第20話 三歩
祭りの朝は、太鼓で明けた。
川霧が晴れるより早く、太鼓と笛が町じゅうの戸を叩いて回った。マグダは川端の人垣の後ろ、荷車の陰に立って、対岸の式場を見ていた。ゆうべ検めの灯がひとつきりで巡っていた祭壇に、今朝は幕が張られ、花と酒が並び、町じゅうの目が集まっている。
その真ん中に、痩せた官服がいた。
典礼官だ。遠目には、几帳面な役人にしか見えない。式官の読み上げに合わせてうなずき、供の者に短く指図する。ただ、綴りを繰る指が、数え直しに戻らない。この三日、筆耕のエルドが詰所で拾ってきた話では、あの男は下の者が数えたものを一つも信じず、何もかも自分で数え直すのだという。今朝は、うなずくだけだ。詰所の連中も、あの指が止まっているのには気づくだろう。気づいて、理由までは分からない。ゆうべ、あの喉から楔が一つ抜けた。数えて、数えて、数え直さずにいられなかったのは、あの楔のせいだ。マグダは、そう見た。
警固も、変わっていない。エルドが写してきた割り札のとおりに、白い制服が橋の両袂と桟敷の裏に立っている。祭りが済めば王都へ戻り、しかるべき筋へ報せが行く。猶予は自分の足の遅さだけだ——ゆうべ、あの男はエルドにそう言ったという。報せより先に旅の三人を捕まえる気なら、今朝の警固がゆうべのうちに変わっているはずで、それが変わっていない。役目には殉じる。だが、急がない。少なくとも今朝までは、あの男は自分の言ったとおりに動いている。
橋のこちらの袂で、白い制服のひとつが人垣をゆっくり見わたした。編んで束ねた淡い金の髪。セシルだ。その目がマグダの上で、ほんの少し長く留まり、顎がわずかに引かれた。会釈というほどのものでもない。マグダも、杯を持ち上げる真似で返した。杯はない。癖だ。
あの騎士様は、ゆうべのことを何も知らない。知らないまま、今日も規程どおりに立っている。知れば動く。動けば、務めと情の間で引き裂かれるだろう。だから、白いのには黙っておくと決めた。決めたのは、あたしとあの子だ。
人垣の少し先に、レイフの背中がある。その隣に、エルドがいる。二人とも、祭りを見物する旅人の顔にしか見えない。
ゆうべ、あの子は二度目を払った。何を払ったのかは、本人にも分からない。一度目のときも、そうだった。欠けたものは、欠けたことが分からない。ゆうべ橋を戻ってきたときも、今朝の麦の粥のときも、エルドは何ひとつ変わって見えなかった。よく食い、よく喋り、割り札の書き損じを笑った。いまも人垣の中で、いつもの位置にレイフを置いて笑っている。
見つからないことが、いちばん性質が悪い。
橋の上で、太鼓が鳴った。
町の長と橋普請の親方が壇に上がり、式官の先導で、この橋の普請に偽りなきことを誓う。交わした二人の手の甲に、薄青い紋が浮くのが遠目にも分かった。人垣が沸く。渡り初めだ。子どもたちが先頭を取り合って、親に襟首を掴まれて笑われている。
誓いのある国の、まっとうな祭りの一幕だった。
マグダは荷車の陰を離れた。明日の朝、この町を出る。宿の亭主にはもう告げてある。行き先は、丘の上だ。
◇
夕立は、祭りの終わりを待たずに来た。
午後の空が急に暗くなり、風が飾り紐を鳴らし、大粒の雨が桟敷の筵を叩きはじめた。囃子が乱れ、人垣が崩れ、通りは軒下へ逃げ込む人の頭で埋まった。
マグダは、ひとりだった。レイフは桟敷を畳む日雇いに出ている。エルドは筆耕の詰所へ、写しの残りと給金を取りに戻った。マグダは白い制服の割りがまだ変わっていないかを、もう一度だけ確かめに騎士団の詰所の前を通り、その帰りで夕立に捕まった。
荷継ぎ場の脇の、古い荷小屋の軒下へ滑り込んで、外套の雨を払う。軒先から雨が糸のように落ちて、通りの土を跳ねた。誰もいない。荷小屋の軒下に、女がひとり、雨の上がるのを待っているだけだ。
……七年前、あの子らと出会った晩も雨だった。
あのときは、あたしが追い立てる側だった。酒場の亭主に裏を見てこいと言われて、明かりも持たずに回った。軒下に、影がふたつ。小さいほうが壁にもたれて座り込み、大きいほうが、ぼろぼろのくせに立ち上がって、あたしとの間に身体を入れた。それから、小さいほうが目を開けた。熱で、焦点も合っていない目だった。
その子が、追い立てに来たあたしに、礼を言った。
あたしは、一度は背を向けた。三歩、歩いた。三歩で止まった。
