↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/122

第21話 酒と菓子


 発つはずの朝、宿の戸口に白い制服が立っていた。


「一日だけ、待っていただけませんか」


 セシルは、開口一番そう言った。朝の光に洗われた参道が、その背中の向こうで丘へ登っている。ゆうべの雨で、参道の白い石はいつもより白かった。


「同僚の二人が、今日、教会の護送の組と一緒に丘へ上がります。私は詰所の調べ書きの仕上げが残っていて、明日の朝に上がる。……大所(たいしょ)の照会は、返事を待つのではなく、自分で行って確かめるつもりです。道は同じですし、一緒に行きませんか」


「一日、延びたね」


 マグダは戸口の柱にもたれて、伸びをした。旅の決まりでは、発つと決めた朝に発つ。だがこの騎士様は、道が同じだと言うときに限って、妙に律儀(りちぎ)な顔をする。断る理由を探すほうが面倒だった。


「いいよ。一日くらい。でかいのの日雇いも、今日で上がりだ」


「恩に着ます。……それと」


 セシルは、そこで少しだけ言い淀んだ。この人が言い淀むのを、マグダは初めて見た。


「今夜、伺いたいことがあります。あなたに」


「あたしに、かい」


「はい。あなたに、です」


 その目つきに、覚えがあった。登録院で人相書きを直してやった日から、この騎士様は、時おりこういう目でこちらを見る。人を量る目だ。量って、まだ答えを出していない目。


「酒なら出すよ」


 マグダは、それだけ言った。


  ◇


 午前のうちに、エルドが買い出しに出た。


 銅貨の袋を腰に、いつもの顔で出ていった。買い出しは七年来のあの子の受け持ちだから、それ自体は珍しくもない。ただ、出がけに「今日は、私が」と言い置いたのが少し引っかかった。何を、とは訊(き)かなかった。訊く前に、レイフが柱の陰からこちらを見ているのに気づいたからだ。


「……なんだい」


「いえ」


「いえ、って顔じゃないよ。言いな」


「マグダの外套の、裾が」


 レイフは、それだけ言って目を逸らした。


 見れば、灰色の外套の裾が、ゆうべの雨でひどく汚れている。この男はそれを、夜のうちに気づいて、言おうかどうか朝まで迷っていたらしい。マグダは外套を脱いで、レイフの胸へ押しつけた。


「洗っといで。あんたの目は、そういうところだけ早いね」


「はい」


 嬉しそうに——たぶん本人は嬉しそうにしているつもりはないのだが——レイフは外套を抱えて裏の井戸へ行った。マグダは柱にもたれ直して、鼻を鳴らした。


 ゆうべから、この二人がおかしい。


 朝、あたしの減らず口に、エルドが言い返してこなかった。あの子が言い返さないのは、熱のあるときくらいだ。レイフは、朝から三度、あたしに話しかけてきた。天気の話だ。この男が天気の話をするのを、七年で初めて聞いた。どちらも、何でもない顔でやる。何でもない顔でやるから、なお始末が悪い。七年、こんな扱いを受けたことはない。


 通夜じゃないんだよ、と言いかけて、やめた。言えば二人とも、そんなつもりはないと言うだろう。実際、そんなつもりはないのだ。ただ、ゆうべあたしが話したことを、この二人は自分の腹に落として、それぞれのやり方で背負い直したのだと分かる。分かるから、余計に居心地が悪かった。


 昼過ぎに、エルドが戻ってきた。抱えた包みの形が、酒壺だった。


「……ちび。それは」


「夕餉(ゆうげ)に」


 エルドは、それだけ言って台所へ入っていった。


  ◇


 夜は、宿の裏庭に出た。


 祭りの余り物の桟敷(さじき)の板を亭主に借りて、井戸端に低い卓を組み、燭台をひとつ置く。夏の夜気は生ぬるく、虫が鳴き、参道の上のほうでは丘の聖堂が星の下に黒く立っていた。


