第27話 棚の番人
大所長への戸が開く朝、セシルは礼装で宿舎を出た。
礼装といっても、白い制服の襟を正し、徽章を磨き、小盾を宿舎に置いてきただけのことだ。大所へ出頭する騎士が盾を提げるのは、規程で禁じられている。棚の前で、盾は要らない。そういう理屈だと、見習いのころに教わった。
聖堂のほうへ回ると、外郭の内側は大祭の支度で膨れ上がっていた。
宿坊の前には巡礼の列。厩の前には寄進の荷馬車。訓練所の白い石壁の庭では、警固の組が並び方の稽古をしている。聖堂の前庭には高い組み木が立ち、幕が張られ、その正面に、恩赦の儀のための祭壇が組まれかけていた。祭壇に立つ者は、まだ来ていない。二日後に、王都から下ってくる。
その祭壇の脇を、届けを持った民の列が延びていた。
借財の誓いに縛られた者たちだ。大祭二日目までに大所へ名を届け出よ、と触れが出て、丘の下の町からも参道の村からも、人が上がってきている。老いた男。赤子を抱いた女。手の甲の紋を、袖で隠しながら並ぶ者。隠さずに、開いた掌を膝に置いて座り込んでいる者。列は大所の戸口まで続き、書役が戸口で番号を読み上げていた。
「……長いですね」
列の脇に立った警固の隊長が、セシルに気づいて、うなずいた。
「長いほうがいい。閣下の御前で赦しを乞う列が長いほど、教会の面目が立つ。……大所の書役は、二日で綴じ切れるかと青くなっているがな」
隊長は笑って、列の整理に戻った。セシルは、その言葉を胸の中で一度だけ繰り返した。列が長いほど、面目が立つ。列に並んだ顔は、どれも、面目とは何の関係もない顔をしていた。
◇
大所長の部屋は、写字の間の奥、鉄の帯を巻いた大きな戸の手前にあった。
その大きな戸が、棚の戸だ。鍵は大所長が持つ。戸の手前の小さな部屋には、机がひとつ、綴りの山がふたつ、そして、小柄な老人がひとり座っていた。
六十に近いだろう。痩せて、指の先に墨が染みている。目は小さく、声は柔らかかった。セシルが規程どおりの辞儀をすると、老人は椅子から立ちもせずに言った。
「巡察のセシルどの。お待たせしましたな。……お座りください。恩赦の届けで、大所は手が足りませんで」
「存じています。写字の間を拝見しました」
「拝見。……そうですか」
大所長は懐から小さな帳面を出して、机の上で開き、筆を取った。何かを書きつける。書いてから、顔を上げた。
「巡察どのは、北方の、七年前の冬の巻を照会なされた。……なぜ、あれを」
セシルは、順を追って話した。騙りの頭目が持っていた偽の立会状。様式の突き合わせのために登録院へ行ったこと。北方の棚の番号が跳んでいたこと。水損の付箋。写しは大所に在り、の一行。
「写しが在れば、それで済む話です。ですから、騎士団の名で照会を出しました」
「済む話、ですな」
大所長は、また帳面に書きつけた。
「連れの旅の者がおられると聞いていますが」
「はい。三人です」
「名は」
「存じません」
剣士の名は、知らない。剣士どの、とセシルは呼んでいる。大男の名も知らない。知っているのは、あの姉御肌の女の名だけだ。それを、言わなかった、と自分で分かった。分かって、言い直さなかった。
「知らぬ、と」
筆が動いた。
「人捜しの旅の者と聞いています。剣士と、その連れが二人。北方の巻を調べたいと言ったのは剣士で、私は制度の正しさを見せたくて、書役に巻を出させました。……欠けを見つけたのは、私です」
「制度の正しさ」
大所長は、その言葉を繰り返して、筆を置いた。
「巡察どの。あの巻は、閣下の立会の巻です」
「はい」
「閣下がお立ち会いなされた誓いの写しは、閣下の裁可なくして開かぬ習いです。私の口から、在る、無い、を申すことも、その裁可の内に入る。……ですから、私はこう申すほかない。棚は、閉まっております」
「在る、とは仰らないのですね」
言ってから、しまったと思った。思ったが、取り消さなかった。
