が来た。
一騎。
黒い装備だった。朝の光の中で、旗も持たず、槍も持たず、ただ一騎で、道を上ってくる。追ってきた足ではない。追う者は、あんなふうに、ゆっくり馬を歩かせない。
大男が、道の真ん中に立った。
騎馬は、二十歩の手前で止まった。兵が下りた。若くはない。無駄口のひとつも無さそうな顔で、懐から折り畳んだ紙を出し、両手で胸の高さに掲げた。
「閣下より」
平らな、よく仕込まれた声だった。
「エルド=ファーレン殿へ」
舟の上で、セシルは、剣士の横顔を見た。
剣士は、動かなかった。動かずに、それから、舟を降りた。大男が半歩動きかけるのを、手で制した。制して、自分で、二十歩を歩いた。兵の前に立ち、紙を受け取る。兵は深く頭を下げ、何も言わずに馬に戻り、来た道を、来たときと同じ速さで、下っていった。
追わなかった。追う気が、初めから無かった。
「……見られてたね」
舟の上で、マグダが低く言った。
「小道も、沢も、この舟も。最初から」
剣士は、答えなかった。
道の真ん中で、紙を開いた。
黒い蝋に、銀の印。セシルは舟から降りて、その隣に立った。立って、覗き込む。剣士は、隠さなかった。
整った、余分のひとつもない字だった。
——エルド=ファーレン殿。七年ぶりに、お目にかかりたい。南へ下る街道の、離宮にて待つ。供は、お好きに。——誓約主。
それだけだった。
セシルはその名を読んだ。エルド。剣士どの、と呼び続けてきた人の名だ。一度も訊かなかった名を、初めて読んだ。あの手の字で。前庭で上がった、あの手の。
剣士は、紙を畳んで、懐に入れた。入れて、川のほうを見て、それから、セシルを見た。
「……エルドです」
朝の川の音の中で、そう言った。
「エルド=ファーレン。……名乗るのが、遅くなりました」
大男が、剣士の後ろから言った。
「レイフです。……従士の、レイフ」
セシルはうなずいた。
うなずいて、右の手を外套の袖から出した。手の甲の紋は、朝の光の中で、青いままだった。