あの三歩は、いまも数えられる。あたしは、一度だって忘れちゃいない。忘れたいものを忘れられないこの頭が、忘れたくないもののほうも、ちゃんと取っておいてくれた。この頭に礼を言えるのは、そこだけだ。
雨の音だけが、しばらく軒を打っていた。
マグダは、外套の胸元に手をやった。縫い痕の、四角い手触り。
あの子は、明日、丘の上に行く。その前に話しとかなきゃならないことがある。
外套の襟を立てて、雨の中へ出た。裾がすぐに泥を吸って、重くなった。
◇
夜になっても、雨は降り続いていた。
宿の部屋は狭く、卓の上の灯りはひとつきりで、窓の向こうでは祭りの残りの灯が雨ににじんでいた。丘は見えない。雨と闇が、聖堂ごと隠していた。
レイフは日雇いから戻って、濡れた髪を拭いている。エルドは給金の銅貨を数え終えて、袋の口を締めたところだった。
マグダは椅子の背から外套を取り、膝の上に広げた。灰色の、色の抜けた外套。胸の縫い痕を、指の腹でなぞる。四角い、糸の痕だ。この二人は、この痕のことを一度も訊かなかった。
「これはね、記章を外した痕だ」
二人とも、何も言わなかった。
「誓約審問官。教会の役目のひとつでね。誓いにまつわる罪を調べて、裁く。悪用された誓い、偽りの立会、誓いを騙る連中。白いのが縛って、あたしらが裁く。……十五で教会に入って、二十歳になる前に記章を貰った。理由は大したもんじゃないよ。家に食い扶持がなくて、たまたま嘘を見抜く目があった。それだけさ」
「……剣の足さばきも」
エルドが言った。
「人相書きの直し方も。顔検めの手際も。教会の稽古でしたか」
「察しがいいね。七年、黙ってたのに」
「七年、訊きませんでした」
「そうだね。あんたたちは、訊かなかった」
マグダは少し笑って、笑いを引っ込めた。ここから先は、笑って話せる話ではない。
「記章を貰って二年目、二十一のときだ。西のほうの、名前も言いたくない町でね。ひとりの男を裁いた。桶屋の職人だ。歳は三十そこそこ。女房と、幼い娘がいた」
レイフが、身じろぎもせずに聞いていた。エルドは膝の上で手を組んでいる。
「訴えがあった。あの男は、町の大商人の命を取ると誓った、とね。害意の誓い——誓約犯罪の中で、いちばん重いやつだ。誓いは破れない。誓った者は、いつか必ずそこへ向かう。閉じ込めておけば実行は阻めるが、閉じ込めておくにも限りがある。だから、命を取ると誓った者の裁きは、昔から決まってる」
マグダは、自分の右手を見た。
「あたしは登録院へ行って、あの男の記録を検めた。……あったよ。ふた月前の日付で、立会人の署名と、教会の印。文言は、まさしく害意の誓いだった。男を呼んで、紋を検めた。右手の甲に、紋が一つ。男は言った。これは年季奉公の誓いだ、親方に立てた、五年目だ、と。女房も、そう言った。親方も、そう言った」
「記録には」
「年季奉公の登録は、無かった。害意の登録だけが、あった」
灯りが、雨の湿りで小さく揺れた。
「人は嘘をつく。登録は嘘をつかない。……教会に入って最初に習うのが、それでね。人の言い分が三つあって、それと違う登録が一つ。あたしは、一つのほうを取った。二十一の小娘が、裁きの席で、三人の口より一枚の頁を信じたんだよ」
「……あなたの目は」
「見えてたよ」
マグダは、先回りして言った。
「男の目も、女房の声も、親方の足の運びも。三人とも嘘をついちゃいないと、あたしの目は言ってた。見えてて、記録を取った。教わったとおりにね」
マグダは外套の縫い痕を、親指で押さえた。
「審問官が裁いた首は、審問官が落とす。裁く重さを忘れないための決まりだ。……忘れてないよ。決まりどおりだ」
それ以上のことは言わなかった。言わなくても、二人には通じたらしい。エルドの組んだ指に力がこもった。レイフは、目を逸らさなかった。逸らさずに、マグダを見ていた。
「ひと月後に、親方が訪ねてきた。年季の証文の控えを持ってね。教会の印も、立会人の署名も、ちゃんとあった。あたしは登録院へ戻って、あの男の頁をもう一度検めた。……頁が、違ったんだよ。前後の頁と、漉きが違う。それに、害意の誓いの立会人として署名してあった式官は、その日付の一年前に、流行り病で死んでいた」
「……死んだ者が、立会を」
「記録の上ではね」
エルドが息を止めたのが分かった。
