第21話 酒と菓子
発つはずの朝、宿の戸口に白い制服が立っていた。
「一日だけ、待っていただけませんか」
セシルは、開口一番そう言った。朝の光に洗われた参道が、その背中の向こうで丘へ登っている。ゆうべの雨で、参道の白い石はいつもより白かった。
「同僚の二人が、今日、教会の護送の組と一緒に丘へ上がります。私は詰所の調べ書きの仕上げが残っていて、明日の朝に上がる。……大所の照会は、返事を待つのではなく、自分で行って確かめるつもりです。道は同じですし、一緒に行きませんか」
「一日、延びたね」
マグダは戸口の柱にもたれて、伸びをした。旅の決まりでは、発つと決めた朝に発つ。だがこの騎士様は、道が同じだと言うときに限って、妙に律儀な顔をする。断る理由を探すほうが面倒だった。
「いいよ。一日くらい。でかいのの日雇いも、今日で上がりだ」
「恩に着ます。……それと」
セシルは、そこで少しだけ言い淀んだ。この人が言い淀むのを、マグダは初めて見た。
「今夜、伺いたいことがあります。あなたに」
「あたしに、かい」
「はい。あなたに、です」
その目つきに、覚えがあった。登録院で人相書きを直してやった日から、この騎士様は、時おりこういう目でこちらを見る。人を量る目だ。量って、まだ答えを出していない目。
「酒なら出すよ」
マグダは、それだけ言った。
◇
午前のうちに、エルドが買い出しに出た。
銅貨の袋を腰に、いつもの顔で出ていった。買い出しは七年来のあの子の受け持ちだから、それ自体は珍しくもない。ただ、出がけに「今日は、私が」と言い置いたのが少し引っかかった。何を、とは訊かなかった。訊く前に、レイフが柱の陰からこちらを見ているのに気づいたからだ。
「……なんだい」
「いえ」
「いえ、って顔じゃないよ。言いな」
「マグダの外套の、裾が」
レイフは、それだけ言って目を逸らした。
見れば、灰色の外套の裾が、ゆうべの雨でひどく汚れている。この男はそれを、夜のうちに気づいて、言おうかどうか朝まで迷っていたらしい。マグダは外套を脱いで、レイフの胸へ押しつけた。
「洗っといで。あんたの目は、そういうところだけ早いね」
「はい」
嬉しそうに——たぶん本人は嬉しそうにしているつもりはないのだが——レイフは外套を抱えて裏の井戸へ行った。マグダは柱にもたれ直して、鼻を鳴らした。
ゆうべから、この二人がおかしい。
朝、あたしの減らず口に、エルドが言い返してこなかった。あの子が言い返さないのは、熱のあるときくらいだ。レイフは、朝から三度、あたしに話しかけてきた。天気の話だ。この男が天気の話をするのを、七年で初めて聞いた。どちらも、何でもない顔でやる。何でもない顔でやるから、なお始末が悪い。七年、こんな扱いを受けたことはない。
通夜じゃないんだよ、と言いかけて、やめた。言えば二人とも、そんなつもりはないと言うだろう。実際、そんなつもりはないのだ。ただ、ゆうべあたしが話したことを、この二人は自分の腹に落として、それぞれのやり方で背負い直したのだと分かる。分かるから、余計に居心地が悪かった。
昼過ぎに、エルドが戻ってきた。抱えた包みの形が、酒壺だった。
「……ちび。それは」
「夕餉に」
エルドは、それだけ言って台所へ入っていった。
◇
夜は、宿の裏庭に出た。
祭りの余り物の桟敷の板を亭主に借りて、井戸端に低い卓を組み、燭台をひとつ置く。夏の夜気は生ぬるく、虫が鳴き、参道の上のほうでは丘の聖堂が星の下に黒く立っていた。
セシルは、日が落ちてから来た。白い制服のままだが、剣は宿舎に預けてきたらしい。かわりに、腰の周りが妙に賑やかだった。
「白いの。あんた、装備がひとつ多い」
マグダが言うと、セシルの足が止まった。
「……六つです。直剣は預けてきましたから、いまは五つ」
「じゃあ、小盾の裏の、その紙包みは何だい」
燭台の灯りで、白い制服の頬が、見る間に赤くなった。この騎士様は、嘘が下手だ。レイフといい勝負だ。
「祭りの、屋台で。……警固に立った者へ、町から一つずつ配られたものです」
「配られたにしちゃ、包みが大きいね。三つは入ってる」
「…………六つです」
観念した声だった。セシルは小盾の裏から紙包みを出して、卓の上に、規程どおりの角度で置いた。包みを開くと、蜜と胡桃を練り込んだ焼き菓子が、六つ、行儀よく並んでいた。祭りの屋台の、いちばん高い菓子だ。
「甘いものが、好きなのかい」
「……教本に、禁じる条文はありません」
「聞いてないよ、そんなことは」
「好きです」
セシルは背筋を立てて、言い切った。言い切ってから、耳まで赤くなった。マグダは声を上げて笑い、レイフの肩が揺れ、エルドが口元を袖で隠した。
「六つ、ですか」
