第24話 手記の頁
夜半に、雨の音で目が覚めた。
旅籠の板屋根を、雨が叩いている。夏の雨は、祭りの町で降ったあの夕立ほど激しくはなく、ただ長く、細く、屋根の上を流れていた。マグダは今夜、参籠客の荷番で館に詰めている。狭い部屋には、エルドと、灯りをひとつ置いて帳面に向かっているレイフしかいなかった。
炭の音が、雨に混じって聞こえる。
エルドは寝床の上で身体を起こした。眠れないのは、雨のせいだと思うことにした。思うことにして、それでも気づけば、炭の先が紙を掻く音を追っていた。あの音を、七年、寝床の中で聞いてきた。夜ごと数行、多い日は一頁。何を書いているのかと訊けば、数を、と答えた男が、いまは、ぜんぶ書いている。
「……何を書いている」
訊いた声が、思ったより低く出た。レイフの手が止まる。
「今日のことを」
「今日は、何もなかった」
「ありました。寄進所で、蜜蝋の数を三度、数え直されたと。干し果実を、マグダが三つ食べたと。……それから雨です」
エルドは少し笑った。数え直しの愚痴も、果実の数も、確かに今日、自分が話したことだ。この男は、それを書く。魚の数から始まった帳面は、いまや主の愚痴の数まで抱えている。
「レイフ。読ませてくれ」
炭の音が、止まったままになった。
「……読みたい、ですか」
「読みたい」
レイフは帳面から顔を上げた。灯りに照らされた顔は、いつもの顔だった。断る顔でも、困る顔でもない。ただ、言葉を選んでいる顔だ。この男が言葉を選ぶときは、急かしてはいけない。これまでの年月で、それは覚えた。
「話します。……忘れたことがあれば、俺に訊いてくださいと、言いました。何度でも、話します」
「話してもらうのと、読むのとは、違う」
エルドは寝床の上で膝を抱えた。
「おまえの字で、読みたい。おまえが、その晩に書いた字で。……それに、私は、数えたい。何を失ったのか。二つは、分かっている。あの川の日と、拾われた晩。……ほかにも、あるのかもしれない。帳面を見るまで、失ったことにすら気づけない。だから、見たい」
レイフは長いこと黙っていた。
黙って、それから炭を置いた。
「……あなたが忘れたものを、いちいち数えさせるのは」
言葉が、途中で止まった。止まって、この男にしては珍しく、言い直された。
「違う気がします」
「何が、違う」
「この帳面は、失くしたものの数を付けるために、書いているんじゃありません」
レイフは膝の上の三冊目を、両手で押さえた。
「数を付けるためなら、俺は、最初の一行を書いていません。……あなたが、いた。それだけを、書いています。あなたが読んで、失くしたものを数える帳になるなら、それは、俺の書いた帳と、違うものになります」
雨の音が、屋根の上で続いていた。
エルドはレイフの顔を見た。この男は、主に逆らったことがない。逆らわないまま、七年、自分で選んできた。誓いません、でも離れません、と言った雪の小屋の朝から、ずっとだ。いま、この男は、帳面を渡さないと決めている。渡さない、と言わずに。
「では、何のために書いた」
「あなたが、いた。それだけを」
「いた、では足りない」
自分の声が、思ったより高く出た。
「いた、では数えられない。いくつ、と言ってくれ。二つか。三つか。四つか。……外から数えられるのは、おまえだけだ」
「エルド様」
「答えろ」
レイフは、答えなかった。
「……見せろ」
言った。
「命令だ」
押さえていた両手が、止まった。
止まって、それから、動いた。レイフは帳面を閉じ、両手で持ち直して、こちらへ差し出した。断らなかった。迷いもしなかった。
エルドは、それを受け取った。
膝の上に置いた。表紙は手擦れで柔らかい。開けば、読める。読めば、数えられる。数えられるのだ。
開かなかった。
三つ数えるあいだ、両手を表紙に置いていた。それから、帳面を、レイフの手へ返した。
「……返す」
「はい」
「命令は、取り消す」
「……はい」
「取り消しても、命じたことは、無くならないな」
「はい」
この男は、そこでも嘘をつかなかった。
エルドは、自分の両手を見た。膝の上で、震えていた。止めようとして握った。握ると、余計に分かった。初めて人に本気で剣を向けた日と、同じ震え方だった。
