第23話 戦のない大陸
昼の鐘が鳴るころ、寄進所の戸口に白い制服が立った。
「剣士どの。午後を、いただけますか」
セシルだった。寄進の目録を写す手を止めて、エルドは顔を上げた。騎士団の宿舎から下りてきたらしい。徽章は磨かれ、髪は束ねられ、ただ、その目の下に、うっすらと影があった。
「照会は」
「駄目でした」
セシルは短く言った。
「大所へ行きました。書役は丁寧でした。大所長は大祭の支度で手一杯、照会の返事は大祭が明けてから、と。……丁寧に、棚が閉まりました」
丁寧に、棚が閉まる。この人の口から、その言い回しが出るようになった。エルドは筆を置いて、隣の筆耕に午後の分を頼んだ。
「行く先は」
「内側を知っている人がいます」セシルは参道の上ではなく、門前の町の外れのほうを見た。「私の、誓約法の先生でした。教典と誓約法を、見習いのときに三年、習いました。……もう、内側にはいませんが」
「いない、とは」
「隠居です。本人は、問いが多すぎて棚から降ろされた、と言っています。教会は、そう言いません」
◇
マグダは、来なかった。
「坊主の家には行かないよ。説教くさい坊主は、嘘の次に嫌いだ」
旅籠を出るとき、マグダはそう言って、参籠客の荷番へ出かけていった。セシルが先生は説教をしません、問いしか出しません、と生真面目に言い添えると、マグダは戸口で振り向いて、それはもっと嫌いだね、と笑った。
レイフは、ついてきた。
門前の町の外れは、寄進の旗も飾りも途切れて、畑と石垣と、小さな家が並んでいた。その一軒の前で、セシルが足を止めた。木の垣が、途中で崩れている。杭が二本、根元から折れて、横木が地面に垂れていた。
レイフは、それを見た。見て、何も言わずに荷を下ろし、折れた杭を引き抜いて、木口を検めはじめた。
「……レイフ」
「直しておきます。中は、狭そうですので」
それは口実で、本心は、狭い家で三人の話を聞くより、外で杭を打つほうが性に合う、というだけのことだ。エルドはうなずいた。セシルが大男と折れた杭とを見比べて、小さく礼を言った。
戸口から、老人が顔を出した。
七十は越えているだろう。小柄で、眉が白く、目だけが少しも曇っていなかった。粗末な僧衣の裾を端折って、足元は素足に草履。老人はセシルを見て、それからエルドを見て、最後に、垣の前で杭を検めているレイフを見た。
「教本の申し子が、教本の外の連れを、二人も連れてきよった」
「先生」
「入りなさい。茶は、まずいぞ」
◇
茶は、本当にまずかった。
狭い板の間に、書き物の山と、綴りの束と、埃を払っただけの敷物。老人は自分で湯を沸かし、自分で茶を淹れ、自分でひと口飲んで顔をしかめた。セシルは規程どおりの姿勢で座り、まずい茶を規程どおりに飲んだ。エルドも飲んだ。渋くて、薄くて、なぜか少し塩辛かった。
「セシルは、大所に照会を出したそうだな」
老人はいきなりそこから始めた。
「北方の、七年前の、冬の巻。……門前の町というのは、狭い。大所の書役の愚痴は、その日のうちに、わしまで届く」
「先生。大所は、なぜ答えないのです」
「答えられんからだよ」
「写しが、無いからですか」
「さあ。それはわしには分からん。わしが分かるのは、いまの大所長が、棚の番人としては申し分ない、ということだけだ。棚に何が入っておるかより、棚がきちんと閉まっておるかを気にする人でな。巡察ひとりの照会で棚を開けるより、大祭が明けるまで閉めておくほうが、あの人には正しい」
セシルの背筋が、伸びた。伸びたまま、何も言わなかった。
エルドは茶碗を置いた。
「先生。ひとつ伺います。登録の写しは、大所の中で、誰の手で動くのです」
「大所長と、その下の書役たちだ。写しを取るのも、納めるのも、検めるのも、そこにいる者だけ。棚の鍵は、大所長が持つ」
