第19話 言えないことば
夜の橋は、祭りの灯を背負って渡ると、自分の影が先に立った。
影を踏むように、エルドは渡り切った。振り返らない。対岸の川端では、マグダが退き足の舟と道を見ている。こちらの岸では、桟敷の資材の陰にレイフがいる。典礼官の供は二人、式場の入口の篝火の脇で退屈そうに立っていた。単身の検めの習いは、供にとっては毎年の退屈らしい。その退屈の脇を、祭りの下働きの顔で通る。人は、退屈しているときほど、人を見ない。
祭壇の組み木の陰に入ると、囃子の音が薄れた。
検めの灯は供物の台の並びを巡っているところだった。手提げの灯りが止まるたび、痩せた影が屈んで指が何かを数え、また立つ。近くで見るその手つきは、几帳面というより、祈りに似ていた。
エルドは、灯の届く手前で足を止めた。
「夜分に、恐れ入ります」
灯が、こちらを向いた。
「……祭りの支度は、明朝からのはずだが」
「筆耕です。式次第の写しのことで、伺いたいことがあり」
「筆耕」
典礼官は灯を掲げた。老いはじめた目が、暗がりの中の顔を探す。見つける。昼の中庭の、あの半歩の戻りと同じ止まり方で、止まった。
「……おまえ、昼の。裏口の」
「はい」
「筆耕の用向きなら、明日、詰所を通せ。ここは検めの最中だ。誰も入れぬ決まりで」
「七年前の冬の」
エルドは、静かに言った。
「北の宴の段取りのことで、伺いに来ました」
灯が、揺れた。
風はなかった。揺れたのは、持つ手のほうだった。典礼官は灯を供物の台に置き、置くまでの三つの動作で顔から表情を仕舞い終えていた。段取りの人は、狼狽の仕舞い方まで段取っているらしかった。ただ、置いた灯の位置が、台の縁から半寸ずれていた。
「……何の話か、分からんな」
「ファーレン家の宴です。あなたが席次を組み、立会の兵の持ち場を割った、あの」
「知らん。私は——」
言葉が、そこで潰れた。
典礼官の喉仏が上下し、顎が小さく震えた。何かを言おうとして、言えない。エルドはその途切れ方を、川べりの夜番小屋で一度見ている。男は目を見開いて、それでも声を絞ろうとして、絞れず、代わりに口の形だけが動いた。読めるほど、はっきりと。
——その、目。
典礼官の視線は、エルドの目に釘付けになっていた。琥珀の色。昼の中庭で半歩戻ったのは、気のせいではなかったのだ。この男は七年前、壇の脇で、同じ色の目を二対、見ている。当主の目と、その息子の目を。
「ふぁ……」
声が、また潰れた。ファーレンの三文字が、喉の途中で握り潰される。生き残りがいると言うことすら、あの夜のことを明かすうちに入るのだろう。男は自分の喉を掴み、それから掴んだ自分の手を見下ろして、力なく下ろした。
「……言えないのですね」
エルドは、一歩、灯の輪の中に入った。
「あなたの喉には、口封じの誓いがある。あの夜のことは、生涯、誰にも、どんな形でも明かさない。……街道の宿で、あなたが討ち手の兵たちに立てさせた、あれと同じものが」
典礼官は、答えなかった。答えられないのだ。是とうなずくことも、否と首を振ることも、あの文言の内側にある。ただ、その目だけが、暗がりの中で問うていた。なぜそれを知っている。おまえは、誰だ。……いや。問うまでもなく、この男はもう分かっている。分かっていることを、口にできないだけだ。
「ひとつだけ、先に言っておきます」
エルドは言った。
「私は、あなたを斬りに来たのではありません。聞きに来ました。……あなたが七年、言えなかったことを」
「……言える言葉と、言えない言葉が、ある」
典礼官の声は、掠れていた。
「七年、その境目を探して生きてきた。どこまでなら喉が通るか。どの言い方なら、夜中に汗をかかずに済むか。……私は段取りを組んだだけだ。これは、言える。何度でも言える。言えるように、言葉のほうを削ったからだ」
「では、削られる前の言葉を」
「言えん。……言えんのだ。分かっているのだろう、おまえは」
