間話 レイフの手記・旅の六年目「紙より先に」
——鹿の煮込みから、ふた月。春。荷継ぎ場の顔検め。マグダさんが、主を連れていった。
——主は、帳面を読んだ。マグダさんは、顔を読んだ。
◇
「塩が、減る」
荷主は、そう言った。
太った男だった。北部の街道筋で塩を商う問屋で、首に金の鎖を巻き、指には輪を三つ嵌めている。その指で、荷継ぎ場の帳場の机を、いらいらと叩いた。
「北の岩塩の樽を、月に二度、南へ送る。ここで荷車を替えて、人足を替える。……替えたあとの樽が、目減りするんだ。二つに一つ。蓋を開けると、上の塩が、指の幅ほど足りない」
「ここで、抜かれてる、と」
「ここで、だ。ここより北の宿場では、減っておらん。ここより南では、減った樽がそのまま届く。この荷継ぎ場で、誰かが、樽ごとに指の幅ほど抜いている」
マグダは、帳場の椅子に腰かけたまま、荷主の指の輪を見ていた。それから、荷継ぎ場の土間を見た。人足が四人、塩の樽を荷車から下ろしている。帳場の隅では、帳場番の若い男が、下ろされた樽の数を帳面に付けていた。
「顔検めってのはね、旦那」
マグダは言った。
「銭がかかるよ。あたしの日当と、それから、そこの若いのの日当」
そこの若いの、で、エルドは前へ出た。冬の終わりの祝いから、ふた月ほど経った春。この春で、十九になった。マグダに「あんたも来な。帳面を読める目が要る」と言われて、ついてきた。顔検めの請負で、帳面を任されるのは初めてだった。
「帳面を、読ませていただけますか」
荷主は、エルドの顔を値踏みして、それから、帳場番に顎をしゃくった。
「見せてやれ」
◇
荷継ぎ場の帳面は、よく付いていた。
日付。北から着いた荷車の数。樽の数。下ろした人足の名。南へ発った荷車の数。積んだ人足の名。荷主の言う「目減りした樽」には、南の届け先から戻ってきた文をもとに、印がついている。
エルドは、帳面を最初の頁から読んだ。
読みながら、頭の中に、表を作った。人足の名は四つ。目減りした樽の印は、このふた月で十一。十一の樽を、誰が下ろし、誰が積んだか。
表は、半刻で埋まった。
「……マグダ」
「なんだい」
「トビアスという人足です」
エルドは、帳面を開いたまま、印のついた頁を順に示した。
「目減りした十一の樽のうち、十が、トビアスの下ろした樽です。ほかの三人は、それぞれ一つか、なし。トビアスの下ろした樽の数は、四人の中でいちばん少ない。少ないのに、目減りは、いちばん多い。……帳面からは、そう読めます」
マグダは、帳面を覗き込まなかった。
覗き込まずに、土間を見ていた。四人の人足が、塩の樽を運んでいる。どれがトビアスかは、エルドには分からなかった。マグダには、分かっているようだった。
「あの、奥の。背の高い、痩せたのだよ」
「……見て、分かるのですか」
「帳場番が、あいつの樽を付けるときだけ、顔を上げない」
エルドは、帳場番を見た。二十を少し出た、色の白い、指の細い男だ。炭でも墨でもなく、安いインクで帳面を付けている。人足が樽を下ろすたびに顔を上げて数え、帳面に付ける。奥の痩せた男の樽のときも、数えた。数えて——なるほど、顔を上げなかった。帳面を見たまま、付けた。
「……偶然かもしれません」
「かもね」
マグダは、椅子から立ち上がった。
「ちび。あんたの表は、正しい。数は嘘をつかない。……ただし、数を書いた手が嘘をつかない、とは限らないんだよ」
◇
マグダは、荷主に断って、人足たちに休みを取らせた。
四人が土間の隅に座り、水を回し飲みする。マグダはその輪に、ふらりと入っていった。顔検めの女だと、四人とも知っている。知っていて、身構えている。マグダは身構えられたまま、いちばん喋る男に、荷車の話をした。次に、いちばん若い男に、南の宿場の飯屋の話をした。そのあいだ、痩せた男——トビアス——は、黙って水を飲んでいた。
「あんた、子どもは」
マグダが、トビアスに訊いた。
「……三人」
「三人。食わせるのは、大変だね」
「大変です」
