第28話 錠前
聖堂の鐘が、いつもより長く鳴った。大祭の三日目の朝だ。
レイフは旅籠の部屋で、革袋の紐を結び直していた。
この二日は、何も起きなかった。起きなかったことを、三人はそれぞれの場所で確かめた。
エルドは寄進所の板の間で、朝から晩まで寄進の目録を写した。誓約主の一行が着いた翌日から、黒い装備の兵が二人ひと組で門前の町を歩くようになったが、寄進所の前を通るときも、筆耕の頭を見ることはなかったという。
マグダは参籠の館の荷番から、誓約主が外郭の門を一度も出ていないこと、館の下働きが食事の量まで噂していることを拾ってきた。東の隣家の当主が参籠を三日から大祭明けまで延ばした、という話も、同じ下働きからだった。
レイフは、大祭の荷運びの日雇いだった。聖堂の裏へ供えのパンを運び、前庭の組み木へ幕を張る綱を引いた。運びながら、目だけを働かせた。
エルドに残っているものを、ひとつずつ訊くつもりだった。明日、と言ってから、一度も訊けなかった。荷運びは日の出から日暮れまでで、戻ればエルドは、目録の写しで汚れた指の墨を落としているところだった。訊けるのは、恩赦の儀が済んでからになるだろう。
セシルは、降りてこなかった。降りるのを控えられたい、と言われた人が、警固の三日のあいだに降りてくるはずもない。
「今日だね」
マグダが、外套の襟を直しながら言った。
「恩赦の儀。……ちび。あんたは、寄進所だ」
「分かっています」
エルドは、もう旅装の襟を正していた。分かっている、と言った顔に、それでも収まりきらないものがある。レイフには、それが見えた。ずっと、この顔を半歩後ろから見てきた。
「誓約主は、着いた日に、寄進所を見た」
マグダが言った。
「隣の筆耕が言ったんだろ。閣下の目が、二度こっちを通った、って。その目のある前庭に、あんたが立つ理由はない。……見るのは、あたしと、でかいのだ。あんたは目録を写してな。筆耕が、儀の日に姿を消したら、そっちのほうが目立つ」
「……はい」
エルドは、うなずいた。うなずいてから、レイフを見た。
「レイフ」
「はい」
「見てきてくれ。……見比べられるのは、おまえだけだ」
それだけ言って、エルドは戸を出ていった。半歩後ろにつく場所が、今朝はない。レイフは革袋を担いだ。帳面は、袋の中だ。あの夜の頁は、一冊目の、はじめのほうにある。読み直す必要はなかった。書いたときから、あの頁は頭の中にもある。
◇
外郭の門は、朝から開け放たれていた。
大祭の三日目は、恩赦の儀のため、外郭の内側が民に開かれる。参道を埋めた巡礼が門をくぐり、聖堂の前庭へ流れ込んでいく。レイフとマグダは、その流れに紛れて門を抜けた。門の脇の寄進所は、今日も開いていた。板の間に筆耕が三人。亜麻色の頭は伏せられ、黙々と筆を走らせているのが見えた。
前庭は、白い石が敷かれていた。
その真ん中に、恩赦の儀の祭壇が組み上がっている。高い組み木に幕が張られ、正面に段が三つ。段の上には机がひとつ置かれ、誰も、まだいない。祭壇の右手に、白い制服が一列に並んでいた。数えて、十二人。列の三番目に、編んで束ねた淡い金の髪があった。セシルは、まっすぐ前を向いている。
祭壇の正面には、民が膝をついていた。
二日目までに大所へ名を届け出た者たちだ。白い石の上に、十人ずつ、十列あまり。老いた男。赤子を抱いた女。手の甲を袖で隠した者。隠さずに、膝の上で開いている者。列の脇を書役が歩き、番号を読み上げては、綴りと顔を突き合わせていた。綴りを繰っているのは、小柄な老人だった。指の先に墨。腰の帯に、大きな鍵。あれが大所長だろう、とマグダが囁いた。鍵を提げて棚の外にいるのは、番人だけだ。
列の後ろでは、群衆が人垣を作っていた。
