↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/123

第22話 川釣りの隣人


 寄進の目録は、家の名でできていた。


 門前の町に上がって、三日。エルドは外郭(がいかく)の門の脇にある寄進所の板間(いたま)で、朝から目録を写していた。大祭まで、あと十日あまり。総本山へ寄進を運ぶ家々の名と、品と、数が、日ごとに束になって届く。それを清書し、綴(つづ)りに移すのが筆耕(ひっこう)の仕事だった。字の書ける流れ者を身元も訊(き)かずに雇ってくれる口は、丘の上にも、ちゃんとあった。


 蜜蝋(みつろう)二十斤。麻布十反。銀の燭台一対。塩漬けの川魚——。


 手が、止まった。


 止めたつもりはなかった。筆の先が、次の家の名の上で、勝手に止まったのだ。


 東方、グレンツ家。当主ヴァルド。参籠(さんろう)三日、寄進の品は下記のとおり。到着は——本日夕刻。


 エルドは筆を置かなかった。置けば、隣の筆耕が顔を上げる。手は動かし続けた。塩漬けの川魚、二十樽。干し果実、五袋。麻布——書き写しながら、頭の中では別のものが動いていた。


 東の隣家は、勅に従いてこれを助く。


 七年前の触れ書きの、あの一行だ。北の辺境伯が王冠に牙を剥き、忠義の隣家が訴え出て、宰相が検め、勅命が下った。歌はそう歌い、触れ書きはそう書いた。その隣家の当主が、今日の夕刻、この丘へ来る。


 筆先が、目録の端に小さな染みを作った。エルドはそれを砂で吸わせ、何ごともなかった顔で次の行へ移った。


 レイフはあの夜、グレンツの供が斬られて倒れるのを見ている。二人か、三人。勅を助けた家の供が、なぜ斬られたのか——七年目の春の宿で、レイフはそう言った。答えは、まだ誰も持っていない。


 的を、確かめてから振り下ろしな。


 雨の宿で聞いたマグダの声が、筆の音に混じった。


  ◇


 行列は、日が丘の向こうへ傾くころに着いた。


 参道を登りきった荷馬車が十、供の騎馬が二十ばかり。先頭の旗は、灰色の地に白い筋を三本引いたものだった。見覚えがある。門楼(もんろう)の石段の上から見た、あの行列の先頭にも、この旗があった。


 エルドは寄進所の窓の内側から、それを見た。伏せ目のまま、目だけを上げて。


 列の中ほどに、当主がいた。


 馬上の男は、岩のようだった。五十をとうに過ぎているはずだが、衰えは見えない。鉄色(てついろ)だった髪はいまや白いほうが勝ち、額の皺(しわ)は深い。それでも、背筋は伸びていた。周りの供が疲れの色を見せるなかで、当主だけが、値踏みするような目を門前の町の隅々に向けている。愛想笑いというものを、生まれてから一度もしたことのなさそうな顔。それも、七年前のままだった。


 ヴァルド=グレンツ。


 あの夜、壇上で父と手を交わし、手の甲に同じ紋を刻んだ男。春には川の検分を、と父が言ったとき、ふと目を上げて、あの川はいい川だ、と言った男。そして、翌日の触れ書きで、勅を助けた隣家の当主になった男。


 馬の脇に、古参らしい護衛がひとり、徒歩でついていた。五十を越えた、顎に古い傷のある男だ。主の馬の手綱を取り、主が何か言うたびに短く応える。その応え方に、長く仕えた者の呼吸があった。


 行列は門前の町を抜け、外郭の門の内側——参籠の客が泊まる教会の館へ、粛々と消えていった。


 エルドは、行列が消えるまで窓の内側から動かなかった。


  ◇


「東の領主様は、勤行(ごんぎょう)より川がお好きでね」


 夜、旅籠(はたご)の部屋でマグダが言った。参籠客の荷の見張りを請け負って、館の下働きに顔を売って戻ってきたところだった。


「館に泊まる客は、朝は勤行と決まってる。あの領主様だけが、夜明けに沢へ下りるんだと。ここへ来るたびに、そうだそうだ。供は古参をひとりだけ連れて、竿を担いでね。下男(げなん)どもは、また領主様の川だ、と笑ってた。……来るのは、これで三度目だそうだよ。七年で、三度」