エルドが、真面目な顔で数えた。
「巡察どのが、警固の間に屋台へ寄る隙を、いつ作ったのか。それが分からない」
「警固の割りには、交代の刻限があります。規程の範囲です」
「規程の範囲で、六つ」
「四人で分ければ、一人一つと、余りが二つです」
セシルは真顔で算段を述べ、菓子の包みを卓の真ん中へ押した。エルドは紙をひとつ添えて、一つを行儀よく割り、半分ずつ口へ運んだ。レイフは礼を言って、一つ取り、ひと口で食べ、二つ目に手を伸ばして止まり、セシルがうなずくのを見て、二つ目を取った。マグダは指でつまんで、かじった。
「……甘すぎる」
「祭りの菓子ですから」
「文句じゃないよ」
甘すぎて、悪くなかった。
◇
「伺いたいことです」
菓子が二つ残ったところで、セシルが居住まいを正した。来た、とマグダは思った。
「あなたは、——教会の、誓約審問官ですね」
井戸端が、少し静かになった。エルドとレイフは、何も言わない。ゆうべ聞いた話を、顔に出さない稽古は積んでいる。
「……何で、そう思った」
「登録院で、人相書きを直したときの手順です。目の位置を先に決めて、輪郭を後にする。あれは審問の教練の順序で、街道の目利きの順序ではない。それに、あなたは手配の綴りを、裏表紙の番号から繰った。教会の者しか知らない繰り方です」
「よく見てるね」
「見えてしまったものは、仕方がありません」
セシルは、まっすぐにそう言った。マグダは杯——ここまでは白湯だ——を回して、口の端で笑った。
「元、が付くよ」
「元、とは」
「記章を外した。何年も前にね」
セシルの背筋が、さらに伸びた。もう伸びようがない気がしたが、伸びた。
「審問官が、記章を外す。……そういうことが、あるとは、教練で習っていません」
「教本に載ってない人間が、一人くらいいたっていいだろ」
「なぜ、外したのです」
「白いのに話す義理は、まだないね」
マグダは、ひらりとかわした。かわしてから、少しだけ、付け足した。
「疑ったから外した。それだけは言っとくよ」
「何を」
「あんたの言う、背骨をさ」
セシルの目が、険しくなった。険しくなったところへ、エルドが動いた。台所へ入って、昼間の酒壺と、杯を四つ、持って出てくる。
「その話は、これを開けてからにしませんか」
「……ちび。それ、どこで買った」
「祭りの酒屋です。亭主が自分用に取ってあった壺を、値切りました」
「値切れたのかい、そんなものが」
「最後の一枚は、向こうに勝たせました」
エルドは澄ました顔で、壺の栓を抜いた。匂いで分かった。安酒ではない。この町で祭りの間だけ出る、南の葡萄で仕込んだ、いい酒だ。エルドは最初の杯を、当たり前のようにマグダの前へ置いた。
「いい酒は、もっとうまい、と教わりました。……二十歳の夜に」
「…………生意気になったね」
マグダは、杯を取った。
ひと口、含む。
喉を通ったあとに、味が残った。夜ふけに手酌でやる、あの一杯のような味のしなさが、今夜はない。
「……うまいね」
「そうでしょう」
「そうでしょう、じゃないよ。誰の銭で買った」
「私の帳付けの給金です」
エルドは、セシルにも杯を注いだ。セシルは任務中ですと言いかけ、任務はゆうべで終わりましたと自分で言い直し、規程の第何条かを口の中で数えてから、ひと口だけ舐めた。舐めて、目を丸くし、もうひと口舐めた。頬がまた赤くなった。菓子のときより、早かった。
「……甘い」
「南の葡萄の、甘口だからね。騎士様の口にも合うだろ」
「私は、酒は」
「弱いんだろ。顔に書いてある」
「書いてありません」
書いてあった。
◇
酒が半分になったころ、話は、やはりそこへ戻った。
「登録は、この国の背骨です」
セシルは、赤い顔のまま、姿勢だけは崩さなかった。
「幾百年、途切れなかった。誓いは失われない。……あなたは、それを疑ったと言う。何を見て疑ったのです」
「あたしが見たものを、あんたに見せる手はないよ。あたしの目しか、見てないからね」
「では、証拠はない」
「証拠なら、あたしがそうだ」
「あなたが、証拠とは」
「記章を外した審問官が、目の前で酒を呑んでる。教本に載ってない人間が、一人いる。……それが証拠じゃなきゃ、何だい」
「それは、証拠とは——」
「白いの。あんたの棚は、欠けが見つかっても、水損のひと言で閉まる棚だ。あんたが自分で見た棚だろ。それでも背骨だと言うのかい」
「私は、照会を出しました。写しが在れば——」
「無ければ?」
セシルが、口を閉じた。
閉じた口が、震えていた。怒っているのではない。この騎士様は、自分の信じているものに刃を当てられたとき、こういう顔をする。信じているものが、まだ本物かどうか分からないから、なお辛いのだ。マグダにも、そういう顔をしていた頃がある。二十一の頃だ。