 セシルは、日が落ちてから来た。白い制服のままだが、剣は宿舎に預けてきたらしい。かわりに、腰の周りが妙に賑やかだった。


「白いの。あんた、装備がひとつ多い」


 マグダが言うと、セシルの足が止まった。


「……六つです。直剣は預けてきましたから、いまは五つ」


「じゃあ、小盾(こだて)の裏の、その紙包みは何だい」


 燭台の灯りで、白い制服の頬が、見る間に赤くなった。この騎士様は、嘘が下手だ。レイフといい勝負だ。


「祭りの、屋台で。……警固に立った者へ、町から一つずつ配られたものです」


「配られたにしちゃ、包みが大きいね。三つは入ってる」


「…………六つです」


 観念した声だった。セシルは小盾の裏から紙包みを出して、卓の上に、規程どおりの角度で置いた。包みを開くと、蜜と胡桃(くるみ)を練り込んだ焼き菓子が、六つ、行儀よく並んでいた。祭りの屋台の、いちばん高い菓子だ。


「甘いものが、好きなのかい」


「……教本に、禁じる条文はありません」


「聞いてないよ、そんなことは」


「好きです」


 セシルは背筋を立てて、言い切った。言い切ってから、耳まで赤くなった。マグダは声を上げて笑い、レイフの肩が揺れ、エルドが口元を袖で隠した。


「六つ、ですか」


 エルドが、真面目な顔で数えた。


「巡察どのが、警固の間に屋台へ寄る隙を、いつ作ったのか。それが分からない」


「警固の割りには、交代の刻限があります。規程の範囲です」


「規程の範囲で、六つ」


「四人で分ければ、一人一つと、余りが二つです」


 セシルは真顔で算段を述べ、菓子の包みを卓の真ん中へ押した。エルドは紙をひとつ添えて、一つを行儀よく割り、半分ずつ口へ運んだ。レイフは礼を言って、一つ取り、ひと口で食べ、二つ目に手を伸ばして止まり、セシルがうなずくのを見て、二つ目を取った。マグダは指でつまんで、かじった。


「……甘すぎる」


「祭りの菓子ですから」


「文句じゃないよ」


 甘すぎて、悪くなかった。


  ◇


「伺いたいことです」


 菓子が二つ残ったところで、セシルが居住(いず)まいを正した。来た、とマグダは思った。


「あなたは、——教会の、誓約審問官(せいやくしんもんかん)ですね」


 井戸端が、少し静かになった。エルドとレイフは、何も言わない。ゆうべ聞いた話を、顔に出さない稽古は積んでいる。


「……何で、そう思った」


「登録院で、人相書きを直したときの手順です。目の位置を先に決めて、輪郭を後にする。あれは審問の教練の順序で、街道の目利きの順序ではない。それに、あなたは手配の綴(つづ)りを、裏表紙の番号から繰った。教会の者しか知らない繰り方です」


「よく見てるね」


「見えてしまったものは、仕方がありません」


 セシルは、まっすぐにそう言った。マグダは杯——ここまでは白湯だ——を回して、口の端で笑った。


「元、が付くよ」


「元、とは」


「記章を外した。何年も前にね」


 セシルの背筋が、さらに伸びた。もう伸びようがない気がしたが、伸びた。


「審問官が、記章を外す。……そういうことが、あるとは、教練で習っていません」


「教本に載ってない人間が、一人くらいいたっていいだろ」


「なぜ、外したのです」


「白いのに話す義理は、まだないね」


 マグダは、ひらりとかわした。かわしてから、少しだけ、付け足した。


「疑ったから外した。それだけは言っとくよ」


「何を」


「あんたの言う、背骨をさ」


 セシルの目が、険しくなった。険しくなったところへ、エルドが動いた。台所へ入って、昼間の酒壺と、杯を四つ、持って出てくる。


「その話は、これを開けてからにしませんか」


「……ちび。それ、どこで買った」


「祭りの酒屋です。亭主が自分用に取ってあった壺を、値切りました」


「値切れたのかい、そんなものが」


「最後の一枚は、向こうに勝たせました」


 エルドは澄ました顔で、壺の栓を抜いた。匂いで分かった。安酒ではない。この町で祭りの間だけ出る、南の葡萄(ぶどう)で仕込んだ、いい酒だ。エルドは最初の杯を、当たり前のようにマグダの前へ置いた。


