第25話 紋の消えた手
出頭は、待たされるところから始まった。
夜明けとともに宿舎を出て、聖堂の裏手にある登録大所の戸を叩いた。応対に出た書役は丁寧だった。出頭命令の書き付けを検め、頭を下げ、そして言った。
「大所長がお会いになるのは、三日後の朝でございます。恩赦の届けが、山になっておりまして」
写字の間の奥を見れば、たしかに山だった。長い机に書役が七人、綴りの束に埋もれるようにして筆を動かしている。借財の誓いに縛られた者の届けと、その誓いの登録との突き合わせだ。
「三日後、ですね」
「はい。それまでは、宿舎でお待ちを」
机の端で、年嵩の書役が綴りを閉じながら、若い書役に言った。
「閣下がお着きになる前に、届けの綴りは二度検めよ、との仰せだ。二度だぞ、二度」
「はい」
壁際では、学僧が一人、墨を磨っていた。大所の中は、恩赦の届けと、閣下という一語とで、隅々まで張りつめている。
セシルは礼を言って、大所を出た。
待つ、というのは、規程の中でいちばん苦手な務めだ。装備は数えられる。人相書きは直せる。騙りは追える。閉まった戸の前で三日というのは、数えようも直しようもなかった。
◇
午後、セシルは参道を下りた。
宿舎で待て、と書役は言った。だが宿舎で待つことと、答えを届けることは、別の話だ。照会の答えが出たら聞かせてほしい、とあの剣士に言われて、ええ、と答えたのは自分だった。三日後まで答えは出ない。それも、答えのうちだ。
門前の町は、大祭の飾りで日ごとに色を増していた。旗と、飾り紐と、寄進の荷車。人足の列が通りを埋め、宿坊はどこも満ちているという。その喧騒の脇、外郭の門の脇の寄進所を覗くと、いつもの席に亜麻色の頭があった。目録を写す筆が止まらないので、セシルは戸口の柱にもたれて待った。待つのは苦手だが、筆の音を聞いているのは、なぜか苦にならなかった。
机の端に、パンの包みの紙が一枚、畳んで置いてある。粗い紙の隅に、炭で鳥が一羽、描いてあった。線は少なく、迷いがない。
日が傾いて、筆耕たちが席を立ちはじめた。剣士は写しの束を隣の筆耕に渡し、硯を拭き、こちらを見た。
「……騎士どの。出頭したのでは」
「しました。三日後だそうです」
それだけで通じたらしい。剣士は少しの間、参道の上のほうへ目をやってから、うなずいた。セシルは、机の端の紙に目をやった。
「……鳥ですね」
「パン屋の娘が描いていたのです。毎朝、違う絵を」
剣士は立ち上がった。
「歩きながら、伺います」
◇
寄進所を出て参道を少し下った、最後の折れのところに、道端の石がある。
登ってきた者が息を整える石だ。門前の町がすぐ下に見え、その先で丘の斜面が落ちて、遥か下に川と、祭りの町の屋根が小さく見える。夕方の光の中で、川は細い糸のようだった。
セシルは石に腰を下ろした。剣士は立ったまま、川を見ている。
「三日後の朝、大所長にお会いします。恩赦の届けで手一杯だと。……嘘ではないでしょう。写字の間は、本当に山でした」
「嘘ではない、と」
「嘘ではありません。ただ、山の中に、私の照会もある。答えるのを急ぐ理由が、あの人には無い。……それだけのことです」
言いながら、自分の声が硬いのが分かった。剣士は何も言わなかった。責めもしないし、慰めもしない。この人のその黙り方に、セシルは少し慣れてきていた。
「ひとつ、伺っても」
剣士が言った。あの詰所の焚き火で、セシルが同じ言葉で切り出したのを、この人は覚えているのだろうか。
「あなたは、なぜ騎士になったのです。……教本の申し子、と先生は仰った。教本に、そう育つと書いてあったわけではないでしょう」
セシルは、自分の右手を見た。
手の甲に、薄青い小さな紋がある。叙任の誓紋だ。三年前、この丘の上で授かった。剣を執る側の手に浮くのだと、見習いのころに習った。
「父の話を、してもいいですか」
「どうぞ」
「父は、南の小さな領家に仕える騎士でした。下級の、というのが付きます。城ではなく館の、館ではなく屋敷の、その門を守る騎士です。……父の右手には、私のこれより濃い紋がありました。臣従の誓紋です。私は幼いころ、その紋を撫でるのが好きでした。父はそのたびに、これは撫でるものではない、と言って、それでも、撫でさせてくれました」
川の上を、風が渡っていった。
「私が十四の秋に、その領家の当主が亡くなりました。病です。跡継ぎはなく、家は解かれました。……誓いは、前提を失うと解ける。仕える相手がいなくなれば、忠誠の誓いは、対象を失って失効する。教本の、確か三十七頁です。私はその頁を、教本で読む前に、父の右手で読みました」
「薄れた」
「薄れました。焼けたのではありません。三日かけて、静かに。私は毎朝、父の手を見ました。三日目の朝には、何もなかった。父は、紋の消えた手を、それから袖の中に入れるようになりました。人前でも、家の中でも」
セシルは、自分の右手を握った。
「紋が消えると、恩恵も消えます。父は、門を守るために鍛えた身体で、荷運びの口を探しました。見つからない日のほうが多かった。母は縫い物を請け、私は、母を手伝いました。……十五の冬に、教会が見習いを募りました。騎士家の子で、信仰があり、身寄りが立つ者。私は、その三つに当てはまりました。教会は見習いに扶持を出します。私が丘に上がった月から、家に銭が届くようになった」
「教会が、あなたの家を」
「救ったのです。父も、母も、私も。……そして十九で、私は叙任を受けました。この手に、紋を貰いました。父が失くしたものを、私は貰った。同じものではありません。でも、同じ場所に、同じ色で」