それだけだった。マグダは、それ以上、トビアスに何も訊かなかった。エルドは帳場の机のそばで、帳面を閉じたまま、それを見ていた。何を訊いているのか、分からなかった。塩の話を、一度もしていない。
マグダが輪から離れて、こちらへ戻ってきた。
「あんたの目には、あの痩せたのは、どう見えた」
「……疲れて、見えます」
「ほかには」
「目が、まっすぐです。子どもの話をしたとき、少しだけ、顔が動きました。……それだけです」
「上出来だ」
マグダは、それから、帳場番のほうへ顎をしゃくった。
「あっちは、どう見えた」
エルドは、帳場番を見た。帳場番は、机に向かって帳面を整えている。整えて、インク壺の蓋を閉め、ペンを拭き、また蓋を開けた。開けて、閉めた。
「……落ち着きが、ありません」
「ほかには」
「手が」
言いかけて、エルドは、自分の言葉に引っかかった。手。帳場番の手。インクで汚れているのは、当たり前だ。だが、その手の甲が、赤い。指の付け根から、手首にかけて、皮がひび割れて、赤くなっている。春先の、乾いた風のせいかもしれない。だが——
「手が、荒れています。塩を扱う手のように」
「そうだね」
マグダは、椅子に戻って、腰を下ろした。
「帳場番の手が、塩で荒れてる。帳場番は、樽に触らない。触らなくていい役目だ。……なのに、荒れてる。それが、ひとつ」
「ひとつ」
「ふたつ。あんたの表で、トビアスの樽ばかりが目減りする。トビアスは、四人の中でいちばん樽を運んでいない。運んでいない奴の樽ばかりが減るなら、減らした奴は、トビアスの樽を選んで減らしてる。……なぜ選ぶ」
「……帳面に、書けるからです」
言ってから、エルドは、自分で分かった。
「帳面に、誰の樽か書けるのは、帳場番だけです。人足は、字が読めない。帳面に何と書かれても、分からない。……減らした樽を、トビアスの名で付ければ、紙の上では、トビアスが減らしたことになる」
「みっつ。あの帳場番は、トビアスの樽を付けるときだけ、顔を上げない。……嘘を書くときは、書くほうを見るんだよ。人は」
◇
帳場番は、観念が早かった。
マグダが、帳場の机の引き出しを開けろと言ったとき、もう顔から血の気が引いていた。引き出しには、何も入っていなかった。だが、帳場番の寝泊まりする小屋の床下からは、麻袋が三つ出た。岩塩。上等の、北の岩塩。樽から指の幅ほどずつ抜いた塩が、ふた月ぶん。
「……売るつもりでした。南で。塩は、南へ行くほど高いので」
「なぜ、トビアスの名で書いた」
荷主が訊いた。帳場番は、答えなかった。答えないので、マグダが代わりに答えた。
「字が読めなくて、口数が少なくて、子どもが三人いるからさ。……疑われても、言い返さない奴を選んだんだよ。この手の商売は、いつもそうだ」
荷主は、マグダに日当を払った。約束の倍だった。トビアスには、何も言わなかった。言わないかわりに、明日からの荷車の数を、少し増やしてやると帳場番の後任に言いつけた。それが、この荷主の詫びの言い方らしかった。
帳場番は、町の役人に引き渡された。
連れていかれる前に、帳場番は一度だけ、エルドを見た。帳面を読んだ若造を。エルドは、その目を見返した。目は、怯えていた。怯えていて、それから、ほんの少しだけ、恨んでいた。誰を恨んでいるのかは、考えないことにした。
◇
荷継ぎ場を出るとき、土間の隅に、子どもがいた。
八つか、九つの娘だ。痩せて、背が高い。水桶を両手で提げて、人足たちのほうへ運んでいく。桶が重くて、歩くたびに水が跳ねる。跳ねた水を気にして、足元ばかり見ている。
トビアスが、桶を受け取った。受け取って、何も言わずに、娘の頭に手を置いた。大きな、節の太い手だ。娘は、その手の下で、初めて顔を上げた。父と同じ、まっすぐな目だった。
上の子だ、と分かった。三人のうちの、いちばん上。
エルドは、足を止めていた。
今朝、自分が紙の上で指したのは、あの手だ。あの手が、桶を受け取って、子どもの頭に載る。数の上では、十一のうちの十だった。土間の上では、水桶をひとつ運んできた娘の、父の手だった。