「あたしは上へ言った。登録院の書役長に。書役長は、大所へ上げた。あの丘の上の、登録の上へ。返事が来るまで、ひと月かかった。返事は一行だった。——検めの上、登録に誤りなし。審問官は己の目を疑うべし。……男の頁の綴じは、検めのために大所へ運ばれて、それきり戻ってこなかった」
雨が、窓を打っていた。
「その晩に、記章を外した。あとは、あんたたちの知ってるとおりだ。流れて、呑んで、人を見立てるのはやめた。……見えてたのに手を止められなかった目なんぞ、無いほうがましだと思ってね。それに、人を見りゃ、情が動く。動けば、また選ばなきゃならなくなる。人の首の重さを量るのは、もう御免だった。だから、見ないことにした。夜ふけの一杯の味がしなくなったのも、その晩からだよ。……誰があの頁を書いたのか、何のためにあの男が死ななきゃならなかったのか、いまも知らない。知らないまま、あたしはあの男の顔を、日に一度は思い出す。道具を娘に渡してくれと、あたしに頼んだ顔をね」
マグダはそこで初めて、エルドの目をまっすぐに見た。
「登録は嘘をつかない。……なら、登録に嘘を書く手が、あの丘の上にある。七年前からじゃないよ。あたしが記章を外した八年前には、もう」
エルドは、長いこと黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「登録院の書役は、水損と言いました」
「聞いたよ」
「典礼官は、水は選んで漏らん、と」
「……そうかい」
マグダは、それだけ返した。あの子が何を考えているかは分かる。分かるから、先は言わせなかった。
「それで、ちび。あんたに言っておきたいのは、ひとつだけだ」
外套を畳んで、椅子の背に戻す。
「あたしと同じ間違いをするんじゃないよ。的は、確かめてから振り下ろしな。……あたしは、登録の一枚を信じて人を殺した。あんたはいま、登録の欠けを手がかりに、丘の上へ行こうとしてる。上には棚がある。棚に嘘を書く手がある。その手が誰のものかは、どの頁にも書いてない。教えてくれるのは、人だ。顔も、手も、黙り方も。あんたはこの七年で、人を読む目を仕込まれてる。……使いな。記録より先に」
「……はい」
エルドはうなずいた。それから少し間を置いて、訊いた。
「あなたは、人を見立てるのをやめていた。……ですが、あなたの目は、やめても見えてしまう。七年、そばで見てきました。あの晩も、見えていたはずだ。私たちが追われている者で、厄介の種だと。……なら、なぜ、私たちを」
七年、この子が一度も訊かなかった問いだ。マグダは笑いかけて、やめた。
「見えてたよ」
自分でも、思ったより静かな声が出た。
「酒場の亭主に、裏の荷小屋の軒に流れ者が居着いてるから追い払えと言われてね。明かりも持たずに行ったら、でかいのが立った。膝が、もう駄目になってるのにさ。あたしと、あんたの間に、身体を入れた。追われてる者の背中だってことは、ひと目で分かった。北の訛りも、聞き取れた。厄介の種だってことは、見立てるまでもなかった。それから、あんたが目を開けた。熱で、目の焦点も合ってない。その子が、追い立てに来た女に、礼を言ったんだよ」
話しながら、マグダはエルドの顔を見ていた。癖だ。人に何かを話すとき、この目は勝手に相手の顔を読む。
「あたしは、一度は背を向けた。三歩、歩いた。三歩で止まって、戻った。……厄介だと分かってて、戻ったんだ。目の前で凍えてる子どもがいて、それを庇って立ったまま倒れかけてる子どもがいた。桶屋のときは、この目が見たものを捨てて、記録を取った。あの軒下では、この目が見たものを、丸ごと取った。追われてる背中も、凍えた子どもも、いっしょにね。記章を外してから、あたしが自分の目で選んだのは、あの三歩が初めてだ。それだけは、忘れてない」
そこまで言って、口を閉じた。
まだ、話は終わっていなかった。あの晩、この子が何と言ったのか。そこまで話すつもりだった。
エルドの顔が、違っていた。
七年、この顔を見てきた。人の話に相槌を打つときも、覚えていることを人の口から聞くときも、自分の話を他人に語られて照れるときも、みんな知っている。いまのは、そのどれでもなかった。川の日の魚の話を、道々レイフから聞いていたときと同じだ。初めての話を、初めて聞いている顔だった。
「……ちび」
「はい」
「あんた、いま、初めて聞く顔をしてるね」
エルドは、すぐには答えなかった。膝の上で組んだ手をほどいて、自分の右手を見た。それから、目を閉じて、開けた。何かを探しに行って、手ぶらで戻ってきた者の目だった。
