第16話 登録院の欠け
祭りの町は、川と丘の間に広がっていた。
川沿いには桟橋と市が延び、通りには早くも祭りの飾り紐が渡されている。そして町の背後の丘の上には、白い石の聖堂が朝日を受けて立っていた。大誓約教会の総本山——ここまで来れば、もう半日の距離だ。丘へ登る白い参道が、町のどこからでも見えた。
セシルは、その参道を横目に、町の登録院へ向かっていた。
騙りの頭目は、昨日の夕方、町の門で網にかかった。
祭り見物の荷車に紛れていたところを、人相書きで止められ、抗いもせずに縛についた。観念の早い男だった。懐からは、聞いていたとおりの品が出た——教会の登録を騙る、偽の立会状。三つ折りの、上等な紙だった。
男の身柄は教会の護送に引き継いだ。残った宿題は、この立会状のほうだ。偽物を偽物と断じ、裁きの調べに載せるには、本物の様式との突き合わせが要る。それができる場所は、登録院しかない。
「——で、なんであたしらまで、お役所の門をくぐってるんだい」
隣を歩くマグダが、心底うんざりした声で言った。
「人相の照合をお願いしたいのです。一味のうち、あのずんぐりした連れだけが、まだ捕まっていません。あの男の顔を正面から見て、いま憶えているのは、あなたがただけですから」
「白いのに貸しを作ると、あとが高くつくんだけどね」
文句を言いながらも、マグダはついて来る。その後ろに、大男と、あの剣士が続いていた。剣士のほうは、登録院の建物が見えたときから、口数がさらに減っていた。もともと多くないものが、絶えた、という程度の差だが、セシルの目はそれを拾った。拾ってしまう性分なのだから、仕方がない。
◇
登録院は、教会の紋を掲げた石造りの建物だった。
総本山のお膝元だけあって、地方の登録院としては大きい。中は静かで、紙と蝋と埃の匂いがした。壁という壁が棚で、棚という棚が綴りで埋まっている。誓約の登録——誰が、いつ、何を誓ったか。この国の約束の背骨が、ここに束ねられている。
書役は、指の節の太い初老の男だった。セシルの徽章を見ると、綴りの山の間から几帳面に出てきた。
「巡察どの。立会状の様式の検めでしたな。……はい、こちらが当院の保管する、正式の立会状の雛形。それと、印影の控えです」
卓の上で、本物の雛形と、頭目の懐から出た偽物が並んだ。
紙の漉き、印の位置、立会人の署名の順序、教会印の朱の色。セシルは一つずつ突き合わせて、偽の目印を書き出していった。朱の色が僅かに浅い。署名の順序がひとつ入れ替わっている。印の縁の欠けが、控えと合わない。目印は、三つで足りた。
足りたのに、セシルの手は、しばらく偽物の上から動かなかった。
出来が、良すぎるのだ。紙も、書きぶりも、折りの作法まで。立会状の実物を、それも数多く見たことのある者でなければ、ここまでは似せられない。街道の騙りが賽の目当てに拵える立会状にしては——喉まで出かかった考えを、セシルは呑み込んだ。いまはまず、目の前の照合だ。
その間に、マグダは手配の綴りをめくって、逃げた連れの人相書きに二つ三つ、注文をつけていた。鼻はもっと低く潰れてるだの、眉は左だけ下がるだの、首は肩と一続きに太く描けだの。その注文の的確さに、書役のほうが感心して、しまいには手配綴りの直しを一枚、その場で頼み込んでいた。人相書きの検分は、素人の仕事ではない。この女の来し方を、セシルはまたひとつ、測りかねた。
「登録というのは」
ふいに、剣士が口を開いた。
綴りの棚を見上げている。静かな、世間話の声だった。
「どれほど昔のものまで、遡れるのです」
「すべて、です」
答えたのは、セシルだった。少し、胸を張ったかもしれない。