「いい酒は、もっとうまい、と教わりました。……二十歳の夜に」


「…………生意気になったね」


 マグダは、杯を取った。


 ひと口、含む。


 喉を通ったあとに、味が残った。夜ふけに手酌(てじゃく)でやる、あの一杯のような味のしなさが、今夜はない。


「……うまいね」


「そうでしょう」


「そうでしょう、じゃないよ。誰の銭で買った」


「私の帳付(ちょうつ)けの給金です」


 エルドは、セシルにも杯を注いだ。セシルは任務中ですと言いかけ、任務はゆうべで終わりましたと自分で言い直し、規程の第何条かを口の中で数えてから、ひと口だけ舐(な)めた。舐めて、目を丸くし、もうひと口舐めた。頬がまた赤くなった。菓子のときより、早かった。


「……甘い」


「南の葡萄の、甘口だからね。騎士様の口にも合うだろ」


「私は、酒は」


「弱いんだろ。顔に書いてある」


「書いてありません」


 書いてあった。


  ◇


 酒が半分になったころ、話は、やはりそこへ戻った。


「登録は、この国の背骨です」


 セシルは、赤い顔のまま、姿勢だけは崩さなかった。


「幾百年、途切れなかった。誓いは失われない。……あなたは、それを疑ったと言う。何を見て疑ったのです」


「あたしが見たものを、あんたに見せる手はないよ。あたしの目しか、見てないからね」


「では、証拠はない」


「証拠なら、あたしがそうだ」


「あなたが、証拠とは」


「記章を外した審問官が、目の前で酒を呑んでる。教本に載ってない人間が、一人いる。……それが証拠じゃなきゃ、何だい」


「それは、証拠とは——」


「白いの。あんたの棚は、欠けが見つかっても、水損のひと言で閉まる棚だ。あんたが自分で見た棚だろ。それでも背骨だと言うのかい」


「私は、照会を出しました。写しが在れば——」


「無ければ?」


 セシルが、口を閉じた。


 閉じた口が、震えていた。怒っているのではない。この騎士様は、自分の信じているものに刃を当てられたとき、こういう顔をする。信じているものが、まだ本物かどうか分からないから、なお辛いのだ。マグダにも、そういう顔をしていた頃がある。二十一の頃だ。


「……まあ、聞け。二人とも」


 エルドが、杯を置いた。


「マグダの言う『欠け』と、巡察どのの言う『背骨』は、同じものを違う側から見ている。棚が背骨であることと、その棚に嘘が混ざりうることは、両立する。両立するからこそ、確かめる値打ちが——」


「ちび」


「はい」


「あんたの講義は、酒が不味(まず)くなる」


 エルドが心外そうな顔をし、セシルがそれでもうなずき、マグダは杯を干した。干して、酒壺を引き寄せ、それから、生ぬるい夜気に汗ばんだ首筋を掌(てのひら)で拭った。


「……白いのも、ちびも、頭を冷やしな。夏の夜に、熱くなりすぎだ」


 言ったのは、それだけだった。


 レイフが、すっと立った。


 何も言わずに井戸へ行き、釣瓶(つるべ)を落とし、桶(おけ)いっぱいに水を汲(く)み上げた。それから宿の手拭いを二本、桶で冷やして、固く絞り、一本をセシルの前に、一本をエルドの前に、丁寧に置いた。


「井戸のが、いちばん冷えます」


 誰も、何も言わなかった。


 レイフは自分の席に戻って、真面目な顔で付け足した。


「夏ですし」


 最初に噴き出したのは、エルドだった。


 噴き出して、堪えようとして、堪えきれず、声を立てて笑った。腹を抱えて、卓に手をついて、燭台の火が揺れるほど笑った。当主の子の顔も、剣士の顔も、二十歳の顔も、どこかへ飛んでいた。残ったのは、十三の子どもの笑い方だった。