男の目の縁が、赤かった。川べりの夜番と同じ色だった。言いたいのだ。この男もまた、七年、言いたくて言えなかった。ただ夜番の男とちがって、この男は言えない自分を段取りで包み、検めで埋め、勘定の合う顔で七年を渡ってきた。
エルドは祭壇の組み木を見上げた。
「前夜の検めを、七年、一度も欠かしていないそうですね」
「……習いだ」
「何を、検めているのです」
典礼官は、黙った。長い沈黙だった。やがて、言える言葉を探し当てた者の、慎重な声が来た。
「数え間違いがないかどうかだ。……七年前、私の段取りに、数え間違いはひとつもなかった。席次も、持ち場も、刻限も、完璧だった。完璧だったことを、私は」
喉が鳴った。その先は、言えない言葉だったらしい。男は口をつぐみ、目を閉じ、開いた。
「——以来、検める。祭りのたびに、式のたびに。数えて、数えて、数え直す。それしか、できんからだ」
験担ぎではなかった。詫びですらない。あれは、償いの形を知らない男が、償いの代わりに続けている、たったひとつの動作なのだった。
「……典礼官どの。あなたのその誓いを」
エルドは自分の右手を開いた。
「私は、解くことができます」
◇
男は、笑った。
疲れた、紙のような笑いだった。
「誓いは、解けん。教会にも、王にも、解けん。子どもでも知っている」
「ええ。誰にも解けません。……ですが、断てる血が、ひとつだけある」
典礼官の笑いが、止まった。
エルドの目を、まっすぐに見た。琥珀の色を。それから声にならない声で、唇だけが動いた。ふぁ、まで行って潰れる、さっきと同じ形に。だが今度はその潰れた形のまま、男の表情がゆっくりと変わっていった。恐怖に、と言っていい。だがその恐怖の底に、川べりの夜番と同じものが確かに透けていた。
願いだ。
「……検めてくれ」
典礼官は、襟元に手をかけた。官服の几帳面な合わせを開くと、喉仏の下に、薄青い組紐形の紋があった。夜番の男のものより、線が細く、縁の黒ずみはない。破ろうと足掻いた痕のない、几帳面な紋だった。この男は、足掻きすらしなかったのだ。境目の内側で、七年、行儀よく苦しんできた。
「私の勘定が合っているかどうか、検めてくれ。……七年、誰にも検めてもらえなかった」
エルドは、指を伸ばした。
指の腹が、紋の手前で張りつめた細い糸に触れる。硬く、細く、男の息に合わせてかすかに震える糸。二度目の手は迷わなかった。掴み方を、手が覚えていた。覚えていることがほんの一瞬だけ、ひどく遠いことのように思えた。
掴んで、断った。
ぷつり。
しないはずの音がして、紋が内側から赤く透けた。組紐の線が端から赤らみ、黒ずみ、細かな灰になって崩れていく。焦げた藁の匂いがひと筋立ち、男の肌には火ぶくれひとつ残らず、あとには古い傷痕のような細い白い線だけが残った。
目の奥が、翳った。
一瞬——いや、二呼吸ほど。夜の式場が一段暗くなり、それから、戻った。それだけだった。エルドは開いたままの自分の手を握り直して、男の顔を見た。
典礼官は、大きく息を吸っていた。
吸って、吐いて、その息に、七年ぶんの錆のついた声がまじった。
「……ああ」
それだけだった。夜番の男は溺れた者のように息をしたが、この男は、長い勘定を終えた者のように息をした。男は自分の喉に触れ、白い線をなぞり、それから、几帳面に襟を合わせ直した。
「ファーレンの、子か」
「はい」
「……生きて、いたか」
言えなかった言葉が、いま、なんの引っかかりもなく夜気に出た。男はその事実に自分で驚いたように、口を押さえ、それから手を下ろした。
「聞きたいことを、訊け。……言える言葉が、急に増えた。どこから言えばいいのか、分からん」
◇
証言は、祭壇の灯のそばで、低く続いた。
「宴の段取りは、私が組んだ。席次、持ち場、刻限、酒の量まで。北へ発つ前、達しを受けてな。……だが、筋書きは、私の手を通らなかった」
「筋書き」
「謀反の証しの文が検められた、という筋書きだ。触れ書きの文言は、事が済む前から、もう出来ていた。私は写しを配る段取りだけを命じられた。書いたのが誰かは、知らん。私の管轄外だ」
