間話 レイフの手記・旅の六年目「秋、としか」
——秋。マグダさんが、自分の銭で、酒を買った。
◇
マグダが、酒を買った。
それだけなら、珍しくもない。マグダは毎晩呑む。呑む酒は、たいてい宿の安酒で、宿の勘定に載る。たまに市で壺を買うこともあるが、それは三人の飯の分と一緒に、エルドが値切って買う。マグダが、自分の財布から、自分の銭を出して、自分のために酒を買うことは——
「……ない」
エルドが、宿の戸口で、低く言った。
旅の六年目の秋。中部の、川沿いの宿場だ。市の日で、エルドは買い出しから戻ったところだった。籠の中には、いつもの青物と、いつもの塩と、それから、いつもと違って、酒がない。
「ないとは」
「マグダが、酒を買った。自分の銭でだ。市の酒屋で、値切りもせずに、言い値で。……俺の目の前で」
レイフは、薪を割る手を止めた。
値切りもせずに、言い値で。それは、この五年、マグダが一度もしていないことだった。エルドが値切りでマグダを追い越したあとも、マグダ自身の買い物は、マグダが値切る。それが、言い値で酒を買った。
「……何の酒です」
「南の葡萄の。壺で。……高い」
「今日は、何かあるのですか」
「訊いた」
「何と」
「今日は、あたしの日だ、と」
エルドは、籠を置いた。
「それだけだ。何の日かは、言わない。訊いても、言わない。二度訊いたら、笑って、酒屋の店先で、壺を抱えてどこかへ行った」
レイフは、斧を薪の台に立てかけた。
あたしの日。マグダが、自分の日と呼ぶ日。
それが何なのか、レイフには、ひとつだけ心当たりがあった。心当たりがあるのは、帳面のせいだ。
◇
帳面は、革袋の底にあった。
一冊目と、二冊目。レイフは宿の物置きの隅で、それを膝に広げた。エルドは、隣には座らなかった。戸口の柱に背を預けて、立っている。何を書いている、と訊くことはあっても、この人は帳面を覗かない。見せろと言われたことも、一度もない。
「……何を探している」
「秋です」
一冊目の、秋の頁。旅に出た年の秋だ。数と天気しか書いていない頁が、ずっと続く。魚の数。薪の数。雨。晴れ。その中に、一行だけ、違うものがあった。
——マグダさんが、酒を買った。自分の銭で。壺。
旅の一年目の秋だ。なぜ書いたのかは、もう覚えていない。ただ、珍しかったのだと思う。
二冊目を繰った。二年目の秋。三年目の秋。四年目の秋。五年目の秋。
全部に、あった。
——マグダさんが、酒を買った。自分の銭で。
——マグダさんが、酒を買った。自分の銭で。今年も、秋。
——秋。マグダさんの酒。値切らなかった。
日は、ばらばらだった。初めの頃はまだ暑い日で、ある年は木の葉が落ちきってからだった。だが、全部、秋だ。五年、一度も欠けていない。
レイフは、帳面から顔を上げた。
「書いてあります。マグダは毎年、秋に一度、自分の銭で酒を買っています。値切らずに。旅の一年目から、ずっとです」
エルドが、柱から背を離した。
「……誕生日だ」
「はい」
「マグダの、生まれた日だ。秋に。……自分で、自分に、酒を買っている。誰にも言わずに」
「日は、分かりません。年によって、違います」
「秋、としか、分からないわけか」
エルドは、しばらく黙っていた。それから、ふ、と息を抜いた。
「……おまえの誕生日と、同じだな。日が、ない」
「俺のは、村で数えなかったからです。マグダのは——」
「言わないからだ」
レイフは、帳面を閉じた。閉じて、革袋の底へ戻した。
「五年、言わなかった。……言えば、祝われる。祝われるのが、あの人は、たぶん嫌なんだ」
「では、どうします」
「祝う」
エルドは、立ち上がった。
「嫌がるのは、あの人の勝手だ。祝うのは、こちらの勝手だ。……マグダが、そう教えた。付き添うほうは、誰にも縛られていない、と」
橋守の爺様の村で、マグダが言った言葉だ。二年前の夏。レイフも、覚えている。あれは、誓いの話だった。だが、この人は、それを、誕生日の話に使うつもりらしい。
◇
エルドは、市へ引き返した。
レイフは、薪の残りを割って、それから、削り屑の山の中から、いちばん目の詰んだ薪を一本、選び出した。樫だ。乾いていて、節がない。
小刀を出して、削りはじめた。
削るのは、得意だ。木剣を二本、この小刀で削った。あれは旅に出る前の春だった。マグダが「傭兵より木地師のほうが向いてる」と減らず口を叩いた。あの木剣は、いまも稽古に使っている。
今日削るのは、剣ではない。
杯だ。
マグダは、野外でも木の杯で呑む。壺から直に呑まない。宿でも、自分の杯を出す。その杯は、拾われた頃から同じもので、縁が欠け、内側が黒ずみ、それでもマグダは手放さない。手放さないのは、たぶん、ほかに杯がないからだ。ほかに杯がないのは、たぶん、自分のために杯を買わないからだ。
自分のために買うのは、年に一度、秋の酒だけ。