「厩の前だ。荷車の脇に立ちな」
マグダは、人垣の後ろの厩の前へレイフを連れていった。寄進の荷車が三台、空のまま並んでいる。その脇に立つと、頭ひとつぶんが人垣から出た。出るのは、仕方がない。レイフは、この前庭で、いちばん背の高い者のひとりだった。隠れようとする大男ほど目につく。昔、マグダから教わった。だから、隠れない。荷車に肩をもたせかけ、儀を待つ人足の顔で立つ。マグダはその隣で、荷車の縁に腰を預けた。
人垣の外側を、白い制服がひとり、見回りに歩いてきた。首の太い、四十絡みの騎士だ。訓練所の教官だった。教官はレイフの顔を見て足を止め、それから荷車と、レイフの背丈を、順に見た。
「大男。……荷運びに鞍替えか」
「はい」
「惜しいな。今日も的が要る」
「主がいるので」
教官は鼻から息を吐いて、また歩いていった。マグダが、前を向いたまま小さく言った。
「……顔を売りすぎだよ、でかいの」
「売っていません」
「向こうが買ってるんだよ」
距離は、祭壇まで四十歩ほど。目のいい者なら、膝をついた民の手の甲の色まで見える。レイフの目は、いい。北の村で、賊の来る尾根を見ていた目だ。
前庭の四隅に、黒い装備の兵が立っていた。
旗を見ていない。祭壇も見ていない。人垣だけを、順に見ている。門前の町でも、参道でも、この兵たちはそうだった。七年前の広間の壁際でも。レイフは荷車に肩をつけたまま、その目が自分の上を通り過ぎるのを、一度、感じた。通り過ぎた。人足の顔は、七年で身についた顔だ。
人垣の左手の桟敷に、貴人の席があった。参籠の客が、そこに座る。灰色の地に白い筋を三本引いた旗が、桟敷の柱に掛かっていた。旗の下に、岩のような男がいた。東の隣家の当主だ。見かけるのは、夜明けの沢で竿を出していた日以来だった。
聖堂の鐘が、もう一度鳴った。
◇
誓約主は、聖堂の正面の戸から出てきた。
黒い官服。総白髪を後ろへ流し、細い杖をひとつ。供は二人。団長が白の礼装で祭壇の左手に立ち、大所長が綴りを抱えて右手の下に控えた。人垣が、いっせいに頭を下げた。レイフも下げた。マグダも下げた。頭を下げないのは、四隅の兵だけだ。
誓約主が段を上がり、机の前に立った。
立っただけで、前庭が静かになった。赤子の声がひとつ、それも母親の胸に消えた。七年前の広間で、レイフはこの静けさを知っている。立会の席に着いただけで、広間の空気を変えた人だ。
「——借財の誓いに縛られし者、ここに集う」
平らな声だった。張り上げていないのに、前庭の隅まで届く。
「その誓い、天が預かる。今日を限りに、誓いは、この者らを離れる」
それだけだった。教典の言葉を長々と読むのかと思っていたが、口上は三句で終わった。膝をついた民が、書役の指図で、右の手を上げる。百あまりの手が、白い石の上に上がった。手の甲に、淡い青。掌に、淡い青。借りの誓いの紋だ。遠目にも、それぞれの手の上で、それぞれの青が、小さく光っていた。
誓約主の手が、すっと上がった。
百の手の上で、青が、墨になった。
同じ瞬間に、同じように。
墨になって——外れた。焼けたのではない。ちりちりと焦げて崩れたのでもない。錠前が外れるように、するりと肌から剥がれて、消えた。前の列の、赤子を抱いた女の手の甲から、青が黒に裏返り、黒が剥がれ落ちるのが、はっきり見えた。あとには何も残らない。焦げた痕も、白い線も。ただの手だ。
レイフは、動かなかった。
膝の後ろが冷えていた。荷車の板が、肩の下で硬かった。目の前の前庭は昼で、白い石は日を受けて明るく、鐘が鳴り、百の手が上がっている。あの夜は、蝋燭と暖炉の火だった。壁際に立会の兵が並んでいた。楽師席の暗がりに、フードの影があった。影の手が、すっと上がった。壁際で、立会兵たちの手の甲が、いっせいに黒く裏返った。
