第26話 パン屋の娘
門前の町でいちばん古い窯は、外郭の門から数えて三つ目の角にあった。
石を積んだ低い窯場で、朝は夜明け前から煙を上げる。大祭の供えのパンを焼く窯だと、町の者は誰でも知っている。総本山の御用を務めて幾代、という看板は出ていない。出すまでもないからだ。
エルドは、毎朝そこでパンを買っていた。
三人ぶんの買い出しは七年来の受け持ちで、丘の上に上がってからも変わらない。丸パンが三つ。値切りはしない。御用のパンは値が決まっていて、決まった値を値切るのは、値切りではなくただの無作法だ。かわりに、エルドは毎朝、包みの紙を見た。
パンを包む粗い紙に、炭で絵が描いてあるのだ。
最初の朝は、聖堂だった。窯場の窓から見上げた角度の、屋根の重なり。二日目は参道の石段と、荷を担いだ巡礼の背中。三日目は、丘の上を回る鳥だった。線は少なく、迷いがなく、紙の端まで使っていない。描いたあとで包みに回されたのではなく、包みに回される紙に、描いてある。
描いているのは、パン屋の店に立つ娘だった。
十六か、十七か。粉で白くなった手の、指の先だけが炭で黒い。エルドが包みの絵を見ているのに気づくと、娘は決まって紙を裏返して渡した。今朝は、裏返す手が少し遅れた。鳥の絵が、エルドの目に半分だけ入った。
「……上手い」
言うつもりはなかった。口が勝手に動いた。娘は紙を裏返しきって、パンを押し出し、銅貨を受け取って、それきり顔を上げなかった。耳が赤かった。
◇
大祭が近づくにつれ、窯場は忙しくなった。
供えのパンは、大祭の五日ぶん、何百と焼く。窯の煙は朝から晩まで絶えず、店の前には寄進所の使いや宿坊の下働きが列を作った。娘は粉と炭にまみれ、その母親——痩せて、目の鋭い、窯場の女将だ——は、娘に絵を描く暇を与えないつもりらしく、包みの紙は、供えの支度が本式になった日から、ただの紙になった。
一度だけ、女将が娘の炭で黒い指を、自分の前掛けで拭うのを見た。拭って、何も言わずに窯へ戻った。叱ったのか、それとも別のことなのか、エルドには分からなかった。
それから幾日かたった朝、娘が、パンと一緒に小さな包みを差し出した。
「……外れの先生のところへ。頼まれたんです。届けてもらえませんか。あなた、あの家へ行くでしょう。垣を直した人の、連れの」
老学者の家のことだ。レイフが杭を打ち直した垣は、この町ではちょっとした話の種になっているらしい。エルドはうなずいた。
「行きますが。……あなたは、行かないのですか」
「行けないので」
娘は、それだけ言った。行かない、ではなかった。行けない、だった。その言い方をエルドは知っている。堰に手を出せない村の長も、言えない言葉を抱えた典礼官も、同じ種類の言い方をした。
「行けない、とは」
娘は、粉だらけの手を前掛けで拭いた。拭いてから、初めてまともにエルドの顔を見た。
「見たいですか」
◇
門前の町の外れは、寄進の旗も飾り紐も途切れて、畑と石垣と小さな家が並んでいる。
娘は、店の前掛けのまま、エルドの一歩前を歩いた。歩き方は、普通だった。少し急いでいる者の歩き方だ。畑が始まり、石垣が始まり、道が緩く下りにかかる。老学者の家の垣は、もうすぐそこだった。
娘の足が、止まった。
つまずいたのでも、立ち止まったのでもない。前へ出ようとした足が、前へ出なかった。膝から下が、道に縫いつけられたように動かない。娘は、その足を見下ろした。見慣れたものを見る目だった。
エルドは、振り返った。
町のほうを見ると、家々の屋根の間に、窯の煙が細く上がっていた。娘の立っている場所から、その煙は、ぎりぎりで見える。一歩先へ出れば、屋根に隠れる。
「……煙の、見える所まで」
「はい」
娘は言った。