「では、写しが一冊、消えるとしたら」
「その手が、棚の内側にある、ということになるな」
老人はこともなげに言った。言って、まずい茶をすすった。
「……わしが棚から降ろされたのは、そういう問いを、口に出したからだ。若い頃にな。棚の内側の話ではない。もっと大きな棚の話だ」
「もっと大きな」
「君は、戦を見たことがあるか」
問いは、唐突だった。
エルドは少しの間、老人の顔を見た。曇りのない目が、こちらを見返している。答えを求める目ではなかった。答えを持っていないことを知っていて、なお訊く目だった。
「……戦は、ありません」
城が燃える夜なら、ある。だがあれは、戦とは呼べない。軍と軍が攻め合ったわけではなく、誓いに縛られて動けない者たちが、動ける者たちに討たれただけだ。それを戦と呼ぶ言葉を、エルドは持っていない。
「わしもない」
老人は言った。
「わしの父もない。祖父もない。その祖父もない。教典を遡っても、歌を遡っても、この大陸で大誓約このかた幾百年、戦はただの一度も起きておらん。国と国が、軍を興して攻め合うことが、一度もだ。……妙だと、思わんかね」
国と国。アルデンは大陸の一角を占める国で、北の境の向こうにも、王都のさらに南にも、よその国はある。子どもの頃、書庫の地図で名だけ覚えた国々だ。その国々と戦をしたという話を、エルドは一度も聞いたことがなかった。
「それが、大誓約の恵みです」
セシルが言った。声は、きっぱりとしていた。
「教典の、一頁目です。始祖が戦の世を終わらせ、大誓約を結び、以来この大陸は——」
「一頁目だ」
老人はうなずいた。
「わしは、その一頁目を五十年教えた。君にも教えた。教えながら、ずっと妙だと思っておったよ。……いいかね。賊は出る。小競り合いは絶えん。領家は川ひとつで幾代もいがみ合う。人の欲も、面子も、怒りも、幾百年前と何ひとつ変わっておらん。なのに、軍を興して攻め合うことだけが、ただの一度も起きん。まるで、誰かが誓ったみたいにな。……誰も、誓った覚えはないのに」
板の間が、静かになった。
外で、杭を打つ音がした。レイフが、折れた垣を直している。乾いた、規則正しい音だった。
「先生。それは——」
「……戦が起きん理由は、ひとつしか、思いつかん」
老人は茶碗を置いて、書き物の山から、古びた綴りを一冊引き抜いた。開かない。開かずに、膝の上に置いただけだ。
「若い頃に思いついて、確かめに行こうとした。棚の内側で、三度、頼んだ。……それで、降ろされた」
「何を、思いつかれたのです」
セシルだった。
「言わん」
老人はまずい茶をすすった。
「五十年、言わずにおる。言えば、君も降ろされる。……降りるなら、自分の足で降りなさい。わしが降りられなかった石段を」
セシルは口を開いて、閉じた。
閉じた口の端が、少しだけ震えていた。井戸端で、マグダに登録の棚を疑われたときと、同じ顔だ。自分の信じているものを、目の前で疑われたときの顔。あのときはマグダで、いまは、三年、教典を教わった人だ。その人が、教典の一頁目に、問いを立てている。
エルドは自分の右手を見ていた。
誰も誓った覚えはないのに、誰かが誓ったみたいに。……自分は、誓っていない。それなのに、払う。断てば、忘れる。あれは、何なのか。誰に、払っているのか——。
そこで、止めた。
答えのない問いを、答えのある形に組み替えたくなるのは、癖だ。値切りの相場が分からないときと同じで、決めるのは、知ってからだ。
「……先生は、答えを持っておられるのですか」
訊くと、老人は初めて声を立てて笑った。
「持っておったら、こんな家で、まずい茶を淹れておらんよ。思いつきは、答えではない。五十年、その問いを抱えて、答えは持たん。持たんから、ここにおる。……棚の内側に、問いを持ったまま居座られては、棚が困るのだ」
