第17話 誓わない男
祭りまでの日数は、路銀を稼ぐ日数でもある。
丘の上の総本山は、その外郭にいくつもの建物を抱えていた。宿坊、厩、倉、そして誓約騎士団の訓練所。大祭が近いせいで、外郭はどこも人手を欲しがっていた。
大祭は、川の町で開かれる夏越しの祭りとは別のものだ。北の城で従士をやっていた頃、大祭は、教会の暦の上の言葉でしかなかった。夏越しの祭りが川開きと橋のものなら、こちらは、始祖が大誓約を結んだ日を祝う、教会でいちばん大きな祭りだ。年に一度、夏の盛りに、王国じゅうの家々が丘の上へ寄進を運び、巡礼が参道を埋め、儀式が何日も続く。夏越しの祭りが済んで半月ほどで大祭が来る、というのがこの土地の暦で、丘の下の町にとっては、飾りと寄進の荷を運ぶ人足仕事の季節でもある。
町の口入れが「力自慢は訓練所へ行け。的と柵の据え付けで、日当は倍出る」と触れて回り、レイフはその口に乗った。
「あんた一人で行きな。あたしは賄い場の口を貰ったから」
マグダはそう言って、飯場のほうへ消えた。エルドは町に残っている。祭りの書き物の手伝いの口を探すのだと言っていた。字と計算なら、あの人の右に出る者はいない。三人がそれぞれの持ち場で稼ぐのは、旅ではいつものことだ。
いつものことだが、レイフは、町を出るときに一度だけ振り返った。
エルドをひとりにするのは、いまも少しだけ、落ち着かない。十三の子どもを背負って雪の中を走った夜の癖が、七年経っても抜けずに残っている。もっとも、当のエルドは二十歳になり、剣はマグダに並び、値切りでは誰にも負けない。落ち着かないのはこちらの勝手で、口に出すことでもなかった。
◇
訓練所は、白い石壁に囲まれた広い庭だった。
打ち込み台の据え付けは、力と水平の仕事だ。レイフは黙々と穴を掘り、台を立て、楔を打った。据えた台を教官が検めに来て、揺すり、少し驚いた顔をして、何も言わずに次へ行った。揺すって動かない台は、いい台だ。仕事とは、そういうものでいい。
庭の反対側では、新兵たちが稽古をしていた。
見るつもりはなかったが、目は勝手に拾ってしまう。踏み込みのたびに軸のぶれる子。受けるたびに手首で剣の重さを止める子。あれでは手首をやられる、と思い、思っただけで、レイフは次の穴を掘った。よその稽古に口を出す筋合いはない。
「——おい、そこの日雇い」
昼を過ぎたころ、教官がこちらへ顎をしゃくった。四十絡みの、首の太い騎士だった。手の甲に、濃い誓紋が据わっている。
「五人掛かりの稽古をやる。木剣の的が要る。おまえ、身体が空いてるな。立て」
「的、ですか」
「立って、避けるだけでいい。当たっても文句を言うな。日当に色はつける」
文句を言う気はなかった。的は、台よりは動く仕事だ。レイフは手袋を外し、渡された木剣を——念のため、と言われて持たされたそれを、軽く振って重心を確かめた。樫の、良い木剣だった。
五人の新兵が、輪になった。
教官の笛が鳴った。
最初の一人が打ち込んでくる。踏み込みで軸がぶれる子だった。レイフは半歩ずれて、空いた脇を木剣の腹で軽く押した。子が、勝手に転がった。二人目と三人目は同時に来た。二人目の剣を受け流して三人目の進路に重ね、二人ぶんまとめて足をもつれさせた。四人目は腰が引けていたので、木剣の先で籠手を狙う振りをしただけで尻餅をついた。五人目——受けるたびに手首で止める子だ——の打ち込みは、刃筋ごと巻いて、手から木剣だけを抜き取った。
抜き取った木剣を、レイフは両手で子に返した。
「……手首でなく、肘から受けたほうが、痛くないです」
庭が、静まり返っていた。
五人の新兵が、地面と自分の手とを、順に見ている。誰も怪我はしていない。埃で汚れただけだ。教官が、笛を咥えたまま忘れた顔で、こちらへ歩いてきた。
