間話 レイフの手記・旅の五年目「日付のない日」
——雪が解けはじめた。主が、今日は市へ行くな、と言った。
——主は、何の日か、忘れていなかった。
◇
軒の雪が、ぽたりと落ちた。
レイフは薪を抱えたまま、それを見た。旅の五年目、冬の終わり。北部の南の端の、峠下の町だ。ひと月前に泊まった相宿の、白髪の老人のことを、まだ時おり思い出す。五十年仕えた主を亡くし、臣従の紋が消えた手の甲を、何度もさすっていた。あの人は北へ、こちらは南へ発って、それきりだ。それから峠をひとつ越えて、この町に落ち着いて、市を三つ数えた。
軒の雪が、また落ちた。
朝の光が、昨日までと違う。冷たいことは冷たいのだが、その冷たさの底に、土の匂いがまじりはじめている。北の春の、来る前の匂いだ。北ほど遅くはないが、中部の春も、雪が消えるより先に風が来る。
「レイフ」
戸口から、エルドが出てきた。
この春に、エルドは十九になる。背丈は、もうレイフの目の高さに近い。エルドが十五の秋には、マグダを追い越していた。追い越された日にマグダが言った言葉は、帳面に書いてある。
「今日は、市へ行くな」
「……はい」
「買い出しは、俺が行く。おまえは、何もするな」
「何も、ですか」
「何もだ。薪も、水も、稽古も。座っていろ」
レイフは、抱えた薪を見た。エルドを見た。エルドは、いつもの旅装で、いつもの籠を提げて、いつもの顔をしている。人前の顔だ。人前の顔で、座っていろ、と言っている。
「……エルド様。俺は、何か——」
「していない。座っていろ。命令だ」
命令だ、と言うこの顔を、レイフは知っている。十二の春、辛い鹿の煮込みを押しやったときの顔だ。当主の子の顔をしながら、その顔の下で、十二の子どもが「早くしろ」と言っていた。
レイフは、薪を置いて、座った。
◇
マグダは、朝の白湯を飲み干して、外套を引っかけた。
「あたしは、仕事に出るよ。荷継ぎ場の帳場。……昼までは戻らない。夜までかもね」
「マグダも、ですか」
「あたしも、だよ。あんたは座ってな。……ちびの言うことを聞くんだ。今日はね」
マグダは、それだけ言って出ていった。出ていく背中が、少し急いでいた。急いでいるふりをしているのか、本当に急いでいるのか、レイフには分からなかった。
狭い宿の物置きに、レイフは一人で座っていた。
座っていると、やることがない。やることがないと、考える。考えるのは、得意ではない。それでも、考えた。市へ行くな。何もするな。座っていろ。……何の日だ、今日は。
軒の雪が、また落ちた。
朝の光が、昨日までと違う。冬の終わりの、いちばん最初の——
思い出したのは、そこまで来てからだった。
◇
エルドは、昼前に戻ってきた。
籠に、包みがいくつも入っていた。鹿の肉。生姜。胡椒。それから、小さな紙包みがひとつ。紙包みを開くと、名の分からない香りの実が、十粒ほど入っていた。
「……エルド様」
「猟師から、鹿を分けてもらった。昨日、山で獲れたものだ。胡椒は、市で値切った。言い値の半分。……香りの実は、値切れなかった。売り手が、これは南から来る品だと言って、譲らなかった」
「エルド様」
「なんだ」
「今日は」
エルドは、籠を置いて、こちらを見た。それから、少しだけ、口の端を上げた。
「冬の終わりの、いちばん最初に暖かい日だ。……俺が決めた。文句はないな」
「……ありません」
「なら、座っていろ」
レイフは、座っていた。座っていられなくなって、立ち上がりかけた。
「火だけは、見ます」
「……火加減は、おまえに訊く。それ以外は、座っていろ」
それが、精一杯の譲歩だった。
◇
エルドは、宿の女将のところへ行って、鹿の煮込みの手順を訊いてきた。
訊いて、その場で、いつもの布に炭で書き取ってきた。旅の帳付けに使う布だ。鹿の肉は、賽の目。生姜は、薄く。胡椒は、最初に半分、煮上がりに残り。香りの実は、煮上がりの手前で入れて、煮すぎない。火は、最初は強く、煮立ったら遠くする。