大所長は、笑った。小さな目が、いっそう細くなった。
「閉まっている棚のことは、閉まっている、としか申せません。開いている棚のことなら、幾らでも申しますが」
机の端に、綴りの目録が開いたまま置いてあった。北方の棚の目録だ。セシルの目は、規程の外で、勝手にそこへ落ちた。北方、盟約、冬。写し、一綴、収蔵。その一行の墨は、上下の行より黒かった。古い頁の中で、その一行だけが、去年か今年に書かれた墨の色をしていた。
大所長の手が、目録を閉じた。
「お目がよろしい。騎士団では美徳でしょうな。……大所では、目より手が要ります。綴じる手が。閉める手が」
「大所長」
「団長から、下命が下りています」
大所長は帳面を懐に戻して、先を続けた。
「巡察のセシルは、大祭の初めの三日、閣下の警固に加わること。照会の件は、閣下がお下りののち、私から閣下へ上げます。それまで、下へ降りるのは控えられたい。……閣下の御前に立つ騎士が、素性の知れぬ旅の者と連れ立って歩くのは、見栄えがよくない」
「素性の知れぬ、と仰いますが。私も、あの方々の素性を知りません」
「それは、結構」
大所長は立ち上がって、戸を開けた。話は終わりだ、という戸の開け方だった。セシルが辞儀をして出かけると、背中に、柔らかい声が来た。
「巡察どの。誓いは失われない、と教本にありますな」
「はい」
「あれはね、棚が閉まっているからですよ。……開ける手が多いほど、失われる」
戸が、閉まった。
◇
写字の間を抜けて前庭に出ると、届けの列はさらに延びていた。
セシルは列の脇を歩きながら、自分の手を見た。右手は震えていない。震える理由がない。命令は下り、照会は上がり、棚は閉まった。何ひとつ、規程の外で起きていない。
起きていないのに、目が、あの一行の墨から離れなかった。
閉まってる棚の中身は見えなくても、閉めようとする手は見える——旅籠の戸口で、あの女はそう言った。閉めた手を、見た。墨の黒い一行を書いた手。話のたびに帳面へ書きつける手。目録を閉じた手。あの人は、棚を閉めるたびに、自分の帳面を開く。
控えられたい、と大所長は言った。
禁じられてはいない。控えろ、は禁止の語ではない。規程の第何条にも、控えられたい、という文言は存在しない。セシルは自分がその文言を、誓いの言葉を検めるように一語ずつ検めていることに気づいて、少し呆れた。剣士なら、きっとこうする。あの人は、言葉を言葉のとおりにしか読まない。
日が傾いてから、セシルは参道を下りた。
◇
旅籠の裏の井戸端で、三人は、いつもの席にいた。
姉御肌の女は杯を手に、大男は井戸の縁に、剣士は机の向こうに。セシルが来るのを、誰も驚かなかった。驚かれなかったことに、セシルのほうが少し驚いた。
「降りるなと言われたんだろ」
マグダが、杯を置きもせずに言った。
「控えられたい、と言われました。禁じられてはいません」
「……その減らず口、誰に習った」
「教本には、載っていません」
マグダは鼻を鳴らし、大男の肩が揺れ、剣士は何も言わずに、セシルの前に白湯を置いた。
セシルは、話した。閣下の立会の巻であること。閣下の裁可なくして開かぬ習い。在る、無い、は口にできぬこと。棚は、閉まっております、の一言。大祭の初めの三日、閣下の警固に加わるという下命。素性の知れぬ旅の者と歩くな、という言い方。それから、戸が閉まる間際の一言。誓いが失われないのは棚が閉まっているからで、開ける手が多いほど失われる、と。
剣士は、黙って聞いていた。聞き終えてから、ひとつだけ訊いた。
「目録は、見ましたか」
「見ました。……北方、盟約、冬。写し一綴、収蔵。その一行だけ、墨が新しかった。上下の行より、黒く」
「墨が」
「去年か、今年の墨です。頁は、古い頁でした」
「……墨は、年が経つと茶色くなります」
井戸の縁から、大男が言った。ただ、知っていることを言う声だった。