「おまえ、いまの、わざとか」
「わざと、とは」
「五人とも、傷ひとつなく転がした。的は避けるだけでいいと言ったはずだが」
「避けると、後ろの台に当たる子がいたので」
据えたばかりの台だ。あれに頭から突っ込めば、怪我をする。レイフとしては台と子どもの両方を守っただけなのだが、教官は額を押さえて、しばらく黙った。それから、庭中に聞こえる声で言った。
「休憩だ。全員、水を飲め」
◇
水場の陰で、教官はレイフに向き直った。さっきより声が低く、目が本気だった。
「名は」
「……日雇いです」
「日雇いに名がないか。まあいい。どこで剣を習った」
「北です。あとは、旅の師匠に」
「ふん。……単刀直入に言う。騎士団に来い」
来た、とレイフは思った。こういう流れになる予感は、二人目を転がしたあたりからしていた。避けそこねたのは、こちらの落ち度だ。
「おまえのそれは、磨けば国の指折りに届く腕だ。うちで叙任を受けろ。誓約の恩恵を知っているか。膂力が乗る。治りが早くなる。いまのおまえが十なら、三十にもなる。飯も出る。俸給も出る。悪い話ではないはずだ」
「ありがたい話です」
レイフは、頭を下げた。実際、ありがたい話なのだ。平民の生まれには、過ぎた話ですらある。
「ですが、主がいるので」
「……主、だと」
教官の眉が寄った。
「主持ちか。どこの家中だ。従士なら、家格によっては話のつけようも」
「家中では、ありません」
「なら何だ。誰に仕えている」
レイフは、口を閉じた。
答えられる名は、ない。答えられない理由も、言えない。黙って立っていると、教官の眉間の皺がいよいよ深くなり——そこへ、飯桶を担いだ前掛け姿が、足取りも軽く通りかかった。
「うちの用心棒だよ、騎士様」
マグダだった。賄い場の前掛けのまま、平然と割り込んでくる。
「連れの女商人が、あたしさ。腕が惜しいってんなら、引き抜き料は弾んでおくれよ。相場の、そうだね、三倍で」
「よ、用心棒の引き抜きに金を積む騎士団があるか」
「おや、ないのかい。じゃ、この話は流れだね。ほら、でかいの、午後の分の穴がまだ六つ残ってるよ」
マグダはレイフの背中を掌でひとつ叩いて、飯桶ごと連れて行った。教官が後ろで何か言いかけて、やめたのが分かった。角を曲がったところで、マグダは前を向いたまま、小さく言った。
「……目立つなとは言わないよ。あんたのそれは、隠して隠れる背丈じゃない」
「すみません」
「謝るこっちゃない。ただ、名前と主の話になったら、あたしを呼びな。嘘はあたしの領分だ。あんたは嘘が下手すぎる」
「……はい」
「返事だけは、いいんだよねえ」
◇
夕方、仕事を上がった日雇いたちに、宿坊の端の間と焚き火と食事が振る舞われた。
レイフが火の番をしていると、白い制服の女が石段を下りてきた。セシルだった。参道の上——総本山の大所へ、例の照会の文を届けに行っていたのだという。
「回答は、祭りのあとになるそうです。大所は大祭の支度で、どこも手一杯で」
「そうですか」
「……昼のことを、聞きました」
セシルは焚き火を挟んで、石段の下から二段目に、姿勢よく腰を下ろした。この人は座り方まで規程どおりだ。
「教官が惜しがっていました。十年に一人の的が逃げた、と。もう的の依頼は受けないほうがいい。次は団長が見に来ます」
「気をつけます」
会話が、いったん切れた。火が爆ぜて、丘の上の聖堂の影が、夕焼けの名残の中で黒くなっていく。セシルは膝の上で手を組んで、しばらく火を見ていた。何かを訊きたいときの顔だった。この数日で、それくらいは分かるようになった。
「……ひとつ、伺ってもいいですか」
