【第三部 鎖が解けるまで】第19話 九十日早い
エルドは、王宮の回廊を、侍従のあとについて歩いていた。
夏の初めの、昼すぎだ。北の町からは、今年も歩いて二十日かかった。回廊の白い石は、靴の底からでも冷たい。行く手から、細い水の落ちる音が聞こえていた。庭の水盤だ。
懐に、文が一通入っている。春の最初の荷で、南の町の湯番から届いた。本文は、二行しか無い。
——雪は、わたしも知らぬ。南の冬に降るのは、雨だけだ。
も、の一字を、道のあいだに何度も読んだ。
次に会えるのは、秋だと思っていた。南の祭りまで、まだ三月ある。
「エルド!」
庭のほうから、声がした。
回廊の柱のあいだに、ユリアンが立っている。顔が、明るい。その向こうの木陰に、人がいた。
白い麻を重ねた衣だ。襟と袖口に、深い青の縫い取りがある。
足が、止まった。
リヴィアは、石の腰掛けの前に立って、こちらを見ていた。胸の青い石が、木陰で暗い。脇に、板を抱えたドナートがいる。向こうの柱のそばには、侍女が控えていた。
まだ、夏の初めだ。ここは、アルデンの王宮だ。
「北の当主」
よく通る声が、庭を渡ってきた。
胸から上を傾けた。顔を上げると、右の手のひらが、上を向いて出ている。左の手が、添えてあった。庭へ下りて、同じ形で返した。
「……王女殿下。南の正使は」
「わたしだ。父上が、そう決められた。きのう着いた」
顔に、何もかも出ているのだろう。ユリアンが、こちらとリヴィアを見比べている。
「秋に、と書いてきたな」
リヴィアは言った。
「はい。秋に、また参ります、と」
「夏の卓には、こちらが来た」
口の端が、少しだけ上がっていた。
「叔母は、冬のうちから知っていたそうです」
ユリアンが、申し訳なさそうに言った。
「私は、きのう知りました。エルドには、誰も知らせていなかったのですね」
王妹殿下は、先に知っていて、要るときまで言わない人だ。
「数は、持ってきたか」
「持って参りました。北の一年ぶんです。春に、王宮へも届けてあります」
「卓は、あさってからだ。蔵の跡取りも来ている。関の税の話には、蔵の者が要る」
それだけ言うと、リヴィアは、ユリアンのほうへ顔を戻した。庭の木の名を、訊いていたところらしい。
侍従が、回廊の先で待っている。
歩きだしてから、後ろでレイフが言った。
「秋では、ありませんでした」
「……はい」
「九十日あまり、早いです」
レイフは、こういう数を間違えない。懐の二行を書いた人は、いま、三十歩うしろの木陰にいる。
◇
王都に着いて十五日目に、卓は、書く所まで来た。
庭に面した広い部屋だ。開けた窓から、刈った草の匂いが入ってくる。長い机の片側に、ヒルデとユリアンが座っている。向かいに、リヴィアとステファノとドナート。机の端では、王宮の書記が筆を持っていた。
エルドの席は、ヒルデの側の端にある。隣は、ヴァルドだ。東の当主で、北の家の後見でもある。冬に文を書いたら、角ばった字で二行、返事が来た。畑の空きは調べさせる。夏は、わしが行く。そのとおりに、仏頂面で座っている。
後ろにレイフが立ち、壁際の腰掛けには、白い制服のセシルがいた。誓いのことを訊く相手として、ヒルデが丘の前庭から呼んだ。
北の一年の数は、春のうちに、文で王宮へ届けてあった。ヒルデは、それを家々へ回したという。
「北の当主。書く前に、一つ確かめる」
リヴィアが言った。正使の声だ。
「十一人のうち、十人が残った。一人は、春に帰った。そう読んだ。帰った一人は、逃げたのか」
「いいえ。代官の前で、解く、と告げました。証文の下に書き足して、春の荷と一緒に橋へ下りました。罰は、ありません。空いた畑には、春の組から一人多く入ってもらいました。北の家の雇いは、百二十です」
「訳は、聞いたか」
「雪は一度で足りる、と言っていました」
ユリアンが、小さく噴いた。ヒルデは、甥のほうを見もしない。
「解く条が、使われたのだな」
「はい」
「家々が動いたのは、その一人のためです」