「荷札で、見ました。古いのは茶色で、新しいのは黒い」
剣士の指が、机の上で、一度だけ動いた。動いて、止まった。
「……それから」
「あの人は、私の答えを、ひとつ聞くたびに、自分の帳面に書きつけていました。懐の、小さな帳面です。棚の綴りではなく、自分の帳面に」
マグダが、杯を持ったまま、目を細めた。
「棚の番人が、自分の棚を持ってるのかい」
「そう見えました」
「そりゃ、いい目だ」
マグダは、それきり何も言わなかった。言わないかわりに、杯を干して、酒壺を引き寄せた。剣士は、まだ机の一点を見ていた。
「閣下の裁可、と言ったのですね」
「はい」
「閣下は、二日後に来る」
「はい。私は、その警固に立ちます」
剣士は顔を上げて、セシルを見た。琥珀の目が、燭台の火を受けている。
「では、閣下の顔を、あなたが先に見る」
「……見て、どうしろと」
「どうもしなくていい。ただ、見てきてください。あなたの目で」
あなたの目で、と言われたのがどういう意味かは、訊かなくても分かった。
◇
大祭の前日、王都の一行は、日が傾くころに着いた。
セシルは外郭の門の内側、警固の列の三番目に立っていた。同僚の二人が両隣にいる。三人での巡察がひと月余り、そのあとの祭りの町と丘の上で、また半月あまり。同じ列に並ぶのは久しぶりだった。年嵩の同僚が、前を向いたまま、口の端で言った。
「セシル。徽章が、朝より光っている」
「磨きました」
「四度目か」
「五度目です」
角笛が、参道の下から上がってきた。客を告げる吹き方だ。門前の町がざわめき、警固の列が背筋を立て、外郭の門の上で旗が揺れた。教会の旗の隣に、もう一本。黒地に、銀。
先触れの騎馬が二騎、門を駆け抜けた。半刻も経たずに、本隊が現れた。
黒塗りの馬車が三両。前後を固める護衛の兵は、揃いの黒い装備で、足並みに乱れがなく、無駄口のひとつもない。よく仕込まれた兵だ、とセシルは思った。思ってから、もうひとつ気づいた。あの兵たちは、旗を見ていない。聖堂も見ていない。門前の町の人垣だけを、順に見ている。
門の内側で、団長と大所長が並んで待っていた。団長は白の礼装。大所長は、朝と同じ墨の染みた指を、袖の中に揃えている。
先頭の馬車が止まり、扉が開いた。
痩せた人だった。総白髪を後ろへ流し、黒い官服の襟を正しく合わせ、年は六十を幾つか越えているだろう。立ち姿に、余分なところがひとつもない。団長が礼をし、大所長が頭を下げ、その人が短く応えた。
「ご苦労」
平らな声だった。どこまでも平らで、上下がなく、聞いた者の耳に何も残らない声。それなのにセシルは、その一言が、自分の徽章の上を通って行ったのが分かった。
誓約主。王国の誓約のいっさいを統べる人。教典の一頁目に、名ではなく呼び名で書かれている人。
その人の目が、警固の列を、端から順に通っていった。
薄い灰の目だった。セシルの徽章の上で、目は止まらなかった。止まらずに、列の端を過ぎ、門の脇へ流れた。門の脇には寄進所がある。板の間に筆耕が三人、目録を写す手を止めて、頭を下げている。
その真ん中の、亜麻色の頭。
剣士どのが、頭を下げていた。
深く、額が板につくほどに。棚の欠けを見て、驚きもしなかったあの人が、いま、板の間の一枚に目を落として、動かない。
薄い灰の目が、寄進所の上を、通り過ぎた。
通り過ぎて——一呼吸だけ、戻った。
戻って、また流れた。誓約主は大所長に何かを短く言い、大所長が深くうなずき、行列が門の内側へ動きはじめた。黒い装備の兵が、人垣を見ながら続く。馬車の車輪が、白い石の上で乾いた音を立てた。
セシルは、規程どおりに立っていた。
立ったまま、目だけが、寄進所の亜麻色の頭に戻っていた。剣士は、まだ顔を上げない。行列の最後の馬が門を抜けるまで、上げなかった。
あの人があれほど深く目を伏せるのを、セシルは初めて見た。
大祭まで、あと一日だった。




