第18話 典礼官
行列が町に入る朝、エルドは筆耕の詰所の窓際にいた。
祭りの書き物の口は、三日前に手に入れていた。式次第の写し、桟敷の割り札、寄進の目録。祭りというものは、遠目には飾り紐と囃子でできているが、近くで見ると紙でできている。紙のあるところに筆耕の口があり、筆耕の口は、字の書ける流れ者を身元も訊かずに雇ってくれる。
窓の下の大通りを、黒地に銀の旗が過ぎていく。
荷馬車が六つ。供の騎馬。そして列の中ほどに、一挺の輿があった。輿の簾が上がっていて、中の人が見えた。
五十がらみの、痩せた男だった。
旅塵よけの外套の下に、几帳面に襟を合わせた官服。膝の上に綴りを開いて、行列の最中だというのに、目はずっと紙の上を動いている。時おり顔を上げては、沿道の飾りを数え、桟敷の位置を数え、また紙に戻る。歓声にも、物売りの声にも、目もくれない。
段取りの人だ、と思った。
あの男が、七年前の冬、北の果ての城で、宴の席順を組み、立会の兵の持ち場を割り、そして事が済んだあと、生き残りの討ち手を一人ずつ別間に呼んで口を縛らせた。父の宴を、母の最後の夜を、紙の上で段取った男。
典礼官。
エルドは、手元の写しに目を戻した。手は止めない。筆耕が行列に見とれて手を止めるのは自然だが、見とれ方にも作法がある。憎しみは、筆の先に出やすい。この三日で覚えたことのひとつだった。
◇
その晩、宿の部屋で、マグダが下見の首尾を並べた。
「宿所は、教会の館だ。丘の参道の登り口にある、貴賓向けのやつさ。表の門は宰相府の供廻りが固めてる。裏は教会の下男の出入りで、こっちは緩い。……緩いんだけどね」
マグダは、指を一本立てた。
「奥へ通る者は、玄関の脇の壇で、誓いを立てさせられる。守秘の小誓ってやつだ。今日この館の内で見聞きしたことを、外で口にしない——その一文をね、出入りの髪結いにも、水運びにも、膳運びにも立てさせてる」
「……全員に、ですか」
「奥へ入る全員に、だよ。祭りの筆耕なんぞは外周どまりだから、壇で誓わされはしないけど、奥はそういう作りだ。分かるかい、ちび。あれはね、錠前じゃない。錠前なら、合鍵だの、こじ開けだの、やりようがある。あれは——」
「嘘が、門で割れる」
エルドが言うと、マグダはにやりとした。
「そういうことさ。誓いってのは、本心じゃなきゃ成らない。守る気のない誓いは、成らないんだ。中で見たことを外で喋る腹の輩が、あの壇で守秘の口上を唱えても、紋は浮かばない。浮かばなきゃ、その場で割れる。買収も効かない。買収された下男に喋る気があれば、次の出入りの壇で露見する。……偽誓ってものが、この世にはそもそも無いんだ。誓いの世の館ってのは、そういうふうに守られてる」
石壁より厚い、とエルドは思った。
剣も、銭も、嘘も、あの門の前では意味を持たない。誓約がこの国の背骨だというセシルの言葉を、裏から見れば、こうなる。誓約は、この国の錠前でもあるのだ。誰にも破れない、たった一つの仕組みの上に、宴も、館も、王国も載っている。
そして七年前のあの夜、この錠前を破らずに城をひとつ落とした者がいる。誰も誓いを破らず、何もかもが裏切られた夜。あの夜、黒い兵の手にも、紋は浮いていた。破る気が、なかったからだ。破らずに、外してもらえばよかったのだから。仕組みの上に立つ者は、仕組みを破る必要がない。仕組みの側を、動かせばいいからだ。目の前の館の門は、その動かし方を知る男を守っている。
「で、どうするんだい」
「入りません」
エルドは静かに答えた。
「入れない門を破るのは、下策です。門の内で会えないなら、門の外に出てくるところで会えばいい。……値切りと同じです。言い値の高い店では、買わない」
「言うようになったねえ」
◇
筆耕の仕事は、思いがけない耳を運んできた。