 マグダは、それを見ていた。


 拾った晩の顔を、この子は失くした。あたしは失くしていない。あの晩、軒下で凍えていた子は、拾ってからずいぶん長いこと、笑わなかった。初めて声を立てて笑ったのがいつだったかも、あたしは覚えている。あれから七年、こんなふうに笑うのは、数えるほどだ。その一つが、いま、井戸端の卓の上にある。


 セシルは、冷たい手拭いを両手で持ったまま、赤い顔でエルドを見ていた。それから手拭いを見て、レイフを見て、自分の頬に当てた。


「……冷えます」


「はい」


「確かに、冷えます」


 セシルの肩が、揺れた。堪えている。堪えて、堪えきれずに、規程の範囲で笑った。笑い方まで行儀がいい。


 エルドは、笑いすぎて涙のにじんだ目を袖で拭い、自分の手拭いを額に当てて、長い息を吐いた。それから、レイフを見た。


「おまえは、時々、本当に」


「冷えましたか」


「冷えた」


 それで、また笑いになった。


 マグダは酒壺を傾けて、自分の杯に注いだ。二杯目も、味がした。


「……白いの」


「はい」


「丘の上で、あんたの背骨が本物かどうか、一緒に検めようじゃないか。あたしの目と、あんたの目で」


 セシルは、手拭いを頬に当てたまま、少し考えた。考えて、酒で赤い顔のまま、言った。


「望むところです。……ただし、私の目が正しかったときは、あなたが謝ってください」


「いいよ。あたしの目が正しかったときは?」


「私が、菓子を六つ買います」


「取引成立だ」


 卓の上に、菓子が二つ残っていた。セシルは一つを取って、自分の口に入れた。取っておいた自分の分だ。それから残りの一つを、紙ごとレイフの前へ押した。


「余りは、身体の大きい方に」


 レイフは礼を言って、それも、ひと口で食べた。


  ◇


 翌朝、四人は参道を登った。


 セシルは馬を引いて歩いた。道は同じだと言った騎士様は、本当に同じ道を、同じ足で歩くらしい。参道は白い石が敷かれて、丘を巻きながら上へ延びていた。祭りの町がみるみる下になり、川が細くなり、荷を担いだ巡礼と、寄進の荷車と、大祭の飾りを運ぶ人足(にんそく)の列が、同じ道を上っていく。


 レイフは自分の荷とマグダの荷を担ぎ、エルドは前を歩き、マグダはその後ろで、時おり伸びをした。


 登りきるまで、半日かかった。


 参道の最後の折れを曲がると、道が急に平らになり、視界が開けた。


 白い壁だった。


 壁、というより、白い山だ。石を積んだ外郭(がいかく)の壁が左右へ果てなく延び、その上に聖堂の屋根が幾重(いくえ)にも重なって、空の半分を塞いでいる。壁の前には門前の町が広がり、宿坊(しゅくぼう)と旅籠(はたご)と寄進の受付が軒を連ね、大祭の旗がいたるところで風をはらんでいた。丘の下から見上げていた白い影は、近くで見ると、影ではなく、ひとつの町を丸ごと呑み込む大きさだった。


 四人は、道の端で足を止めた。


 セシルが、胸の徽章(きしょう)に手を当てた。癖だ。エルドは、壁の上の聖堂を、端から端まで見ていた。レイフはその半歩後ろで、荷を担ぎ直した。


 マグダは、外套の胸元に手をやった。縫い痕の、四角い手触り。


 あの日の返事の一行が、この壁の内側から来た。帳面に嘘を書く手も、たぶん、この内側にある。


「……でかいね」


 言えたのは、それだけだった。


 大誓約(だいせいやく)教会、総本山。幾百年ぶんの約束の写しが眠るという、登録大所(とうろくたいしょ)が、目の前にあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。