「三度」


「大祭のたびに、じゃない。もっとまばらだ。何かの区切りで来てるんだろうね。何の区切りかまでは、下男には分からない」


 マグダは杯を置いて、エルドを見た。


「で、どうするんだい」


「顔を、見に行きます」


 エルドは静かに言った。


「見るだけです。あの人が何を知っていて、何をしたのかは、顔を見るまで決めない。……あなたに、そう教わりました」


「教えたね」


 マグダは、ふん、と鼻を鳴らした。満足したときの音だ。それから少しだけ声を低くした。


「ただし、伏せ目を忘れるんじゃないよ。夜明けの沢ってのは、光が横から来る。目の色を、いちばんよく見せる刻限だ。……あの領主様は、七年前に、あんたの目を見てる」


「分かっています」


「俺も、行きます」


 レイフが言った。エルドはうなずいた。


「離れて、ついてこい。魚籠(びく)持ちだ」


  ◇


 沢は、外郭の壁に沿って下る杉の小道の先にあった。


 夜明け前の杉の下は暗く、足元の石は露で濡れていた。エルドは旅籠の亭主から借りた竿を肩に、小道を下った。亭主は釣り好きで、貸してくれと言うと、餌の壺まで持たせてくれた。十歩ほど後ろを、レイフが魚籠を提(さ)げてついてくる。


 水音が大きくなり、木々が切れた。


 小さな沢だ。淵(ふち)がひとつあって、その上に岩が張り出し、下は瀬になって流れ落ちている。淵の脇の平らな石に、岩のような背中が座っていた。竿を出している。動かない。その少し上流の岩の上に、顎に傷のある護衛が腰を下ろし、こちらへ顔を向けた。


 エルドは足を止め、旅の者の辞儀(じぎ)をした。頭を深く下げて、目を隠す辞儀だ。レイフは小道の口の木立の陰に残った。


「……釣りかね」


 護衛が、低く訊いた。


「旅籠の亭主に、ここが釣れると聞いて」


「ヴァルド様は、静かな釣りをなさる。邪魔をせんなら、好きにしろ。……ヴァルド様が川に向かって何か言い出されても、返事は要らん。おまえに言っておられるのではない」


 エルドは礼を言って、淵の尻——瀬の落ち口に近い石を選んで、腰を下ろした。当主とは、十歩ほど離れている。竿を出す。餌を落とす。流れが速くて、糸がすぐに引かれた。


「そこは、釣れん」


 岩のような背中から、声が来た。振り向きもしない。


「淵の尻は、流れが速すぎる。魚は、そんなところで餌を待たん」


「では、どこが」


「……わしの隣だ」


 仏頂面(ぶっちょうづら)の声だった。それでも、隣だと言った。エルドは立って、当主から三歩の石に座り直した。近い。近すぎるくらいだ。だが、断る理由はない。


 当主はこちらを一度だけ見た。


 朝の光はまだ薄く、杉の影が二人の上に落ちている。当主の目は、エルドの顔ではなく、竿を持つ手を見た。見て、また淵に戻した。


「……竿の持ち方が、沢の者だな」


「沢の、者」


「川の者は、もっと横着に持つ。竿を寝かせて、流れに任せる。沢の者は、竿を立てて、石の陰を狙う。おぬしのは、後のほうだ。どこで覚えた」


「北の、沢で」


 言ってから、しまった、と思った。北、と口にする必要はなかった。だが、当主の声は、変わらなかった。


「北か」


 それだけ言って、当主は長いこと黙った。淵の面に、朝の霧が薄く流れている。


「わしも、北だ。北の、東の端だがな」


 東の隣家。エルドは竿を握る手に力が入るのを感じて、緩めた。当主は淵を見たまま、独り言のように続けた。


「わしの領には、いい川がある。広くて、浅くて、大した川に見えん。だが、昔から、魚だけは——どちらの岸でも、よく釣れた」


 どちらの岸でも。


 七年前の当主卓で聞いた言葉と、同じだった。


「どちらの岸、というのは」


「隣の家と、取り合ってきた川だ。幾代もな」当主は鼻の奥で短く笑った。笑いには聞こえない笑いだった。「取り合うほどの川には見えん。誰が見てもそうだ。だが、面子(メンツ)というやつは、竿より重い。……おぬしには、まだ分からんだろうが」