書き取った布を、エルドは何度も読んだ。読んで、鍋を借りてきた。宿の台所の、いちばん小さい鍋だ。
その鍋に、鹿の肉を入れて、水を張って、エルドは腕を組んだ。
「……レイフ。おまえは、いつも何杯食う」
「三杯です」
「祝いの日は」
「……三杯です」
「五杯食え」
「はい」
「五杯分だと、この鍋では足りん」
エルドは、鍋を持って、また台所へ行った。戻ってきたとき、鍋は宿でいちばん大きい鍋になっていた。女将が後ろからついてきて、戸口から中を覗いて、レイフの顔を見て、笑って帰っていった。何を笑ったのかは、分からない。
火は、物置きの隅の竈で起こした。
エルドが薪を組み、火をつけ、鍋を載せた。載せてから、こちらを見た。
「遠さは」
「……もう少し、遠くです。煮立つまでは近くて、煮立ったら、拳ふたつぶん」
「拳ふたつ」
エルドは、自分の拳を鍋と火の間に当てて、それから、薪を一本抜いた。頭で覚える人だ。拳ふたつ、と一度言えば、次からは言わなくていい。
煮立つまでの間、エルドは布を読み返していた。レイフは、座って、それを見ていた。
見ていると、いろいろなものが目に入る。
布を持つ手が、大きくなっている。剣だこが、右手の指の付け根に三つ。十三の冬には、なかったものだ。あの頃の手は、口上を唱えるときに、胸の前で組むための手だった。いまの手は、剣を握るための手で、炭を握るための手で、それから、鍋の柄を握るための手だ。
背丈。十五の秋、マグダを越えた。
人前の顔。隙がない。十三の春の隙のなさとは、種類が違う。あの頃は、当主の子の顔だった。いまは、追われる者の顔だ。それを、この人は、当主の子の顔と同じくらい、綺麗に作る。
そこまで数えて、レイフは、数えるのをやめた。変わったものを数えていくと、切りがない。
「……煮立った」
エルドが、鍋を見て言った。
「拳ふたつだ」
「はい」
エルドは薪を抜いた。それから、生姜を入れた。胡椒を、半分。布を見て、確かめて、蓋をした。蓋をしてから、腕を組んで、鍋を睨んだ。睨んでいる横顔を見て、レイフは、変わらないもののほうを数えはじめた。
眉の寄せ方。分からないものを前にしたときの、この寄せ方は、川で岩を睨んでいたときと同じだ。
匙を持つ手。行儀がいい。骨を皿の端に揃える。それは、出会った頃から変わらない。
辛いものが、駄目なこと。
子ども扱いされると、怒ること。
変わらないものは、数えても、切りがなかった。
◇
煮上がりの手前で、エルドは、香りの実を入れた。
十粒。布には、十粒とある。十粒を、数えて入れた。入れてから、胡椒の残りを入れて、蓋をして、しばらく待って、蓋を取った。
湯気の匂いが、物置きに満ちた。
鹿と、生姜と、胡椒と、名の分からない香りの実。北の祝いの膳の匂いだ。レイフは、その匂いを、あの春以来、初めて嗅いだ。十二の春の、小広間の膳。冷めた煮込みの皿。あの匂いと、同じだった。
エルドは、匙を取って、鍋の汁を少しすくった。
すくって、匙を口に運びかけて、止めた。
止めて、しばらく、匙を見ていた。
「……レイフ」
「はい」
「俺は、これを、味見できない」
「……はい」
「辛いからだ」
「はい」
エルドは、匙を、レイフのほうへ差し出した。
「おまえが、味見をしろ。……辛いか」
レイフは、匙を受け取って、汁を口に含んだ。
辛かった。胡椒と、生姜と、香りの実。舌が、じんと痺れる。あの春の、小広間の皿と、同じ辛さだった。いや——同じかどうかは、本当は分からない。あのときの舌と、いまの舌は違う。だが、そう思った。
「辛いです」
「……足りないのか、過ぎたのか」
エルドの顔は、真剣だった。値切りの相場が分からないときと同じ顔だ。分からないものは、訊く。訊いて、覚える。この人は、そうやって五年、旅をしてきた。
「ちょうどです」
レイフは、そう答えた。