「困る、とは」
「棚は、答えを並べる場所だ。問いを並べる場所ではない」
老人は綴りを書き物の山に戻した。
「若いの。君は、面白い顔で聞いておった。教本の申し子の連れにしては、な。……わしの問いは、答えを持たん。だが、答えを探す者が、久しぶりに丘の上を歩いておるなら、それは、それで面白い」
誰のことを言っているのかは、訊かなかった。老人も、それ以上は言わなかった。外の杭の音が、止んだ。垣が、直ったらしい。
◇
帰り道、セシルはしばらく口をきかなかった。
門前の町の外れから、寄進の旗の連なる通りへ戻る。夕方に近く、大祭の飾りを運ぶ人足の列が、通りを埋めていた。レイフは半歩後ろで、老人がくれた干し果実の袋を提げている。垣を直した礼だという。まずい茶の家にしては、果実は甘かった。
「先生は、昔からああです」
セシルが前を向いたまま言った。
「問いばかりで、答えがない。見習いの頃は、それが苦手でした。答えのある問いを、私は好みます」
「いまは」
「……今日のは、少し違いました」
それだけ言って、また黙った。
誰も、誓った覚えはないのに。老人の問いは、エルドの中でも据わりどころを探していた。……この国の誰もが、生まれた場所と身分の中で、あくびが出るほど安全に暮らしている。逃げ場がないと嘆きながら、逃げようとはしない。それを、この国の当たり前だと、自分も十三まで思っていた。
通りの先で、鐘が鳴った。
教会の下役が、鐘を鳴らしながら触れて歩いている。人足の列が止まり、店先から人が出て、寄進所の前に人だかりができた。
「——大祭三日目、恩赦の儀。王都より誓約主閣下がお下りになり、恩赦を授けられる。借財の誓いに縛られし者、恩赦を願う者は、大祭二日目までに大所へ名を届け出よ——」
誓約主閣下が、お下りになる。
人だかりが、どよめいた。十年ぶりだ、と誰かが言った。前の恩赦のときは子どもだった、と誰かが言った。借財の誓いで首の回らん弟がいる、と誰かが言って、その周りだけ、声が湿った。
エルドは立ち止まっていた。
「恩赦の儀です」
セシルが息を弾ませていた。声から、老人の家の影が消えていた。
「借財の誓いに縛られた者を、誓約主閣下が天に取り次いで、赦す儀です。誓いを、天がお預かりになる、と教典は言います。……生涯に一度、見られるかどうかです」
「誓いは、解けない」
エルドは静かに言った。祭壇の灯の下で、典礼官が言った言葉だった。教会にも、王にも、解けん。子どもでも知っている。
「解くのでは、ありません」セシルは少しだけ声を落とした。「預かりです。……教典では。私も、見たことはありません」
「見た者は」
「十年前に、見た者が、この丘にはいるはずです」
エルドは人だかりの向こうの、参道の上を見た。
聖堂の白い壁が、夕日を受けて金色に燃えていた。
誓約主。王国の誓約のいっさいを統べる者の称。いまはそれを、宰相セヴランが務めている。あの夜、両家の当主の誓いを間近で見届け、寸分の狂いもない礼をして、どこまでも平らな声で、争いは終わる、と宣した人。宴が更けたころ、立会の席から姿を消していた人。
その目は、七年前、献杯に立った十三の子どもを見ている。
典礼官は、王都へ戻った。戻れば、しかるべき筋に、しかるべき報せが行く。その王都から、誓約主が、この丘へ下りてくる。報せと人が、どこですれ違うのか、どこで重なるのか。エルドには、分からなかった。分からないまま、伏せ目の癖だけが、身体の側で勝手に働いた。
人だかりが、ゆっくりと崩れていく。恩赦の儀。十年ぶり。誰も彼もが、めでたい顔をしていた。
あの夜の立会人が、この丘へ来る。