「教会の登録は、建国このかた、一度も途切れていません。叙任も、婚姻も、盟約も——正式の誓約はすべて、立会の記録とともにここへ、そして写しが総本山の登録大所へ納められます。誰が何を誓ったか、幾百年ぶんの約束が、すべて記録で辿れる。……それがこの制度の背骨です。誓いは破れない。そして、誓いは失われない」
「幾百年ぶんの、すべて」
「すべてです。戦のない世は、この棚の上に建っている——見習いのころ、そう教わりました」
剣士は、棚から目を下ろした。
下ろして、セシルを見た。琥珀の目は、相変わらず静かだった。静かなまま、その口が、何でもない調子で言った。
「では、七年前の冬のものも」
「無論」
「北の辺境の——あの、謀反の宴の誓いも、ですか」
部屋の空気が、一段、変わった。
北の大火。ファーレン家の誅罰。騎士団に入る前の、セシルがまだ十五の冬の事件だ。謀反の証しが宴の席で検められ、勅命が下った——教練の座学でも、誓約犯罪の先例としてではなく、「誓約の登録が国の裁きを支えた例」として、名前だけは何度も聞いた。
「……調べられます」
セシルは言った。言ってから、自分がなぜこの照会を引き受ける気になったのか、半分しか説明できないことに気づいた。半分は、制度の正しさをこの剣士に見せたかったからだ。残りの半分は——この剣士が、なぜその宴を選んだのか、知りたかったからだった。
「書役どの。北方の巻を。七年前の、冬の入りの分です」
◇
北方の巻は、棚の奥の、梯子の要る段にあった。
書役が年季の入った手つきで綴りを下ろし、卓に並べていく。北の辺境の登録は、数が少ない。それでも、叙任、婚姻、商いの契約、そして領家の盟約と、背表紙の番号は几帳面に連なっていた。
連なって——一箇所だけ、跳んでいた。
「……おや」
書役の手が、止まった。
北方、七年前、冬。あの宴の登録が綴じられているはずの番号のところに、綴りがない。かわりに、薄い紙が一枚だけ挟まっていた。書役はそれを抜き出して、眼鏡を直し、読み上げた。
「『当該の巻、水損につき廃棄。写しは大所に在り』。……ふうむ。三年前の付箋ですな。棚の雨漏りで、幾冊かやられた年がありまして」
「水損」
「ええ。ままあることです。紙は水に弱い」
ままあること。セシルは、その言葉を胸の中で繰り返した。ままあることだ。雨漏りも、水損も、廃棄も。だから、これは手違いですらない。ただの、不運な一冊。写しは総本山の大所にある。背骨は、欠けていない。
そう思おうとして、セシルの目は、勝手に棚の並びを検めていた。
水損で廃棄された「幾冊か」は、目録に廃棄の記録がまとめて残っていた。三年前の雨漏りで失われたのは、四冊。東方の婚姻の巻がふた綴り、南方の商いの巻がひと綴り。そして、北方の盟約の巻が——あの宴を含む、この一冊。
四冊のうち、三冊までは、ほかの年の、ほかの土地の、どうでもいい綴りだった。
「巡察どの。いかがなさった」
「……いえ」
偶然だ。雨は、綴りを選んで漏りはしない。
選んで漏りはしない、が。
セシルは顔を上げて、剣士を見た。
驚いた顔を、していなかった。
棚の跳んだ番号を、ただ静かに見ている。落胆もない。憤りもない。まるで、ここに来る前から欠けていることを知っていた者の目だった。いや——知っていたのではない。確かめに来た者の目だ。
「……写しは、総本山の大所にあります」
セシルは、自分の声が硬いのが分かった。
「登録の写しは二重に取られます。地方の巻が失われても、大所の写しが残る。そのための制度です。私は騎士団の名で、大所へ照会を出します。写しが在れば、それで済む話です」
「在れば」
剣士は、短くそう言った。
在れば。たった三文字が、セシルの胸の中で、妙な形に引っかかった。この男は「無ければ」の先を、もう考えている。そういう三文字だった。
◇