レイフは、樫を削った。外を丸く、内を深く。縁は厚めに。落としても割れないように。それから、手に馴染むように、握りのところを少し細く。マグダの手の大きさは、知っている。五年、その手が杯を持つのを見てきた。
日が傾く頃に、杯はできた。
仕上げに、内側を、油を含ませた布で磨いた。木の目が、艶を出した。悪くない、と思った。木地師のほうが向いている、と言われたことを、少しだけ思い出した。
◇
エルドは、日暮れに戻ってきた。
籠の中に、卵が三つ。それから、市の菓子屋の、蜂蜜をかけた麦の菓子がひとつ。ひとつだけだ。
「……ひとつ、ですか」
「三つ買うと、三人で食うことになる。ひとつなら、あの人が食う」
理屈だ、とレイフは思った。この人の理屈は、だいたい正しい。
マグダは、夜になっても戻らなかった。
戻ってきたのは、宿の下の酒場が静かになってからだった。酒の壺を抱えていて、顔が少し赤い。どこかで、一人で呑んでいたのだ。呑んで、それから、宿へ戻ってきた。
物置きの戸を開けて、マグダは、足を止めた。
床に、三人分の椀が並んでいた。汁物だ。エルドが作った。作ったといっても、宿の鍋を借りて、宿の汁を分けてもらって、そこに卵を落としただけだ。卵は、三つ。マグダの椀に、三つとも。
椀の脇に、蜂蜜の菓子がひとつ。
その脇に、樫の杯がひとつ。
マグダは、戸口に立ったまま、それを見ていた。
「……何だい、これは」
「祝いです」
エルドが、言った。
「今日は、あなたの日だと伺いました。……日は、分かりません。秋、としか。ですが、今年は、今日にします」
「誰が決めた」
「私が」
「あんたが決めるのかい、あたしの日を」
「レイフの誕生日も、私が決めました。あなたに文句を言われた覚えはありません」
マグダは、壺を抱えたまま、しばらく黙っていた。
黙って、それから、床の椀を見た。卵が三つ浮いた汁。蜂蜜の菓子。樫の杯。
「……卵、三つは、入らないよ」
「入っています」
「入ってるね」
マグダは、壺を床に置いて、腰を下ろした。下ろして、樫の杯を、手に取った。
握りのところを、指で確かめた。縁を、親指でなぞった。内側の、油で磨いた木の目を、灯りにかざして見た。
「……でかいの」
「はい」
「あんたが削ったのかい」
「はい」
「……木地師のほうが向いてる、って言ったろ」
「言いました」
マグダは、それきり、何も言わなかった。
言わずに、自分の壺の栓を抜いて、樫の杯に注いだ。南の葡萄の酒だ。杯の内側で、酒が、木の目の色に沈んだ。マグダは、それをひと口、呑んだ。
「……味は、変わらないね」
「はい」
「変わらない。……変わらないよ、これは」
二度言った。二度目のほうが、少し、声が低かった。
◇
汁は、三人で食った。マグダは、卵を三つとも食った。菓子は、マグダが食った。半分にして、残りをエルドに押しやろうとして、エルドが押し返し、レイフが横から、俺は要りません、と言った。マグダは、結局、全部食った。
「……で。あんたたち、どうやって秋だと知った」
「帳面です」
レイフは、正直に答えた。
「五年、秋になると、マグダが自分の銭で酒を買います。……書いてあります。全部」
「書いてあるのかい」
「はい。数と天気しか書いていない頃から、それだけは」
マグダは、樫の杯を持ったまま、レイフを見た。それから、エルドを見た。エルドは、行儀よく汁を飲んでいた。
「……油断ならないね、この家は」
「家、ですか」
「言い間違いだよ」
マグダは、杯を干した。
「言っとくけどね。日は、教えない。秋、としか。……教えたら、あんたたちは毎年、日を数えて待つだろう。それは、ごめんだ」
「毎年、秋に、祝います」
エルドが、言った。
「日は、あなたが決めてください。決めない年は、私が決めます」
「勝手にしな」
マグダは、そう言った。そう言って、笑った。減らず口の笑い方ではなかった。かといって、あの人が時おり見せる、何かを閉めた顔でもなかった。ただの、笑い方だった。
◇
夜、レイフは炭を削った。
帳面の、今日の頁。書くことは、多かった。
書きながら、レイフは、五年前の一冊目の頁を思い出していた。数と天気しか書かなかった頃に、なぜ、マグダの酒の一行だけを書いたのか。自分でも、分からない。分からないが、書いておいてよかった、と思った。書いておかなければ、秋だということも、分からなかった。
書いたものは、書いた奴より長生きする。
マグダが、インク壺と一緒に、そう言った。あの言葉は、たぶん、こういうことだ。書いた本人が忘れても、書いたものは、覚えている。俺が忘れても、帳面が覚えている。
レイフは、最後の一行を書いて、帳面を閉じた。
◇
——マグダさんの生まれた日は、秋、としか。今年は、今日にした。主が決めた。
——卵、三つ。菓子、ひとつ。杯、ひとつ。
——マグダさんは、杯を、革袋にしまった。古いほうは、捨てなかった。




