間話 レイフの手記・旅の三年目「忘れないからね」
——秋。市の町。主が、青物屋の娘に惚れられた。主は、気づいていない。
——俺も、気づいていなかった。マグダさんが言った。
◇
葱が、ひと束で一枚だった。
エルドは、青物屋の店先で、銅貨を握ったまま少しのあいだ動けなかった。この町に来て、市を二つ数えた。葱の相場は、ひと束で二枚。それをまず一枚半に崩し、最後の一枚は向こうに勝たせて、二枚で買う——それが、この町でのエルドの葱の買い方だった。
それが今日、言い値の段階で、一枚。
「……一枚、ですか」
「一枚」
娘は、大きな声で言った。
青物屋の一人娘だ。歳は十七だと、市の誰かが言っていた。声が大きく、目が大きく、算盤がなくても客の払いを頭で弾く。店の父親より速い。この娘に釣りを間違えさせた客は、この町にいないという。
「相場は、二枚のはずです」
「うちの葱は、今日、一枚なの。買うの、買わないの」
買った。買わない理由がない。だが、エルドは店を離れながら、頭の中の相場表が一箇所だけ狂ったのを、ずっと気にしていた。
旅の三年目の秋。北部の、市の立つ町だ。
町の名は、覚えないことにしている。覚えられる前に発つのだから、こちらも覚えないほうが、帳尻が合う。マグダは荷継ぎ場の帳場番、レイフは荷運び、エルドは帳付けと買い出し。市の売り手たちは、エルドを「兄さん」と呼ぶようになった。値切りの腕は、去年のうちにマグダを追い越している。追い越したうえで、最後の一枚は、必ず売り手に勝たせる。
その芸が、あの店では、使えない。
言い値が、最初から底値なのだ。崩す余地がない。勝たせる一枚も、ない。
◇
「策です」
その晩、エルドは宿の飯の席で、そう言った。
「客を固定する策です。旅の者に安く売って、また来させる。町の馴染み客とは別に、必ず青物を買いに来る客を、ひとり確保する。……よくできた策だと思います。あの娘は、算勘が速い」
マグダは、汁をすすりながら聞いていた。レイフは、三杯目を食っていた。
「で、あんたはどうするんだい」
「明日、レイフに買いに行かせます」
「でかいのを、葱の使いに」
「策かどうかを、確かめるためです。レイフにも一枚なら、店の策。私にだけ一枚なら——」
「なら?」
「私の顔が、割れているということです」
マグダの匙が、止まった。
「顔が」
「追われている者に安く売る、という手口があると、聞いたことがあります。恩を着せて、逃げ場を塞ぐ。……あの娘が、そういう手合いだとは思いません。ですが、確かめずにおくのも、こちらの算段が立たない」
言ってから、エルドは、マグダの顔が妙な形に歪んでいるのに気づいた。笑いを、堪えている顔だった。堪えて、堪えきれず、マグダは汁の椀を置いて、腹を抱えた。
「……何がおかしいのです」
「いや。いやいや。策ね。顔が割れてる、ね」
「笑うほどのことでは」
「ちび。あんた、いくつになった」
「十六です。この春」
「十六で、それかい」
マグダは涙を拭いて、椀を取り直した。
「荷継ぎ場にね、肩の張った若いのがいるんだよ。この二日、荷を担いだまま、青物屋のほうばかり見てる。仲間にからかわれて、旅の兄さんがどうのと、口を尖らせてた。……あんたが気づいてないだけで、市の半分は知ってるよ」
「何を、です」
マグダは、何でもないことのように言った。
「惚れられてるんだよ、あんた」
エルドは、匙を持ったまま、しばらく考えた。
考えて、首を横に振った。
「理屈が、立ちません」
「理屈」
「私はただの客です。言葉を交わしたのは、値の話だけ。……あの娘は算勘が速い。利のない値をつける理由が、ない」
「利ならあるさ」
「どこに」
「あんたが、また来る」