「川の日に、俺は考えた。見せろと命じれば、この男は見せるだろう、と。……命じれば見せるものを、命じて見るのは、盗み見るより、たちが悪い。あれは、俺が考えたことだ。俺が考えて、七年、守ってきた。……守ってきたものを、いま、数えたいがために捨てた」
レイフは、何も言わなかった。言わないまま、返された帳面を、膝の上に下ろしていなかった。
「値が、分からない」
声が、掠れた。
「相場を知れば払える。知らずに払うのは下策だ。そう決めて、七年、そのとおりにやってきた。相場の分からないものを、俺は一度も買っていない。なのに、これだけは、値を聞く先がない。払った端から、払ったことが消える。次に何を持っていかれるのかも、誰に訊けばいい。……おまえか。おまえに訊けば、おまえが数えることになる。おまえに俺の欠けた分を数えさせて、俺はそれを聞いて、帳尻を合わせるのか」
雨の音が、屋根の上で続いていた。
「……すまない」
言えたのは、それだけだった。
「……分かった」
エルドは言った。
「数えない。数えるためには、読まない。……だが、一頁だけ、頼む。拾われた晩を。あの晩を、おまえの字で読みたい。数えるためではなく——知りたい。私が、どんな顔で、あの人に礼を言ったのか」
レイフはもう黙らなかった。
革袋の底へ手を入れ、綴じの歪んだ一冊目を出した。表紙は手擦れで柔らかくなり、角は丸い。レイフは灯りを引き寄せ、はじめのほうの頁を、慎重に繰った。
「最初の何頁かは、あとから思い出して書いたものです。帳面を買う前のことなので。……書くのが、遅れました」
「構わない」
レイフは頁を開いて、差し出した。
◇
四角い、石垣のような字が、並んでいた。
いまの字より、下手だった。下手なぶんだけ、一字ずつに力がこもっている。炭ではなく、インクだ。マグダが余りものだと言って寄越した、あの壺のインクだろう。
——雨の夜のこと。これは、あとから書く。帳面を買う前のことだから。
——北の宿場。宿の裏の、荷小屋の軒下。雨が三日降って、日雇いの口がなかった。主は熱を出した。俺は上着を主に掛けて、前に立った。
——夜、宿の女の人が来た。出ていけと言いに来た。俺は、すぐ出ます、と言った。主が目を開けて、雨宿りを、痛み入る、と言った。
——女の人は、三歩行って、止まって、戻ってきた。追われてるだろ、と言った。誰に、とも、何を、とも訊かない、と言った。それから飯、食うかい、と言った。
——宿の台所で、汁と麦の飯を食った。主は二口で眠った。俺は三杯食った。
——女の人の名は、マグダさん。
——うまかった。
それで、終わりだった。
短い頁だ。読み終えるのに、長くはかからない。それなのにエルドは長いこと、目を上げなかった。二度、読んだ。三度目は、一行ずつ、指で押さえるようにして読んだ。
雨。荷小屋の軒下。上着。すぐ出ます、と言ったレイフ。雨宿りを、痛み入る。三歩。追われてるだろ。飯、食うかい。汁と麦の飯。二口。三杯。
どれも、ない。
頁の上には、ある。この男の字で、ここに、ある。マグダの声で聞いた三歩も、ここにある。だが、自分の中には、ない。自分が目を開けて礼を言った、その自分が、いない。熱に浮かされていたから、ぼんやりしている——というのとは違う。ぼんやりしたものすら、ない。あの夜、自分はここにいた。この頁の中に、確かにいた。そして、いま、いない。
知っている、と、覚えている、の間に、こんなに隙間があるとは思わなかった。
エルドは最後の一行を、もう一度読んだ。
うまかった。
七年前、この男は、汁と麦の飯を三杯食って、そう書いた。追われて、凍えて、主に熱を出させて、軒下から追い立てられかけた晩に。三杯食って、うまかった、と。
「……思い出せない」
声は、静かに出た。
「……でも、いい夜だったんだな」
「はい」
レイフは短く答えた。それから少しだけ付け足した。
「いい夜でした」
泣かなかった。泣くようなことではない、と思ったからではない。泣くための場所が、自分の中に見つからなかっただけだ。失くしたものが痛むなら、失くした場所が疼くはずだ。疼かない。ただ、頁があって、頁の中に自分がいて、外の自分にはそれがない。それだけのことだった。それだけのことが、こんなにも、静かだった。
◇
「レイフ」
「はい」
「……前の頁を、見てもいいか」
レイフは少しだけ迷った。迷って、うなずいた。エルドは頁を一枚、前へ繰った。