「窯の煙が見えなくなる所で、足が止まります。物心ついたときからです。町の者は、うちの呪いと呼びます。母は、うちの窯と呼びます。……六代前の当主が、総本山の御用を貰うときに、誓ったのだそうです。この窯の火を絶やさず、大祭の供えの麦を焼く。我が血は代々、この窯を離れぬ、と」
娘は前掛けの胸元に手をやって、襟を、指の幅ほどだけ下げて見せた。
鎖骨の下に、紋があった。薄青い、麦の穂を一本、横に寝かせたような紋だ。線は細く、古く、皮膚に馴染みきっている。娘は襟を戻した。
「登録は、大所にあるそうです。六代前の、麦の穂の誓い。母は、それを誇りにしています。御用の窯は、この町に一つしかありませんから」
「あなたは」
「私は、絵を描きたいんです」
言ってしまってから、娘は少し笑った。何度も自分で確かめた言葉を、初めて人に出した者の笑い方だった。
「二年前の大祭に、王都から絵師の一行が来ました。聖堂の壁の、聖なる絵を直す人たちです。その一人が、私の包みの絵を見て、王都へ来い、と言いました。弟子にする、と。……私は、その人たちの荷車について、ここまで来ました。ここで足が止まって、荷車は行ってしまいました」
石垣の上を、風が渡っていった。
「それから、私は、ここから見えるものだけを描いています。聖堂と、参道と、鳥です。……鳥は、行けるので」
◇
その日の午後、エルドは寄進所の席で、目録を写しながら考えていた。
断つのは、最後だ。堰の村ではそうした。誓いの言葉を検め、言葉の外に道を探した。あの村の誓いには、外があった。
麦の穂の誓いの言葉を、頭の中で並べ直す。この窯の火を絶やさず。大祭の供えの麦を焼く。我が血は代々、この窯を離れぬ。——外が、ない。娘が絵を描くことを、誓いは縛っていない。だが、娘が窯を離れることを、誓いは縛っている。絵師の弟子は王都にいて、王都は煙の見える所にはない。窯を壊せば誓いは前提を失って解ける。それは娘の家から御用と暮らしを取り上げることで、エルドが決めていいことではなかった。
値切れない。
筆が止まりかけて、動かした。
血の誓約——先代の結んだ誓いが血筋に残る、という話は、聞いたことがあった。呪いと呼ぶ土地もある。実物を見たのは、今日が初めてだった。六代前の誓いが、六代あとの胸に浮いている。誓った者は、とうに土の下だ。……誰も誓った覚えがないのに、と老学者は言った。あの問いが、胸の底で一度だけ動いた。
もうひとつ、考えなければならないことがある。断てば、紋は焼き切れる。焼き切れた紋の意味を知る者は、この国に多くはない。だが、いないわけではない。丘の上には教会の目があり、二日後には大所長の戸が開き、その先には——王都から下る人がいる。娘の胸元に焼き切れた穂が残れば、それは、この町に断てる者がいた、という印になる。
そして、払いだ。
断てば、忘れる。何を持っていかれるかは、自分では選べない。川の日の魚と、拾われた晩と。次が何かは、レイフの帳面を見るまで分からない。見ても、分からないかもしれない。
筆を置いて、エルドは自分の右手を見た。
あの娘のために、自分は何を払う気があるのか。答えは、考えるより先に出ていた。七年前の雨の軒下で、追い立てに来た女が、厄介だと分かっていて三歩戻った。あの女に拾われた自分が、煙の見える所で足の止まる娘を見て、値切れないから、と目録の写しに戻れるなら——それは、あの三歩を貰った者のすることではなかった。
夕方、写しを上げて席を立った。
◇
娘は、窯場の裏の井戸で、粉の手を洗っていた。
「ひとつ、伺います。……あなたの足が止まらなくなるとしたら、あなたは、どうしますか」
娘は、手を洗う手を止めなかった。
「王都へ行きます。……いいえ」
水が、桶の縁からこぼれた。
「分かりません。行くかもしれないし、明日も窯に立つかもしれない。母は、私が窯にいることが幸せだと思っています。私が絵を描いていると、包みの紙を窯にくべます。……でも、母は、私の足が止まるのを見て、一度だけ泣きました。二年前、荷車が行ってしまった日に」