 当主の竿が、小さく引かれた。


 当主は動じもせずに合わせ、淵の底から一尾(いちび)を抜き上げた。掌より少し大きい岩魚(いわな)だった。魚籠に放り込み、餌をつけ直し、また竿を出す。その間、一言もない。手だけが、迷いなく動いた。長く竿を握ってきた者の手だった。


「……若い時分(じぶん)」


 餌を落としてから、当主は言った。


「隣の当主と、隣り合って竿を出したことがある。境の川の、どちらの岸とも言えん中洲(なかす)でな。あいつは、わしより十あまり下だった。……アルドレッドのやつだ」


 エルドは動かなかった。


 竿を握った手も、顔の向きも、そのままにして、ただ、水音を聞いていた。


 父の名を、この七年、誰も口にしていない。歌は北の辺境伯と歌い、触れ書きは北の辺境伯家と書き、マグダもレイフも、御館様(おやかたさま)と呼ぶか、あの人と呼ぶか、呼ばずに済ませてきた。自分でも、呼んでいない。父上、と胸の中で呼ぶだけで、名は、七年、宙に浮いたままだった。


 その名を、この男は、やつ、と呼んだ。


「……あいつのほうが、釣った」


 当主の声は、仏頂面のままだった。


「悔しいから、覚えておる。わしが二尾のとき、あいつは五尾だ。無口な男でな。釣れても、釣れんでも、何も言わん。日が暮れて川を上がるときに、一言だけ言った。また来る、と」


 また来る。


 エルドは父の口癖を思い出した。誓えぬことを軽々しく口にするな。あの人は、また来る、と言ったなら、来る。来られるなら、来る。そういう人だった。


「また来る、を、幾度言ったかな。三度か、四度か。……それきりだ。それきり、川を挟んで、文の断り合いになった。断ったのは、わしのほうだ。何年も、断り続けた。断りながら、わしは、あの川のことを、一日たりとも忘れんかった」


 当主はそこで初めて、エルドのほうを見た。


 朝の光が、杉の梢(こずえ)を越えて、淵の面に届きはじめていた。当主の目は、まだエルドの顔を見ていない。竿の先を見ている。そして、その顔には——エルドが七年、この男の名に貼りつけてきたどの顔とも違うものが、浮かんでいた。


「七年前に、死んだ。……あの、宴でな」


 誅(ちゅう)された、とは言わなかった。謀反の、とも言わなかった。死んだ、と言った。それだけを言って、当主は口を閉じた。閉じた口の端が、岩のような顔の中で、ほんの少し歪んだ。


 追悼の顔だった。


 仇(かたき)のはずの男が、父を悼んでいる。


 エルドの胸の中で、七年据わっていたものが、音もなく動いた。的、と呼んでいたものだ。命じた者。筋書きを書いた者。勅を助けた隣家。責を負う者の顔を、胸の内に並べてきた。その一つが、この岩のような顔だった。並べたのは、紙だ。触れ書きの一行と、歌の一節。……顔は、紙より先だと、あの人は言った。


 この顔は、何を言っているのか。


 嘘をつく顔も、世の中にはある。マグダは嘘を見抜く目で七年を生きてきたし、自分もその目を仕込まれてきた。だが、朝の沢で、竿を握ったまま父の名を、やつ、と呼ぶこの男の顔と声は——嘘のある類ではなかった。少なくとも、いまのエルドの目には、そう見えた。


 見えた、というところで止めた。決めるのは、まだだ。


  ◇


 上流の岩の上で、護衛が立ち上がった。


 レイフが、魚籠を提げて小道を下りてきたところだった。護衛は無言で魚籠を指し、当主の魚籠と並べて置くよう、身振りで示した。レイフは黙って従い、二つの魚籠を淵の縁の陰に並べた。護衛はその大きな背中を、しばらく見ていた。