式次第の写しには、儀典方の下役たちの書き入れが付く。誰それの検め済み、何の刻限、供の人数。紙は口ほどに物を言う。三日も写していれば、あの館の一日の形が、おおよそ透けてくる。
それでも足りない分は、下役たちの愚痴が埋めてくれた。
「——また書き直しだ。桟敷の柱の数が、図面と現地で一本違ったんだと」
「典礼官さまが、ご自分で数えなすったのか」
「あの方は全部ご自分で数える。目録も、席次も、供物の数もだ。下が数えたものは、お信じにならん」
昼餉の詰所で、下役たちは疲れた顔で笑い合っていた。エルドは端の席で、麦湯を啜りながら、耳だけをそちらに置いていた。
「極めつけは、前夜の検めよ。祭りの前の晩、式場を隅から隅まで、たったひとりで検めなさる。供も、灯持ちもつけずにだ」
「ひとりで? 御身分のある方が、また何で」
「知らんよ。ただの習いか、験担ぎか。……七年前からだそうだ。あの方が北の御用から戻られてこのかた、一度も欠かしたことがないと」
エルドの匙が、椀の底で、小さく音を立てた。
七年前から。
誰も気に留めない音だった。エルドは麦湯を飲み干して、午後の写しの綴りを取りに立った。手は、もう震えていなかった。
◇
しくじりは、その日の昼下がりに来た。
「おうい、そこの。手が空いてるなら、この綴りを奥の書院へ届けてくれ。儀典方の御用だ」
断る理由が、とっさに見つからなかった。筆耕が儀典方の使いを断るのは、目立つ。エルドは綴りを受け取り、館の裏口をくぐり、廊下を進み——突き当たりの広間で、足が止まった。
壇があった。
小さな、しかし正式の壇だった。教会の紋を刻んだ台に、綴りと燭台。脇に式官がひとり、退屈そうに立っている。奥へ続く廊下は、その壇の前を通るほかにない。
「初めてか」
式官が、こちらを見た。
「奥へ入るなら、守秘の誓いを立ててもらう。何、軽いものだ。今日この館で見聞きしたことを他言しない、それだけの一文でな。口上はこちらが先導する。手を出せ」
足の裏から、床が薄くなった気がした。
誓えば、紋が浮く。浮いた紋は、破れない。この先この館で見聞きするもの——典礼官の顔も、声も、あの夜の答えも、すべて「他言できないもの」になる。マグダにも、レイフにも、話せなくなる。断つことは、できる。できるが、それは、何かをひとつ払うということだ。
誓えない。
だが、ここで踵を返せば、それこそ館じゅうの目が立つ。
エルドは、綴りを胸に抱え直して、生真面目に訊いた。
「あの……立てさせていただく前に、ひとつ伺いたいのですが」
「なんだ」
「誓約には、費えがかかると聞いております。口上と、立会と、登録の。……この誓いの費えは、どなたの帳に付くのでしょう。私どもは日雇いでして、給金から引かれるとなると、その、一日ぶんが飛ぶもので」
式官が、ぽかんとした。
「……守秘の小誓の費えなど、館持ちに決まっておろうが」
「館持ち。それは、儀典方の帳ですか、教会の帳ですか。いえ、あとで揉めると困るのは私どもですので、できれば一筆、書き付けで」
「ええい、面倒くさい」式官は手を振った。「おい、そこの下男。この綴り、書院へ持っていけ。……おまえはもういい、外役は外で働け」
「はい。お手間を取らせました」
エルドは深々と頭を下げて、来た廊下を戻った。背中の汗が、外の風で冷えた。値切りの理屈は、こういうところでも身を助ける。銭の話を始めた途端に人が面倒がるのは、市場も官府も同じだった。
裏口を出ようとした、そのときだった。
中庭を挟んだ渡り廊下を、官服の一団が通りかかった。中心に、あの痩せた男がいた。典礼官。綴りを繰りながら歩き、下役の報告にうなずき、ふと——顔を上げた。
中庭越しに、目が合った。
一瞬だった。典礼官の目は、日雇いの筆耕の上を、名簿でも繰るように通り過ぎ——半歩ぶんだけ、戻った。戻って、止まった。綴りを持つ手が、止まっていた。