「……まあ、聞け。二人とも」
エルドが、杯を置いた。
「マグダの言う『欠け』と、巡察どのの言う『背骨』は、同じものを違う側から見ている。棚が背骨であることと、その棚に嘘が混ざりうることは、両立する。両立するからこそ、確かめる値打ちが——」
「ちび」
「はい」
「あんたの講義は、酒が不味くなる」
エルドが心外そうな顔をし、セシルがそれでもうなずき、マグダは杯を干した。干して、酒壺を引き寄せ、それから、生ぬるい夜気に汗ばんだ首筋を掌で拭った。
「……白いのも、ちびも、頭を冷やしな。夏の夜に、熱くなりすぎだ」
言ったのは、それだけだった。
レイフが、すっと立った。
何も言わずに井戸へ行き、釣瓶を落とし、桶いっぱいに水を汲み上げた。それから宿の手拭いを二本、桶で冷やして、固く絞り、一本をセシルの前に、一本をエルドの前に、丁寧に置いた。
「井戸のが、いちばん冷えます」
誰も、何も言わなかった。
レイフは自分の席に戻って、真面目な顔で付け足した。
「夏ですし」
最初に噴き出したのは、エルドだった。
噴き出して、堪えようとして、堪えきれず、声を立てて笑った。腹を抱えて、卓に手をついて、燭台の火が揺れるほど笑った。当主の子の顔も、剣士の顔も、二十歳の顔も、どこかへ飛んでいた。残ったのは、十三の子どもの笑い方だった。
マグダは、それを見ていた。
拾った晩の顔を、この子は失くした。あたしは失くしていない。あの晩、軒下で凍えていた子は、拾ってからずいぶん長いこと、笑わなかった。初めて声を立てて笑ったのがいつだったかも、あたしは覚えている。あれから七年、こんなふうに笑うのは、数えるほどだ。その一つが、いま、井戸端の卓の上にある。
セシルは、冷たい手拭いを両手で持ったまま、赤い顔でエルドを見ていた。それから手拭いを見て、レイフを見て、自分の頬に当てた。
「……冷えます」
「はい」
「確かに、冷えます」
セシルの肩が、揺れた。堪えている。堪えて、堪えきれずに、規程の範囲で笑った。笑い方まで行儀がいい。
エルドは、笑いすぎて涙のにじんだ目を袖で拭い、自分の手拭いを額に当てて、長い息を吐いた。それから、レイフを見た。
「おまえは、時々、本当に」
「冷えましたか」
「冷えた」
それで、また笑いになった。
マグダは酒壺を傾けて、自分の杯に注いだ。二杯目も、味がした。
「……白いの」
「はい」
「丘の上で、あんたの背骨が本物かどうか、一緒に検めようじゃないか。あたしの目と、あんたの目で」
セシルは、手拭いを頬に当てたまま、少し考えた。考えて、酒で赤い顔のまま、言った。
「望むところです。……ただし、私の目が正しかったときは、あなたが謝ってください」
「いいよ。あたしの目が正しかったときは?」
「私が、菓子を六つ買います」
「取引成立だ」
卓の上に、菓子が二つ残っていた。セシルは一つを取って、自分の口に入れた。取っておいた自分の分だ。それから残りの一つを、紙ごとレイフの前へ押した。
「余りは、身体の大きい方に」
レイフは礼を言って、それも、ひと口で食べた。
◇
翌朝、四人は参道を登った。
セシルは馬を引いて歩いた。道は同じだと言った騎士様は、本当に同じ道を、同じ足で歩くらしい。参道は白い石が敷かれて、丘を巻きながら上へ延びていた。祭りの町がみるみる下になり、川が細くなり、荷を担いだ巡礼と、寄進の荷車と、大祭の飾りを運ぶ人足の列が、同じ道を上っていく。
レイフは自分の荷とマグダの荷を担ぎ、エルドは前を歩き、マグダはその後ろで、時おり伸びをした。
登りきるまで、半日かかった。
参道の最後の折れを曲がると、道が急に平らになり、視界が開けた。
白い壁だった。
壁、というより、白い山だ。石を積んだ外郭の壁が左右へ果てなく延び、その上に聖堂の屋根が幾重にも重なって、空の半分を塞いでいる。壁の前には門前の町が広がり、宿坊と旅籠と寄進の受付が軒を連ね、大祭の旗がいたるところで風をはらんでいた。丘の下から見上げていた白い影は、近くで見ると、影ではなく、ひとつの町を丸ごと呑み込む大きさだった。
四人は、道の端で足を止めた。
セシルが、胸の徽章に手を当てた。癖だ。エルドは、壁の上の聖堂を、端から端まで見ていた。レイフはその半歩後ろで、荷を担ぎ直した。
マグダは、外套の胸元に手をやった。縫い痕の、四角い手触り。
あの日の返事の一行が、この壁の内側から来た。帳面に嘘を書く手も、たぶん、この内側にある。
「……でかいね」
言えたのは、それだけだった。
大誓約教会、総本山。幾百年ぶんの約束の写しが眠るという、登録大所が、目の前にあった。