エルドは、少しのあいだ、こちらの顔を見ていた。嘘かどうかを、見ていたのだと思う。この人の嘘を見抜く目は、マグダに仕込まれて、もうかなりのものだ。レイフの嘘は、下手だ。だから、嘘ではないと、見て分かったはずだった。
「……そうか」
エルドは、匙を鍋に戻して、蓋をした。
「なら、いい」
◇
マグダは、日が暮れてから戻ってきた。
戻ってきて、鍋の大きさを見て、ふん、と鼻を鳴らした。それから、外套の下から、酒の壺をひとつと、卵を三つ出した。
「祝いの汁ってのは、卵を落とすもんだろ」
マグダはそう言って、鍋のそばで、卵を割った。一つ。それから、もう一つ。
「……二つ、ですか」
「二十二だからね」
どこで決まった決まりなのか、レイフは知らなかった。マグダも、たぶん、いま決めたのだと思う。三つ目の卵は、マグダの椀に落ちた。
「あたしの分。……働いた分だよ」
物置きの床に、三人分の椀が並んだ。
鹿の煮込み。卵入り。黒いパン。それから、マグダの持ってきた酒。エルドは、酒には手を伸ばさなかった。マグダが杯を寄せると、首を横に振った。
「私は、まだ」
「峠下の爺さんにも、そう言ったね」
「言いました」
「頑固だね」
マグダは笑って、杯をレイフの前に置いた。レイフは、それを両手で包んで、ひと口だけ、呑んだ。呑んで、椀を取った。
一杯目は、黙って食った。
辛かった。舌が痺れて、それでも匙が止まらなかった。湯気の向こうで、エルドが、自分の椀を、行儀よく食べていた。辛いのに。辛いのを、顔に出さずに、匙で少しずつ。骨を、皿の端に揃えて。
二杯目を、よそった。
エルドが、鍋の蓋を取って、レイフの椀に、自分でよそった。よそって、押しやった。
「食え」
「……はい」
「五杯だ。数える」
「はい」
三杯目で、マグダが酒を注ぎ足した。四杯目で、エルドが自分の椀を、そっとレイフのほうへ寄せた。半分残っていた。辛くて、それ以上は無理だったのだと思う。レイフは、それも食った。
五杯目を、食い終わった。
鍋は、空だった。
「……五杯」
エルドが、数えた。
「五杯だ。食ったな」
「食いました」
「うまかったか」
レイフは、少し考えた。考えて、ちょうどです、と答えかけて、それは違うと思い直した。
「うまかったです」
「……そうか」
エルドは、それだけ言って、空の鍋を見た。見て、口の端を上げた。人前の顔が、そこで、少しだけ剥がれた。
マグダは、杯を口に運びながら、二人を順に見ていた。見て、何も言わなかった。言わないかわりに、杯を空けて、独り言のように言った。
「日付のない祝いってのは、なくならないもんだね。……決めた奴が、覚えてる限りは」
エルドが、マグダを見た。
「……決めたのは、俺です」
「知ってるよ。だから言ってるんだ」
マグダは、それきり、酒に戻った。
◇
夜、レイフは炭を削った。
二冊目の帳面は、残りの頁が少ない。火のそばで、レイフは膝の上に帳面を開いた。エルドは、寝床で、こちらに背を向けている。寝ているのか、寝ていないのかは、分からない。マグダは、最後の一杯を、手酌でやっている。
書くことは、決まっていた。
書きながら、レイフは、十二の春の杣道を思い出していた。暗い道で、岩を選んで、少し待って、後ろの足音を聞いた道だ。あの道で、この人は、俺の生まれた日を決めた。日付のない、暖かい日。それからずっと、この人は、その日を覚えていた。
俺は、忘れていた。
忘れていたことを、レイフは書かなかった。書くのは、本当のことだけだ。忘れていたのは本当のことだが、書くほどのことではない。かわりに、鍋の大きさを書いた。香りの実の数を書いた。卵の数を書いた。
それから、最後に、食った数を書いた。
◇
——主が、飯を作った。鹿の煮込み。香りの実、十粒。鍋は、宿でいちばん大きいの。
——辛いか、と訊かれた。ちょうどです、と答えた。本当のことだ。
——五杯、食った。