登録院を出ると、昼の光が眩しかった。
マグダと大男は、描き直された人相書きを検めに書役の部屋へ回り、入口の石段には、セシルと剣士だけが残った。川風が、祭りの飾り紐を鳴らしていた。
「ひとつ、伺います」
セシルは、まっすぐに切り出した。回りくどい訊き方は、性に合わない。
「なぜ、あの宴を調べようと思ったのです」
「歌を、聞いたので」
剣士は、川のほうを見たまま答えた。
「北の大火の歌です。市の広場で、歌うたいが銅貨を集めていた。……よくできた歌でした。筋が一本、通っていた。筋の通った歌には、元になった書き物があるものです。触れ書きか、記録か。……それで、書き物のほうを一度、見てみたくなった。それだけです」
嘘の匂いは、しなかった。
しなかったが、全部でもなかった。蓋をした井戸の、蓋の上を撫でたような答えだった。セシルは息を吸って、もう半歩、踏み込んだ。
「では、もうひとつ。……あなたは、驚きませんでしたね。巻が欠けていたとき。私が知るかぎり、あの登録が「無い」ことに驚かないのは、この国であなたひとりです」
剣士が、こちらを向いた。
琥珀の目と、正面から目が合った。四合、剣を交わしたときよりも、長い間だった。
「……騎士どのは、驚かれたのですか」
「驚きました」
「巻が無かったことに? それとも——無いと分かっても、水損のひと言で棚が閉まる仕組みに、ですか」
声を荒げたわけではなかった。責める調子ですら、なかった。なのにその問いは、セシルの急所に、まっすぐ入った。驚いたのは、どちらにだ。欠けにか。欠けても揺らがない、この静かな仕組みにか。
「……私は、照会を出します」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「大所の写しを検めます。在れば、制度は正しい。もし、もしも在らねば——」
「在らねば」
「見たものを、見なかったことには、しません」
剣士は、わずかに目を見開いた。
それから——本当にかすかに、笑った。あの立ち合いの間も、詰所の焚き火でも見せなかった、初めての笑みだった。笑うと、この男は思ったより若く見えるのだと、セシルはどうでもいいことを思った。
「……巡察どのは、教本の外でも、そのままなのですね」
「そのままで務まらないなら、務めのほうが間違っています」
「では——照会の答えが出たら、聞かせていただけますか」
どうしてあなたに、と問い返す言葉は、喉の途中で消えた。かわりに、口をついて出たのは、我ながら騎士らしくもない答えだった。
「ええ。……どうせあなたがたは、総本山のほうへ行くのでしょう。道は、また同じです」
「恩に着ます」
「そのかわり、ひとつ」セシルは指を一本立てた。「いい加減、呼び名に困っています。名乗らないのは勝手ですが、こちらは呼びかけるたびに、そこの方、と言うほかない。何とお呼びすれば」
剣士は少し考えて、それから、生真面目に答えた。
「お好きに、どうぞ」
「……では、剣士どの、と」
「剣を提げた者なら、この町に千人はいますが」
「四合付き合って崩れなかったのは、あなたひとりです」
剣士が黙った。どう黙ったのかは、横顔からは読めなかった。ただ、耳の後ろが少しだけ動いたので、悪い黙り方ではないのだろうと、セシルは勝手に決めた。
◇
夕方、宿に戻る川沿いの道で、セシルは丘を見上げた。
白い参道の先、夕日を受けた総本山の聖堂が、金色に燃えていた。あの奥の登録大所に、幾百年ぶんの約束の写しが眠っている。七年前の冬の、あの宴の写しも。
在れば、それで済む話だ。
済む話のはずなのに、セシルの胸の中では、書役ののんびりした声と、剣士の静かな三文字が、いつまでも同じ場所を回っていた。
水損につき、廃棄。
——在れば。