同じだ。
昼と夜。白い石と、広間の火。百の民と、黒い兵。違うものを全部取り去って、同じものだけが残る。上がった手。裏返る青。焼けずに、薄れずに、錠前のように外れる紋。同じ瞬間に、同じように。
群衆が、どよめいた。
どよめきの一部は、すぐに泣き声に変わった。赤子を抱いた女が、自分の手の甲を見て、見て、赤子ごと顔を伏せて泣いた。老いた男が、掌を天にかざしたまま、口を開けている。御慈悲だ、と誰かが言った。御慈悲だ、御慈悲だ、と人垣が繰り返した。天がお預かりになった。誓いが、天へ上がった。
天が預かる、とセシルは言った。教典の言葉だと。
レイフの目に見えたのは、上がった手だった。
「……でかいの」
袖を、掴まれた。マグダの手だった。強い。掴んだまま、マグダは前を向いて、儀を見ている顔をしている。
「動くな」
声は、マグダの唇の隙間から出た。
「……顔だ。顔を、人足に戻しな」
言われて、初めて分かった。顔が、七年前に戻っていたのだ。十六の従士の顔に。レイフは息をひとつ吐いて、荷車に肩を戻し、儀を見物する人足の顔を、もう一度作った。作れた。作れたことに、少しだけ驚いた。
祭壇の右手で、白い列は微動だにしていなかった。
列の三番目の顔が、見えた。セシルは、民を見ていなかった。泣いている女も、掌をかざした男も見ていない。誓約主の手を見ていた。上がって、下りた、その手を。まっすぐな目だった。その顔は、儀が終わるまで動かなかった。
誓約主の目が、人垣を撫でていった。
薄い灰の目。端から順に。頭を下げた者たちの上を、旗の上を通って、厩の前の荷車で止まりもせず、流れて、戻った。戻ったのは、桟敷のほうだった。灰色の地に白の三筋の旗の下で、岩のような男は、頭を下げるのが遅かった。下げて、上げるのも早かった。誓約主の目が、そこで一度止まり、また流れた。
それきりだった。
誓約主は段を下り、供を連れて聖堂へ戻っていった。団長が続き、大所長は綴りを抱えて、赦された者の列のほうへ歩いていく。書役が声を張った。赦しを受けた者は、大所にて名を綴じる。番号の順に、こちらへ。百の民が、立ち上がった。立ち上がって、自分の手を見て、隣の手を見て、笑ったり、泣いたり、何も分からない顔をしたりしながら、大所のほうへ動きはじめた。
人垣が崩れた。
「行くよ」
マグダが袖を離した。レイフは荷車から肩を離し、人の流れに紛れて、門へ向かった。門の脇の寄進所で、亜麻色の頭は、まだ目録に向かっていた。その頭は上がらないまま、筆が一度止まって、また動いたのが分かった。
◇
参道の最後の折れに、道端の石がある。
登ってきた者が息を整える石だ。下りてきたレイフは、そこで足を止めた。止めるつもりはなかった。足のほうが止まった。マグダは二歩先で振り返り、レイフの顔を見て、何も言わずに待った。
丘の下に、川が細く光っている。
「……あれだ」
声が、勝手に出た。低く、誰に向けたのでもなく。
「宿でだよ、でかいの」
マグダは、それだけ言った。言って、また歩き出した。レイフは石の脇に立ったまま、川を見ていた。七年前に書いた一行が、頭の中で、そのままの字で並んでいた。
——壁の兵の紋が、黒くなって、錠前みたいに外れた。
石垣のような、四角い字だ。書いたときは、それが何だか分からなかった。何だか分からないものを、見たままに書いた。今日、同じものを見た。何だか分からないまま、二つになった。
レイフは石を離れて、マグダの背中を追った。
◇
エルドが戻ったのは、日が丘の向こうへ落ちてからだった。
旅籠の部屋は狭く、灯りはひとつきりだ。エルドは戸を閉め、旅装の襟を正したまま、寝床の端に腰を下ろした。目録を三十枚写した、と言った。黒い兵が寄進所の前を二度通った、とも。それだけを先に言って、それから、レイフを見た。