同じ四角い字が、並んでいた。日付はない。ただ、書き出しに、宴の前の晩、とあった。
——宴の前の晩。御館様の居間。暖炉が大きかった。主は、明日の役目を言った。歩みは七歩、壇の右手から。
——主は、誓って、しくじりません、と言った。御館様は、誓えぬことを軽々しく口にするな、と言った。主は、しくじらぬよう務めます、と言い直した。
——御館様が、口にせずともおまえはやる、と言った。主の耳が赤くなった。
——奥方様が、茶を淹れた。三つ。俺の分もあった。甘い匂いの茶だった。
——御館様は、長かった、と言った。それきり、誰も何も言わなかった。
エルドは読んだ。
読みながら、暖炉の火が、頬に当たっていた。あの居間の火は大きくて、燭台は少なくて、父の彫りの深い顔に炎の照り返しが揺れていた。母の手が伸びてきて、曲がってもいない襟を直した。口上、聞こえていましたよ、廊下まで。それは声が大きすぎるという意味ですか。よく通る、いい声だという意味です。茶は、ほのかに甘い匂いがした。父は椀を手にしたまま、長いこと火を見て、それから長かった、と言った。
ある。
この晩のことは、七年、数えきれないほど思い返してきた。あの家の、最後の団らんだった。雪の道で、宿の寝床で、眠れない夜に、初めから終わりまで一度ずつ辿り直した。
ぜんぶ、ある。火も、襟も、匂いも、声も。
「……これは、ある」
自分の声が、少し掠れているのが分かった。
「暖炉の火も、母上の茶の匂いも。……父上が、長かった、と言った、あの声も。ぜんぶ、ある」
「はい」
レイフはそれだけ言って、炭を取った。取って、三冊目の帳面を開き、何か書きつけた。短い一行だった。
「……何を書いた」
「あなたが、いま、あると言ったことです」
「何のために」
「残っているものの帳です」
レイフは炭を置いた。
「失くしたものの帳より、そっちのほうが、厚くなります」
エルドはしばらく何も言えなかった。
言えないまま、一冊目を閉じた。両手で閉じて、表紙を、掌で一度撫でた。手擦れの柔らかさが、掌に残った。七年、この男の革袋の底で、この一冊は、あの雨の夜を抱えていた。自分が失くしたあとも、抱え続けている。
「……この一冊目は、いちばん底に戻せ」
帳面を返しながら、エルドは言った。
「革袋の、いちばん底がいい。……いちばん、失くしにくい場所に」
「はい」
レイフは一冊目を革袋の底へ収めた。収めてから、いつものように紐を結んだ。その手つきは、七年前に城の樽を運んでいたときと、少しも変わっていなかった。
雨が、少し細くなっていた。
エルドは寝床に戻らなかった。膝を抱えたまま、灯りの向こうの、炭を削り直すレイフの手を見ていた。この手が書いた頁の中に、自分がいる。失くした夜も、失くしていない夜も、同じ字で、同じ帳に並んでいる。数えるための帳ではない。この男は、そう言った。
思い出せない。でも、いい夜だった。
◇
戸を叩く音がしたのは、雨がほとんど止んだころだった。
レイフが立ち、戸を開けた。戸口に、白い制服が立っていた。濡れている。参道を、雨の中を下りてきたらしい。編んだ髪から、雫が落ちた。
「夜分に、すみません」
セシルだった。息が、少し上がっている。
「大所から、返事が来ました。……いま、宿舎に届いて、待てなくて」
「在りましたか」
エルドは寝床の上から訊いた。訊きながら、自分の声が、さっきまでとは別のものに切り替わっているのが分かった。
セシルは首を横に振った。横に振ってから、懐から折り畳んだ紙を出して、灯りのそばへ寄せた。教会の印が、朱で押してある。文言は、短かった。
「巡察セシル、照会の件につき、大祭前に登録大所へ出頭のこと。大所長。……それだけです。在るとも、無いとも、書いてありません」
雨の雫が、白い制服の肩から落ちて、板の間に小さな染みを作った。
エルドは返書を見た。返書は、何も言っていない。棚が開くのか、閉まるのか、そこには書いていない。ただ、七年前の冬の巻について問うた騎士を、棚の鍵を持つ者が、呼んでいる。
「……在れば、文で済んだ」
「はい」
セシルはうなずいた。うなずいて、規程どおりに背筋を立てた。立てた背筋の下で、濡れた指が、紙の端を少しだけ強く握っていた。
大祭まで、あと七日だった。