娘が、こちらを見た。旅の若い者が父を見ている、というだけの顔で見て、それから、また桶を見た。
マグダが、脇を通りかかって、トビアスに一言だけ言った。
「明日から、樽が増えるよ」
トビアスは、うなずいた。
うなずいて、それから、エルドのほうを見た。帳面を読んだ若造の顔を、一度だけ見た。何も知らない目だった。知らないまま、軽く頭を下げた。旅の者に、荷継ぎ場の人足が下げる、それだけの礼だ。
エルドは、頭を下げ返した。下げ返すしか、なかった。
何も言えなかった。言うことが、なかった。詫びる筋がない。向こうは、指されたことを知らない。知らないまま、明日から樽が増える。……それでいい。それでいい、と頭では分かった。分かったまま、足が、しばらく動かなかった。
◇
宿への帰り道、エルドは、しばらく黙って歩いた。
マグダも黙っていた。黙って歩いて、宿の見えるところまで来て、ようやく口を開いた。
「言いたいことがあるんだろ」
「……私は、トビアスを疑いました」
「ああ」
「数が、そう言っていました。表は、正しかった。正しい表を作って、正しく読んで、私は、無実の男を指しました。……もし、あなたがいなければ、私は荷主に、トビアスだと言っていた」
「言ってただろうね」
「トビアスは、子どもが三人いる」
「いるね」
マグダは、立ち止まらなかった。立ち止まらずに、前を向いたまま言った。
「ちび。あんたの表は、間違ってない。紙に書いてあることを、紙のとおりに読んだ。それは、できなきゃ困る。……ただし、紙はね、書いた奴の味方をする。必ずだ。正直な奴が書けば正直な紙になるし、嘘つきが書けば嘘の紙になる。紙は、どっちの味方もできる」
「では、何を」
「顔だよ」
マグダは、そこで、少しだけ声を落とした。
「顔は、誰の味方もしない。本人の味方すら、しない。嘘を書く手は、書くほうを見る。子どもの話をされれば、疲れた男の顔が動く。塩を抜いた手は、荒れる。……顔と、手と、黙り方だ。それを、先に見な。紙は、あとでいい」
「……紙より、先に」
「そうだよ。紙より先に、人の顔」
エルドは、その言葉を、頭の中の表の、いちばん上に書いた。
書きながら、マグダの横顔を見た。マグダは、前を向いていた。いつもの、減らず口を叩くときの顔ではなかった。かといって、怒っている顔でもない。何かを、閉めている顔だった。閉めた戸の向こうに何があるのかは、訊いてはいけない。それは、この人と旅をして五年で、覚えたことだった。
「……マグダ」
「なんだい」
「今日の日当は、倍でした」
「ああ」
「私の分は」
「あんたの分は、飯だよ。それと、いまの説教だ。……高いよ、あたしの説教は」
マグダは、そこでようやく、いつもの顔に戻った。
◇
夕餉の席で、エルドは、飯を半分残した。
残したのは、腹が減っていなかったからではない。減っていた。減っていたが、匙が進まなかった。トビアスの、子どもが三人いると答えたときの顔が、椀の中に浮かんでは消えた。水桶を提げた娘の、足元ばかり見ている顔も。自分は、あの男を指した。紙を読んで。正しく読んで。
レイフが、黙って、残りの半分を食った。
マグダは、何も言わなかった。言わないかわりに、自分の杯に酒を注いで、エルドの前に、水の椀を押しやった。
「飲みな。……明日は、市だ。値切りの日だよ」
「……はい」
「あんたは、順が逆だっただけだ。次から、直しな」
「次から、直します」
「よろしい」
その晩、エルドは、寝床の中で、頭の中の表を作り直した。
人足の名。樽の数。目減りの印。そこまでは、同じだ。その上に、一行を足した。帳場番の手。トビアスの目。子どもの話をされたときの、顔の動き。数ではないものを、数の上に置いた。置いてみると、表は、昼間よりずっと、見やすかった。
◇
——主は、帳面を読んで、間違えた。マグダさんは、顔を読んで、当てた。
——主は、飯を半分残した。
——俺の帳面には、嘘は書かない。




