第29話 誤りなし
照会の件、閣下の御裁可により検めたり。北方、盟約、冬の巻。写し、在り。登録に誤りなし。
朝の井戸端で、セシルはそこまでを一息に読み、紙から目を上げた。エルドは、買ってきたばかりの朝のパンの包みを、机の端に置いた。三つ。
「以上です。末尾に、大所長の名と、印」
返事はゆうべ宿舎に届いたのだという。警固の三日が明けて寝床に戻ったところへ、書役が持ってきた。セシルはそれを読み、夜明けを待って下りてきた。目の下の影は、三日ぶんの濃さになっていた。
マグダの手が、杯の上で止まっていた。白湯の杯だ。
「……誤りなし」
繰り返した声は、低かった。
「検めの上、登録に誤りなし。あたしのときは、その後ろに、もう一句あった。審問官は己の目を疑うべし、とね。……同じ手だよ、ちび。八年前と、同じ手だ」
エルドは、紙を受け取って、自分でも読んだ。
筆耕の目で読む。墨は黒く、字は几帳面で行の間が均一だ。長く帳面を扱ってきた手の字だった。末尾に、大所長、と署名がある。その下に、小さな印。大所の印だろう。閣下の御裁可により、と本文にはある。だが閣下の印は、どこにもなかった。この返書に名を置いているのは、大所長ひとりだ。
「……巡察どの」
「はい」
「儀を、見ましたか」
「見ました」
セシルは、井戸の縁に腰を下ろさなかった。立ったまま、答えた。
「あなたに言われたとおり、この目で見ました。……閣下の手が、上がりました。列の前にいた女の手の甲で、紋が黒く裏返って、剥がれました。教典は、天が預かる、と書きます。私は、手が上がるのを見ました。それしか、見ていません」
レイフが井戸の縁で、ほんの少しだけ、身じろぎをした。同じものを見た者の身じろぎだ。セシルはそれに気づかなかったか、気づいて何も言わなかった。
「それから、番人の顔も見ました」
セシルは、マグダを見た。
「この返書を渡すとき、大所長は、目録を閉じたときと同じ顔をしていました。これで済んだ、と言いました。……済んでいません。写しが在ると、閣下が仰った。在るものなら、見せられるはずです。私はこれから、それを言いに上がります」
「言ったら、どうなると思う」
マグダが訊いた。
「……新しい言葉で、棚が閉まります」
セシルは、少しの間を置いてから、そう言った。
◇
新しい言葉で、棚が閉まる。
エルドは返書を膝の上に置いて考えた。彼女が出頭した日、大所長は「閣下の裁可」で棚を閉めた。裁可が下りた今、在ると言った以上、写しを出さないためには、また別の言葉が要る。そして、言葉をひとつ足すたびに、大所長は懐の帳面を開く。誰に言われて閉めたかを、書いておくために。開ける手が多いほど失われる、と大所長はセシルに言ったという。いつか棚が開けば、閉めろと言った者は素知らぬ顔をして、閉めた手だけが問われるだろう。そのとき失われるのは、写しでも誓いでもない。大所長の立場だ。その日のために、誰に言われて何をしたかを、自分だけの棚に書き留めておく。
あの懐の帳面は、棚の番人が、いちばん失くしたくないものだ。
「マグダ」
「なんだい」
「寄進の綴りは、写し終えたものから、大所へ納めます。日に一度、筆耕が運ぶ。……今日は、私が運びます」
マグダはしばらくエルドの顔を見ていた。それから、うなずいた。
「あたしは、行かない」
エルドは、マグダを見た。
「あの上には、あたしの顔を覚えてる者がいないとも限らない。記章を外した審問官の顔をね。……それに」
マグダは、白湯の杯を、掌の中で一度回した。
「あたしが顔を見たら、訊くだけじゃ済まない。八年、済まなかったものが、あの部屋で済んじまう。……そういうのは、あんたの的の後でいい。先に済ませるのは、あんたのほうだ」
「……訊いてきます。あの人が、閉めろと言われた相手を」
マグダは、白湯を飲み干して、立ち上がった。立ち上がって、井戸のほうへ歩きかけ、背中を向けたまま、言った。
「ちび。あたしの記章に返事を書いた手が、その部屋にあるなら……顔だけ、見てきな」
「はい」
顔を見てくる。それは、七年前から、この人に教わってきたことだった。
◇
大所の写字の間は、赦しの綴りで埋まっていた。