布告が先に書かれていた。あの宿の夜に組み上げた理屈が、七年目に、当事者の口で裏書きされた。エルドは息を静かに保った。
「立会の護衛兵は」
「宰相府の直属だ。私の指図の外にある。持ち場割りは私が書いたが、あの晩、あの者たちに『刻限』を伝えた者は、別にいる。……私は、伝えられた刻限どおりに、宴の進みを整えただけだ」
「口封じは」
「私の役目だった。街道の宿で、ひとりずつ。式の言葉を読み上げたのは、この口だ」男は自分の喉に、指の背で触れた。「読み上げ終えた晩に、今度は私が別間に呼ばれた。……口封じの口を、封じるのも、段取りのうちらしい」
乾いた言い方だった。笑いの形をした、別のものだった。
「命じたのは、誰です」
「達しは、宰相府の印で来る。だが」
典礼官は、丘の上を見た。夜空を背に、総本山の聖堂が黒い影で立っている。
「あの夜の登録が、どうなったかは知っているか。……宴の誓約の記録だ。列席の全員が立てた、あの誓いの」
「……無い、と聞きました。水損で、廃棄と」
「水は、選んで漏らん」
この男の口から聞くと、その一言は、登録院の石段で聞いたどの言葉より重かった。
「記録を握っているのは、教会だ。書くのも、写すのも、消すのも、教会にしかできん。宰相府の達しがどこで生まれて誰の手を通ったか——その生き死にを辿れるのは、登録の帳面だけだ。……上へ行け。総本山の、登録の上へ。私に言えるのはそこまでだ。そこから先は、言えないのではなく知らんのだ。段取りの人間は理由を知らされん」
◇
夜風が、祭壇の組み木を低く鳴らした。
聞くべきことは聞いた。糸は丘の上へ延びた。エルドは一礼して、灯の輪から下がろうとした。その背中に、声が来た。
「ファーレンの子」
振り向くと、典礼官は供物の台の灯を取り上げて、また検めの姿勢に戻るところだった。
「私を、斬らんのか」
下げたままの右手が拳になり、指の節がひとつ、小さく鳴った。
「……あなたは、報いを向ける相手ではありません。命じられて段取った者より先に、命じた者。筋書きを書いた者がいる」
「七年前の私に、その言葉は届かんがな」
男は灯を掲げて、供物の台の列を見た。
「明朝から、祭りだ。式次第に狂いはない。……七年ぶりに、検めずにそう言える。妙なものだ。軽くなるかと思ったが」
男は、少し黙った。
「ならんな。あの夜が消えるわけではない。……ただ、明日からは、言える言葉で苦しめる。それだけの違いだ。それだけの違いが、七年、欲しかった」
それから、思い出したように付け足した。
「祭りが済めば、私は王都へ戻る。役目の誓いが、この足を運ぶ。戻れば、しかるべき筋に、しかるべき報せが行くだろう。私の口はもう縛られておらんし、縛られていない口の始末を、上は好かん。……分かるな。おまえたちの猶予は、私の足の遅さだけだ」
警告なのか、忠告なのか、それとも役目に殉じる男の精一杯の返礼なのか。おそらく、その全部だった。エルドは深く頭を下げて、今度こそ、灯の輪を出た。
「ファーレンの子」
最後の声は、検めの灯と同じ高さから、静かに来た。
「あの晩の献杯の口上は……いい口上だった。段取った者が言うのだ。間違いない」
◇
橋を戻ると、柳の下から影がふたつ、音もなく並んだ。
「首尾は」
「聞けました。……上です。総本山の、登録の上」
マグダが口笛の形に唇をすぼめ、音は立てずに、丘の上を見た。聖堂の影は、祭りの灯の届かない高さで、夜より黒く立っていた。レイフは何も言わず、エルドの半歩後ろについた。いつもの位置が、今夜はやけに、ありがたかった。
宿への道は、祭り前夜の人波で明るかった。
灯と、囃子と、明日を待つ人々の声。その真ん中を歩きながら、エルドは自分の右手を一度だけ開いて、閉じた。指先にはもう何の感触もない。糸の切れたあの感じも、焦げた匂いも消えている。
失ったものは——
考えかけて、やめた。明日からのことを考えるべきだった。丘の上には教会の記録がある。書くのも、写すのも、消すのも、教会にしかできない帳面が。
祭りの灯の向こうで、聖堂の影が待っていた。