「……見たか」
「見ました」
レイフは、革袋を膝の脇に置いたまま、答えた。帳面は、出さなかった。出さなくても、言える。
「誓約主が、手を上げました。百の手の上で、紋が黒く裏返って、外れました。同じ瞬間に、同じように。……あの夜と、同じでした」
それだけ言って、口を閉じた。言えるのは、そこまでだ。見たものは、見たままに言った。それが何だかは、レイフには分からない。あの夜も分からず、今日も分からない。分からないことは、言わない。
エルドは、動かなかった。
灯りが、一度揺れた。
マグダが、椅子の背から身体を起こした。
「……破りなら、焼ける」
低い声だった。杯は、手にしていない。今夜は、酒を出していなかった。
「前提が消えりゃ、薄れる。あたしは審問官の務めで、焼けかけた紋を幾つも見た。薄れて消えた紋も見た。……黒く裏返って、焼けずに外れるのを、あたしは一度しか見てない。十年前だ。恩赦の儀。記章を貰った年で、列の端に立たされてた。あの前庭で、今日と同じものを見た」
マグダは、外套の胸元に手をやった。縫い痕の、四角い手触り。
「教会の秘儀ですらないんだよ、あれは。団長にもできない。大所長にもできない。審問官にも、騎士団にも。……誓約主だけの業だ。教典は、天が預かる、と書く。書くしかないのさ。あの手が何をしてるのか、説明できる者に、あたしは会ったことがない」
「……マグダ」
エルドが、言った。
「あなたは、それを」
「あんたらの話を聞いた晩から、そうじゃないかと思ってた」
マグダは、遮った。
「黒く裏返って、錠前みたいに外れた——でかいのが、そう言った晩からだ。十年前に一度見たものと、同じだった。……口にしなかった。あたしの目で見たのは十年前の一度きりで、あんたらの夜は、あたしは見てない。桶屋のときは、見てもいないものを信じて、人を殺した」
マグダは、そこで初めて、エルドの目を見た。
「今日、でかいのが見た。あたしも見た。二人で、見比べた。……だから、言う。あの夜、壁際の兵の誓いを解いたのは、誓約主の業だ。ほかの誰にも、できない」
部屋が、静かになった。
ほかの誰にも。
レイフは、エルドの手を見ていた。膝の上で組んだ、紋のない右手。三つの誓いを断った手だ。夜番の喉と、典礼官の喉と、パン屋の娘の胸の紋を、焼き切った手。マグダも、その手を見ていた。見ながら、ほかの誰にも、と言ったのだ。
エルドが、その手を開いた。
「……私の手は、焼き切ります」
声は、静かだった。
「白い線が、残る。……あの手は、外す。何も残らない。同じではない」
「同じじゃない」
マグダは、うなずいた。
「同じじゃないってことしか、あたしにも分からないよ。あんたの手が何なのかも、あの手が何なのかも」
エルドは、しばらく自分の掌を見ていた。それから、指を閉じた。七年、この手が震えるのを、レイフは数えるほどしか見ていない。今夜も、震えていなかった。
「あの夜。……立会の席が、空いていた」
レイフは、覚えている。帳面にも書いた。献杯のあと、黒い官服の痩身が、いつからいないのか思い出せなかった。厠か、休息か。それだけのことだと思った。それだけのことのはずだと。楽師席の暗がりに影が立ったのは、そのあとだ。
「では、あの夜、宴の誓いを解いたのは——」
言葉は、そこで止まった。
止めたのだ。先を言わなかった。言わなくても、この部屋の三人には、同じ顔が見えている。
灯りの向こうで、レイフは革袋の紐を解いた。
三冊目を出し、炭を削った。今日のことを書く。見たままに。……それから、もう一行。一冊目の、あの一行の続きになる一行だ。
——同じだった。