「はい」
「なぜ、誓わないのですか」
まっすぐな問いだった。この人の問いは、いつもまっすぐに来る。
「あなたの腕なら、叙任はいつでも受けられる。恩恵も、身分も、証も手に入る。誓いは、あなたを強くします。守りたいものがあるなら、なおさらのはずです。誓って仕えるほうが、確かではありませんか。……あなたが誓わない理由が、私には分からない」
レイフは、火に薪をひとつ足した。
誓う前に家がなくなった、という経緯の話は、前にマグダにした。だがそれは経緯であって、理由とは別のものだ。叙任だけなら、その後もやりようはあったのかもしれない。どこかの家に仕え直すことも、騎士団に入ることも。しなかったのは、経緯のせいではない。
「……誓いは、一度で済みます」
言葉は、ゆっくりと出てきた。急いで出すと、形が崩れる気がした。
「一度誓えば、あとは誓いが守ってくれる。迷っても、揺れても、誓いが足を運んでくれる。……それは、確かなことです。橋を守る誓いを立てた爺様が、四十年、大水のたびに橋へ向かうのを見ました。誓いは、あの人を一度も裏切らなかった」
「なら——」
「俺は、毎朝決めるほうが、性に合っているだけです」
「……毎朝?」
「毎朝、決めます。今日も仕えるかどうか。……七年、毎朝決めて、毎朝、同じ答えです。それだけのことです」
セシルは、何も言わなかった。
火の粉がひとつ、二人の間を昇っていった。長い沈黙だったが、居心地の悪い沈黙ではなかった。やがてセシルは、組んだ手に顎を載せて、独り言のように言った。
「誓いなら、確かめなくて済むのに」
「はい」
「あなたは、毎朝確かめる。……誓いより、重くありませんか。それは」
「重いか軽いかは、考えたことがありません」
レイフは、正直に答えた。
「ただ、朝、決めるときに——ああ、今日も自分で決めたな、と思います。それが、その」
言葉を探して、結局、いちばん近いものしか見つからなかった。
「……気に入って、います」
セシルが、小さく息を呑むのが分かった。それから彼女は立ち上がり、制服の裾を規程どおりに直して、丘の上を見た。夕焼けはもう終わって、聖堂は星空の底の影になっていた。
「騎士団では、誓いは重いほど尊いと教わります。一生に一度の、重い誓いほど」
声は、いつもの張りのある声だった。ただ、少しだけゆっくりだった。
「毎朝のほうが重いなんて、教本のどこにも書いてありません。……今夜は、そういう話を聞きました」
白い制服が参道の宿舎へ戻っていったあと、レイフは火の始末をして、革袋から帳面を出した。その晩の頁は、短かった。
——的の仕事。五人。誰も怪我なし。夜、白い騎士様に、なぜ誓わないのかと訊かれた。毎朝決めている、と答えた。今日の答えも、はいだった。
◇
翌朝、日雇いたちと町へ下る道で、川向こうの街道がざわついていた。
行列だった。荷馬車が六つ、供の騎馬、揃いの外套。先頭の旗は、教会のものと違う。黒地に銀の——宰相府の旗だ。行列は川霧を分けて、祭りの町の門へ、粛々と入っていく。
橋のたもとで、荷運びの男たちが噂していた。
「儀典のお役人様の御一行だと。祭りの段取りの検めだそうだ」
「へえ、王都から。ご苦労なこったね」
レイフは、足を止めなかった。止めなかったが、行列の旗が門をくぐるまで、目だけはそこから離れなかった。
七年前の雪の夜、燃える城を背に聞いた勅命の声。その声の主ではない。だが、あの夜の段取りを組んだ役目の男が、いま、同じ町の門をくぐった。
エルドは今ごろ、町で書き物の口に就いているだろうか。
早く、戻ろう。
レイフは荷を担ぎ直して、橋を渡った。川霧の向こうで、祭りの飾り紐が揺れていた。