「……熱が、ありました」
最初に出たのは、それだった。
「あの晩は、熱があった。はっきりしない晩だったはずです。……ですが、はっきりしないものが、あるはずだ。寒かったことでも、雨の音でも、何でもいい。それが、ない。軒も、雨も、あなたが来たことも。霞んでさえいない」
声は落ち着いていた。この子は取り乱さない。十三のときには匙を鳴らしたのに、二十歳のいまは、自分の中の穴を、順に言葉にする。泣かれるより、応えた。
「あなたに拾われたことは、知っています。……あの晩に、私がいない。それだけです」
雨の音が、しばらく部屋を埋めた。
「ゆうべ、私は誓いを断った。おそらく、それでしょう」
マグダの手が、卓の上で杯を探した。杯は無い。今夜は、白湯も出していなかった。
「……帳面に、あります」
レイフが低く言った。マグダを見ず、エルドを見ず、膝の上の自分の手を見て言った。
「あの晩のことも。……あとで、話します。何度でも」
「ああ。……頼む」
それだけの、短いやり取りだった。
マグダは、椅子の背の外套に目をやった。
あの晩は、三人で持っていたものだ。でかいのは帳面に、あたしは三歩に、この子は軒下の礼に。それぞれの分を持って、七年抱えてきた。今夜は、あたしの分を渡してやるつもりで話しはじめた。……この子の分が、無くなっていた。あたしの三歩は、あたしの手元に残った。あの男の顔と、同じ場所に仕舞うことになる。
持っていかれるのは、失くしても構わないものではないらしい。川の日も、あの晩も。
あの晩は、この子の七年の始まりだ。そこから先のことは、みんなあたしが仕込んだ。値切りも、嘘の見抜き方も、北の話が出たときの目の伏せ方も。仕込んだ分は、この子の中に残っている。始まりの晩だけが、抜けた。
「……あたしはね」
声が、少し掠れた。咳払いで直した。
「忘れられないたちなんだよ。忘れたいことほど、忘れない。……だから、忘れたくないほうも、忘れないでいてやるよ。あの三歩は、あたしが持ってる。あんたが持ってなくても、無くなりゃしない」
エルドは、マグダを見た。
それから、膝は折らず、胸から上だけを静かに傾けて、また戻した。七年前、市場の人混みの向こうに見て、どこの若様だいと胸の内で茶化した、あの辞儀だった。
「……痛み入ります」
マグダは、聞いた。
聞いて、何も言わなかった。同じ言葉だ。雨の軒下で、熱に浮かされた頭から素のまま出てきた、あの古風な礼と。本人は、気づいていない。気づきようがない。レイフが目を上げて、マグダを見た。この男も、分かったのだ。分かって、何も言わなかった。
あの晩は消えても、あの晩に礼を言った子は、ここにいる。
何を言えばいいのか、マグダには分からなかった。分からないから、言わなかった。同じ言葉だと教えるのは、あたしの役目ではない。レイフの帳面が、いつか渡す。
「マグダ」
窓の外を見ていたエルドが、こちらを向いた。
「上へ行きます。登録の上へ。……あなたは、来なくていい。あなたの記章を外させた場所だ」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
マグダは、伸びをひとつして、立ち上がった。
「あたしの記章に返事を書いた手が、あの上にある。……行くよ。今度は、あたしも」
エルドは何も言わなかった。レイフが革袋の紐を解いて、帳面を出した。炭を削る音が、雨に混じって始まった。
◇
夜半になっても、雨は上がらなかった。
弱くはなった。窓を打っていた音が、屋根を流れる音に変わっている。マグダは寝床に横になって、天井を見ていた。炭の音は、まだ続いていた。
忘れられない女と、忘れていく子が、同じ部屋で雨の音を聞いている。
あの男の顔を、持っていけるものなら持っていってくれと、あたしは何度も思った。記憶の一つや二つ、代わりにくれてやるからと。……今夜から、それは言えない。忘れるほうが楽だとは、二度と言わない。忘れないほうが楽だとも、言わない。
ただ、今度は——
マグダは、そこで考えるのをやめた。口に出すより、そばにいるほうが早い。
丘は、見えない。雨と闇の向こうに、白い聖堂が立っている。幾百年ぶんの約束の写しが眠るという、登録大所。あそこには、この子の家が燃えるよりずっと前から、嘘を書く手がある。
明日、その真下へ登る。