エルドは、目を伏せた。
北の話が出る場では、伏せ目の癖を忘れるな。マグダの言いつけどおり、ゆっくりと、日雇いの作法で頭を下げる。数えるあいだ、三つ。顔を上げたときには、渡り廊下の一団はもう歩き出していて、典礼官の背中は角の向こうに消えるところだった。
何も、起きなかった。
起きなかったが、エルドは裏口を出て、往来の人混みに三度紛れ直してから、宿への道を取った。心の臓が、まだ少し速かった。あの半歩の戻りが、ただの偶然なのか、それとも——考えても、答えの出ないことだった。
◇
宿の部屋で、三人の膝が揃った。
「前夜の検め。式場に、ひとりで。七年、欠かしたことがない」
エルドが並べると、マグダは腕を組み、レイフは黙って地図がわりの布——エルドが昼のうちに描いた、川辺の式場の見取りだ——に目を落とした。
「臭いね」マグダが言った。「七年前からの習いってのが、まず臭い。験担ぎってのは、何かの願か、何かの詫びだ。どっちにしても、あの男の七年は、北から始まってる」
「祭りの前夜。式場。単身。……そこしか、ありません」
「騎士団は」
「祭りの警固の割りが出ていました。前夜は、町の門と蔵通りに人を出すそうです。式場は祭りの当日から。……前夜の式場は、警固の外です」
筆耕は、警固の割り札まで写すのだ。マグダが、呆れ半分の顔で笑った。
「役人ってのは、なんでも書き付けにするんだねえ」
「書き付けにするのは、いいんです。確かめずに書くから、嘘が七年、記録でいる」
言ってから、少し言い方が尖ったか、と思った。マグダは何も言わず、杯の白湯を干しただけだった。レイフが見取りの布の上に、川石をふたつ置いた。ひとつは式場の祭壇の位置。ひとつは、供が控えるであろう桟敷の陰。
「供の動線は、俺が塞ぎます」
「あたしは川端の道と、退き足の舟を見とくよ。それとね、言うまでもないけど——白いのには、黙っとくよ」
「ええ」
セシルたちは明日からの警固で手一杯だし、そもそも、これはあちらの務めの外の話だ。あの騎士は善意の人で、善意の人は、知れば動く。動けば、務めと情の間で引き裂かれるのはあちらのほうだ。縄の借りをこちらの夜に巻き込むのは、礼を欠く。
「……ちび」
マグダの声が、少しだけ低くなった。
「相手は、口封じの誓いで縛られてる。十中八九ね。……分かってるんだろうね。話を聞くってことが、あんたにとって何を意味するか」
エルドは、自分の右手を見た。
指先は、静かだった。七年前の冬から続くこの旅で、いま初めて、糸の結び目のほんとうの手前まで来ている。断てば、聞ける。聞けば、払う。何を払うのかは、払ってみるまで分からない。
「……値切れるものなら、値切ります。値切れなければ」
その先は、言わなかった。言わなくても、二人には通じていた。
◇
祭りの前夜が、来た。
町は宵から浮き立って、通りには灯が連なり、明日の桟敷の場所取りの筵が川端に並んだ。囃子の稽古の音が、あちこちの路地から漏れてくる。
川向こうの式場は、その賑わいから切り離されたように、暗かった。
夜風が川を渡って、対岸の囃子をところどころ千切って運んでくる。水面には灯の色が長く伸びて、揺れていた。祭りの前の晩というものを、エルドは十三の年にも知っている。あのときは城の内側で、膳の数を聞いて回る子どもだった。今夜は川の暗がりで、ひとつの灯を待つ者になっている。
祭壇の高い組み木が、夕空に黒い影を立てている。やがてその足元に、灯がひとつ、点った。
小さな、手提げの灯りだった。灯りは祭壇の周りをゆっくりと巡り、止まり、また巡る。柱を数え、供物の台を数え、段の数を数える——七年間、一度も欠かされたことのない、検めの灯だった。
エルドは対岸の柳の下で、その灯を見ていた。
橋ひとつ渡れば、七年前に手が届く。