エルドは、また考えた。考えるあいだに、レイフが四杯目をよそっていた。マグダは、もう笑っていなかった。笑っていないかわりに、いつもの、値踏みをする目でこちらを見ている。
「……明日、レイフに行かせます」
「好きにおし」
◇
レイフは、葱をひと束、二枚で買って帰ってきた。
「二枚でした」
「……そうか」
「値切りは、しませんでした。エルド様の相場を、崩すといけないので」
「ああ」
策ではなかった。策ではないなら、顔が割れているか、マグダの言うとおりか。エルドは、その二つを頭の中で並べて、しばらく眺めた。どちらも、理屈が立たない。片方は立たないし、もう片方は、立てたくなかった。
「……レイフ」
「はい」
「あの娘は、俺のことを、何と」
「兄さん、と」
「それだけか」
「それから、明日は来るのか、と訊かれました。……来ます、と答えておきました」
「なぜ勝手に」
「青物が、要りますので」
言い返せない返事だった。
◇
厄介ごとは、四日目の市で起きた。
エルドが青物屋の店先に立つと、店の脇から、若い男が出てきた。荷運びの、日に焼けた、肩の張った男だ。歳は二十そこそこ。市で何度か顔を見ている。マグダの言っていた、荷継ぎ場の若いのだ。荷を担ぐ手つきが、レイフより雑だと思ったことがある。
「おい。旅の」
男は、エルドの前に立った。エルドより背が高い。高いが、立ち方に隙がある。マグダの仕込みで、隙は勝手に目に入るようになってしまった。
「ハンナに、何の用だ」
「……葱を」
「葱だぁ?」
男の声が大きくなった。周りの店の者が、こちらを見た。エルドは、声を張らなかった。張ると、目立つ。目立つのは、この暮らしでは、いちばん避けることだ。
「葱を、買いに来ています。四日前から、ひと束一枚で売っていただいている。……相場は二枚です。私は、相場で買う用意があります」
「そういうことを言ってんじゃねえ」
「では、何のことを」
男が、一歩、踏み出した。
踏み出した先に、影が立った。
レイフだった。荷運びの途中だったらしく、肩に麻袋を担いだままだ。担いだまま、男とエルドの間に、身体を置いた。何も言わない。ただ、立った。
男が、麻袋を見た。麻袋を担いだ肩を見た。肩の上の、無口な顔を見た。
「……なんだ、おまえ」
「連れです」
レイフは、それだけ言った。麻袋を、担ぎ直した。
男が何か言おうとしたとき、店の奥から、大きな声が飛んだ。
「ヨナス!」
ハンナだった。前掛けのまま店先へ飛び出してきて、男の腕を掴んで、店の脇へ引き戻した。引き戻しながら、男の耳元で、市じゅうに聞こえる小声で言った。
「あんた、何やってんの。うちの客に。荷は。荷はどうしたの。親方に言うよ」
「だって、ハンナ」
「だってじゃない。行きな」
男は、行った。行く前に、一度だけ、こちらを睨んだ。睨んだ目に、憎しみは、それほどなかった。むしろ、妬ましそうな目だった。何が妬ましいのか、エルドには分からなかった。
ハンナは、前掛けの埃を払って、店先へ戻ってきた。顔が赤い。怒っているのだと、エルドは思った。
「ごめん。幼馴染なの。……あいつ、馬鹿なのよ」
「いえ」
「葱、要る?」
「要ります」
「一枚」
「……相場は、二枚です」
「一枚」
ハンナは、葱をひと束、紙にくるんで、エルドの籠に入れた。それから、レイフを見上げた。レイフは麻袋を担いだまま、店の脇に立っている。
「連れの人、大きいね」
「はい」
「明日も来るでしょ」
「……青物が、要れば」
ハンナは、それを聞いて、口の端を上げた。怒っている顔には、見えなかった。
◇
その晩、マグダが酒場から戻ってきて、開口一番にこう言った。
「縁談だよ」
エルドは、帳面から顔を上げた。レイフは、剣の手入れの手を止めた。