ヒルデが、文の山から一枚を取った。
「十一人とも残った、という数であれば、家々は信じなかったでしょう。出口のある約束で、十人が出口を使わずにいる。家々が見たのは、そこです。この夏から、千人。王宮の領と、東の領と、誓わせぬ条を呑んだ家々で迎えます」
「東は、誓わせずに雇う」
ヴァルドが、低い声で言った。
「家の者には、こう言ってある。紋の無い者が逃げるかどうかは、隣の家で見てこい、とな」
隣の家というのは、自分の所のことらしい。
「呑めぬ、と返してきた家もあります。数には、入れていません」
ヒルデが言うと、リヴィアの目が、壁際へ行った。
「北の騎士。誓いを求める家に、出口を付ける手は、あるのか」
セシルは、立って答えた。
「いまは、ありません。引き取れる口上は、まだ一つだけです。持ち帰って、考えます」
「聞いておく」
エルドは、机の上に手を置いた。言っておくことが、一つある。
「屋根のことを、申し上げます。北では、屋根の落ちた家を、着いた者が自分で直しました。夏だから、間に合いました。雪の前に渡すのは、屋根のある数までにしてください。屋根の無い家で、冬は越せません」
「屋根の残っている家の数なら、畑と一緒に調べさせました」
ヒルデは、文の山から別の一枚を抜いた。
「七百です」
「では、雪の前に渡すのは、七百までにしてください。残りの三百は、次の春に」
「そういたします」
書記の筆が、動いた。机の向こうで、リヴィアが小さくうなずいた。
それから、書記が、取り決めを読み上げた。
——槍は、橋で置く。橋は、一人ずつ渡る。
——渡る者は、雇いの証文を一枚持つ。年限は、一年。解く条を置く。証人は、両方の国から一人ずつ立てる。
——雇う家は、渡る者に誓わせない。
——雇う家は、渡る者一人につき銀貨二枚を、蔵の家へ払う。払いは、アルデンの王宮が請け合う。
——この取り決めのあいだ、麦と塩に橋で掛ける税を、半分にする。
——取り決めの年限は、一年。毎年、夏に結び直す。
「蔵の跡取り。四行目は、そなたの家の条だ。訳を言え」
ステファノは、机の上で指を組んだ。
「川べりの一人が、一冬に食べる麦は、銀貨六枚でございます。日に銅貨二枚で、百五十日。そのうち二枚を、雇う家に持っていただきます。冬を越させた麦の代でございますので。そのぶんは、王の家の借りから引きます」
「残りの四枚は」
リヴィアが訊いた。
「借りのままでございます。ただ、渡った者のぶんだけ、次の冬に要る麦は減ります。雪の前に七百が渡れば、銀貨四千二百枚ぶんでございます」
「蔵の売る麦も、減るな」
「減ります。減ったぶんは、橋の北へ売ります。五行目で、税が下がりますので」
ステファノは、書記のほうへ顔を向けた。
「そこで、借りの証文を、結び直していただきたいのです。下書きは、書記殿にお願いしてあります」
書記が、もう一枚を読んだ。
——蔵の家が出した先の冬の麦の代は、雇う家の払いを引いて、残りを三年に割って返す。
——次の冬の麦も、蔵の家が出す。代は、この証文に足す。
「二行だな。前の証文には、三行目があった」
リヴィアは、下書きから目を上げずに言った。
「置きません」
ステファノは、リヴィアのほうへ、まっすぐに向き直った。
「父から、名を書く許しを預かってまいりました。返る当ての薄い借りは、借りのまま置けぬ家でございます。当てが立てば、置けます。蔵は、麦を売って回す所でございますので」
ひと息、置いた。
「条の無くなった縁談を、わたしの家は続けません」
部屋が、静かになった。窓の外で、草を刈る音がしている。
去年の卓で、自分は、やめてくださいと言える数を持っていなかった。いま机の上にある数も、自分のものとは言えない。並べたのは、ステファノだ。
そのステファノの目の端に、細かい皺が寄った。
「蔵の鍵は、弟に渡さずに済みました。あれは、惜しゅうございましたので」
ヴァルドが、喉の奥で短く笑った。