儀で紋を解かれた百あまりの民の名を、書役たちが綴りに移している。恩赦の届けの綴りと、赦しの綴り。二つの山の間で、七人の筆が動いていた。壁際では、学僧が黙って墨を磨っている。
エルドは寄進の綴りを二束、抱えていた。もう二束はレイフが担いでいる。年嵩の筆耕は、綴りの山が片付くまで、寄進所を離れたがらなかった。今日は自分が運びます、と言うと、頼む、とだけ言って目録に戻った。
書役長の机は、写字の間のいちばん奥にあった。鉄の帯を巻いた大きな戸の脇で、その隣が、小さな部屋の戸だ。開いている。中に、白い制服の背中があった。
綴りを置き、受け取りの印を待つ。待つ間、声が聞こえた。セシルの声は、騎士の声だ。よく通る。大所長の柔らかい声は、戸を越えると半分になった。
「——閣下の御裁可で、在ると分かった写しです。在るのならば、お見せください」
「……裁可は、在ることを確かめよ、との……開けよ、とは……」
半分でも、足りた。出頭の日、セシルが井戸端で繰り返してみせた、あの言葉の主の声だ。
「では、目録を。目録は、棚ではありません」
少しの間があって、綴りを開く音がした。
「北方、盟約、冬。写し、一綴、収蔵。……この一行の墨は、いつ書かれましたか」
「……写しを納めた折に、書くものです」
「七年前、ですね。……七年前の墨は、茶色くなります。上の行も、下の行も、茶色い。この一行だけが、黒い」
大所長の声は、返ってこなかった。間が、長かった。
「……いま、何を書かれました」
「……巡察どのが、目録の墨を見た、と」
「なぜ、書くのです」
「……書かれたものだけが、残るので」
書役長が、受け取りの印を押した。エルドは礼を言って、受け取りの紙を懐に入れた。入れて、動かなかった。書役長が怪訝な顔をしたので、目録の写しのことで、大所長に伺いたいことが、と言った。書役長は眉を寄せたが、奥の戸が開いているのを見て、好きにしろ、というふうに顎を振った。
エルドは奥の戸口の方へ歩いた。
レイフが、綴りの束を抱えたままついてきた。
小さな部屋の戸口に立つと、大所長が顔を上げた。
六十に近い、小柄な老人。指の先に墨。目が小さく、その小さな目が、エルドの亜麻色の頭を見て、止まった。
手が、上がった。
出ていけ、と払う手だ。筆耕が、大所長の部屋の戸口に立つ。払われて当たり前だった。その手が、途中で止まった。上げかけたまま、宙にあった。止めたのは、大所長自身だった。止めて、その手を、ゆっくり机の上に戻した。
エルドはその手を見ていた。手と、顔と、黙り方を。
「……手を出すな、と言われましたか」
大所長は、答えなかった。
答えなかったが、机の上の手の指が、一本、動いた。それで足りた。誓約主は、着いた日に、寄進所の筆耕を二度見た。見て、この人に何か言ったのだろう。触れるな、と。理由は言わずに。
「入りなさい」
大所長が言った。柔らかい声のまま、戸を顎で示した。
「戸を閉めて。……後ろの男も、中へ。写字の間で、その背中を見せておくのは、よろしくない」
◇
部屋は、四人で満ちた。
机がひとつ、綴りの山がふたつ。セシルが机の前に立ち、エルドはその斜め後ろに、レイフは閉めた戸の内側に立った。大所長は座ったままだ。膝の上に、小さな帳面が開いている。
「筆耕が、私に伺いたいこととは」
「この返書のことです」
エルドはセシルを見た。セシルが黙って大所の返事を渡してくれた。
「閣下の御裁可により、とあります。閣下の印は、ありません。あるのは、あなたの名と、あなたの印だけだ。……この返書を、巡察どのは騎士団の綴りに綴じます。三年後か、五年後か、誰かがまた北方の巻を開けと言うでしょう。棚は閉まったままだ。閉まった棚の前で呼ばれるのは、この返書に名のある人です。閣下ではなく」
「筆耕が、印の話をするのですな」
「筆耕ですから。毎日、紙と印を見ています」
大所長は、帳面に何か書きつけた。
「あなたは、棚を閉めるたびに、その帳面を開く」
エルドは続けた。
「出頭の日、巡察どのがそう言った。今日も、私は戸の外で、それを聞きました。目録の墨を見られて、書いた。印の話をされて、書いた。……何を書いているのか、当ててもいい。誰に言われて閉めたか、です。棚が開く日に、閉めろと言った人は、あなたを庇わない。その日に差し出せるものを、あなたは懐に持っている」