「分からない、で構いません」
エルドは言った。
「行くか、留まるかを、あなたが決められるようになる。それだけのことです。それ以上のことは、私にはできない」
娘は、桶の水を捨てて、こちらを向いた。目の鋭さは、母親譲りらしい。
「あなた、何者ですか」
「筆耕です。……それから、誓いを断てる者です。これまでに、二つ」
「断てる」
娘の声が、小さくなった。この国で、その言葉の重さは、子どもでも知っている。誓いは破れない。破れないから、誓いなのだ。
「焼き切れた紋が、残ります。誰にも見せないでください。断ったのが誰かも、言わないでください。……それを、約束していただけますか」
「誓います」
「誓わなくていい」
思ったより強く言ってしまって、エルドは息を整えた。誓えぬことを軽々しく口にするな。父の声が、まだそこにあった。
「約束で、いい。約束は、破れます。破れるほうを、私は信じたい」
娘は、少しの間、エルドを見ていた。それから、うなずいた。
「約束します。……切ってください」
「日暮れに、町の外れの石垣へ。……もう一人、連れて行きます。女の人です。あなたの襟のために」
娘は少しだけ目を伏せて、はい、と言った。
◇
日が丘の向こうへ傾くころ、二人は町の外れの石垣まで戻った。
娘の足は、今日も同じ所で止まった。エルドは町のほうを一度見て、煙がまだ見えることを確かめた。レイフは道の口に立って、町のほうを向いている。人が来れば分かる。
マグダは、先に来て石垣の上に腰を下ろしていた。昼のうちに頼んであった。何も訊かずに来て、娘とエルドを順に見て、あたしは見てるだけだよ、とだけ言った。
「襟を」
娘が襟を開いた。麦の穂が、夕方の光の中に出た。
エルドは、二本の指を、鎖骨の下の紋の手前で止めた。
張りつめた細い糸——のはずだった。夜番の男も、典礼官も、そうだった。指に引っかかる、硬い糸。
違った。
指の腹に触れたのは、糸ではなく、綱だった。太く、古く、冷たい。六代ぶんの重さで撚られた綱が、娘の胸の内側を通って、どこか遠くの窯へ繋がっている。指では、掴めない。掴めないものを、手が知っていた。エルドは指を開いて、掌を当てた。綱は、掌の中を川のように流れた。流れるものを、握った。握って、引いた。いや——断った。
ぷつり、ではなかった。
もっと低い音がした。太い綱が切れるときの、鈍い、重い音だ。しないはずの音が、身体の内側で鳴って、娘の紋が、内側から赤く透けた。麦の穂の線が、穂先から根元へ、順に赤らんだ。赤らんで、黒ずんで、灰になった。細かな灰ではない。太い縄が燃え落ちたあとのような、粗い灰だ。匂いも、藁ではなかった。古い縄を焼いた匂いだった。肌に火ぶくれひとつ残さず、穂は焼き切れて、あとには白い線が残った。細くはない。六代ぶんの太さで、鎖骨の下に横たわる白い線だった。
目の奥が、翳った。
今度は、一瞬では済まなかった。夕方の道が暗くなり、暗いまま、三つ、息を数えた。膝が、石垣の下の土についた。ついたことに、あとから気づいた。誰かの手が肩に置かれていた。マグダの手だった。
「……ちび」
「大丈夫です」
声は出た。目も、戻った。エルドは自分の手を見た。震えていなかった。震えなくなった日のほうが怖い、とマグダは昔言った。あれは剣の話だった。この手が何の話なのかは、まだ分からない。
娘は、自分の胸元を見下ろしていた。
見下ろして、襟を戻して、足を見た。それから、一歩、前へ出た。
出た。
娘は自分の足を見た。もう一歩、出した。三歩目で、屋根の陰に、窯の煙が隠れた。四歩目。五歩目。娘は走らなかった。ゆっくり歩いて、十歩ほど行ったところで振り返り、町を見た。煙は、見えない。娘は、そこに立っていた。立って、笑って、それから前掛けの端で目を拭った。