「顔合わせの席で申した望みのほうは、条と一緒に下げます。帳簿の話が通じる方の、隣の席でございました。こちらは、いまも惜しゅうございます。向かいの席でしたら、毎年、夏にございますが」
リヴィアは、少しのあいだ、ステファノを見ていた。
それから、黒い目が、一度だけこちらへ来た。すぐに、戻った。
「受けた。蔵の跡取り。向かいの席は、空けておく」
取り決めに、ヒルデが名を書いた。リヴィアが、その隣に書いた。証人の所には、ユリアンとドナートが続いた。借りの証文は、ステファノが南へ持ち帰って、王の前で結ぶという。
部屋を出てから、レイフが言った。
「縁談が、無くなりました」
「はい」
「エルド様の数で、ですか」
「いいえ。蔵の跡取りの数で、です」
レイフは、少し考えてから、はい、と言った。
肩が、軽い。軽くなってよい立場なのかどうかは、まだ考えていなかった。
◇
その晩、客殿の戸口で、レイフが外を見て言った。
「庭に、王女殿下がいます」
回廊へ出ると、水盤の水音がした。庭の石には、昼の熱が残っている。
リヴィアは、水盤の縁に立っていた。白い麻の背に、黒い髪が流してある。侍女は、向こうの回廊の柱の所だ。声の届かない所に、立っている。
木陰の腰掛けは、空いていた。二年前に、人一人ぶん空けて座った腰掛けだ。今夜は座らずに、水盤のそばまで歩いた。腕一本ぶんの所で、足を止める。レイフの足音は、もっと後ろで止まった。
「リヴィア」
黒い髪の背は、振り向かない。
「蔵の跡取りは、明日の朝に発つそうだ。麦は、卓を待たぬと言っていた」
「はい。さっき、挨拶に来てくれました。来年の夏に、向かいの席で、と」
「あれは、あの者の数だ」
「はい。私の数では、ありません」
「そなたの数も、中に入っていた。十人が残って、一人が帰った。あれが無ければ、千は立たぬ」
褒められたのだと気づくのに、少しかかった。
リヴィアが、こちらを向いた。黒い目が、顔の上で止まる。
「……言う気であろう。去年と、同じ顔をしている」
隠せるとは、思っていなかった。
「はい。言います」
「三度目だ」
「三度目です」
訳は、並べないと決めてきた。
「あなたが、ほしい」
水の音が、続いている。
「訳は、並べぬのか。そなたにしては、短い」
「訳は、去年のままです。変わったのは、一つだけです。成らない訳が、今日の卓で一つ減りました」
「一つ、か」
「一つです。残りは、まだ私には書けません」
リヴィアは、水盤の縁に手を置いた。
「成らぬ、とは、今夜は言わぬ」
卓で数を読むときと、同じ声だった。
「訳が一つ減ったのは、数の上では、そのとおりだ。違うとは、言えぬ。その先は、まだ確かめておらぬ」
退けられなかった。
受けられたのとも、違う。書けないものを書けないと言うときの、自分の言い方に似ていた。
「はい。確かめ終わるまで、待ちます」
リヴィアは、何も言わない。縁に置いた手が、石を離れかけて、また置かれた。
「北を、見に行く」
前置きは、無かった。
「北、というのは」
「そなたの町だ。千が渡っても、川べりには、まだ三千残る。あの者らに、北はこうだと言うのは、わたしの口だ。見ておらぬ町のことは、言えぬ。発つ前に、父上に申し立てて、命を書いていただいた」
「南の広間の机は、どうなるのですか。名代の机です」
「父上は、発つ朝に二十二歩であった」
二十二歩。口の中で、一度言った。
「半日なら、寝所の椅子で申し立てを聞ける、と言われた。留守の証文は、わたしが書いて置いてきた。祭りの前の日には、門に戻る」
発つ前に、もう決めてきた人の言い方だった。
「王妹殿下には、申し入れてある。北の当主が否と言わぬかぎり、とな」
否と言う訳は、探さなかった。
「否とは、言いません。北の家が、お迎えします」
「供は、門の兵が六人だ。槍は、関に預けてきた」
「町の者は、南の兵を恐れます。まだ、解けていません」
「それも、見に行く。七日あとに発つ」
リヴィアは、それきり、水盤のほうへ目を戻した。
この人が、北へ来る。