「……丁寧な手だ。わしの甥(おい)も、そういう手をしていた」


 護衛が、レイフに言った。低い声だったが、沢は狭い。水音の合間に、途切れ途切れに、エルドの耳にも届いた。


「ヴァルド様は、朝は魚しか食われん。川に来ると、必ずあの話をなさる。北の川の話だ。……三度目だ、ここへ来て、あの話を聞くのは」


 レイフは何も答えなかった。答えないのが、この男の作法だ。護衛はそれで喋りやすくなったのか、淵の当主の背中を見ながら、もう一段低く言った。


「あの夜は、うちも人を失ったんだ。供の若いのが、三人。……わしの甥も、だ」


 水音が、その先を呑んだ。


 エルドは竿を見ていた。糸は、動かない。動かない糸を見ながら、胸の内で、レイフの言葉を思い出していた。グレンツ家の供の人らが、斬られて倒れるのを見ました。二人か、三人。……三人だ。名前のない三人ではなく、きっと誰かの友であり、夫であり、甥だった。


 勅を助けた家が、人を失った。


 触れ書きも歌も、そうは書いていない。


  ◇


 日が、出た。


 杉の梢の間から、朝日が横ざまに淵へ差し込んで、水面が一面に光った。眩(まぶ)しさに、エルドは思わず顔を上げた。上げてから、しまった、と思う間もなかった。


 当主が、こちらを見ていた。


 竿を上げるところだったのだ。二尾目の岩魚を魚籠に落とし、餌をつけようとして、隣の若い釣り人に何気なく目をやった——それだけの動きの途中で、当主の手が止まった。


 朝日が、エルドの目に当たっている。


 当主の目が、見開かれた。岩のような顔が、一度、大きく動いた。口が開いて、声が出かけて——出なかった。


「……おぬし」


 それだけだった。


 潰れた声とは、違った。夜番の男の喉が締まったときの潰れ方とも、典礼官(てんれいかん)の喉が、ふぁ、で握り潰されたときの潰れ方とも、違う。声は出ている。出ている声を、この男は自分で止めた。


「名は」


「……旅の者です。人捜しの」


「人捜し」


 当主は繰り返した。繰り返して、エルドの目から目を逸らさずに、長いこと黙っていた。淵の光が、二人の顔に揺れていた。


 やがて当主は竿を引き上げた。餌を外し、竿を畳み、魚籠から岩魚を一尾取り出して、無造作にエルドの前の石に置いた。


「持っていけ。わしの魚は、うまくない。……焼く者が、いれば別だがな」


 エルドは岩魚を見た。それから当主を見た。


 当主はもうこちらを見ていなかった。竿を肩に、小道のほうへ身体を向けている。その背中に、何かを言うべきだった。何を言えばいいのかは、分からなかった。分からないまま、口を開きかけたとき——当主が、水面に向かって、低く言った。


「何も言えん」


 誰に言ったのでもない声だった。


「わしは……何も言えんのだ」


 それきり、岩のような背中は小道を登っていった。護衛が魚籠を提げてあとを追い、登りきる手前で一度だけ振り返って、エルドを見た。顎の傷のある顔は、何も言わなかった。言わないまま、杉の影に消えた。


  ◇


 沢に、水音だけが残った。


 レイフが、淵の縁から歩み寄ってきた。半歩後ろで止まる。


「……エルド様」


「聞いていたか」


「はい。……甥、と」


「ああ」


 エルドは石の上の岩魚を取り上げた。まだ冷たく、朝の光の中で、腹が銀に光っていた。


 何も言えん、と男は言った。


 縛られた喉は、潰れる。この七年で、二度見た。夜番の男も、典礼官も、言おうとして、言えなかった。あの男の声は、潰れなかった。出ている声を、自ら止めた。……言えないのではない。言わないのだ。


 なぜ言わないのかは、まだ分からない。何を言わないのかも。


 ただ、的に数えていた顔が、ひとつ、揺れた。揺れたまま、胸の内で据わりどころを失っている。


「レイフ」


「はい」


「……焼いてくれ」


 岩魚を差し出すと、レイフは両手で受け取った。受け取って、少しだけ長く、主の顔を見た。それからはい、と短く答えて、魚籠を提げた。


 朝の沢は、光っていた。水の音は、どこの川でも同じだった。


 同じでないのは、あの男が呑み込んだ言葉だ。言えないのではなく、言わない。……何を。誰のために。


 その答えを、あの背中は、丘の上へ持って上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。