大所長の手が帳面の上で止まった。
顔は動かなかった。目の小さい人の顔は、動かないと何も読めない。だが手が止まっていた。書きかけの筆を、紙の上で止めたのだ。この人にとって、書く手が止まるのは、よほどのことだ。
「……私は」
大所長は、筆を置いた。
「一度も、嘘を書いたことがない」
柔らかい声のままだった。
「写しは在る、と書けと言われて、書いた。目録に収蔵と書けと言われて、書いた。三年前、地方の巻の水損の届けを受け付けよと言われて、受け付けた。七年前の冬、私はまだ書役長だった。北方の盟約の巻は写しを取るな、原本ごと差し上げよ、と言われて、そうした。……私は、一度も、自分の言葉で棚を閉めたことがない」
セシルの背筋が伸びた。伸びたまま、動かなかった。
「誰に、言われました」
訊いたのはエルドだった。
「上からの命です。……逆らえる相手ではない」
「団長ですか」
「団長は、大所に口を出しません」
大所長は初めて、少しだけ笑った。小さな目が、いっそう細くなった。
「大所の長は、代々、閣下からじかにお言葉を受けます。教会の記録は、誓約主のものだ。棚も、鍵も。……私は、番をしているだけですよ。番人は、鍵の持ち主に逆らわない」
言えた。
エルドはそれを聞いていた。聞きながら、この人の喉を見ていた。潰れなかった。夜番の男も、典礼官も、あの夜のことを言おうとして喉が潰れた。この人は、写しが無いと言い、原本を閣下へ渡したと言い、閣下の名を出した。喉は、何ひとつ止めなかった。
教会の人は、守秘の誓いを立てる。典礼官の館で見た小誓と、同じ類のものを。この人にも、あるはずだ。あるはずのものが、いま、働かなかった。
「……あなたの誓いは」
セシルが答えた。声が少し掠れていた。
「登録を守る誓いです。正しい登録を、外に漏らさぬ誓い。……無いものは、守れない。だから、あなたは言える」
「そういうことになりますな」
大所長はこともなげに言った。
「巡察どのは、教本をよく覚えておられる」
典礼官は、七年、言えない言葉を抱えて数え直した。この人は、抱えていない。書けと言われたものを書き、閉めろと言われた棚を閉め、そのことを帳面に書いて、眠っている。喉に楔はない。刺すものが、初めから無いからだ。
「もうひとつ、伺います」
エルドは机に一歩近づいた。
「八年前です。西の町の登録院から、綴りが一冊、大所へ上がった。害意の誓いの登録を、審問官が検めよと求めた綴りです。……返事は、こうでした。検めの上、登録に誤りなし。審問官は己の目を疑うべし」
大所長の小さな目が見開かれた。
初めて、顔が動いた。
「……なぜ、それを」
「その審問官を、知っています」
部屋が静かになった。戸の向こうで、筆の音だけがしている。
「あの返事は、私が書いた」
大所長はしばらくしてから言った。声から柔らかさが半分、抜けていた。
「あの頁も、ここで作った。紙は、大所の紙だ。書いたのは、ここの書役だ。綴じたのは、私だ。閣下のお言葉で。西の町へ下ろす前に、立会の署名を、古い綴りから写した。誰の名を写したかは、私は検めておらん。検める役ではない」
「誰が死ぬのかも、ですか」
セシルだった。
「知らされておらん。知る役では、ない」
「知る役は、誰です」
「審問官だ」
セシルは何も言わなかった。
言わずに、右の手を袖の中に入れた。
エルドはそれを見た。参道の石の上で聞いた話が、その手の動きの中にあった。紋の消えた手を袖の中に隠して生きている人の、娘の手だ。セシルの右手には、まだ紋がある。薄青い、小さな紋が。それを、袖に入れた。
「私は、この足で、閣下のところへ参ります」
大所長は帳面を懐に戻して、立ち上がった。
「巡察と、筆耕が、来た、と。……それも、閉める手の仕事ですので。あなた方を止める役は、私にはない。触れるな、と言われております」
「どうぞ」
エルドは言った。言ってから、ひとつだけ訊いた。
「閣下は、私のことを、ほかに何と」
「それだけです。触れるな、と。理由は、仰らなかった」
大所長は戸を開けた。話は終わりだ、という戸の開け方だった。戸をくぐるセシルの背中に、柔らかい声が来た。