「青物屋の親父が、あたしのところへ来た。あんたを、婿に欲しいとさ」
「……何を」
「値切りの腕を買ったんだと。あの娘の算勘と、あんたの値切りがあれば、あの店は町一番になる、ってね。……半分は、本気だよ。残りの半分は、娘の顔を見て決めたんだろうさ」
エルドは、帳面を閉じた。閉じて、しばらく黙った。頭の中で、理屈を組もうとした。組めなかった。策でも、顔が割れているのでもなく、マグダの言ったとおりだった。理屈は、最初から、マグダのほうに立っていたのだ。
「……断ってくださったのですか」
「断ってないよ」
「なぜ」
「あんたに来た話だからさ」
マグダは、椅子に腰を下ろして、いつもの杯を出した。
「あたしが断れば、あんたは逃げたことになる。逃げたことになれば、あの娘は、あんたを逃げた男として覚える。……逃げるのは、別の話だよ。この町からは、そのうち逃げる。だが、あの娘からは、逃げるな」
「では、どうしろと」
「断りな。あんたが、あんたの口で。……断り方も、礼儀のうちだよ、ちび。値切りと同じさ。相手の面目を、残して断りな」
エルドは、閉じた帳面を、しばらく見ていた。
断ることは、決まっている。行かねばならない道がある。この町に根を下ろすことは、できない。それは動かない。動かないのだが、それを、あの大きな声の娘に、どう言えばいいのか。値切りなら、相場がある。相場がないものを、どう値切るのか。
「……マグダ」
「なんだい」
「私は、名乗れません。素性も、言えません。行き先も。……何も言えずに、断ることが、できますか」
マグダは、杯を口に運んで、それから、少しだけ声を低くした。
「言えることだけ、言いな。嘘はつくな。あんたの嘘は、まだ下手だ」
「……はい」
「それと、ひとつ。あの娘は、あんたが思ってるより、ずっと強いよ。あんたが気を遣って言葉を選ぶぶんだけ、あの娘には、失礼になる。……まっすぐ言いな」
レイフが、剣の手入れに戻った。戻りながら、一言だけ言った。
「明日は、俺が、買いに行きます」
「……頼む」
◇
店じまいの頃を、選んだ。
市が引けて、青物屋の店先に籠が積み上げられ、ハンナが売れ残りの根菜を仕分けている。父親は、店の奥で帳面をつけている。エルドは、店先に立った。籠は持っていない。今日は、買い物ではない。
「……あら」
ハンナが、顔を上げた。エルドの手に籠がないのを見て、それから、少しだけ、姿勢を正した。何の用で来たか、分かったようだった。
「ハンナ殿」
「殿はやめてよ。鳥肌が立つ」
どこかで聞いた言い方だった。
「……ハンナ。あなたの父上から、話を伺いました。私には、過ぎた話です」
「過ぎた話」
「私には、行かねばならない道があります。……終わるまで、どこにも根を下ろせません。この町にも」
ハンナは、根菜を仕分ける手を、止めた。
「終わったら」
「……分かりません」
嘘は、つかなかった。分からないことを、分からないと言った。それが、この娘に対して失礼なのかどうか、エルドには分からなかった。ただ、マグダの言ったとおり、まっすぐ言うことだけを、しようと思った。
ハンナは、しばらく黙っていた。
それから、大きな目でエルドの顔を、まじまじと見た。値踏みではない。あれは、覚えようとしている目だった。
「あんた、名前は」
「……名は、言えません」
「言えないの」
「はい」
「そう」
ハンナは、根菜をひとつ手に取って、籠に放り込んだ。
「じゃあ、顔で覚えとく」
放り込んで、もうひとつ。
「忘れないからね」
声は、いつもの大きさだった。泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、大きな声で、忘れないと言った。それだけだった。