「……何も、変わらない気がします」
娘は言った。
「足が、軽いだけで」
変わったことは、本人には分からない。分かるのは、外から見ている者だけだ。エルドは石垣に手をついて立ち上がった。娘は石垣の外の道を、もう少しだけ歩いて、また戻ってきた。戻ってきて、エルドの前で足を止めた。止まったのは、娘が止めたからだった。
「明日、母に言います。……窯は、分かりません。焼きたい日は、焼きます。焼きたくない日のことは、そのとき考えます。絵は、描きます。それだけは、もう分かっています」
「それでいい」
「あなたは」
娘は、エルドの顔を見た。
「何を、払ったんですか」
「……さあ」
本当のことだった。
娘は、しばらくエルドの顔を見ていた。それから、口を開いた。
「私の名は——」
「聞きません」
エルドは言った。
「断ったのが誰かを、言わないでください、と頼みました。……私も、あなたの名を持たないほうがいい。持っていれば、いつか、誰かに訊かれます」
娘は口を閉じた。閉じて、うなずいた。
「じゃあ、絵で覚えて」
前掛けの下から、四つに畳んだ粗い紙を出した。包みに回すはずの紙だ。
「一枚だけ、取っておいたんです。……包みにしないで」
鳥が、一羽。行けるほうの、鳥だ。エルドは、それを懐に入れた。
◇
娘が町へ戻っていくのを、三人は石垣の脇から見送った。
丘の上を、大きな鳥がひとつ、ゆっくり輪を描いていた。鳶だろう。羽ばたきもせず、風に乗って、聖堂の屋根の上を回っている。エルドは、それを目で追った。
追って、それだけだった。
口は、開かなかった。
レイフが、道の口から歩いてきていた。鳥を見上げ、それから、エルドを見た。少し後ろで止まる。何も言わない。言わないまま、その手が革袋の紐にかかって、止まった。
鳥は輪を描き終えて、丘の向こうへ流れていった。エルドは目を戻した。マグダが、こちらを見ていた。石垣の上から、酒場で嘘つきの手元を見るときの、あの目で。
「ちび」
「はい」
「あんた、いくつ払った?」
エルドは、答えなかった。
答えないのではなく、答えがなかった。川の日の魚と、拾われた晩と、今日の分と。三つ、と言えばいい。言えば嘘になる気がした。三つかどうかは、帳面を見るまで分からない。見ても、分からないものは、数に入らない。
マグダはそれ以上訊かなかった。石垣から降りて、外套の裾を払い、町のほうへ歩き出す。すれ違いざま、低い声だけが落ちてきた。
「いいことをした顔だね、あんた。……それだけは、覚えときな」
レイフの手は、まだ革袋の紐の上にあった。書くのは、宿に戻ってからだ。
◇
夜、旅籠の部屋で、炭の音がしていた。
エルドは寝床に横になって、天井を見ていた。あの娘は、選べる。明日、窯に立つことも、立たないことも、絵を描くことも、いつか王都へ行くことも。選べる、ということが、娘の手に戻ったのだ。取り上げられていた分が、持ち主に。
自分が払ったものは、戻らない。
それでいい、と思えるかどうかは、まだ分からなかった。分からないまま、いいことをした顔だ、というマグダの声だけを、枕の下に置いた。
炭の音が、一度止まった。
「……レイフ」
「はい」
「何を書いている」
「今日のことを」
いつもの答えだった。いつもの答えの、少し後で、レイフは付け足した。
「それから、明日、訊きます。……残っているものを、ひとつずつ」
「ああ」
炭の音が、また始まった。
あの騎士どのが棚の前に立つ朝を、エルドは天井の向こうに数えた。丘の上の棚には、六代前の麦の穂の誓いが綴じられている。今日、その誓いは、この世からなくなった。棚の頁は、それを知らない。
知らない頁が、あの棚には、いくつあるのだろう。