「巡察どの。……この帳面は、渡しませんぞ。あなた方が、いつか私を呼ぶ日のためのものだ」
「呼びません」
セシルは振り向かずに言った。
「私が、綴じます。私の目で見たものを。……あなたの帳面より、先に」
◇
旅籠の裏の井戸端で、マグダは待っていた。
杯はなかった。井戸の縁に腰を下ろして、参道の上を見ていた。三人が戻ってくると、立ち上がりもせずにエルドの顔を見た。
エルドは話した。
写しは無いこと。七年前、原本ごと誓約主へ渡ったこと。三年前の水損。この夏の目録。誓約主からじかに言葉を受ける、大所の長。……それから、八年前の、西の町の頁。大所の紙。大所の書役の字。綴じたのは、大所長の手。返事も、大所長の手。
マグダは最後まで黙って聞いていた。
聞き終えて、しばらく何も言わなかった。井戸の縁に置いた手が外套の胸元へ行きかけて、行かなかった。
「……顔は」
「見ました」
「どんな顔だった」
「閉めている顔でした。……ずっと」
「そうかい」
マグダはそれだけ言った。
それから、立ち上がった。井戸のほうへ二歩行って、止まった。三歩目を、出さなかった。背中を向けたまま、低く言った。
「八年、あたしはね。……どこの誰だか分からない手を、憎むこともできなかったんだよ。誰のものでもない返事の一行に、頭を下げるしかなかった。……今日から、誰の手だか分かる。分かったからって、あの男は戻らないけどね」
三歩目を、出した。釣瓶に手をかけて、水を汲み上げる。汲み上げて、桶の水を、自分の顔に叩きつけた。
誰も、何も言わなかった。
セシルは井戸端の端に立ったまま、まだ右の手を袖の中に入れていた。
◇
夕方、参道を下りてきた白い制服が、旅籠の戸口に立った。
年嵩の騎士だった。警固の列でセシルの隣にいた、あの同僚だ。戸口から中を覗かずに井戸端まで来て、セシルの前で足を止めた。
「セシル。団長がお呼びだ。……直ちに、と」
セシルは立ち上がった。
「分かりました」
同僚は、旅の三人を見なかった。見ないようにしている、とエルドには分かった。見ないようにするには、いるのを知っていなければならない。
セシルは戸口で一度だけ振り返った。
何も言わなかった。言わずに、白い制服の背中が、参道を上がっていった。年嵩の同僚が、その後ろにつく。
「……大所長は、あの足で閣下のところへ行った」
エルドは言った。
「行って、私たちが来たと言った。それが、いま、下りてきた」
「だろうね」
マグダが桶を井戸の縁に置いた。
「動くかい」
「夜のうちは、動けません。町の下の、参道の折れに、黒い兵の番所が立っています。着いた日から。杉の小道の口にも、一人」
レイフが言った。三日の荷運びで、目も働かせていた男の言葉だ。
「大祭は、明日で終わります。明後日の朝、巡礼が一斉に下りる。……その中に紛れるのが、いちばん目立ちません」
明後日の朝。エルドは参道の上を見た。聖堂の白い壁が、夕日を受けて金色に燃えていた。あの中に、七年前の冬の巻は、もう無い。原本ごと、誓約主の手元にある。
明後日の朝まで、二日ある。エルドはそう数えた。
◇
騎士団の宿舎の一角、団長の部屋には、燭台がひとつだけ灯っていた。
セシルは規程どおりの姿勢で立っていた。団長は机の向こうに座り、白の礼装を脱いで平服だった。机の上に、折り畳んだ紙がひとつと、警固の割りを書いた札が一枚。団長は紙のほうを、指で押して寄越した。
「閣下の御下命だ。読め」
セシルは紙を開いた。
——素性の知れぬ旅の者三名、うち筆耕を名乗る者は、北の逆賊ファーレンの遺児と疑わしき者なり。明朝、夜明けをもって捕縛す。巡察セシル、顔を知るゆえ、これを案内せよ。
二度、読んだ。
三度目は、一語ずつ読んだ。控えられたい、を検めたときのように。疑わしき者。捕縛。案内せよ。どこにも、逃げ道になる語はなかった。
「おまえだけが、あの三人の顔を知っている」
団長が言った。
「割りは、これだ。黒い兵が八、騎士団が四。参道と小道の番も、夜明けの半刻前に旅籠へ寄せる。……夜明けだ。仕度をしておけ」
セシルは紙を畳んだ。畳んで、札のほうも読んだ。番の名と、持ち場と、刻限。読んで、覚えた。
夜明けまで、半夜あまりが残っていた。