エルドは、頭を下げた。胸から上だけを傾ける礼だ。この町では、一度もしたことがなかった。目立つからだ。
したら、ハンナが、初めて少しだけ、目を丸くした。
「……変なお辞儀」
「はい」
「それも、覚えとく」
◇
宿への帰り道は、暗かった。
覚えられてしまった、とエルドは思った。
この三年、忘れられるために暮らしてきた。値切って、買って、消える。誰の記憶にも引っかからない。追われる者の買い物は、値切りまでが逃げ足——マグダにそう教わって、そのとおりにやってきた。町の名も覚えず、覚えられもせず、市を数えて、発つ。
その暮らしの中で、初めて、誰かが「忘れない」と言った。
どうすればいいのか、分からなかった。分からないまま宿に戻ると、マグダが戸口で待っていた。何も訊かなかった。訊かないかわりに、こう言った。
「覚えられちまったね」
「……はい」
「悪いことばかりじゃないよ、覚えられるってのは」
マグダは、それだけ言って、宿の中へ入っていった。
エルドは、戸口に立ったまま、少しのあいだ、その言葉を胸のうちでなぞった。忘れられるために値切って、覚えられて、悪いことばかりではないと言われる。理屈が、立たなかった。立たないまま、それでも、胸のどこかが、少しだけ軽くなっていた。
◇
発つ朝は、五日後だった。
居心地がよくなったら、発つ支度を始める。旅の決まりの、二つ目だ。マグダが「そろそろだね」と言い、誰も、なぜとは訊かなかった。この町の居心地は、確かに、よくなりすぎていた。
市が開く前の、薄暗い通りを、三人は歩いた。
青物屋の前を、通らないこともできた。通った。通ると、店先に、ハンナが立っていた。前掛けをして、髪をまとめて、手に、小さな袋を提げている。市の開く前に、店を開けて、待っていたのだと分かった。
「これ」
ハンナは、袋を差し出した。干し果実の袋だ。林檎と、杏。道中の、いちばん保つ食べ物。
「幾らですか」
エルドは、そう訊いた。
ハンナが、一瞬だけ、目を瞬いた。それから、いつもの大きな声で、値を言った。
「三枚」
「相場は、二枚です」
「三枚」
エルドは、銅貨を三枚、数えて、ハンナの手のひらではなく、店の台の上に置いた。一枚ずつ、揃えて。
「……言い値で、払います」
「値切らないの」
「はい」
「あんた、値切りの兄さんでしょ」
「今日は、違います」
ハンナは、台の上の三枚を見た。それから、袋を、エルドの手に押しつけた。
「忘れないからね」
「はい」
「あんたも、忘れないでよ」
エルドは、答えなかった。答えられなかった。忘れない、と言うのは、誓いではない。ただの約束だ。約束なら、していい。していいのに、この三年、誰とも約束をしていないことに、そのとき、初めて気づいた。
「……忘れません」
それだけ、言った。
ハンナは、うなずいて、店の奥へ入っていった。振り返らなかった。振り返らないのが、この娘の礼儀なのだと、エルドは思った。
◇
町を出て、街道が雑木の向こうへ折れるところで、マグダが伸びをひとつした。
「さて。三つ目の決まりだ。飯は抜かない。……ちび、その袋をお開けよ」
「道中の分です」
「道中は、いま始まってるんだよ」
エルドは袋を開けた。干した林檎を一切れずつ、三人に配った。レイフは、ひと口で食べた。マグダは、噛みながら、前を見て歩いた。エルドは、自分の一切れを、しばらく手の中で見てから、口にした。
ふわりと林檎の香りがして、口いっぱいに甘みが広がった。
値切らなくて良かった、と思った。思ってから、自分でおかしくなって、少しだけ笑った。
◇
——娘の名は、ハンナ。主は、言い値で払った。三枚。
——主は、忘れません、と言った。約束だ。……俺も、書いておく。