剣士は、川を見たまま黙って聞いていた。聞いてから、ゆっくり言った。
「それが、あなたの背骨、ですか」
「誓いが人を立たせるのを、私は父で見ました。誓いが人から抜けると、どうなるかも。……だから、誓いは骨だと思っています。誓いのある国は、背骨のある国です。背骨が無ければ、あの日の父のように、人は袖の中に手を隠して生きるほかない」
言い切ってから、セシルは息を整えた。
剣士が、こちらを向いた。琥珀の目が、夕方の光を受けている。
「では、伺います。……あなたの誓いは、あなたを守りましたか」
問いは、まっすぐだった。まっすぐすぎて、セシルは一度、答えを取り違えそうになった。守った。守っている。膂力も、傷の治りも、この徽章も、宿舎の寝床も、家に届く銭も。
「……守りました。いまも、守っています」
「それは、よかった」
剣士は、本当にそう思っている声で言った。それがかえって、セシルの胸の底の、いちばん硬い場所に触れた。
「守られていて、それでも、あの棚が気になるのです。……大所長の戸の前に三日立たされて、私はいま、自分が何に苛立っているのか、分かっていません。待たされていることにか。それとも、守ってくれている背骨が、水損のひと言で閉まる棚を持っていることにか」
「両方でも、いいのでは」
「教本には、そういう項がありません」
「教本は、その棚の前に立ったことがない」
セシルは、思わず剣士の顔を見た。剣士は笑ってはいなかった。ただ、真面目な顔で、当たり前のことを言ったという様子だった。
少しだけ、笑ったのはセシルのほうだった。
「……では、こちらからも、ひとつ」
「どうぞ」
「あなたは、一度も誓っていない。手にも、腕にも、紋がない。あの立ち合いのときから、私はそれが、ずっと気になっています。誓いの無い人が、あの受けを身につけて、ここまで来た。……何が、あなたを守ってきたのです」
剣士は、すぐには答えなかった。
川を見て、丘の下の町を見て、それから、自分の紋のない右手を見た。
「人が、二人」
声は静かだった。
「一人は、私に剣と、生き方を教えた。もう一人は、私が忘れたものを、覚えていてくれる。……誓いではなく、人です。それが、私の骨の代わりでした」
訊かなくても分かる。あの女と、大男のことだ。羨ましい、と思った。そう思ったのは、初めてだった。仕えるかどうか、毎朝決めるのだと大男は言った。その変わらない答えを、この人は骨にして立っている。
「それから」
剣士が、付け足した。
「この道で、ひとりだけ、こちらの側に立ってくれた人がいます。登録院で、欠けた巻から目を逸らさなかった人です。……あれも、私を守っている。あなたはそう思っていないかもしれませんが」
セシルは、何と答えるべきか、少し考えた。
「……騎士は、務めで人を守ります。務めの外で守る相手のことを、何と呼べばいいのでしょう」
「さあ。私は、教本を持っていません」
剣士は、そこで初めて、かすかに笑った。登録院の石段で見た、あの笑い方だった。
◇
旅籠の戸口まで、セシルは剣士を送った。
送るつもりで石を離れたのではない。参道を下りる剣士の隣を、足が勝手に歩いただけだ。務めではない。務めでないなら何なのかは、さっき自分で訊いたばかりで、答えはまだ無い。
戸口で剣士が辞儀をして、中へ入った。セシルは中を覗かなかった。覗かなくても、裏の井戸端のほうから、声だけが飛んできた。
「遅かったね。菓子の値でも決めてたのかい」
「マグダ。……三日後です。大所長は、三日後にお会いくださるそうです」
「三日、閉まった戸の前で待つのかい。あんたも物好きだね」
「待つのは、務めのうちです」
「務めねえ」
声は笑っていた。笑っていたが、その後ろに笑っていない何かがあるのも、分かった。あの女は、あの棚を疑って、記章を外した人だ。三日後に戸が開いたら、自分は何を見るのだろう。見て、何と言うのだろう。
「……行きます。夜の参道は、長いので」
「白いの」
戸口の柱の向こうから、マグダの声が低くなった。
「番人の顔を、見ておいで。棚は閉まっております、って言うときの顔をさ。……閉まってる棚の中身は見えなくても、閉めようとする手は見える」
返事をする前に、裏の井戸のほうから大男が桶を提げて来て、セシルの前に、火を入れた角灯をひとつ置いた。
「夜の参道は、暗いので」
それだけ言って、桶を担いで奥へ戻っていく。礼を言う間もなかった。
角灯を提げて、セシルは参道へ出た。教本にない教えを、今夜は二つ貰った。一つは剣士から、一つはあの女から。
◇
参道を登りきったころには、聖堂の影は星空の底に沈んでいた。
宿舎の寝床で、セシルは装備を数えた。直剣、小盾、捕縄が二本、笛、認め状。五つ。路銀の袋は枕の下。それから、癖で、右手の甲を見た。
薄青い、小さな紋。叙任の紋。
父の右手には、もう無いものだ。父は、この紋が消えたあとの世を、袖の中で生きている。自分は、この紋が守ってくれる世を、まだ疑ったことがなかった。疑ったことがないまま、三日後、あの戸の前に立つ。
在らねば。
剣士の四文字を、セシルは口の中で言ってみた。
声には、出さなかった。
寝床に入る前、廊下で当番の隊長とすれ違った。隊長は足を止めずに言った。閣下のお着きは大祭の前日だ、警固の割りは追って出す、と。
三日後に、戸が開く。その二日後に、閣下が来る。順が逆でなくてよかった、とセシルは思った。思ってから、なぜそう思ったのかは、考えないことにした。




